自然の生産性

暮らしフルネスの道場の一つ、古民家 和樂(わら)の庭にあるご神木の銀杏の実がなる季節になりました。ここは、江戸時代から続く百姓の藁ぶき古民家で棚田が広がり関の山からの爽やかな朝日と風が吹き下ろす心地よい場所です。

ちょうど、本日の午後から「銀杏拾い」をご縁のある方々や地域や仲間と行います。毎年、この時季は落ちたての銀杏の実を拾い、果肉をとって備長炭でその場で焼いて食べてはそのエメラルドグリーンに光る香ばしい銀杏の味に舌鼓を打ち笑顔と喜びに充ち溢れます。一季節で3万粒から6万粒、あるいはもっと多くの実をおとしてくれます。何もしていないのに自然にこれだけの恩恵を与えてくれる存在。まさに自然の生産性は何万年も人類の暮らしの根幹を支えてくれてきました。改めて自然の恵みが持つ生産性にはいつも感動と感謝と尊敬が湧いてきます。

生産性とはそもそも何でしょうか?資本主義や経済戦争で神話のように信仰する生産性という言葉の定義をよく見つめるとこれは効率化のことを言うように思います。この効率化というのは、何かをしたり、望ましい結果を生み出したりする際に、材料、エネルギー、労力、資金、時間などを浪費せずに達成することです。

不思議なことですが、最もこの効率化して生産性を上げている存在は銀杏であることは明々白々です。何もしていないのに、あれほどの大量の実をつけるからです。銀杏自体は、一生懸命に生きているだけです。自然の光や風や雨、そしてその木の下で生きるあらゆる生命たちの循環に貢献してくれています。

結局、現在の経済界で使われる生産性とはお金のことです。お金を稼ぐためにどう効率化するか、それを生産性をあげろというのです。銀杏はなぜかあまりお金になりません。栗なども今はあまり縄文時代ほどの人気がありません。

しかし、お金がない時代に産まれていたら私たちは生産性の高い存在として確実にこの銀杏を選んだでしょう。(笑)

ということで、自然の生産性を學び直すためにも銀杏拾いをみんなでやります。

生産性の師匠、生産性の大先生、生産性の権化に、本物の自然の共生や仕合せの本質を學び直すのです。

もし参加希望の方は、自分に連絡ください。

和の伝承

文化というものは伝承していかなければ失われていくものです。文化とは何か、それは先人が長い歳月を経て教育してきた智慧のことです。智慧も生き物のように呼吸をしていて、呼吸をしなければ死んでしまいます。その呼吸は、長い歳月をへて人々の間で行われていくものです。

例えば、伝統的な神事などがあります。特に稲作を通して神事は継承されてきました。稲作が消えれば神事もまた消えていきます。意味があった伝統も、その意味がなくなってしまえば形骸化していきます。形骸化というのはまさに呼吸を止めてしまうことに似ています。

私はよく和と和風の違いを話します。和は呼吸があり、和風には呼吸がありません。和風というのは、例えば見た目だけが和のように見えるのならそれを和としようとする考え方のことです。和が本物であれば、和風はよく似せた偽物ともいえます。偽物でも和なのだからとそれを和と言い切ってしまえばそれは和風です。本物の和風の方が、現代では和よりもいいと思っている人もいます。しかしそこには、何が失われたのか、どのようなリスクがあったのかを検証している人はほとんどいません。子どもたちや子孫のことを思うと、便利さやお金で智慧を捨ててしまうのはとても残念なことです。

智慧とは、体験や経験によって得られたものです。いくら人工知能が発展しても、時間をかけることはできません。時間をかけるというのは、それだけ長く呼吸をするということです。樹齢3000年の樹木をAIが3年でつくることはできません。現実として、2997年が必要だからです。

AIがやっているのは、あくまで知能の合理化や効率化です。知能がつくる仮想空間は自然とは異なります。まさに先ほどの和と和風の違いと同じです。人間の営みは本来は、自然と共生する暮らしの中に存在します。それが和です。しかし、それを様々な理由をつけては自然を破壊してエネルギーなどを含めた搾取をして環境保全をしていると謳うのはまさに和風です。

取り返しのつかないことをしては、政治だからと諦めていたら終焉はもう目前に迫っていくのを感じるばかりです。そういう時は、政治を何とかしようというのもありますが、本来日本の政治は「まつりごと」です。これもまた稲作をはじめとした伝統神事の中に存在したものです。

時代が変わっても、何を先人たちはしてきてどのような未来を目指して生きてきたのか。それを呼吸をするようにつなげていくことが、和の伝承にもなります。

引き続き、暮らしフルネスを通して和を丁寧に紡いていきたいと思います。

場こそ誠の教育

福岡県朝倉市の旧三輪町にある大神いにしえの田んぼで無事に自然農での稲刈りと稲架かけを行うことができました。各地から仲間たちが集まり大勢での和気藹々の稲刈りでした。高齢の方々から子どもたちまでたくさん参加してくれて田んぼにはとても懐かしい風景が広がっていました。

一つの田んぼで、みんなで力を合わせて稲を刈り取っていく。実りの秋に、稲の薫りに包まれて美味しいお米を食べる以上の仕合せはありません。まさに育てる側も食べる側も田んぼもみんなが仕合せになる「場」が産まれていました。

ここで稲架かけした稲藁はこのあとしめ縄になったり納豆づくりに役立ったり、草鞋や藁細工や調理の燃料等で活用されていきます。もみ殻もまた燻炭にしたりあるいは畑の大切な養分になります。稲は捨てるところは一つもありません。

私たちは太古のむかしから稲と共に暮らしてきました。現代は、収量をとるために結果だけを追い求めプロセスや仕合せを無視している農業が増えてきています。職業としての農業はお金を優先していることはわかります。しかしむかしの農家は金銭を得るための職業ではなく、心豊かな暮らしのために稲を選びました。稲には、不思議ですが人々を結ぶ力があり、和の心を育てる働きがあるように私は感じます。

田んぼには、トンボやカエル、そしてたくさんの生き物たちが秋を謳歌していました。日本人にとっては季節季節でめぐるすべての生き物たちもまた暮らしを彩る大切な家族であったように思います。

ふと立ち止まりみなさんに今の時代こそ問いたいのです。私たちが子孫に譲り遺したい懐かしい未来はどのようなものでしょうか。真の人間性とは何か、人間のもつ徳とはどのようなものかということです。

人間が素直に育つことこそ地球も真に豊かになるように私は思います。そして人間が素直に育つために教育があります。心を澄ませば、日本の先人たちの純粋な思いやりや生き方を各場に発見できます。

本来、「伝承の場」こそ誠の教育だと私は思います。

日本の田んぼには日本人の和の精神、つまり「至誠」があります。天地の真心が隅々までいきたわり、その中で人が育つのです。子どもたちにどのような「場」を遺していくのか、私たちは先人たちの偉大な恩恵や智慧や文化、その教育の場を授かってきた一人の大人としてこの今も新たな「伝承の場」を創造していくことを何よりも第一義にしていく必要があると感じます。

これが私が二十四年間、社業として幼児教育に携わったきて氣づき、今の答えを生きる全てです。

今週の4日、9時半から綱分八幡宮で参道の竹藪のお手入れを地域の子どもたち50人と仲間たち20数人でご奉仕する伝承の場を創ります。そしてそれを捨てずに竹垣にしたり竹炭にします。

みんなが恩返し、そして徳積循環の喜びに生きられるよう生きている限り場を見守っていきたいと思います。

普遍的な道続き、新たな場とのご縁、心優しい仲間たちと同志に心から感謝です。

ひとつのいのちが輝く

私たちは全体を認識するとき、そこに大きな思い込みが入ります。例えば、自然などとひとくくりしては気候変動などを語りますが実際の気候変動は身近な小さなところで感じるものです。

例えば、畑の野菜をみるとしても高菜畑と見るのか、一つの高菜をよく観るのかでは全体の高菜の意味も異なります。なぜなら一つのものをよく観察すると、その一つ一つには大切な個性があり発達も異なります。そのものに対して、それぞれの接し方や寄り添い方があります。個を無視して全体ばかりを見ていたら、自分勝手な思い込みで全部が同じであるように勘違いをするのです。

そもそも今の時代の教育は、同じであることが当たり前という教え方です。一斉画一に金太郎飴のように同じものであることを目指します。平均ではないことを障害と呼んだり、みんなと違うことを問題視したりします。

この世には、一つの葉っぱも同じではないようにまた一つの指紋も同じものがないように、同じものがあることの方が異常なことです。それを大量生産大量消費で替えがすぐにきくような存在ばかりを都合よく生産しようとしたことから「同じ」であることが正しいことや美しいことのように語られます。

もちろん、同志や同体験などの一緒に何かをするときの同じにというのは素晴らしいことですがコピーし同じものにするということにおいてはかえって思い込みや過信を増やして人間を傲慢にしているようにも思います。

個性があるということと、違っているということは素晴らしいことです。私たちが数が多い時にすぐに一括りにしてはそれをまるで全員が同じであるように思い込み施策や仕事をつくりますがそのほとんどは個々には適応しているものではありません。

国家の様々な施策もまた同じだと思い込み一斉に同じように施工されます。しかし同じではないのです。そこから様々な問題が発生し、そのことで同じではないことを毎回突きつけられていきます。

教育もまた本来は、同じではないということを前提にして実践されてきたものです。教育を変える、国を変えるというのは、私は一人ひとり、一つひとつを大切にする覚悟と行動からだと感じます。

一つがよくなれば、別の一つもよくなっていく、そしてそれを丁寧に取り組んでいればそのうち全体もよくなってくる。全体からよくしていくというのは、思い込みで一つ一つを丁寧によくしていくことが真の多様性を尊重するということでしょう。尊重とは、「ひとつのいのち」からというのが大原則です。

引き続き、ひとつのいのちが輝く実践を続けていきたいと思います。

場を調える

人は場を調えることで仲間が増えて志も磨けるものです。場の道場を運営する中で、大切にしているのはこの仲間と同志です。そもそも場の中には、いつもこの仲間と同志がいます。場が調和すればするほどに素晴らしい仲間と同志に恵まれるのです。

今週末は、朝倉の旧三輪町の大神いにしえの田んぼで稲刈りと稲架かけもします。手植え手がりですから、少ない人数ではとても大変です。しかしいつもたくさんの仲間や同志が助けてくれます。みんなで和気藹々と楽しみながら田んぼで元氣になっているとそこには場が産まれます。そしてその場の稲もまた、美味しく元氣になります。場が全体を元氣にするのです。

人間は、どの時代も場を創造している中で暮らしが醸成されているともいえます。どのような場をつくろうかと、みんなで力を合わせて取り組んでいくのです。

現代は、歪んだ個人主義が横行してみんなのものという意識が失われてきています。自分の敷地、自分の財産、自分のお金、何でも自分自分と権利を主張して争いが絶えません。

むかしは、地域であれば神社などもみんなのものでした。美しい水源も、風景もそして子どもたちもまたみんなで大切に見守り合ってきました。そこには素晴らしい場が産まれていました。

私たちは自分というものを優先しないことで、場をつくり仲間や同志を増やしていきました。これは自然の循環も同様に、一緒に生きる仲間として認め合い徳を譲り合って繁栄してきたのでしょう。今、日本の山々や田んぼにはソーラーパネルばかりです。山は自分の土地だから何をやってもいいということでしょうか。しかし、本来はお山はみんなの大切な場です。そこには鎮守の杜があり、水源もあり、樹木が生き物たち、微生物を見守り循環の根源があります。

私たちはそろそろ目を覚ます必要を感じます。仲間や同志がいることを思い出す時機です。平和もまた、調和の真っただ中にこそ存在するものです。

懐かしい真心を稲刈りや稲架かけを通して学び直して、子孫へ継承していきたいと思います。

氏神と氏子~見守り合い~

地域には氏神様というものがあります。そしてそこで一緒に育つ存在が氏子です。幼い時から、お宮参りをして氏神様に成長を見守っていただきました。私も子どもたちが幼い時に、地域の氏神様が祀られている神社が3社ほどあり七五三をはじめ大切な節目にはいつも感謝のご報告と御祈願をしてきました。

振り返って見ると、氏神様はいついかなる時もその土地での繋がりやご縁を見守ってくださり私たちに偉大な恩恵を与えてくださってきました。雨が降り、風が吹き、食べ物をいただき、季節の恵みをいただく。それを創り出している存在とは何か、まさにそれがその土地でありその地域であり、地場そのものです。それを私たちは故郷といい、身土不二ともいいます。

土地との繋がりのことを、地縁といいます。

地縁によって私たちは様々なものと関係を結びます。土地の人間関係もあれば、風景との関係、そしてあらゆる歴史や先人たちとの関係もあります。代々、ずっとその土地に暮らしていけばその土地そのものと一体になっています。つまり風土が私になっているのです。

その風土を善くしたい、その風土に恩返ししたいという気持ちが私がここに徳積財団を設立した理由です。恩徳が循環するように、その地縁に報いていきたい。小さなことではありますが、かつて先人たちがそうであったように自分の暮らす場を調えていくことは仕合せなことです。

故郷がここだから日本のことを考えない、世界のことを思わないのではなくこの土地は日本とつながり世界とつなり地球とつながります。今居る場所を、より善い場所にしていこうとする真心こそ氏子の本心であろうと私は思います。

氏神様と氏子は見守り合うときにこそ成立します。

お互いが見守り合えるように丁寧に関係のお手入れをすることがお祀りであり、お掃除です。かつての人々がそうであったように、私も子どもや子孫のために真心を盡していきたいと思います。

竹の甦生

来月、故郷にある綱分八幡宮の竹藪の伐採を声掛けしたら仲間たちや地元の中学生たちが集まってくれることになりました。ここは幼い頃から、よく境内で遊んだ神社です。相撲をとったり、ランニングをしたり、虫取りや木登りなどをした記憶があります。

この竹藪はちょうど参道の脇に鬱蒼として檜なども枝が伸ばせず、また太陽が入ってこないので暗くジメジメしています。やぶ蚊も多くて、参道を歩く最中にたくさんの蚊が飛来してきます。

そもそも竹藪が竹害となったのは、人が管理しなくなったからです。竹は持続可能な貴重な自然の材料で、長い歳月、私たちの暮らしを支えてきました。それが高度成長期に入り、プラスチック製品が増えて便利になり竹は失われました。ちょうど、その頃、管理しなくなった真竹もほとんど枯れて暮らしに活かしてきた竹は消えていきました。

竹は日本には約600種類のものがあるといいます。有名なものは、とても大きくなる中国から渡来したモウソウチク(孟宗竹)、竹の皮に黒褐色の斑点があるマダケ(真竹・苦竹)、寒い地域でも育つハチク(淡竹)、柔らかく粘り強いメダケ(女竹)、庭で使われるクロチク(黒竹)、棹の下部が七福神の布袋様の腹のように膨れ上がるホテイチク(布袋竹)、四角形の 稈 が特徴的なシホウチク(四方竹)、庭で使われるトウチク(唐竹)、山伏がお茶にするクマザサ(熊笹)、チシマザサ(千島笹)、ミヤコザサ(都笹)、そして私が下駄で使っている天然記念物のトラタケ(虎竹)などがあります。世界には合わせて約1200種類といわれますがそのほとんどが日本にあります。日本は竹のさきわう国です。

その竹が害になるのは、お手入れ不足です。自然と共生し、自然の生産性と循環を守る為に私たちは自然と共生した暮らしが必要でした。現在の自然が害となるのは、自然との共生をやめてしまったからです。あちこちにはソーラーパネルをつくって、自然を破壊していきます。竹が害なのではなく、人の欲望や煩悩が害になっているのです。

神社というのは、本来清浄な場で清々しい空気を纏っている場です。大切な1300年の節目に、みんなで参道を調え、竹に感謝して竹をいただき、故郷をずっと守ってくださってきた神様とご先祖様たちの遺徳にご恩返しをしていきたいと思います。

過信とは

人は実力以上のことを思い込むことを過信ともいいます。この過信の正体とはどういうものか。それは事実やあるがままの現実を歪めることを言うように思います。つまりは自分の思い込みというものです。

ある事情があったとき、例えばそれを真心を盡して奇跡が発生したとします。その奇跡は自分の実力ではなく、ある意味、尽力して他力が入って偶然に自分の思い通り以上の結果が出たとします。それを自分の力だとどこか思い込んでしまうところに過信があるのです。

そもそも過信というのは油断を産みます。油断=過信ということです。過信しないという言葉は、油断しないということです。自信と過信は異なります。自信は、どういう結果になっても自分を信じるというものであり過信は自分の思い込みによって信じているものです。

思い込みによって信じることを他人は慢心と呼びます。自分というものを何か別の何かのように誇張していく、あるいは特別の存在のように思いこむ。自分を本来の存在よりも過剰に意識することによって過信が生まれます。自信過剰という言葉もあります。

思い込まないためにどうすればいいか、そこに謙虚さというものがあります。思い込みではなく、あるがままを聴く素直さ。もっと言えば、心の穢れを洗い清めて常に澄んだ気持ちでいること。その状態になると、人は謙虚でいられるように私は思います。

謙虚さがないというのは、何かそこに別の穢れがこびりついているということです。

時代が変わっても、人間の本質は変わりません。生き方を常に見直し、よく見つめ、精進していきたいと思います。

普遍的な教育

現代の教育というものは、優劣があります。知識が豊富で権威があるところが、資格を出しその資格が社会の中での自分の基準になっていたりします。そもそも教育とは何か、もしも権威などがなければ何が教育なのかという定義も異なります。

すでに職業としての教育者が当たり前になり、それを仕事にしてお金を稼いでいます。教育費用は、大変高額で誰でもお支払いすることはできません。奨学金という名の借金をしては教育を受けています。この時の教育は、技能に集中しています。

例えば、助け合いや道徳ということを學ぶのに高額な教育費はかかりません。そしてそれを実践し実行する人も徳のために行うために見返りも求めません。しかしこれを現代では教育とは呼びません。職業にもならず、資格もないからです。

私はこう感じます。

そもそも人間は自然環境の中で数億年以上、生き延びてきた生物ですからそれだけ厳しい自然のなかでも助け合って暮らしてきました。その時の人間は、知識はあまりなくても人間性は調っていたように思います。縄文時代の遺跡から争った気配がないこともまた、助け合う風土が醸成されていたのを感じます。

現代においては、歪んだ個人主義やマッチポンプ商法、利権やよくない政治ばかりが横行している環境においてはかつてのような人間性が発揮されにくい状況です。そんな中、教育もビジネスになり教育者も職業教育者です。みんなお金のために働いていたら、教育もまたお金のためになります。

本来、このような現代のような状況下においては私たちは教育の定義から見つめ直す必要を感じます。人間が生き延びるための智慧、そしてこれからどのようにして生き延びるか。

それはお金をたくさん稼ぐ方法を教えるのではなく、やっぱり人間性に原点回帰することではないかと思います。思いやり助け合い、見守り合う。共生し、尊重し、分け合い存在そのものを丸ごと愛し合う。自然から学び、自然の循環と共に暮らしを長く豊かにして仕合せを追及していくということ。

そういうものが今の時代では真の教育になりうるものだと直観するのです。

優劣は競争から、そして権威や権力は欲望から発生します。

子どもたちや子孫のためにも、悠久の時間軸のなかで普遍的な教育を伝承していきたいと思います。

徳と智慧

昨日、呼吸のことについて深めましたがそもそも人類の呼吸はいつからはじまったのか。科学的には、シアノバクテリアという藍藻(らんそう)という光合成細菌に辿りつきます。

この藍藻は、30億年前に地球上に初めて現れた酸素発生型光合成生物であったと考えられている存在です。藍藻の光合成によって、地球上に初めて酸素と有機物が安定的に供給されるようになりそれが現在へとつながる生態系の基礎が築かれたといわれます。

つまりこの菌が光合成が呼吸をして二酸化炭素を吸い酸素を供給するのです。二酸化炭素は私たち人類、もっといえば菌が発酵するときに燃焼して出てくるものです。それを植物が吸って酸素を供給します。地球は、光合成細菌と発酵する菌のバランスによって温度も気候を含めすべての調和が保たれているということです。

現実として、呼吸をするというのはこの菌たちの共生の理の中でいのちが生きているということになります。植物と動物の関係もまた、最小単位で観るとこの藍藻という光合成細菌と、発酵という腸内細菌の関係と同じです。

菌からこの世のすべては形成されてきたというのはさておき、この地球の存在はこの絶妙な調和と共生によって生態系が存在できているというのは真実です。だからこそ、その根源である呼吸には地球創生からの継続継承してきたいのちの智慧が宿っているともいえます。

呼吸を調えるということは、地球を調えるということにもなるのです。

そして私が法螺貝を使うのは、その螺旋構造の中にその神秘が宿るのを直観するからです。ただ二つのものが共生するのではなく、そこに縦軸といった螺旋になるような徳が循環する真理が宿っています。

座禅も瞑想も、この法螺貝も呼吸を中心に自分の身体の真奥へと入っていくものです。

引き続き、場を通して現代でも普遍的ないのちの仕組みを解いていきたいと思います。子どもたちや子孫へ、徳と智慧をつないでいきたいと思います。