代掻きの智慧

昨日は、むかしの五穀田の代掻きを行いました。この代掻き(しろかき)は、田植え前に田んぼへ水を張り、土を細かく砕きながら均一にかき混ぜ、平らにならす作業のことをいいます。

日本では弥生時代から水田稲作がはじまっていますが現在のような本格的な代掻き技術が発達したのは中世から江戸時代だといわれます。灌漑技術の向上や牛馬の利用によって代掻きの精度があがりそれが収穫量を左右する重要な農作業として技術が磨かれていったといいます。

江戸時代の農書にも代掻きの智慧がいくつも書かれます。福岡出身の宮崎安貞の「農業全書」には「土を細かく砕き水とよくなじませ平らにし草の根を埋め苗が付きやすくせよ」と書かれます。また水面の鏡のようにせよともあります。水平にすることの重要性が記されます。そして泥をつくり育てよとあります。また現代のような除草剤がない時代は、稲以外の雑草の種を深い泥の中にいれて発芽しにくくする仕組みでした。

よく考えてみると、稲も畑の作物も同じです。太陽の光が当たるように光合成できる空間を用意すること。初期に雑草に負けないようにする工夫。そして水の排水管理、水が腐り澱まないように工夫するという智慧です。

この代掻きは、中国、韓国、ベトナム、タイ、インドネシアなど、水田稲作を行う地域では今でも同様に行われているといいます。特に東南アジアでは、水牛を使った代掻きの風景が今でもみられるところがあるといいます。

江戸時代までの日本では同様に牛や馬に手伝ってもらったのでしょう。そんな牧歌的な風景をいつか見てみたいものです。

人も自然も動物も共生する時代、生き物がたくさん溢れている中で共に育つ場づくり。持ち味や徳が循環する生命の曼陀羅。そういう元氣ないのちが溢れる環境の中で育つと人はどのように成長するのでしょうか。

人間は環境の影響をもっとも大きく受けて育つ生き物です。場が育つと同時に人も育ちます。

明後日は、綱分八幡宮の松岡宮司様と一緒に地域の氏神様、五穀神社に予祝の感謝をして苗の移動をはじめていきます。

最後に農聖といわれた熊本の松田喜一の言葉です。

「人間作れ 土作れ 作物作れ」

左に積善、右に生産、徳が循環する経済の実験場が今年で16年目を迎えます。ますます新しい挑戦が楽しみです。

心の結

田んぼにお水が入り、田植えの準備がはじまりました。周辺の田んぼは田植え機で行っていますが私たちのむかしの五穀田はすべて手植えで行います。同じ田んぼであっても、見た目が同じでも実は全く別のことを行っているということは多々あります。

これは暮らしも同様です。

私はすでに自然に遵って徳を磨く農の場づくりを東日本大震災以降から15年間取り組んできました。本来の人間性を磨き、徳を養う修養道場のような場づくりをしてきました。

田んぼの中でいのちが活き活きする場を観て、自立する元氣な稲と触れ、太陽や月や雨、風や光や音などが育つ場をつくることを学んできました。

いのちが育つ場とはどのような場なのか、それを只管に追及してきました。

その中で、自然のリズムを学び、仲間を学び、自分を学び、感謝を学び、見守ることを学び、一緒に生きることを学び、いのちの循環を学びました。

本来、人間性が甦生するための修養の場とはどのようなものでしょうか?

それは単に知識を増やすことではなく、技術を身につけることでもなく、むかしは自分の心身を整えることや、人格や徳を磨くこと、天地自然との調和を学ぶことだったのではないでしょうか?

そのような場づくりをしたいと、古民家和楽と田んぼの場で取り組んでいくのが暮らしフルネスの人づくりなのかもしれません。

暮らしフルネスの人づくりは、「人と自然と共同体を再び結び直し、人間の本来性を甦生させるための場づくり」でもあります。

これは英彦山で行っている日子山仙螺講などと同じで、「結」という日本人のもつ真心や思いやりの天分や天稟、徳が喜び合うような場にしていこうと実践実験していこうとする試みです。

一期一会の田植えには、一期一会の結があります。

心の結でつながることは、安心と人が育つ大切な土台や基礎を育みます。

私が一生で取り組んできた、いのちが見守り合う喜びもそこにあります。

ご縁とご参加を楽しみにしています。

 

 

地域の文化

地域の文化というものを観察すると、その地域に根付いてきた習慣や生き方、人々の暮らしがよく観えてきます。本来、地域で循環をしあらゆるものが地域の単位で調っていたころは地域文化はよく育ちました。そして地域文化が育っている場所では、よく人も育ちました。これは育つということの本質が、よい土壌が調っていることが前提になっているからです。

田んぼでも畑でも土壌がやせ細って硬く生き物もいないようなものになればよく育つことはありません。ではなぜそんなに土壌がやせ細り衰えているのか。これは畑や田んぼならすぐにわかります。目先の収穫をしようとして、農薬や化学肥料を大量に入れては効率優先に取り組むからです。すると、作物は一時的に大量に収穫できても土が弱ってくるから次第によい作物が育たなくなります。そのうち水耕栽培のように、土がなくても育つように遺伝子を組み替えたり色々とその場しのぎの技術で乗り切ります。そのうち何をしても効率がよくないとし、その場所を捨てて別のところに移動していきます。

地域の文化はこれと似ています。育つ環境が失われていくと似たように文化も荒廃していきます。

本来、経済というのは経世済民といい文化づくりの言葉です。文化づくりは地域の徳が循環する中で育つものです。つまりは土づくりは徳を積むことで醸成されていくということです。

これは太古のむかしから、山が平地を潤すように水が流れあらゆる生命を活性化するように徳が循環することで土地や地域は発展を継続してきて今もあります。そういうものを無視して、目先の損得や個々の欲望を最大化させれば土はやせ細り衰えてしまうのです。

ずっと住み続けたい町とは、文化や暮らしが甦生し続けて徳が循環するような場がある町ということだと私は感じます。

近代、時代背景を観るとほとんどこのようなことは言葉の定義も異なり、常識から外れ思想のように言われますがそのうち時間が経過すれば誰しもが現実に向き合う日はやってきます。

世界の潮流や競争、比較、分断などよりも足元の土をよく観てよく味わい直すところから文化づくりは続いていくように思います。引き続き、子孫や未来のためにも丁寧に暮らしを調えて実践を磨いていきたいと思います。

成長と成熟~自我との折り合い~

人間は人格が磨かれないと自我との折り合いがつきません。自我とは調和であり、自然体の姿でもあります。これは一人の人格の中に二人の人がいるような感覚です。神経では、交感神経と副交感神経との関係に似ています。

通常、成長成熟は人間的にも才能的にも技術にも完璧になった人のように語られます。地位も名誉も人格も身に着いた人物のように言われます。

しかし実際には、良寛さんやあるいは名も知られずとも地位がなくても見事な生き方をした僧侶や医師がいたりします。最近では、ウルグアイのホセ・ヒムカ氏などもそうです。

艱難辛苦がその人の自我を調え、見事に調和した「一人」になっておられました。つまり自我が調い、真の人間性を生きることができたということです。

そこから逆説として、では何が成長成熟なのかということを洞察してみると人間はどのような状況でも自己を深く探求し学問を続けることができるということ。また人間の理解が深まり、何が未熟であるのかがわかるということ。そしてどのような状況かであってもどう生きるかという生き方を磨いていくということが真の人格、自我との調和には関係していることがわかります。

人生は一度切りですが、生き方はそれぞれが決めるものです。

そして真の資質とは、その人がどのような状況でも本質が保てるかということに他なりません。

本質を学び、本質のままでいることは人格を高めることです。同時に、本質を守る人の周りには同じく人格を磨きたい人が集まってくるものです。孔子の一生が十五にして学を志し、七十にして心の欲するところ矩をこえずといったのは、本質を学び続けて遂に自然体の一人になれたということでしょう。

本質を保とうとすれば必ず苦労は訪れます。

残りの人生も、意味を味わいながら自我の調和を暮らしの中で調えていきたいと思います。

お山の食文化

昨日は、守静坊で山椒の葉を収穫し山椒味噌を拵えました。もともと山の暮らしの中で山椒はとても大切な役目を果たして来たように思います。

この時季は新芽が出てきます。その木の芽は冬の間に溜め込んだ毒素を排出したり、不安定な氣脈を調え、身体を整え、感覚を開き、場を清めてきました。

特に山椒の葉に含まれる代表的な成分は、サンショオールやリモネン、シトロネラールなどの芳香成分が有名です。あの独特の痺れる刺激と、青く透き通るような香りをかげばすぐに誰でも山椒とわかります。食べると身体の内側に熱が巡るように感じるのは、そのためです。昔から山椒が、冷えや胃腸の弱りに良いとされてきたのも、この刺激作用によるところが大きいとされました。また香りそのものも自律神経を整え、気分を軽くし、心身の緊張をゆるめたといいます。

また山椒の葉には抗菌・防腐作用もあり精油成分には細菌やカビの増殖を抑える力もあります。よくお山の信仰が息づいている場所で今でも山椒味噌やちりめん山椒などが古くから作られてきた背景にはお山の保存食として山伏たちが大切にしてきたという歴史もあります。

山伏たちは山へ入り、滝に打たれ、断食し、自然の中で身体と精神を鍛えます。の修行を支えたのが、味噌や山椒、木の実、山菜などの山の食でした。冬から春といった季節の変化に対して、季節のリズムを取り入れるのに食はとても大切な役割を果たしてきました。

お山の暮らしを甦生するのに、この食文化の伝承は避けては通れません。なくなってからでも新たに場を清め調えて甦生すれば文化は再編集できるのです。英彦山に根付くお山の食を一つ一つお手入れし甦生していきたいと思います。

螺旋の道

明日は、英彦山守静坊で法螺貝を七神お渡しする儀式をします。誓願した法螺の五百羅漢を目指し、いま七十四羅漢になりました。ますます法螺を通した波動は揺れ螺旋の繋がりが広がりより中心への思いの結びつきは強くなります。

法螺の意味は、「螺旋の真理」という意味です。ではこの螺旋の真理とは何かということです。螺旋というものは、宇宙の姿であり、星々の姿であり、意識や生命の姿です。そして分子や量子の姿でもあります。波動は揺れていますが、それを纏めているのが螺旋です。

つまり波動がカタチになったものが螺旋ということです。

例えば、空気中の風は揺れています。しかしそれが纏まるとき、台風や竜巻になります。海や川などの水も同様です。流れがありそれが揺らぎ螺旋になることで調います。時が動けば波動、空間や場が螺旋です。

最近は、脳科学でも螺旋波というものが見つかり私たちの脳の認知や意識は螺旋上に信号を送ることで纏まるといわれます。心臓も単なるポンプをするのではなく、螺旋状に包まれた筋束が螺旋のように呼吸をして血液や酸素を全身に巡らせているというものです。つまり螺旋はマクロ宇宙からミクロ宇宙まで全て網羅しているあらゆる真理の姿です。

此の世の全ての神秘には、波動や螺旋が深く関わっています。古代より人々は螺旋の力を発見し、紋様をはじめあらゆる暮らしの中心に螺旋を取り入れてきました。ある部族は、蛇を象った螺旋の踊りをすることでいのちを蓄えました。またある宗教では螺旋はすべての神人合一の象徴としました。陰陽道やタオといった道もまた、波動と螺旋が顕現したものとされました。

法螺貝を持つということは、螺旋の道を実践するということでもあります。

人は日々の生活の中で様々な感情を持ち心を調えます。この瞬間瞬間の一期一会には、波動と螺旋が深く結びついています。微細な揺れから大きな揺れ、それを自己内省によって螺旋にして調えます。

私たちが「調っている」という状態は、螺旋になっているということです。そして調うとは、成長すること変化すること、シンプルに言えば「旅をする」ということです。宇宙を太陽系の星々と共に螺旋しながら旅をするように、私たちのいのちは螺旋の道と一緒に歩みます。

法螺貝を吹くとき、私たちは螺旋になります。

螺旋になるということは、あらゆるものを一円和合して成長して真に自己に氣づくことを繰り返すということです。

何度も何度も繰り返し同じことをしても、必ず前と同じ円ではなく螺旋となるという法則。そこに絶対的安心を直観するから今でも法螺貝は人々と共に旅を導く存在として大切に守られ人類のお導きの存在、宝ものになっているのでしょう。

宇宙自然、全体調和、波動の中で旅をし、螺旋の道を究めていきたいと思います。

命根と世根

福岡県飯塚市赤松にある「むかしの五穀田」の田んぼの準備をはじめました。霊山、関の山の吹きおろしの爽やかな風を浴びながらの農作業は格別です。田んぼと共にある古民家和楽の御蔭で、農作業の休憩がとても癒され仲間たちとの時間もさらに豊かになりそうな予感です。ご縁というのは有難くいつも絶妙なタイミングに包まれます。

思い返せば子どもたちのためにと千葉県神崎で自然酒の寺田本家の酒米を一緒につくる農家と冬季湛水の無農薬無肥料で一緒にお米づくりをするご縁から今では故郷で同じ道を続けています。

昨日は、美しい関の山からのお水をこれからどのように管理していくかを調えました。澄み切ったお水があってはじめて美味しいお米になることを再実感しました。

昨年参加してくださった多くの徳積仲間たちが安心してお米づくりができるように色々とこれから場を磨いていきます。

「自然真営道」という著書を遺した江戸時代の人物に安藤昌益さんという方がいます。この方は、自然や人とは何かということを突き詰めた人物です。私は同じ時代の三浦梅園先生を尊敬していますが、この安藤昌益さんのことも尊敬しています。

あまりにも普遍なこと言い、時代的にも進み過ぎている思想を持つ人たちはその時代には認められ受け容れられるものではありません。しかし300年経った今になると、その思想や実践が如何に今の時代に必要なことかがよく分かります。時が真実を証明するのです。

三浦梅園先生の300周年では国東半島にある生家でシンポジウムをして学び直しましたが、むかしの五穀田では安藤昌益先生を改めて仲間たちと学び直してみようと思っています。

まず自然真営道とは何か、これは読んで字のごとくで「自然とは、真実の営みという道である」ということ。では営道とは何か、それは「互生」であるといいます。例えば、天と地、男と女、雄と雌など二つが一つであるということ。つまりお互いがお互いを活かし合って存在になっていることといいました。

原文はこうあります。

めうハ互性ナリ、だうは互性ノかんナリ。是レガ土活眞ノ自行ニシテ、不教ふけう不習ふしふ不増ふぞう不減ふげんひとルナリ。故ニ是レヲ「自然」トフ。

私も同感で、水は二つの性質が一つで水となります。絶対零度で固まるものと固まらない水があるといいます。火も燃えている眼に見えるものと、遠赤外線のような見えないものがあります。二つが調和しあって一つになるところに互生の真理があるのです。

そして安藤昌益先生は、ここから人の互生の道として「直耕」の実践を説きます。

是レ活眞、無始・無終ノ直耕ちよくかうナリ。故ニ轉定くわいじつせいげつ八轉八方横逆ニ運囘うんくわいスル轉定ハ、土活眞ノ全體ぜんたいナリ。

故ニ活眞、自行シテ轉定ヲツクリ、轉定ヲ以テ四體したい四肢しし府藏ふざう神靈しんれい情行じやうかうト爲シ、つね通囘轉つうくわいてん・横囘・逆囘央土ト一極いつきよくシテ、逆發穀ぎやくはつこく、通開男女ヒト、横囘四類、逆立草木ト、生生直耕シテやむコト無シ。

故ニじんぶつ各各かくかくことごとク活眞ノ分體ぶんたいナリ。是レヲ「營道えいだう」ト謂フ。故ニ、八氣互性ハ自然、活眞ハ無二活むにくわつ不住一ふぢゆういつノ自行、じんぶつ、生生ハ營道ナリ

安藤昌益先生は「人はまず自分の食べるものを自分で耕し生産する農を営むことがあってこそはじめて自然となる」としました。その中に人類の真の平等は存在すると言い切りました。自分で耕さなくなると不耕貪食になっていくと。そして直耕し農を実践することで互生を通してお互いに活かしあい真の営道になると説きます。それを「活真人」となるともいいました。

活真人の互生によってのみ自然の世を実現するとしそれが永続してこの地球で仕合せに生きる智慧であるとしたのです。しかしこれをそのまま説くことは、あまりにも本質的過ぎてその時代も、いや今の時代も危険思想や狂人と呼ばれるものかもしれません。

例えば、今でも呼吸さえ調和していればすべての生物の病気は治癒するなどといえば奇人や詐欺だと言われたりするのと同じです。真実というものは、真実であればあるほどに都合が悪いものを浮き出させるものです。

「むかしの五穀田」に話を戻せば、田んぼでは稲を育てます。稲のことを安藤昌益先生は命根(いのちのね)といいます。これを略して命根(いね)です。人は稲の精から生まれ、稲を食して命を養うから、稲は命根(いのちのね)となるとし、またお米のことを世根(よのね)と書いて米(よね)呼びます。人は耕して米をつくり、これを食して人の世をつくることから、米は世根(よのね)となる。

自然真営道を學ぶことは、この命根と世根を創造し共生する社會を甦生することでもあります。私はこの自然真営道をかんながらの道で綴ります。

ということで、これからまた徳積仲間を集めて場をつくります。4月15日には最初の耕耘をはじめ苗床づくりをします。田植えは6月下旬の予定です。今年は、自然農法のお米と自然農のお米、古代米、地域のお米の5種類を育てる予定です。

共に学びたい、また子どもたちのため徳を譲りたいと思うご縁のある方々はそれぞれに準備をお願いします。

桜の徳

樹齢230年の桜を見守っていると、時の流れを感じるものです。最初は小さな苗木から老木と呼ばれるほどの風格を持っています。同じように四季を巡り春には花を咲かせ、今も花を咲かせます。

その花を眺める人は変わっていきますが、花は誰が来ようが来まいが咲かせます。

230年の歳月を考えてみると、人間であれば苗木の時が初代としても少なくても5代目以降の子孫が今の桜を観ることになります。そして同じように200年後にはまた10代目以降の子孫が観るのでしょう。

桜を守るということは、どの代がやってきたのと同じように桜と寄り添い生きていくということでしょう。

私はある意味天命として古民家を甦生しています。それまでの暮らしをお手入れしてそのまま今に温故知新して子孫へと伝承しています。

その中で代が継がれていくというのは、その暮らしや生き方を守っていくということです。代々がそれぞれに桜を見守ってきたように、自分も桜を見守るのです。

もしも自分の方が桜よりも長生きだとしたらどうするでしょうか。もしも自分の寿命が1000年あり、桜が500年だとしたらどうするでしょうか。

きっと、私なら桜の苗木を育て見守るでしょう。それが途絶えないように、また美しい姿で生き続けられるようにと場を調えます。今は桜の方が長生きですから次の人間が現れてくれるように美しい心を育て見守っているのでしょう。

人の心の中にこそ、桜の徳は存在するのです。

結局、関係性いうのはお互いが見守り合いバトンを渡していくように伝承されていきます。

伝える側と、承る側の一生の契りと一期一会です。

美意識というものは徳意識でもあります。

長い歳月の中でどちらかが先にこの世を去ったとしても美しい心の風景を見守り合っていこうとする譲り合い、救い合い、分かち合い、許しあう慈愛の真心です。

桜との出会いを大切に生きる日本人が多いこと、先人たちの真心にただただ感謝です。

生き方の先生~サクラの智慧~

英彦山守静坊の枝垂れ桜がまもなく満開を迎えます。そして満開の後はいよいよ静かに散り始めます。

桜はどうしても満開ばかりを見る機会が多いと思いますが、桜守をしていると最初の咲き始めから終わりまでの散り際をずっと見守っていますからそのどの場面も一期一会を感じて学び直し、感動することばかりです。

特にこの枝垂れ桜の散り際の美しさは、信仰やいのりの場にある桜だからこそ偉大な智慧や教えを味わえます。

もともと日本人の美意識には散り際の美学のようなものがあるといいます。人生の終わりからどう生きるかという死生観のことです。

私たちの先祖たちは「生き方」というものを何よりも大切にしてきました。これは何を人生の初心にして何のために生きるのかという生きる姿勢のことでもあります。

一生懸命に真摯に生き切って、潔く静かに美しく散ってまた新たな甦生の循環となる。

古来から桜にはそのような雰囲気があるものです。

修験道発祥の地、山岳信仰の中心であった英彦山にひっそりと咲く守静坊のいのりの一本桜はまさに今の時代の人間が憧れる生き方の智慧の結晶のようです。

今週末にかけて散っていきますが、2日には満月を迎えます。夜桜の美にもまた智慧が隠れています。この枝垂れ桜は全方向、全時間、全受容、全存在で味わえます。

宿坊の甦生からますます元氣になっている奇跡の彼岸桜から季節の巡りと一緒に心の持ち方も学び直していけるといいですね。

 

 

感性教育

昨日は郷里で徳積財団の本拠地がある飯塚市有安の鳥羽池のお掃除とお花見を、地域の中学生たちやまちづくりの仲間たち、庄内支所の方々や友人たちも集まり徳積堂で行いました。

氣がつけばこの活動を始めてはや4年目、最初は庄内中学校のバスケ部の生徒さんたちと一緒に取り組み始め、その後は生徒会主導で企画をしてそれを私たちが見守るように取り組み、全校生徒になって今があります。

ゴミの量も最初は、粗大ゴミや工業ゴミなど見たこともないような大きなゴミばかりでコンテナいっぱいほどのゴミが集まりました。それが3年目くらいになると、人力で運べるほどのゴミの大きさになり、4年目はほとんど粗大ゴミはなく空き缶や瓶をはじめ生活用品になりました。

また鳥羽池は桜の名所ですが桜の木に蔓が巻き付き、周辺には桜の木以外の樹木が増えてきて鬱蒼としていました。それを地域の大人たち、また民間の会社や業者の方々のお力添えもあって伐採し風通しも光通しもよくなりました。

私は毎朝欠かさず、鳥羽池に法螺貝を奉納して清浄を祈ります。父は散歩をしては巻き付いた蔓を切ってくれています。

1年目は片づけていても誰もお声掛けもなく、勝手に何かしていると通報されたりもしました。4年目に入り今では、いつもありがとうという声掛けや笑顔のご挨拶も増え、水鳥も増え心地よい場ができています。

場づくりというものを実感するのにこれほど素晴らしい場所はありません。

お掃除やお手入れの後は、徳積堂で団子やコーヒーやお茶をみんなで飲みながらお花見をしました。はじめて80人以上の人が入りましたが、みんな掃除の後の清々しさで心地よい時間を一緒に過ごすことができました。

私は人間の真の教育は、感性にこそあると確信しています。

どのような感受性を磨いていくか、心の豊かさというものは風土の中にこそ存在します。風土に育てていただいていることを忘れず、その御恩に報いていこうとする活動がまさに文化を育てるのです。

子どもたちと一緒に大人たちも場を調え、自分を清め、互譲互助の精神を高める。

この徳積の活動が、この先もずっと続いていくことをいのり、来年の春に向けてさらに徳が循環する仕組みを育てていきたいと思います。

徳積堂は、場の体験ができる唯一無二の場所です。

あまり大勢いは対応できませんが、子どもの感性を磨く一助になると嬉しいです。