思いは実現する

人は「思い」を持つことで、心が顕れてくるものです。「思いは実現する」といいますが、それが本心からの思いかどうか、その思いが如何に澄んでいるかどうかがその思いの実現に向けたプロセスに現れてくるように思うのです。

京セラの稲盛和夫さんは、「思い」を大切にされた方です。以前、何かの著書を拝読したときに「思う」ことの大切さを松下幸之助さんの講演で教わったとあります。それから毎日、社員の皆に「思う」ことの大切さを説き一緒に夢の実現に向かって邁進したとありました。

その稲盛さんはこう言います。

「私が創業した京セラは、もともとは中小零細企業です。私は、社員が希望を持てる会社にしたいという一心でやってきました。それには何が大事かというと「思い」です。それも非常に強い思いが必要になる。」

「人生は、心の中で強く思ったことが原因となり、その結果が現実となって表れる。だから考える内容が大切で、その思念に悪いものを混ぜてはいけない。」

「「思う」ということは、人間のすべての行動の源となっている。経営者が何かを強く心に「思う」と、まさにそのことが実現していく。」

「思いが人生を形作ります。現在の自らの状況は、その人が思い続けてきた結果です。現状に満足していなくても、それはその人の思いの集積なのです。」

この稲盛さんが言う「思い」とは、単に考えるというものではないことはすぐにわかります。明らかに覚悟が異なり、自分がそう決めたという決心のことであり、その決心の維持のことです。

言い換えるのなら「揺るがない思い」とも言えます。何度も何度も揺るぎそうな自分に打ち克って揺るがない自分を持つようになる。どんなに環境が変化しようが、どんな条件が発生しようが、一つのことを透徹するまでに「思い」続ける。この集中力があってはじめて物事が成形されてくるということのように思います。

そこには自我からの慢心などはなく、非常に素直に謙虚に物事に正対して思い邪なしの透明な心で理念や理想を念じ続けなければならないように思います。人間は「思い」にどうしても私利私欲が入ろうとしますからそれが入らないように常に手入れを行い清浄に掃除を続けていく必要があると感じます。

「動機善なりか、私心なかりしか」

稲盛さんは常にその言葉を自分に問いかけ「思い」を磨き続けおられたそうです。私でいえば、「御恩を感じているか、御蔭様が観えているか」という問いと同じです。

私は稲盛さんの言うこの「思い」に心から共感し、そこにはとても美しい日本人としての魂を感じます。

最後に稲盛さんの言葉で締めくくります。

「思いは必ず実現する。それは、人が「どうしてもこうありたい」と強く願えば、その思いが必ずその人の行動となって現れ、実現する方向に自ずから向かうからです。」

初心伝承の志を実践し、その志のままに生きるべく今日も精進していきたいと思います。

甦定義の実践

郷里の古民家甦生を手掛けながら色々と思うのは価値の甦定義です。もともと今まであった価値をもう一度、それを新たな価値に磨き直す。これが私の考える甦生方法です。例えば古くなったものをもう一度今の時代ならと逆手にとってそれを善いものへと転換するという具合です。

私の郷里は石炭産業で興隆を究め、石油の出現と共にあっという間に衰退しました。もっと以前には参勤交代の宿場町として栄え、それが終われば衰えました。さらに前には古墳群があるように肥沃な河川の周辺の土地を活かし、作物を育て神楽、獅子舞など神幸文化を発展させました。

しかしよく歴史を観察してみると、衰退したからと滅んだのではなく今でもこの土地で幾度も興亡を繰り返しつつ何度も時代を経ては新たな価値を創出して甦っていることに気づきます。

その時代を生きているものは、今の状況しか見えないことが多いのでしょうが実際は長い目で観れば何度も甦生してその土地でドラマが発生してくるのです。時間の特異点を超えてしまえば今まであったことは全く別のものへと変化する。これが価値を新しく甦定義することなのです。

実際に古くなっているのは自分の感性や感覚の方であり、視点を換えて常識を破ればまったく新しい価値は出てきます。それを温故知新や復古創新とも言いますが、甦定義してしまうのです。

ドイツの詩人ゲーテに「我々は常に変化し、甦生し、若返らなければならない。 さもないと凝り固まってしまう。」という言葉があります。この凝り固まるというのは、思想や思考に限界ができることでそのことで二進も三進も行かなくなります。

挑戦するというのは、変化や甦生、若返るためでもあり自分が凝り固まらないための創意工夫の実践とも言えます。自分の限界を自分が設けては、旧習の自分のままで何もしないのでは環境の中で自分が先に衰退していきます。だからこそ、挑戦し自分の価値を新たに発掘し、その価値を甦定義し続けていくことが時代の魁になっていくことです。

ある時は大バカ者と呼ばれ、ある時は変人と呼ばれ、またある時はこだわりの強い人と呼ばれ、またある時は狂った人と言われる。

そういう人でなければ変化は起こせず、あるいはそういう人でなければ時代の特異点を発生させることはできません。

私の地域のへの恩返しは、この甦定義の実践に懸っています。引き続き、未来の子どもたちのためにも新しくした甦生した価値を実現し、故郷と共に生きることの素晴らしさを伝承していきたいと思います。

諦めない心

今年の自然農の高菜があと30日前後で収穫時期に入ります。今年は虫や猪に荒らされ種蒔きを3回やり直すということが起きました。収穫は無理でも種取りだけはできるだろうし、ここから必ず何か学ぶことがあるだろと色々と手を盡しているとまだ予断を許しませんがなんとか収穫もできそうです。

基本は自然農では、持ち込まない持ち出さない、草も虫も敵にしないという理念ですがその理念は維持しつつ、遅れた時機を取り戻すために高菜が育つような環境づくりは真摯にしていく必要がありました。慣行農法で用いられるような一般的な牛糞や鶏糞などの肥料は虫を大量に増やすことになるため一切用いず、今回、手入れに使用したのは日ごろ自宅の火鉢で使っている木灰と炭の木酢液、もみ殻燻炭、そして落ち葉、枯草などの腐葉土、さらには菌で発酵させたぼかしを使いました。

自然農の高菜をはじめて6年目まで順調にきたのが不思議なくらいで、これだけ毎年やっていたら色々な変化が発生します。特に昨年は個人的には古民家甦生も始まり、本業でも大切な友人が大事な局面を迎え一緒に経営改善を実践し、身体の具合もずっとよくなかったりと色々と身辺でも大変でした。

しかしいつも有難いと感じるのは、自分の諦めの悪さです。私は一度決めたことは何年も何十年も諦めないというしつこい性格のようで、心で決めたことはしぶとく取り組みます。結果が出るかどうかよりも、決めたことを取り組むということにしぶとさがあります。

自然農は東北の原発事故がきっかけではじめたもので今の人類の生き方では持続不可能であると気づき、人類の生き方の学び直しがいるということではじめたものです。ですから、単に農作物を育てているのではなく学び直しが本懐ですから諦めるということがあるはずがありません。今回の件も、自分の何が間違っているのか、何が一体謙虚でなかったのかと一連の意味付けを怠るわけにはいきません。また自然の変化に対して素直になっているか、学問は深まっているか、感謝の気持ちは失っていないかと常に内省が試されます。

初心のままに諦めずに取り組んでいくと失敗というものは一切なく、全ての出来事は大切な学び直しであることを実感し自分の生き方の改善に活かします。自然に沿って歩んでいけば、自然の方は変化を已みませんがその変化に対して創意工夫を怠るのは自分の姿勢に問題があるからです。常に改善を続けてどんなことからも学び直して工夫をしていく人は必ず最期には目的に辿り着きます。瞬間瞬間の変化に対してどれだけ学ぶかというのは、覚えるためにやるのではなく学ぶために行うからです。

よく仕事でも勉強でも学んでしまえば終わってしまう人がいます。これはとても残念なことでその時、その人は変化できなくなり学ぶことを止めてしまうことを意味します。どんな日々、どんな仕事であっても常に間違っていることはないか、もっと改善できるところがあったのではないかと終わることが目的ではなく学び直すことが目的の人にはいつまでも終わりはありません。

この終わりがないと思うところにこそ諦めない心があるように私は思います。

万物は変わり続けて流転するのが生命であり地球の真理です。変化は生きている証拠であり、学ぶのは成長しようとする本能の性です。だからこそ頭で考える暇はなく、体験したことをさらにもっと深めて掘り下げていく努力が必要です。その掘り下げていく中で気づくのは体験の尊さと御縁への感謝の両輪です。

生きるための学問から、楽をするための勉強になってしまってはなんのために学ぶのかということの意味が変わってしまいます。道は続き終わりはありません。

引き続き、子どもたちの憧れる生き方を実現するためにも初心は諦めず全ての変化は天にお任せして自分の使命を盡していきたいと思います。

ドラマを味わう

郷里の歴史を紐解いていくと、今まで何が行われて今の郷里になっているのかを実感します。自分の居るところのルーツや出来事を学び直すことは自分が形成されてきた土地のことを知ることであり大切です。

時代時代にどのように暮らしてきたか、時には平和、時には戦争に巻き込まれたりと変化の中でも今につながるまでに多くの人たちのドラマがあります。そのドラマは私たちが知らないところで日々につくられ続けています。そのドラマが引き継がれ今の自分たちがドラマの続きをつくっています。

そのドラマはその時代の人たちがドラマを創りましたが、今の時代のドラマは私たちが創るドラマです。筋書きがある中での物語を演じる主人公はそれぞれの人です。そのそれぞれの人が合わさってはじめて筋書きがないドラマが生まれます。

歴史を見つめていると、どのようにその時代を生きたか、その人の逞しく勇猛な人のドラマには心揺さぶられます。郷里には炭鉱王の伊藤伝右衛門がいますが、一代で栄枯盛衰、時代に翻弄されながらも自分を盡した人の生きざまがあちこちに残存しています。

史跡や建物はもう色褪せていますが、どのような生き方をしたのかは口伝や功績によって後から伝わってきます。世間が知っているものがあれば、その人の周辺で親しい人たちしか知らないことがあります。しかしどんな人生の脚本を書き、どのように人生を演じるかはその人次第ですから本人のみがドラマの真実を知っています。

どのようなドラマを創造するかは、先人たちのドラマの生きざまを参考にしていくのです。自分にしかないドラマは、自分自身がどう感じて意味付けをするかによります。意味を紡ぐとき、色褪せていたドラマが生々しく鮮やかに甦生するのです。

ドラマは主体的に真摯に自分のいのちを燃やし尽くして人たちによって常に甦り続けて今を意味づけます。日々はドラマですから、そのドラマを無二の仲間たちと一緒にどのように演じているか、ただ流されて終わりを迎えることがないように明るく楽しい心で深い意味を味わいながら歩んでいきたいと思います。

不易流行の真髄

不易流行という言葉があります。これは変わらないものと変わっていくものです。別の言い方では、時中時流とも言えます。如何に時の流れの中でも本質や本物を維持し続けるかということでもあります。

時が経てばかつての本質や本物は次第に色あせていきます。それは時が流れていくからです。いくらある時それが本物であったとしても、時が経てば次第にそのものが本物ではなくなっていくのです。

例えばお茶を点てるとします。しかしお茶は時間の経過とともに酸化して味が変わっていきます。そしてそれを美味しいと思う人の心も変わっていきます。昔ある時に飲んだ美味しい一杯のお茶と同じ味を維持しようとしたら自分が時の流れ、環境の変化を感じて自分の方が変化してその時の味に近づけなければなりません。つまりそのままでは古くなるから新しく磨き直すのです。

いくら言葉で真理が語られていたとしても、その時代時代にその言葉の意味を磨き直す実践者が出てこなければその真理は本物ではなくなっているからです。それは仏陀であっても孔子であっても、それを今ならどう行うかというのはその時々の人たちがその本質を磨きかつてその言葉が語られた時と同じにする必要があるのです。

易経に、時に中ると書いて「時中」とありますがこの境地は本当に今、この時のままであろうかと変化の最中を確認するという意味であろうと私は解釈しています。

生命は不思議で、本来は老化しすり減って消滅していく身体を持っていますが何度も何度も使っている場所は逆にいつまでも皮膚も分厚くなり感覚もいつまでも鋭くなっていきます。経年劣化ではなく、磨き続ければ経年変化になるのです。

古民家甦生を通して私が学び直しているのはこの不易流行の真髄です。

変わるものと変わらないものを捉える心は中庸です。そして時機を逃さず最適なタイミングで直観したものを一つ一つ丹精を籠めて種を蒔くのは時中です。人間は徳が高まり、人格が磨かれれば自ずから不易流行の境地に入るのかもしれません。

徳を磨き続けることで本物は維持できます。本物か偽物か分からなくなっている今の世の中で、真に本物かどうかは徳が証明します。

学んだことをそのまま実生活に活かすためにも、学びに素直に、問いに謙虚に日々の体験一つひとつを今、此処の真心で真摯に磨いていきたいと思います。

力の本質

人間にはそれぞれに個性があります。そして個性と共に才能があります。その個性も才能も天から与えられたものです。例えば個性は、男性女性などの性も生まれながらに天が与えてくれます。そして才能もそれぞれの興味関心や体つき、また持って生まれた時から備わっています。

なぜそれが生まれながらあるのか、それは誰かのために役に立ちたいからとも言えます。全てのいのちは天から与えられるものですが、いのちは与えられた天分を活かそうとします。これは自分の意思に関わらず、自然の一部として存在する私たち生命の営みの根本原理であり生きている意味にもつながっています。

この世には無駄なものも意味のないものも一切がなく、どんなに自分が無意味だと思っていてもそれは大切なお役目を帯びています。だからこそそれぞれが自分らしく生きていくことは大切で、その存在により世の中は生き活かされていくように私は思います。

天分を活かすには、天分を活かしあう仲間が必要です。それを共生とも言います。人間は自分らしく生きていきながら仲間と共に生きていくことを使命にしています。そしてその場が生まれると安心し幸せな気持ちになるものです。

家族や一家を形成するのもまた、本来の人類の使命を本能で実感するからです。そして大切なことは、その天から与えられた才能を独り占めせずにみんなに活かすこと、みんなに使ってもらうこと、みんなのために磨いて役に立つようにしていくことです。

そのために教育や環境の場があるといっても過言ではありません。そういう場を醸成していくのが教育の本質だとしたら、私たちはそのいのちや才能がどのような状況の時に発揮できるのかを見極める必要があります。私はそれが協力や協働をする意味であると信じています。

協力というのは、当たり前過ぎてあまり議論もされることもありませんがこの字は分解するとわかりますがすべて「力」が合わさってできています。みんなが力を合わせれば天地のすべての御蔭様を得るということです。

これからの近い未来、また遠い未来において何をもっとも大切にしていけばいいか。人類の智慧はこの協力のこそあります。私は一円対話を通してこの智慧を伝承していきたいと思っているのです。

自分が天から頂いたものをそのままお返しする日が訪れるまで、子どもたちそれぞれが天分を活かし世の中を百花繚乱に多彩のまま輝かせていくためにも日々の御縁を大切に仲間を増やしていきたいと思います。

学びの鮮度~感動する心~

人は自分の間違いに気づくことで素直になるものです。どう考えてみても分からないものを「分かりません」と素直に言えるところに心の明るさがあるようにも思います。つまり素直さは、自分の心と向き合って分からないことが分かったといったありのままの姿を受け容れるということです。新しいことを学ぶときは、鮮度というか生々しさが必要でその生々しさを味わい感じることで新鮮な学びを持つことができます。

人は誰でも新しいことを学ぶとき、今まで使ったことがない筋肉、また脳の回線がつながっていないところで理解するしかありません。今までにないことを学ぶのは、今までにない自分の発見でもあります。発見というものは、今まで気づかなかったところが急につながるような感覚があります。「これはすごい!」という気づきや感動はそのまま感動のままに新しい回路につながり新しい筋肉を動かしていきます。

今までにないもの、分からなかったことに気づけた悦びは楽しみに変わります。人が変化するというのは、この学びの鮮度を高めていく必要があると私は思います。

できない理由ばかりを思ったり、分からないからよくないと思ったり、最初から無理だと諦めたりする前に、物事に対して出来事に対して素直に取り組んでいくという姿勢が学びの鮮度を保つ方法だとも私は思います。

学びの鮮度の高い人は、新しいことに挑戦して次々に自分を変化させていきます。それは生々しい体験とセットですが、この生生しさを全身全霊で感じながら味わいながら進んでいくのです。言い換えるのなら、感動しながら働き、感動しながら学ぶのです。

頭でっかちに考えてしまうとこの感動する気持ちが減退していきます。それはすでに鮮度が落ちている証拠です。同じ仕事などが発生することは一度としてなく、同じ出来事が起きることも一つとしていない。同じことだと思い違いをしてルーティンにしマンネリ化するのは自分自身の心です。

人間は同じことをしているうちに頭で処理できるようになりますが、無理やり自分の思い通りのものにすり替えてしまっているだけです。似ている事例を似ているようにやって学びの鮮度が落ちてしまえば新しいことに気づく感度は急激に減退します。

常に物事を究め上達し、変化し続ける人物は感動する心を持っています。感動する心があるから改善と工夫を怠りませんし、まただからこそ感動も続きます。つまり心の姿勢が素直で謙虚であるのです。

何が間違っているのか、その大前提を直すことは自分を変化させていくときの要諦です。新しいことに取り組んでいない日々は一日たりともないのだから、その変化を感動のままに楽しむ工夫を行うことです。それは気づいたらすぐ変わる、気づいたらその場で変わる、変化を迫られる前にサラリと自分の方が先に変わることです。

変化こそ、自然体であることを自覚し感動の心で新しいものを追求し道を深めていきたいと思います。

精進の本質

人格が高まるというのは、相反するものが中和し調和されるということでもあります。例えば、信念が強く頑固であるけれども人の話をよく聴く謙虚な人、または燃えるような情熱的な行動力を持ちつつも冷静でクールに物事を判断ができる人、というような相反するものを同時に持つといった具合です。他にもせっかちだけども焦らないや、慎重だけれど大胆にというように相反するものを如何に調和されているかで人物が練りあがっているかが観えてきます。

これは古来より陰陽調和や中庸というように、人間も同じく如何に全体の中で自分を保つことができているか、言い換えるのなら如何に自己中心的ではないかということが大事にされてきたとも言えます。

自己中心的で自我が強い人は、つい自分ばかりを心配し自分が正しいと思い込み次第にごう慢になってきます。そのうち謙虚さがなくなり、自分の間違いに気づかなくなることで失敗して痛い思いをします。それを何度も繰り返して反省しているうちに、自分のごう慢なパターンが観えてきます。それを早めに察知して修正することで次第にその人は調和がとれてくるのです。

人間は内省をすることで、自分の至らなさに気づきます。もしくはその内省によって何を努力して精進していけばいいかに気づきます。それを着々と場数を経て修養していくことで次第に人格が磨かれていくのです。

人格形成は環境によって出来上がるものもありますが、しかし環境のせいにしても仕方がなく、自ら環境に働きかけるというように主体的に自分の人格形成に責任を持つ必要もあります。実際に人間はどんな環境の中でも運命を嘆かずに自分を高めるために努力している人は大勢います。本来は環境に左右されずに自分自身を練り上げていくことが自己修養の要諦であろうと思います。

自己修養の要諦は自利よりも利他、つまり日々を自分の保身ばかりに終始する一日を過ごすのをやめ、他人のためにお役立ちできた一日だったか、思いやりに生き切った一日だったか、大切な理念を優先した一日であったかと振り返る中で利他に自分を位置づけていくことが大事だと私は思います。

利他が徳を積むからいいと当たり前のことを言っているのではなく、常に利他にしていた方が自己中心や自我、エゴに持っていかれにくくなり悩み苦しみが少なくなるからということです。執着を自分に持つ人は総じてごう慢になっていきます。自分の人生が誰かのお役に立っているのだからと真摯に自分と正対する人は、自ずから中庸に近づきます。その自己中心、自我、エゴを転じて善いものにするのが精進の本質だと私は思います。

引き続き、子どもたちに生き方を譲っていけるように精進の本質を大切に守り育てていきたいと思います。

バランスを保ついのち

この時期は三寒四温といって、季節の変わり目で寒くなったり暖かくなったりと気候が激しく移り変わります。自然は常にバランスを取ろうとして、暑くなり過ぎれば寒くなろうとし、寒くなりすぎれば暑くなろうとします。これは人間の体温も同じく、一定に保つために暑くなれば汗をかいて冷やし、寒くなれば震えて温めようとします。

温度を一定に保つために、絶えず休まずに自然も身体も働くことを已めません。

私たちはその時々を切り取って物事を判断しますが、自然や身体は常に動き続けて休まずに働いていますから切り取ったのはその状態を認識するために無理やり切り分けたことで実際は切り分けたその瞬間にもバランスをとるために全てのものが動き続けている真っ最中なのです。

バランスを取り続けているからこそ、常に動き続けて已まないままに物事を認識しなければ実際の現実とはかけ離れてしまうものです。変わり続けているからこそ、この先にどのように変わるのかは一緒一体になって変化している自分もその変化の中にある必要があります。

それを「今」とも言います。

この今は、常にバランスの中心になっています。今がどうであるのかを観て、今が変化の最中であると思い今に全身全霊で盡していけば自ずから変化の中をとることになります。

バランスを崩すというのは、今から離れては未来を思い悩み、過去を引きずり、様々な執着にとらわれるということです。変わり続けないものはこの世には一切ないと開き直れば、楽観的に信じて耐えて待つという心境もまた持てるように思います。

自然の生き物たちが信じて待てるのはこのバランスを保ついのちの働きを知り、そのいのちのままに自然と一体になって暮らしているからかもしれません。思い煩わずその時々の今を精一杯に生きる生き物たちの姿から慎み学び直したいと思います。

心のふるさと

先日、もう8年間一緒に理念の実践に取り組んでいる園で理念研修を行いました。ここは「心のふるさと」を子どもたちに持ってもらえることを目的にしておりそのために見守る保育を取り入れて実践しています。

私もこの心の故郷という言葉には、強く心が惹かれるものがあり懐かしく思います。この心の故郷とは何か、それを少し深めてみようと思います。

心の故郷を思う時、私は純粋な心を思います。純粋な心とは、子ども心のことです。子ども心は、あるがままの心、つまり心そのもののことです。これが歳を経ていくごとに次第に純粋さが日常の些事によって曇っていきます。曇ってしまえば、自分の純粋性も分からなくなり魂が何を望んでいたかもわからなくなります。

三つ子の魂百までという諺があります。私の解釈では、魂や心が望んでいることは誰にも変えようがない。つまりは普遍的に魂や心はこの世で何をしたいかを持っているという意味です。天命を与えられて生まれてきた存在は、そのまま死ぬまで天命がなくなることがないということです。

しかし実際は、その天命をやらせてもらえず教育によってやってはいけないことばかりを仕付けられてはそのものであることが否定されたりもします。純粋な心はそれによって曇り、自分自身が何をしたかったのかが観えなくなっていくのです。

その純粋な心、三つ子の魂の本来の心であり、その心のふるさとは魂の父母が住んでいるところ。それを心に持っている人はいつまでも自分の天命に回帰し、自分の使命に生きていく悦びを忘れないで魂と全うしていくことができます。生まれてきた意味を知るということは何物にも代えがたい安心感なのです。

そして子ども心が何かをしたいと思う時、如何に寛大に丸ごと受け止めてくれる存在があるか。そしてその子どものことを丸ごと見守ってくれる存在であるか。子どもを信じることで、その子どもは信じる道を歩むのです。

子どもが安心して生きていけるというのはこの心の中に懐かしい故郷、その心の父母の無償の愛を持っているということです。その無償の愛とは、言い換えれば自然慈愛の魂とも言えます。この自然慈愛の父母の魂が、子どもの魂に宿るれば人は死をも怖がらなくなります。

純粋さを貫くことができること、それを「至誠」といいます。純心を死ぬまで持ち続けられた人をみると私たち人間は魂が激しく揺さぶられます。それは魂が望む姿を魂が感化されるからです。理想の生き方、真実の生きざまを魂は心の奥深くで求め続けて已まないのです。

その至誠の魂が子どもの魂を見守ることで、魂の純粋さは永遠に保たれていきます。その魂の純粋さを守ることで、その人は一生涯自分の安心基地を自分の心の中に持つことができるようになります。人がこの世で信じられるものを持っているということは、一生を生きていく中でとても大切なことです。本当の仕合せは魂の邂逅を得ることだと私は思います。

それを子ども時代に与えていきたいと願うのは、真心がそうさせるからです。真心の生き方を貫く人はみんなこの心のふるさとが助けて見守ってくれることを自覚しているのです。私がそうであったように、子どもたちが心のふるさとを持って自分の随神の道を歩んでいけるように自分自身の純粋な魂や真心を盡して子どもたちの環境に貢献していきたいと思います。

遺言として心の故郷を見守ることは、何よりも優先される死生間の仕合せであると明記してこのブログを締めくくりたいと思います。