精進の本質

人格が高まるというのは、相反するものが中和し調和されるということでもあります。例えば、信念が強く頑固であるけれども人の話をよく聴く謙虚な人、または燃えるような情熱的な行動力を持ちつつも冷静でクールに物事を判断ができる人、というような相反するものを同時に持つといった具合です。他にもせっかちだけども焦らないや、慎重だけれど大胆にというように相反するものを如何に調和されているかで人物が練りあがっているかが観えてきます。

これは古来より陰陽調和や中庸というように、人間も同じく如何に全体の中で自分を保つことができているか、言い換えるのなら如何に自己中心的ではないかということが大事にされてきたとも言えます。

自己中心的で自我が強い人は、つい自分ばかりを心配し自分が正しいと思い込み次第にごう慢になってきます。そのうち謙虚さがなくなり、自分の間違いに気づかなくなることで失敗して痛い思いをします。それを何度も繰り返して反省しているうちに、自分のごう慢なパターンが観えてきます。それを早めに察知して修正することで次第にその人は調和がとれてくるのです。

人間は内省をすることで、自分の至らなさに気づきます。もしくはその内省によって何を努力して精進していけばいいかに気づきます。それを着々と場数を経て修養していくことで次第に人格が磨かれていくのです。

人格形成は環境によって出来上がるものもありますが、しかし環境のせいにしても仕方がなく、自ら環境に働きかけるというように主体的に自分の人格形成に責任を持つ必要もあります。実際に人間はどんな環境の中でも運命を嘆かずに自分を高めるために努力している人は大勢います。本来は環境に左右されずに自分自身を練り上げていくことが自己修養の要諦であろうと思います。

自己修養の要諦は自利よりも利他、つまり日々を自分の保身ばかりに終始する一日を過ごすのをやめ、他人のためにお役立ちできた一日だったか、思いやりに生き切った一日だったか、大切な理念を優先した一日であったかと振り返る中で利他に自分を位置づけていくことが大事だと私は思います。

利他が徳を積むからいいと当たり前のことを言っているのではなく、常に利他にしていた方が自己中心や自我、エゴに持っていかれにくくなり悩み苦しみが少なくなるからということです。執着を自分に持つ人は総じてごう慢になっていきます。自分の人生が誰かのお役に立っているのだからと真摯に自分と正対する人は、自ずから中庸に近づきます。その自己中心、自我、エゴを転じて善いものにするのが精進の本質だと私は思います。

引き続き、子どもたちに生き方を譲っていけるように精進の本質を大切に守り育てていきたいと思います。

  1. コメント

    人は、余裕がある間は、他を思いやることができ、多少のことは許して受け入れることができます。しかし、一旦、余裕がなくなると、急に「自我」が暴れだし、一気に状況が変化してしまいます。自我に振り回されると、自分でわかっていながら、他責になり「選んではいけない方」を選ぶようになってしまいます。この異変にいかに早く気づき手が打てるか?!日々、その訓練をしておかなくてはなりません。

  2. コメント

    自分から考えることと、相手だったと考えるとまるで違ったものが見えてきます。同時に考えが至っていなかったと感じますが、またそこから学ぶことばかりです。自分優先ではなく、人のためにから考え行動していきたいと思います。

  3. コメント

    自分の至らなさに捉われてしまえば、それを自分自身が悪いものにしてしまうことを感じます。起きた出来事やいわゆる失敗・成功も同じことで、それをどう受け取り、何に活かすかが定まれば何も悪いものなどなく、むしろ何もない方が人生として勿体ないのだと思います。折角いただいている人生なのだから、自分にしか出来ないこととして、誰かの為にこの人生の全てを転じて味わい尽くしていきたいと思います。

  4. コメント

    自分を振り返ると本質を頭で理解しようとすると、偏った自分でも理解はできるかもしれませんが、本質を行動では維持できません。本質っぽいことは言えても、本質ではありません。寄り添いっぽいことは出来ても寄り添いではないのかもしれません。そもそも、ミマモリストという自分の言葉も、見守っているというスタンスに傲慢さがあるかもしれません。見守られているかどうかは、見守る側ではなく、見守られている人が感じるものですから、むしろ自分自身はミマモラレストとしての自覚が先のように感じます。

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