いのちを綴る

先日、AIを使ってこのブログの思想体系を整理してもらいました。秀逸にまとめられて、読んでいてよく整理できていてとても関心しました。誤字脱字などもほとんどなく、そのまま一冊の本になりそうな具合です。

便利な時代になったことと、この文章というものが実際の体験そのものとは乖離していることを改めて気づくよい機会になりました。

そもそも文章というのは、便利な道具の一つです。そこにはその文章という括りの中で文字を配列します。この配列次第で、それを読む人たちの共通理解や相互理解ができます。例えば、暑いといってもどの程度の暑いなのか。そして誰がなぜ暑いのかなどいくらでも状況を文章で表現していけます。

当然ですが、文字を知らない人は文章を読んでも意味がわかりません。違う言語の言葉であっても同じです。限りある制限のなかで文字や言葉は構成され活用されています。

しかし、文字では表現できないものがたくさんあります。それは実際に触れたり見ないとわかりません。このようなものと抽象的に表現できても文字では説明できません。どれだけAIが熟練しても文字ではできません。

宇宙という言葉もまた同様に、宇宙の一部を切り取って私たちは宇宙を表現し、宇宙を知らない人は宇宙の共通理解もありません。地球というものも同様です。先に言葉がわかってもそのもの本体はわかっているわけではありません。

説明することと実行することは異なります。私はブログを振り返りで使っています。言い換えれば、記録ですがこれは意識の記録でもあります。自分がどのような意識であるかを常に確認して、自分の物語を綴っているのです。

文字の徳は、この物語を綴ることではないかと感じます。文字にもいのちがあります。そのいのちは文字を綴ることによって結ばれ新たに甦生し続け共に生きています。

切り分けによる限界は、それ自体がいのちではないからかもしれません。いのちは、意識する時にこそ結ばれるものです。

引き続き、時代の変遷で便利な道具のリスクを見つめながら丁寧に関わっていきたいと思います。