分類わけ

人間は世界というものは、分類わけして整理して理解しています。しかし実際には、分類できるものはなく全ては境界線がありませんし、結ばれ関係を持ち、溶け合っているものです。それを敢えて、分類わけして脳で処理したことで言葉が誕生し、学問が誕生し、科学を発展してきました。

しかし敢えて無理に分類したことから、その曖昧な中間や溶け合っているところが理解できず分類にならないものがわからなくなっていきました。

人は分類できないものを嫌うのは、理解が追いつかないからです。さらに言えば、理解できたというのはどこかの分類に入ったということ。あるいは分類できないという分類にしたということもできます。

よく私のことを分類わけできないと言う人がいます。自分もどの分類のなのか自分でもわかっていません。分類を考えたこともなく、関係性の中で自分のご縁や直観を信じて何でもやりますから余計に分かりづらく感じるのでしょう。全体最適や全体快適などというのもすべてを一つの生命体やつながりのように認識することで余計に伝わりにくいのかもしれません。

よく考えてみると、水とか火とか太陽とか認識していますが本当の存在は認識できていません。わからないものを無理やりにわかるようにしたことで余計にわからないものが増えていきました。特に最もわからなくなったのが原理原則などの根源のものです。

古代人たちはそのわからないものをわからなかったのか。実際には、わかったのならどのように認識していたのかにとても興味があります。そこから自然の織りなす風景が別のものになることや、神秘や未知の出会いに感動することが増えました。

実際には原理原則をはじめ私自身は、「螺旋」やお水が一つの宇宙・生命の根本原理だと直観してそのうえで、流れ=螺旋を生み出す運動、循環=螺旋が繰り返すリズム、場=螺旋が育まれる環境、甦生=螺旋が健全に回復する働き、初心・真心=螺旋を正しい方向へ導く人の在り方などと翻訳しています。

技術にするにはまだまだ探求が必要ですが、場を通して体験できるようにし子どもたちに継承していこうと思っています。

夏休みの探求授業のように、夏は学を味わうとてもいい時間です。