みずからの一年

今年も色々なことがはじまった一年でした。毎年、新しいことに挑戦させていただき実践が増えていきます。氣がつくと、今の私の暮らしフルネスの実践のほとんどがご縁から取り組んだことの集積であることに氣づきます。

今年はスリランカからはじまり本質的な仏縁も広がりました。英彦山の法螺貝においては、60貝を守静坊から新たに甦生するご縁にも恵まれました。大阪万博のいのち会議にもカグヤとして参加し、子ども第一義のこれまでの取り組みを発信することができました。BAでのブロックチェーンの活動も、次第に仲間も増え聖地のようになってきました。英彦山での仙人苦楽部でも面白い仙人との出会いが新たな自分の仙人活動の境地を開いてくれました。浮羽の古民家甦生もほとんど終え、いよいよ来年から田んぼを守り日本人の心を甦生する取り組みも本格化していきます。

また出会いと別れもたくさんありました。大切な家族の一員でもあった犬のサスケや烏骨鶏のナビキが亡くなりました。講をはじめて結成し、普遍的なかんながらの道を共に新たに一緒に生きていく仲間や同志も増えました。大和の遊行も少しずつですが確かに歩き始めてカタチも顕現してきました。

来年は会社のみんなで恒例のように定めているそれぞれの一文字を私は「水」としました。尊敬するお水に触れ、いのちの根源を学び直し、お水の場を丁寧に磨き澄ませていく一期一会の恩返しの一年にしようと思っています。

振り返ってみると私の人生はずっと美しいお水に守られてきました。いつも何かをはじめるとき、お水が見守ってくださっています。氣がつくと、お水の神様をあらゆるところにお祀りして毎朝、雨乞い神事の法螺貝をお水に鳴動奉納しています。

お水が深くかかることで、いのちも健やかに新鮮に活き活きと癒されていきます。

もっとも大切で何よりも当たり前だと思う存在にいつも感謝できるお水のような柔軟で素直な心で来年は一旅を味わい歩み続けていきたいと思います。

本年も間接的なことを含めあらゆることでお世話になっている御蔭様の八百万のみなさまに、改めて心から感謝申し上げます。来年も、子どもたち、子孫のために徳積循環の実践を積み重ねていきたいと思います。

どうぞよろしくお願いします。

すべてのいのちが循環し、喜び合える素晴らしい刻を過ごせますように。

節目に感謝

昨日は、郷里の仲間や同志と忘年会をBAで行いました。そういえば、ここ数年、忘年会らしい忘年会をしておらず時代の変化と関係性の変化を感じます。本来、暮らしフルネスの中では節目を大切にして振り返りをしますから忘年会はぴったりの行事です。

日頃の苦労を分かち合い、お互いに心を開いて一年を感謝で振り返る。

囲炉裏を囲んでの美味しい食事やお酒に盛り上がり、新しい年への期待と希望、そしてご縁の発展を感じます。

私たち日本人は、未来のことを未だ来ないものではなく未来は起きることが前提でお祝いをする予祝という文化と、過去にあった出来事の意味が見つかる伏線回収という考え方があります。あれがあるから今がある、そして今があるから未来はこうなると過去と未来が今に結ばれているのです。

どれも必然であったとわかると、どのご縁も大切な学びと成長のプロセス、つまりステップだったと確信するのです。

その証拠に、見事な天の采配がありお導きとも思えるような出会いとご縁と場と体験があったことを発見します。つまり人生は道そのものであり、その道中に誰と出会い、どこまで一緒に歩み何をするのかと、お導きを生きるのです。

畢竟、人生はお導きよって物語を彩られそれぞれに主人公として徳が循環する自然のいのちの関係性の中で結び結ばれ和合する体験の妙を味わう忘年会のようなものです。

忘年会というのは、忘れることを善しとします。忘れるというのは、よくないことのように扱われますが人は忘れることで体験を昇華して次の道中の新展開に導かれるものです。

今年もご道中の旅路で出会いの多い素晴らしい一年でした。節目があることに心から感謝します。

浮羽の加茂神社

現在、甦生中の浮羽の古民家の氏神様は加茂神社です。この加茂神社は、賀茂建角身命 です。この神社の大宮司m、行直氏が1651年に誌した旧記に「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」とあります。実際に境内では縄文土器、石器、群集石棺群などが出土していています。

この八咫烏(やたがらす)は、日本神話において極めて重要な役割を担う神的存在でした。三本足のカラスの霊験のあるカラスは、天照大御神の命を受け窮地に陥っていた神武天皇(イワレヒコ)のもとへ遣わされ熊野国から大和国へと導いたとされる導きの神です。

具体的には古事記、日本書紀では神武天皇は日向国(高千穂)を発し東征の途についたが、熊野の地で地元豪族の激しい抵抗を受け、山中で道に迷い孤立してしまう。それを高天原から見ていた天照大御神は、八咫烏を遣わし、険しい山野を越えて大和へ至る正しい道を示させたといいます。

今では京都の話になっていますが北部九州のヤマトの遺跡を鑑みても私はこの高天原は、鷹天原、英彦山であるとしそこから浮羽に八咫烏を派遣したのではないかと直観しています。このお導きで神武天皇は態勢を立て直し、最終的に大和を平定できたという話です。この八咫烏が鴨県主(かものあがたぬし)の祖である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の化身だといいます。

実際の伝承によれば、敵陣に囲まれながらも神武天皇を守り地形を読み、山野を駆け抜けた賀茂建角身命の姿は、まるで鳥が飛ぶように俊敏であったため、「八咫烏」という名になったともいいます。まるで英彦山に棲む仙人や山伏のようです。

そこから加茂神社、加茂氏は三本足のカラスを神の使いとして信仰し、「導きの鳥」「人を正しい道へ導く存在」として崇敬して今になります。

三本足には、智・仁・勇、天・地・人、過去・現在・未来といった、全体を統合し判断する力の象徴ともいわれます。

浮羽の加茂神社の建築様式や配置など隅々に陰陽道の気配があります。特にこの山北という地域は、歴史上の何かとても大切な何かが隠れているようにも思います。

いよいよ来年はこの地で、日本人の魂、大和魂の根源であるお米や稲作の知恵を守る取り組みをはじめますが近くに加茂神社があることを有難く思います。英彦山と合わせて、お祈りして精進していきたいと思います。

ウケモチノカミ

昨日、郷里にある福智山の福智権現のご祈祷にいってきました。福智権現の額が、英彦山の守静坊で出てきてからお祀りしていますがそこからのご縁です。もともと、福智山は英彦山から分霊した御霊を山頂にお祀りしたところからはじまった修験道、山岳信仰の聖地です。

元々の由来は英彦山の名僧、釈教順によって開山されたと伝えられています。この釈教順は、白凰元年(672年)に夢の中で「福智山は五穀霊神の霊地であり、汝はそこに行き神を奉るべし」と伝えられたといいます。その後、福智山の東にある鈴ヶ岩屋という岩場で金の鈴と金の仏像を掘りだしたといいます。そしてその修行中に山上の池のなかに虚空蔵菩薩、観音菩薩、地蔵菩薩の梵字が現れたため、石祠堂を建て、山名を福智、寺を金光明と名付けたともいいます。
その釈教順が住んでいた宿坊、福泉坊はまだ福智山に遺っています。その近くには、山伏たちの卒塔婆もあり、巨石に代々座主の名前も刻まれています。そしてそこでむかしから大切に伝承されてきた福智権現がお祀りされていた場があります。
この福智山は、遠賀、鞍手、嘉穂郡2万戸を見守る五穀豊穣のの神様として崇敬を集めた場所です。私の自宅からもはっきりと福智山の山頂が観えて、とても神々しく感じます。山頂にいけば、草原上になっていて巨石がたくさんあります。また岩屋権現という修行場には大きな巨石に梵字も刻まれ、岩場から清水も湧き出していて巨木が立ち並びます。
もともと五穀豊穣の神様として保食神(ウケモチノカミ)がお祀りされています。この神様は日本神話に登場する「食物・穀物を司る女神」です。地域や文献によっては「宇気母智神」とも表記されます。この「ウケモチ」というのが、いのちが循環するという意味ではないかと私は思います。
私たちは常に生死を繰り返して甦生しています。種が土に蒔かれ一度死んでから芽が出てきて実をつける。これを繰り返していきています。その生きている循環に寄り添い、自分のいのちもまた同じように生死を繰り返す。生きているというのは、生死の中で生かされているというのが本質ということでしょう。
福智権現とのご縁から、いろいろと五穀のこと稲作の根源を学び直していきたいと思います。

ウラジロ

鏡餅をそれぞれの古民家でお祀りしている最中ですが、ウラジロという植物を一緒に添えます。自然農の田んぼの近くの林の中に群生していて毎年この時期になると収穫しにいきます。

このウラジロの名前は葉の表が濃い緑色なのに対して裏が白いことから「裏白」となったといいます。シダ植物ですが、周囲にも似たシダはありますが裏が白くなっているのはウラジロだけです。このシダは「歯朶(しだ)」という呼び方もされ、歯を齢見立てて齢が延びる長寿や長命の縁起のよい植物です。他にも小葉が羊の歯に似ていることから「羊歯(しだ)」という呼び方もあります。

むかしから吉祥の植物で、ゆずり葉や橙と合わせて正月の新年を迎えるときの年神さまの依り代の鏡餅と共にずっと日本人に親しまれてきました。お餅つきは、みんなの力をあわせて収穫したお米を、蒸して杵と臼でついて固めて円くするという生き方の知恵の象徴でもあります。そこに、代々続くことや重ねることを伝承してきました。

ウラジロに話を戻すと、このウラジロは、「穂長」ともいわれ、槍の先のように見立てることで長寿の象徴ともなりました。また裏の白さで「心の潔白さ」と「白髪になるまで長生きする」長命の象徴ともなりました。さらにウラジロは先端から毎年新しい2枚の葉を付けることから途切れることなく子孫の繁栄が続くことの象徴ともなり、群がる生育の様子が先祖の霊魂が宿り繁栄していると信じられました。

戦国時代の徳川家康も「前立のウラジロ」といって、兜の前立に鉄で作ったウラジロがよく使われたといいます。それに葉柄の先端に葉が左右向き合って出るため夫婦和合、夫婦円満ともなり、その花ことばも「永遠の契」と深い愛を象ります。

身近なこのウラジロのことを知らない人も増えてきましたが、先人たちは植物の生き方から色々なことを学んでいました。しめ縄飾りにも必ずウラジロが入ってきますが、日本人の稲作や精神とは切っても切れない関係になっています。

今年も、元氣なウラジロを一緒にお祀りし心を添えていきたいと思います。

役割的自立

この一年で氣づいたことはたくさんありました。人はテーマを持って歩めばそのテーマに相応しい氣づきがあるものです。昨日のブログでも書きましたが私は子どもたちの未来のために志事をしてきました。何をすることが子孫のためになるか、これは単に自分の子どものことだけを考えているのではありません。人類の子孫、人類の未来のためにどうあるべきかを考えるということです。

2002年に起業してからずっと子どもたちのことを考えて事業に取り組んできました。その中で、主人公であること、主体性を発揮できること、つまり自立が仕事のすべてのテーマでした。何が自立であるかという本質を突き詰めてきた23年間だったように思います。

そこからは自立するために必要な学びや氣づきをたくさん経験し知恵を体験させていただきました。最初は、経済的自立、そして社会的自立、他にも数々の自立に関係する出来事に出会い学びました。後半は、暮らしの自立、代替わりや伝承、永続の自立を学びました。まだ途上ですが、何が自立の本質であるかを様々な体験を通して学んでいます。

畢竟、保育という仕事は自立にこそ要諦があります。

何のために産まれてきたのか、何をすることが最も仕合せに生きられるのか。そのことを知り、學ぶために環境や場があり、成長があります。

成長するために必要なプロセスが自立です。

自立は学べば学ぶほどに繋がっているものや関係性でいのちが循環していることに氣づくものです。この世の中に、一つとしてバラバラなものは存在しないという事実。すべては羅網のように縦横無尽に結ばれていて、老子のいう天網恢恢疎にして漏らさずの境地です。

だからこそ、今、この時も、自分がどう生きるか、どう暮らすかが次世代をはじめ未来の子孫たちの礎になっていきます。私が暮らしフルネスという生き方の実践で、理念経営をしてきたのもまさにこの境地を体現するためです。

役割というのはその時々、その人々で変わるものです。

皆で生きているからこそ、それぞれに役割がある。自分の役割を果たそうとするのは、それは志や良心、魂のようなものがあるからです。役割的自立は、その時々で変化しながら人生を豊かに彩ります。

今日は、仕事納めの日。何のお役目があるのかと味わう振り返りをしていきたいと思います。

ゆずり葉

この時季、鏡餅のゆずり葉を英彦山の守静坊のお庭に取りに行きます。この「ゆずり葉」というのは、常緑樹です。常緑樹でユズリハ属ユズリハ科に属します。

このゆずり葉の名前の由来は、春に枝先に若葉が出たあと、前年の葉がそれに譲るように落葉することに由来します。古名ではユズルハ(弓弦葉)と書きます。葉の中にある主脈がはっきりと目立ち、まるで弓の弦のように見えることからその名がありました。

正月の鏡餅に添える理由は、ユズリハが年神の乗り物として用いられるからともいいます。自分たちの先祖が次々と代を譲って新しい命へ生を繋げていくように、春になるとユズリハの新葉が芽吹きあたかも古葉が代を受け継ぐように落葉する様子に後世の人々がそのユズリハの落ち葉に乗ってまたご先祖様は天上界へ昇ったと信じられてきました。また葉柄の赤い色が呪力をもち邪気を祓うと信じられたからです。

このゆずり葉には、有名な二つの詩があります。一つは、三好達治氏のもの。もう一つは、河井醉茗氏のものです。改めて二つの詩から「ゆずる」ということを感じてみると、

三好達治氏

「ゆずり葉」

子どもたちよ
子どもたちよ
ゆずり葉の木の下で

==

河合醉茗氏

「ゆずり葉」

子どもたちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わって古い葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずって――。

子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。

かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
幸福なる子どもたちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど――。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造っています。

今、お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい、花のように笑っている間に
気が付いてきます。

そしたら子どもたちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときが来るでしょう。

==

どちらのゆずり葉も子どもたちに向けてのものです。私は、子どもに関わる志事に24年間取り組んできました。子ども第一義の理念を掲げ、子どもたちが憧れるような生き方や働き方をしようと理念に忠実に実践しました。

このゆずり葉の詩にあるような生き方や心にはとても胸に響くものがあります。シェル・シルヴァスタイン氏の本、大きな木~ザ ギビングツリー~という本があります。この心境もとても似ています。

与えて去っていくもの、与えられて受け継いでいくもの、伝承の歴史のうえに私たちのいのちは咲き続けています。

いつまでもその恩徳を忘れないように子どもたちの傍で見守っていきたいと思います。

信頼と覚醒

私が運営するBAというのは、ブロックチェーンアウェイグの略です、これは訳すと「ブロックチェーンの目覚め」という意味です。

そもそもこのブロックチェーンとは何か。

これは一般的には、取引や記録のデータを「ブロック」という単位でまとめ、それを時系列に鎖(チェーン)のようにつなげて管理する分散型のデータ管理技術だといわれます。しかし、この技術は何を中心に使うものなのか、それは人と人の信頼の絆を結ぶことであることは間違いありません。畢竟、事業も人、すべては人が創るものです。人が創るからこそ技術も産まれ新たに活かされます。何のためにこの技術を使うのかもまた人なのです。技術だけを見るのではなく、人を観ることがすべてのはじまりです。

そしてアウェイクニングとは何か。

これは「本質に氣づく」ことや「目が醒める」ことをいいます。人は覚醒し意識が目覚めると世界がとても透明に観えます。それは本質や真実に氣づくとそれまでの視野がまったく変わるということです。人間は真の自我に目覚めると、今まで何をやっていたのかというくらい環境に流されていたことに氣づきます。本当の自分を生きることに目覚めた人は自分だけの物語を生き切っていきます。それは宇宙や自然の循環のなかで使命を生きるという喜びです。

つまり「ブロックチェーンアウェイクニング」のBAは、この「信頼と覚醒」を実現する場ということになります。

では何が信頼なのか。

例えば、昨日私たちのBAでブロックチェーーンのイベントの懇親会がありました。食べるものから置いてあるもの、人、そして実践、取り組みなどすべてオープンで透明性があります。集まった人たちもみんな正直に使命や志を語り合い、心を開きます。気づいたらもうこの町でITを活用して心を結ぶ活動を同志は27年間以上続けてきました。その結果として、今のブロックチェーンの取り組みがこの場所で発展繁栄しています。

信頼は、いつも人の生き方や取り組み、その継続や思いの切磋琢磨、そして心の交流により育っていくものです。時間をかけて醸成してきた本物の実践や継続だからこそ心の信頼そのものを強くしていきます。昨日の参加者の一人から、心のブロックチェーンを創るという発信がありました。嬉しい宣言でした。人が人と心を結び一緒に何をするか、それが事業の面白さです。

この場所があるということ、そして人がいるということ、それを支える技術もあるまち。私たちが目指しているブロックチェーンアウェイクニングは、本来の人間性や徳といった技術と人の和の本質を追及していくものです。徳積循環経済をブロックチェーンを活かして実現していきます。

来年もまた変化挑戦の多い一年ですが、こうやって場に一同で集まれて仕合せでした。故高橋剛さんの魂もBAに留まっています。新たな仲間たちとまた一緒に未来を創っていきたいと思います。

幸福の源泉

昨日は場の道場で冬至祭が開催されました。朝から昇ってくる太陽をみんなで拝む。そして太陽の有難さに感謝して法螺貝や笛を奉納する、読経し、古神道の日拝をし、御餅をついて柚子料理とゆず湯と石風呂で邪気払い。一年の大切な節目に、笑顔と元氣と仕合せがある。

先人たちが繋いできた暮らしの知恵には感謝ばかりです。

お餅つきでは、子どもたちも一緒に大勢で掛け声をかけながら食べながら味わいました。この笑顔溢れるお持ちは、歳神さまとなりお正月の神様の依り代になります。みんなでついた餅は、買ってきたものとは異なり風情と情緒があり眺めるだけでにっこりするものです。

不思議なものですが、何百年、何千年も太古のむかしから自然と循環する中で当たり前ではない存在に氣づくと人はそこに幸福を感じるものです。

例えば、太陽の暖かさを感じること、お水の清らかを味わうこと、澄んだ空気、美しい星空、人が集まって笑いあう喜び、自然の滋味や恩恵、あらゆる当たり前を深く感じ直すときにこそ真の仕合せに巡り会うものです。

私たちは時間やスケジュールで生きているのではなく、今と永遠を生きている存在です。だからこそ、瞬間瞬間の有難さを忘れないように今こそ先人たちの知恵を学び直すときではないでしょうか。

油断すると消費消耗の時間と経済と労働の環境に巻き込まれ、つい我を忘れてしまうものです。

大切なことを忘れないように暮らしていくことは、自分を大切にしていくことと同じです。そして幸福の源泉はまさにこの先人たちの知恵と共に今も生きています。

日々の暮らしの有難さに感謝しつつ、お正月と心の準備を調えていきたいと思います。

太陽系との暮らし

今日はBAで冬至祭が行われます。太陽と共に暮らしてからより太陽を身近に感じて暮らしが豊かになりました。昨年は、夜は月と暮らすようになって合わせて心が穏やかになりました。

太陽と月とそして地球、その星々との暮らしはまさに太陽を中心にした太陽系との暮らしともいえます。

家にはにわとりがいますが、特に今朝の鳴き声は嬉しそうに感じました。毎朝、太陽が出てくる前にはなきはじめ太陽の刻を教えてくれます。今日も、太陽が拝めると有難い気持ちになり朝の太陽の光で目覚めます。

もしも太陽がなければ地球もありません。太陽が地球を牽引してくれているからこの銀河を共に豊かに旅を巡ることができています。

私たちはその一部として存在している小さな細胞のようなものです。

むかしの人たちは、太陽のことを「おひさま」とも呼びました。そして月のことは「おつきさま」。

親しくして、一緒一体になってあたたかさややさしさ、慈しみや愛おしさを感じていたのでしょう。

いつの刻にも、おひさまとおつきさまと共に暮らしていける仕合せを感じていたいと思います。

いつもいつもありがとうございます。