人生のスキル

2000年に労働に関する計量分析手法を発展させた実績でノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学教授のジェームズ・J・ヘックマン氏がいます。この方は、「5歳までの教育が人の一生を左右する」という言葉を残しています。

これはヘッグマン氏が研究した「ペリー就学前プロジェクト」「アベセダリアンプロジェクト」という2つの研究に因るものです。具体的には、恵まれない家庭の子どもたちを対象に2つのグループに分けて幼少期より成人するまでの期間に追跡調査を行い幼少期の環境を実質的に改善する事実を導き出すという研究です。ここでヘッグマン氏は5歳までに与えた教育がその後の人生に大きな影響を与えることと、5歳までに重要なのはIQに代表される認知能力だけでなく、忍耐力、協調性、計画力といった非認知能力がかなり重要になってくることに気づいたのです。

つまりは、5歳までにどのような教育環境があったか、その上でその子がどのような非認知能力を磨いたかということが一生を左右すると言及したのです。この非認知能力とは人格形成で得られる性格スキルのことです。具体的にはこの研究から下記の性格スキルに絞り込みました。

■粘り強さ、自己規律、これらが真面目の力。
■好奇心が強い、想像力に優れている、これらが開放性の力。
■明るい、積極的、外に興味を持つ、これらが外交的。
■思いやり、やさしさ、利己的ではない、これらが協調性。
■感情を整える、不安、イライラなどの衝動がない、これらが精神的安定。
となっています。これを現代の社会人でいえばいくら資格を持っていて実務能力だけが高くてもその知識や技能を活かしつつ、「他者と協力して一つの仕事を作り上げていく」というような協調性・社会性などが必要です。この単に知識や能力や資格などでいくら優秀だと評価されていたとしても、実際に仕事をしていていつも怒ってばかりや、いつもイライラしていたり、周りを威圧したり評価したり、文句を言ったり批判したりしていたらいくら優秀でもそれではみんな嫌がって仕事を創り上げていくことはできません。
仕事は、すべて性格があってのものです。人への気配りや、場を明るくしたり、目的を握り、視野を広げ、前向きに考え、みんなが快適であるように自分を使っていくなど、実際の実務以外にその器のようなものがあってみんなの協力を引き出していくのです。先ほどの性格スキルは、その非認知能力のことを言うのです。
大人になったとき、その力が存分に発揮されるのならその人は仕合せに豊かに、仲間と一緒に成長して成功も得る可能性が高いというのは自明の理です。
この非認知能力を伸ばすには、心の教育が必要だといいます。
心はどのように育つのか、それを向き合ってみるとわかります。様々な体験を通して振り返りその体験の意味を学び直したり、自分自身の性格をよりよく磨くために考え方を転じたり、新しい習慣や笑顔、そして周囲に気楽な雰囲気を与える人になろうと努めたりと、つまりは「生き方」をどうするかを決めるという学問をするということです。
そしてこれは教えられるものではなく、周囲の大人の生き方がもっとも影響を子どもに与えることはだれでもわかります。だからこそ私たちの会社は、子ども第一義の理念を実践すべく、生き方と働き方を分けないで取り組んでいくのです。これが人生のスキルなのです。
これは5歳までにできなかったから無理ではありません、人の一生は長く影響が大きかった5歳までが一区切りですが、それでも生き方を変えた大人の存在は人類全体に多大な影響を及ぼすのです。
引き続き何のために社業に取り組むのかを追求しながら、かんながらの道を切り拓いていきたいと思います。

そのものの本質を知る

私たちが当たり前に認識しているものを再認識する作業というものは、そのものの本質を理解するのにとても役立つものです。私はすぐに由来や経緯、その理由などを深めるタイプのようで日々に新しい発見がたくさんあります。

人間は情報量が一定量を超えて好奇心が失われていくと、その物事や現象が単なる知識が増えるのみになってしまいます。その知識を体験に昇華したり、それをさらに好奇心を持って探求するにはその事象や意味を深掘っていくのがもっとも効果があるように思います。

例えば、銀行というものはいつからはじまりどのような由来だったかと深めてみます。すると、日本での銀行の命名は明治時代に英語のBANKを日本語に翻訳する際に、お金を表す「金」や「銀」と、中国でお店を表す「行」という字をあわせて、「金行」や「銀行」という言葉が考えられ語呂の良さから「銀行」が選ばれたとあります。

またBANKの由来は、これは12世紀頃、商業のさかんだった北イタリアの両替商が使っていた「長机・腰掛(BANCO)」が語源だそうです。それに世界最初の銀行は、紀元前3000年前バビロニア王朝がはじまりと言われたり、その後は両替を中心にお金の貸し付けが行われ、日本で現在でも有名な銀行である三井住友などの大手銀行は江戸時代からの両替商だったことなどもわかってきます。

金融という字も、由来を調べれば「融」は融ける(とける)という字ですがこれは「鍋で煮込む」ことを表す漢字で鍋から出る蒸気を「虫」に見立てます。そしてこの融とお金を合わせて「お金を自由にする、お金を自由に通す」という意味になっているといいます。

そしてこの金融の歴史を調べていけば、「お金」というもののルーツを辿ることになります。すると、人類においてこのお金が生まれた歴史、物々交換から次第に現在の仮想通貨などまで辿ると何が共通していて何が変わっていくのかも観えてきます。

人類の意識として、大前提にある「お金」がどうなっているのか。そこを突き詰めていけば、人間がどのようにお金を発明してどの道具がどのように人類に影響を与えているのかがわかります。

一つのことを深めれば、そこから人類にたどり着く。このように何でも興味や好奇心をもって歩んでいけば、そもそもの由来やルーツを知るきっかけになります。今を知るには、今までどうだったのかを知ることが今を学ぶもっとも大切な方法です。

子どもたちの今を伝承していくためにも、その物事の本質を学び直していきたいと思います。

自分を大切にして生きる姿

人は自分の初心や理念、生き方が定まっていないと他人の価値観に流されてしまうものです。世間一般の幸福を、テレビや雑誌、身近な人たちの評価ですぐに憧れてしまいます。そうしてそれが幸福になることだと世間に刷り込まれると、それを手に入れようと躍起になっていくものです。

最近、テレビで見かけるお金持ちと結婚というものや急成長して有名になった人などが幸福な人だというイメージを持つものです。しかし、本当にそれがしたかったのかと自分を深く省みるとそうではないことがすぐにわかります。

しかしそれを立ち止まって考える暇がなく、その欲望や願望に流されてしまいやすいのは自分の中に劣等感があるからです。人は劣等感を持ち、自分には足りていない、自分は不足していると思うと、ないものねだりをはじめます。ないものばかり見ていますから、あるものが目に入ってきにくくなってきます。

そうやってあるものは自分が幸福になっているものであるのに、敢えてないものばかりを見ては自分が不幸であるかのように被害者意識を持つようになるのです。

本来、自分は何をしたかったのかともともとの動機を持つことはブレずに生きていくための羅針盤になります。周りに合わせて他人の価値観で生きていくのではなく、自分はいったいどうしたいのか、どう生きたいかということを大切にしていくことが「自分を大切にしていく」ことになるからです。

自分を大切に生きている人は、劣等感で生きていきません。むしろ、平等に周囲の人たちの仕合せを保障しながら一緒に歩んでいくのです。相手の仕合せを尊重しながら自分も一緒に幸せになっていく。このみんなで仕合せを創造していくことができるのは、同じ動機を持っている仲間と出会い、その仲間と夢を共有することができるからです。

今の時代は、そこまでの動機や本心をなかなかオープンに話し合う機会も場もありませんから心を許し合う仲間も出会いにくいのかもしれません。しかし出会いこそが何よりも一緒に夢を見る機会になりますからいい出会いを忘れないで初心を貫けば幸せもまた隣に寄り添うように思います。

自分を大切にして生きる姿を子どもたちに譲り遺してつないでいきたいと思います。

オリジナリティの追求

自分のオリジナリティを追求していくというのは、自分自身の直観を信じるということです。自分自身の直観は、思考を澄まして心の声に従い行動することで磨かれます。それを日々に内省し、本当は何だったかと確認するときその意味が現れてくるからです。

自分にしかできないことをやるというのは、自分の使命を全うするということですからその使命を何よりも自覚しているのは自分自身なのは自明の理です。

他人の評価や他人の夢、自分とは関係ない情報ばかりを入手してはそれに惑わされフラフラしていたらあっという間に一生が終わってしまいます。現代は、インターネットが進みありとあらゆる情報が検索さえすれば入ってきます。だからといって、その情報にばかり目を配って自分自身の内省を怠ればそれは誰でもできることを自分も目指すことになってしまうように思います。

自分の使命に気づき自分の人生に納得する人はオリジナリティを追求する人です。オリジナリティとは、その人にしか与えられていないものですからそれを磨いていけば自ずから世界の役に立つということでしょう。

不安や恐怖、過度な心配は何処から来るのか。それは過度な情報から来るものです。自分の中に与えられた情報を如何に取捨選択していくか、優先した理念や初心に従って如何に自由に発想していくか。人間、自分に自信がなければ、独自のオリジナリティは発達していかないように思います。

自分の頭で考えて自分の体で感じて、心の声に従って行動し内省を深めていくことはオリジナリティを磨き高めていくことですから、日々に好奇心を味わいながら子どもたちの憧れるように面白く豊かに仕合せに歩んでいきたいと思います。

自分自身をいじめない

世の中には「いじめ」というものが存在します。このいじめの定義は日本では、「いじめは「自分より弱い者に対して、一方的に身体的・心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」とされています。これが英語のbullyingでは「1人またはそれ以上の者が、力の弱い者に対して脅かしたり身体的苦痛を与えたりすること」とされています。

このいじめは、誰かによっていじめられるという被害者と、誰かをいじめるという加害者で構成されていますが実際には「自分自身へのいじめ」をする者同士が関係性で引き合いに自分をいじめている状態になっているということでもあります。

この自分自身へのいじめとは何か、それは自分を傷つけるということです。人間は自分がそのままでも存在価値があると、自然の一部のように思っていれば認められ満たされ愛を感じますから劣等感などは持ちません。比較され、価値を他人に決められ、優劣によって存在をそのものを否定されれば自分のままでいることができなくなります。

本来は、何もなくても幸せである存在だったものがそうではなくなるのだからそれ自体に苦痛を感じるものです。苦痛を感じているから、いじめはじめるのであり、いじわるになるのはいじめによって耐えられない苦痛を他人に向けている状態をいうのです。

特に幼少期の子どもたちは無防備で心のままに素直です。その状態で周囲の大人や親がもしも子どもに容赦なく存在を否定したり、必要な時に愛を与えなかったとしたらその子どもは心に深い穴を持ってしまいます。穴はいつまでもなくならず、そして不完全ですからその自分自身の心の穴を埋めようとして現象として自他へのいじめやいじわるに発展していくのです。

自分というものを認めるというのは、自分を愛するということです。ここでの愛するは愛されている存在として認めるということです。これを他人に求めずに自分に求めるということ、つまり自分をいじめず自分を守る、自分にいじわるをせず自分を守るというように自分自身を自分を守ってあげることが自分を愛するということです。

追い込まれ自殺するまでになる前に、自分を守ってあげること。自分がいじめられないように逃げること、いじわるから守ってあげることをすることも自分を愛するということです。自分自身を自分がいじめることをやめることを何よりも優先にするのです。

このいじめは社會の寛容のなさ、また余裕やゆとりのなさが様々な大人たちの心を蝕みそれが子どもに影響を与えてしまいます。忙しすぎて、人としての暮らしや営みが消失してきているからこそいじめの環境はより悪化していきます。そしてトラウマとして残った親子の負の連鎖は、代々を継いでいきますから愛されなかったと思い込んだ思い込みはそのままループし続け周りを巻き込んでいじめを増やしていきます。

それを断つためにはあるがままを認め、愛されている存在だと気づかせるような環境が社會には必要です。教育は社會を変える仕事ですから、志を持って本業の成就に邁進していきたいと思います。

愛のある環境

人間はそれぞれに自分のやりたいことをやろうとするものです。それを認めてもらえれば人は自信を持ち、認めてもらえなければ不安になるものです。自分自身が自分を認める人は、素のままの自分であることができ主体性は発揮されます。しかし素の自分を隠したり制限をかける人は他人に合わせて自分の軸を歪めていきますから自分らしくいることができなくなります。

自分というものとの付き合い方を見直すことは、自分自身を見つめる作業であり、仕合せに生きるための原点に気づく大切な機会になります。

人間は与えられた環境や遺伝子によって観念が仕上がっていくものです。その観念がマインドセットされると、その観念そのものに自分というものが出来上がってきます。脳は、自分の観念が自分だと思い込むと自分というものを演じ始めます。

本来、人間には心があり心はありのままであるがままを感じます。そのまま心が感じたままで生きていければいいのですが、脳が観念によって真実を歪めるため様々な感情が現れてきます。その一つの感情にトラウマというものがあります。このトラウマは、過去の何かの出来事による傷がついたものを脳の観念で認識し似たようなことが起きようとすると自分の心が傷つかないように別の現象に挿げ替えようとするのです。

つまりは根底の観念の方を操作し、起きる出来事を真実とは別のものに置き換えようとします。例えば、無理をして食べると不味いことになるという観念が大前提にあれば食わず嫌いになっていくという具合です。食べてみなければわからないものも、きっと不味いと思い込んでいますから食べることはありません。そしてたとえ食べたとしてもきっと不味いと思い込んでいますから美味しいものであっても脳が不味くしてしまうのです。

このように思い込みや刷り込みによって前提になっている観念を操作していれば、現実や真実が正しく感知できませんから感情も次第に自然なものではなくなっていきます。

感情とは、ありのままの現状をあるがままに感じた時に調和して自分の中に融解していくものです。そうやって仕合せを味わい、喜怒哀楽の体験を積むから人生が丸ごと調和して仕合せの境地を得ています。ここが歪むと、感情が歪みますからありのままの現状を感情が調和できませんから、苦しくなり不幸や孤独に苛まれるのです。

人間は、そうやって自分自身が脳や観念で心をイジメ続けると本当の自分が辛くなっていきます。自罰的にイジメているからこそ他人に今度は意地悪な人になっていきます。意地悪な人ばかり増えてしまえば社会はとても世知辛く、居心地の悪いものになってしまいます。

イジメをなくすためには、自分イジメをやめさせるしかありません。自分をイジメることがなくなれば意地悪な人もいなくなります。そのためには、もっと大人たちが寛容な社會を子どもたちに築いていき許し合い認め合う愛のある環境を創造し譲っていく必要を感じます。

子どもたちが安心して暮らして、健やかに素のままの自分で許される仕合せに充たされるように自分自身の意識をさらに解放していきたいと思います。

正しいよりも楽しいを~執着を手放すこと~

人は何かに執着してしまうと、なかなかそれを手放すことができません。ようやく手に入れたもの、もしくは手に入れたいと思うものが次第に執着を強くしていきます。執着には色々とありますが、自分が得たいと思っているものが執着になるのは間違いありません。執着に囚われれば、どうすればいいかとばかりに悩み苦しみます。

本来は、楽しかったものも執着するから苦しいものになっていきます。得られない苦しみ、思い通りにならない苦しみが余計に執着を強くしていくのです。その執着の本質は我執や我欲であり、強くなればなるほど苦しみも比例して強くなるのです。

この我執や我欲は、自分のままでいられないことに起因するように思います。本来の自然体の自分、言い換えれば劣等感や罪悪感、自責感などがない状態、いわば幼い子どものままであれば執着はありません。ありのままの自分、あるがままの自分であることができるのならそれは何でも手放している状態です。

幼い子どもが、次の遊びに行くとき、それまで持っていたものをいともたやすく手放して次の遊びに移っていきます。好奇心旺盛で失う不安や怖さよりも、楽しい方を選択していくのです。手放すというのは常に楽しくあろうとする生き方を実践していくことのように私は思います。

楽しくないことが多いのは我執や執着が多いからです。我執や執着も時としては、自分の遣り甲斐や生きがいの原動力にもなりますがそれは楽しくあることが大前提であるときです。ただ苦しいのであれば、それは完全に執着に呑まれている状態ということです。

もっと気楽に、もっと楽しく、硬く握りしめて緊張状態を維持するよりもリラックスをし思い通りにならないことを面白がり、天にお任せしたら信じて今の境地を味わおうとすることで手放す訓練ができるように思います。

苦しいから楽になりたいという楽ではなく、楽な状態でいるから楽しくなるという工夫が自分を自然の姿に回帰させていくようにも思います。こうでなければならないや、こうあらねばならないといった正論や自己正当を少し休めてこのままでいい、きっとこれでいいと「正しいよりも楽しい」を選択していけば執着はいつか手放すことができると思います。

子どもたちの生き方から学び直し、楽しい方を選んでいきたいと思います。

世界を創る

人間は、自分の見ている世界が常識になってくればくるほど他人の話を素直に聴くことができなくなるように思います。周りから説得されたり、周りを説得したりしているうちに自分の世界観のようなものが確立されてしまいそれが執着になってしまうからです。

執着になれば常識はますます固定観念になりますから、本当の世界や現実を正しく見ていく力が失われていきます。自分の観念に縛られて固執してしまえば、自分が正しい、周りが間違っているという思い込みに苛まれるものです。

本来、世界は無数無限に存在していて一人ひとりに多種多様な世界が広がっています。もしも相手の目で世界を観れば、同じようには観えてはなく、別のものに観えているのです。だからこそ、違いが出てくるのであり認識のズレも産まれます。一つの価値観や世界観だけで統一できるものなどはなく、それぞれの世界を調和してみんなで目指す世界に近づけていくのが人間の性のように思います。

そのためには、自分以外の考えがどうなっているのかをもっと真剣に聴く必要があるように思います。この人はこう考えるのか、この人はこのように見えるのか、こんな見方があるのか、どんな心の持ち方をしているのかだろうかと自分自身が素直に世界に心を開いて学んでいくのです。

そうやっていろいろな考え方を知れば知るほど、多種多様な人がいることがとても豊かであることを知り、現実も色々な人がいるからこそ助け合って解決していけるのだという事実に気づくからです。

人間はこんな世界がいいとビジョンやイメージを持つ人に共感し、賛同していくものです。その人は常識ではないことを言いますが、新しい常識にするために自分の理想を世の中の現実世界に訴求していきます。私の友人をはじめ、恩師みんなそうやって自分のビジョンを世界に発信しています。しかしその世界以外認めないとなってしまうと、そもそもの調和の社會が遠ざかってしまいます。だからこそ、色々な考え方があるけれど、こうありたいという共感をみんなと分かち合っていくのです。

世界は共感によって仕上がっていきます。

共感するものをどう世の中で生み出していくかは、その人の観ている世界に真実や本質があり、それが人類共通の理想とつながっているからです。仏陀も、孔子も、キリストであってもみんなそこに向き合ってきました。

時代は変化の真っただ中ですか、古今を貫いて存在する真実を学び直して心を磨いていきたいと思います。

不識の境地

自然の中にはいろいろな生命が存在します。当たり前のことですが、世界では今日も様々な命がそれぞれに循環する中で廻りまた命を繋いでいきます。私たち人間はだいぶ自然の生き物と暮らしが変わってしまいましたが自然の生き物は自然のリズムでゆっくりと悠久を生きています。

加速度的にスピードを上げて変化する人間社会にいると時折、船酔いのように揺れて大変です。そういう時は自然の視座に身を置けば、時代や人間社会の変容を客観的に実感していけるようにも思います。

人間は頭で考えている世界と、心が働いている世界は時間軸が異なります。頭は体験をしなくても空想や妄想、仮想の意識で未来や過去などを考えて対処していきます。しかし心は実体験や経験を通してじっくりと心が玩味していくように今に対応していきます。

スピードが速いということは、頭で処理する世界が加速するということです。自然界のように悠久の速度で歩むというのは心の世界に生きていくということでもあります。心は余計な知識を持つ必要がありません、つまり頭を使わないのです。頭を使わない人を今では頭が悪いとか馬鹿とか、天然だとか言われますが実際は心を使うから頭をそんなに必要としていないのです。

頭というのはもともと危機回避や、リスクコントロールで稼働していくものです。そのためネガティブ思考になったりマイナス思考になりやすいものです。つまり信じるよりも計算で対処していこうとするのに似ています。心は信じるのが優先ですから、ある程度のことは考えても基本的にはお任せ状態で信じていますから気楽なものです。

もしも毎日不安や恐怖で生きていたらとても気楽にはいられません。自然界で生きて生き物たちは人間のように日々の新しいニュースに眼を凝らしてはいません。生きていくために必要な危機感はありますが、基本は気楽に楽しそうに生きています。その気楽さに心癒され、自然によって私たちは何が生きる仕合せなのかを思い返すことができるようにも思います。

自然が教えてくれるものをどれだけ学び直すかは、幸せに生きていくために何を大切にしていくかということとイコールです。平等に生まれてきたいのちが、平等にこの世で仕合せに生きられるという真実に気づくためにはあるがままにありのままにこの世のことが観えている必要があります。

そのためには、不識の境地が必要です。不識は時代を超え生命に共通する普遍的な意識改革の要なのです。

不識の境地とは自然と同様に自然のままに自然が観えるかということなのでしょう。生まれたばかりの子どもたちがありのままにあるがままを観て自然体でいるように、思いに邪念や私欲、雑念や妄念を持たないよう澄ました一日を積み重ねていきたいと思います。

真実の言葉

「感謝は最大の徳であるだけでなく全ての徳の源である」(Gratitude is not only the greatest of virtues, but the parent of all others)という言葉があります。これは、マルクス・トゥッリウス・キケロの遺した言葉です。

紀元前の人物ですが今でも全く錆びることなく朽ちることなく、そのまま言葉が燦然と輝くというのはそれだけ真実をそのまま言葉にしたからです。時代が経ち、無数の言葉が生まれましたが実際には真実に加工をし数を増やしただけでそのものの本質は一切変わっていないことに気づきます。キケロは他にもこう言います。

「もし人がこの世界から人間を結合している親切のきずなをたち切ってしまうならばどんな家も、どんな都市も存続することは出来ない。」

今の時代、徳の循環が機能不全に陥り人間のつながりや地域のつながりも消えかけています。まさに時代が変わっても、時がたっても、人間の本質、自然の摂理は一切変わらないのです。

他にもこういう言葉もあります。

「あなたは生きるために食べ物を食べているだけだ。食べ物をたくさん蓄えるために生きているわけではないはずだ。」

現代では、この食べ物をお金に変換すればそのまま理解できます。実際には、お金を蓄えること、失わないために生きていることになっている人が多い世の中です。

最後に出会った好きな言葉です。

「天より賦与されたる私たちの人生は、たとえそれが儚く短いものであったとしても、楽しく送りし人生の記憶はまさに永遠になる」(The life given us, by nature is short; but the memory of a well-spent life is eternal)

もしも記憶そのものが人生だと定義するのなら、楽しかった記憶こそ楽しい人生そのものになります。

この世の真実がどうなっているのか、それを正しく見極めた人物の言葉はまさに寝ぼけて曇っている眼差しを洗い清め覚醒させ、澱んでいた魂を揺さぶり起こすものです。

真実と向き合い、今を味わっていきたいと思います。