ひとつのいのちが輝く

私たちは全体を認識するとき、そこに大きな思い込みが入ります。例えば、自然などとひとくくりしては気候変動などを語りますが実際の気候変動は身近な小さなところで感じるものです。

例えば、畑の野菜をみるとしても高菜畑と見るのか、一つの高菜をよく観るのかでは全体の高菜の意味も異なります。なぜなら一つのものをよく観察すると、その一つ一つには大切な個性があり発達も異なります。そのものに対して、それぞれの接し方や寄り添い方があります。個を無視して全体ばかりを見ていたら、自分勝手な思い込みで全部が同じであるように勘違いをするのです。

そもそも今の時代の教育は、同じであることが当たり前という教え方です。一斉画一に金太郎飴のように同じものであることを目指します。平均ではないことを障害と呼んだり、みんなと違うことを問題視したりします。

この世には、一つの葉っぱも同じではないようにまた一つの指紋も同じものがないように、同じものがあることの方が異常なことです。それを大量生産大量消費で替えがすぐにきくような存在ばかりを都合よく生産しようとしたことから「同じ」であることが正しいことや美しいことのように語られます。

もちろん、同志や同体験などの一緒に何かをするときの同じにというのは素晴らしいことですがコピーし同じものにするということにおいてはかえって思い込みや過信を増やして人間を傲慢にしているようにも思います。

個性があるということと、違っているということは素晴らしいことです。私たちが数が多い時にすぐに一括りにしてはそれをまるで全員が同じであるように思い込み施策や仕事をつくりますがそのほとんどは個々には適応しているものではありません。

国家の様々な施策もまた同じだと思い込み一斉に同じように施工されます。しかし同じではないのです。そこから様々な問題が発生し、そのことで同じではないことを毎回突きつけられていきます。

教育もまた本来は、同じではないということを前提にして実践されてきたものです。教育を変える、国を変えるというのは、私は一人ひとり、一つひとつを大切にする覚悟と行動からだと感じます。

一つがよくなれば、別の一つもよくなっていく、そしてそれを丁寧に取り組んでいればそのうち全体もよくなってくる。全体からよくしていくというのは、思い込みで一つ一つを丁寧によくしていくことが真の多様性を尊重するということでしょう。尊重とは、「ひとつのいのち」からというのが大原則です。

引き続き、ひとつのいのちが輝く実践を続けていきたいと思います。