先住民族の智慧

スリランカで人類最古の先住民族ワニアレットにご縁を得てから、改めて日本の先住民のことも深めてみることにしました。日本にもかつてはサンカやアイヌという先住民族が暮らしていました。狩猟採集生活をし、古代よりずっと山や森に棲んでいたといいます。

そもそも今、私たちの認識している歴史というものは勝者の歴史であり大多数の人たちが教科書及び、国家の指導によって編纂された認知した偏ったものです。歴史というのはまさに多様性であり、本来はそれぞれの種類の人たちから丸ごと聴いて確認することで全体の真の歴史観が磨かれて顕現してくるものです。

多様な民族の神話にはじまりそれぞれの暮らしの中の口頭による口伝、及び実践伝承されてきたものの集合知、集大成こそがこの地球や国土の真の生きているままの歴史ともいえます。

現在のスリランカで先住民族たちの歴史や暮らしが国家により奪われていく姿を目の当たりにして、私たちの国は本来はどうであったのかということを今一度見つめ直してみたいと感じました。

よく考えてみると、山岳修験というものや山岳信仰というものは自然と共生するなかで得た智慧が結集したものです。先住民たちは、薬草をはじめ様々な治療技術を持ち、また狩猟採集によって自然の掟や伝統を守ってきました。さらにはすべての生き物たちと調和し、いのちの循環を促してきた存在です。これは古代のむかしからずっと永続してきた人類のありのままの姿です。人間らしさの徳というものもまた、こういう環境と歴史によって磨かれてきたものであったはずです。

そう考えてみると私がお山の暮らしに惹かれるのは、どこかルーツや根源に惹かれているからかもしれません。本来、私たちの先祖は何処からきたのか。今回のスリランカでのご縁で、何か自分の深いところに眠ったままにいるものが呼び覚まされてきています。

それはかつての先住民族たちの智慧と暮らしの覚醒です。

今の時代だからこそ、先住民族たちの徳に触れ、その徳に救われる時ではないかと思うのです。子孫たちの仕合せで豊かな未来のためにも、これからじっくりとヒコサン・ヤマトとマヒヤンガナ・スリランカを起点にして深めていこうと思います。

人間らしさと人間性

スリランカから帰国して少しずつ道中の振り返りをしています。頭で理解するよりも体験から気づいた量が多いとそれを消化吸収していくのに時間がかかります。身体で得た感覚は、思想だけでなく価値観も変化させていきます。自分の変化が気づきそのものですから、何が変化したのかを振り返ると何に気づいたのかがはっきりするのです。

そもそも今回の旅は、ルーツを辿る旅でした。原初の仏陀をはじめ、神話からの人類の伝承を確認するためのものでした。その理由は、原点回帰をするためであったことと、温故知新してあらゆる複雑なものをシンプルにして甦生させていくためです。

徳積の起源であったり、暮らしの根源であったり、普遍的な大道の再確認であったり、そして新たな遊行の一歩を踏み出すことであったりと理由は様々でしたがそのどれもが存在している懐かしい旅でした。

原初の存在とは何か、それは人間らしさです。別の言い方だと人間性ともいいます。もっと言えば、人間とは何かということです。

今の人類は、人間らしさを失っているように思います。人間性というものもまた意識することはありません。しかし、今こそ私たちは徳に回帰し人間性を回復させる大切な時節を迎える必要があるのではないかと私は思います。

ワニアレットの長老をはじめ、スリランカでは人間性の美しい風景をたくさん見ることができました。そこには確かな人間らしい暮らしがあり、そして人間らしい生き方がありました。

お金やビジネス、富の独占や情報化、便利化など人間性を失うリスクに直面してももはやそんなことをどうでもいいかのように日常に多忙に流されていきます。私は決して文明の発明は悪だとは思っていません。しかしそのことにより人間らしさや人間性を喪失することは、真の豊かさや仕合せを手放す結果につながっているようにも感じるのです。

人間はこの地球に生きることを許され、自然と共に寄り添いながら一緒に天寿を全うする仕合せをいただいている存在です。この奇跡はなにものにも代えがたく、人間であることが最幸の歓びです。

人間が人間らしくあるとは一体どういうことか。それは人間が人間性を失わずに生きているということです。人間が人間性を失えば、それは生きた屍であり、希望をうしなった人形のようなものになります。人間らしさや人間性は、私たちがこの世に「生きている」という証明であり実感です。

生きている実感は、日々の暮らしや徳を積む中に存在します。だからこそ、私たちは文明とのバランスを真摯に保ち、人間らしさや人間性を失わないような生き方をこの時代でも実践していくことが平和や共生や自然との循環を保つ最大で最高の唯一の方法になるのでしょう。

私たちが今生きているように子どもたちも未来を生きます。その子どもたちがいつまでもこの世の幸福を謳歌できるように、今の私たちがどのような生き方を実践していくのかは方向性を決める最も大切な真理です。

人間らしさ、人間性をどう磨いていくか、それは私たちが決めます。

これから引き続き暮らしフルネスを通して真心の丁寧な暮らしを積み重ね、徳が循環するような布施と托鉢の遊行をさらに巡礼していきます。

一期一会の仏縁と地縁に感謝して、私の天寿を全うしていきたいと思います。

真の暮らし

スリランカの先住民たちとのご縁から原初の人類の暮らしを見つめています。もともとスリランカは、暮らしの中に紀元前からの智慧が今も生きている国です。アーユルヴェーダなどにもそれを発見できます。特に先住民、ワニヤレットの人たちは自然に寄り添い、自然と生きてきました。そこに流れている時間は悠久で静か、祈祷や行事を大切にしています。

昨日は、野生の像がいるような原生林を歩きました。また食事や骨折の治療をしているところも体験しました。ここ数十年で劇的に生活が尊重されなくなってきた現代でも、大切なことを守り穏やかに暮らしていました。

この場所にいて実感したのは、先住民たちがもしも地球からすべて滅んだときこそ現代の人類が滅ぶときだろうということです。そこに氣づくためにも、私たちはこの原初の先住民の方々から真摯に學び、人間らしさとは何か、真の暮らしとは何かということを見直す必要を感じます。

世界中で起きている先住民族は、ずっと先祖から続いてきた当たり前の自由、当たり前の生活が現代文明に奪われできなくなっています。それは土地を失ったり、木を切られたり、外からの移住者を入れたり、知識や便利な道具を整備することで奪われていきます。

文明人が与えたことは、実はそれは奪っていることになっているということに氣づく必要があります。これは自然を尊重することに似ています。何もしないというのは、ただ見放しているのではなく見守っているという考え方です。

私たち現代文明人たちの価値観は、便利さを優先します。便利は幸福、不便は不幸だと刷り込まれます。そうすると、不便な暮らしをしている人をかわいそうだと思い便利な道具をどんどん渡します。しかし、その便利な道具にはそれ相応の危険性をはらんでいます。これは戦争の武器も同じことです。簡単に人を殺せる道具が、倫理観を失わせ戦うということの仁義礼智信なども奪いただの大量虐殺兵器になりました。

私が暮らしフルネスを提唱するのは、これらの理由からです。

便利さが新しいと思うのは大変危険なことです。だからといい不便だけが正解で善でもありません。だからこそむかしの人たちは、便不便のバランスをきちんと取りました。人類は、ここにきて一つ次元を超えていけるかどうかが試されます。そのためには現代の価値観をよく見詰め直し、本来の人間らしさとは何かからよく見直し実践しすることかもしれません。自然と寄り添う中にこそ、真の人間性は発揮されるからです。

最後にワニヤレット長老からの言葉で締めくくります。

「現代は何らかの社會に所属して競争を続けている物質化された世界になっている。人間性の本質を見失っている。自然はいつも人々に寄り添ってくださっている。自然の驚異や猛威は人間らしさを失うことへの警告でもある。もしこの先も自然に寄り添わず、お金ばかりで競争を続けて人間らしさを見失うなら必ずいつかは死に絶えることになる。それに氣づいて、それをやめることです」

現地語とシンハラ語、英語と通訳を介した関係で多少の意訳や私の認識も入っているかもしれませんがこの数日間で現地に滞在し場で味わい沁みこんだ言葉でした。

陰極まって陽になる、そろそろ一陽来復です。

これからまた新たな挑戦をしていきたいと思います。

自然との関係

私たち人類のむかしは、土地の所有というものに対してとても緩やかでした。森や海など自然のものと共生し、みんなで共有しているものという意識がありました。それが次第に個人の所有物となり、自然環境のバランスも崩れていきました。神社の杜もまた、神社が固有に持つようになり自分たちで守ることになりました。広大な杜を個人で守れるわけはなく、しかし所有権の問題で手を出せたり出せなかったりして結局は杜は荒れるか、あるいは共生循環するかつての杜ではなくなります。

本来、人間が自然に寄り添い生きてきた時代は自然を所有するという概念ではなく自然に活かしていただいているという概念で暮らしが成立していました。自然が主体で、私たちはその主体を信じて見守りその恩恵で生活ができていました。数千年、あるいは数万年そうやって生きてきました。その暮らしを守ってきたのが、今でも遺る先住民族や少数民族の方々です。

昨日、スリランカの先住民族ですべての部族のリーダーであるワンニヤレットの長老とお会いしお話をお聴きするご縁をいただきました。風貌は穏やかで徳が薫り、自然を見つめる眼差しで真理のみを語られる大樹のような存在です。以前、アイヌの長老にもお会いしたことがありましたが身体から滲みでる存在感はほとんど同一でした。

世界中の先住民族、特に狩猟民族は迫害の歴史があります。アイヌの時も同様に感じたのですが、政府から居住地域を奪われ、それまでの伝統的な生活も失い、誇りも自信も喪失し差別を受けるというはどこも同じです。まるで世界は統一の迫害マニュアルでもあるかのように、世界中のあちこちで先住民族は滅んでいきます。

これだけ時代はグローバルとかダイバーシティ、民主主義で個々の自由を勝ち取ったと謳っていますが実際にはそれは一部の多数派の社会のなかで都合のよいところだけでを切り取って語っているだけです。実際には、少数派や政府にとって都合の悪いものは無視するどころか自分たちの正義の邪魔になるからと排除の対象になっていて尊重されるどころかいつまでも差別の対象になっています。

少し考えてみたら誰にでもわかりますが、食べていくため、生きていく上での環境を失ったらどんな生物でも生きていくことはできません。保護するという言葉は、おかしな言葉で実際には自由を奪って飼育するという意味です。飼育されたくないなら餓死すればいいという具合です。人間というのは自分たちの便利な暮らしのために野生の動物や生き物にも配慮がなくなり傲慢になりますが、同じ人間同士でさえそうなるのです。日本でも森が失われて食べていけなくなった動物たちが山を降りてきて問題になっていますが、そもそも森で生活できないようにしているのは人間が先だということに氣づき直す必要を感じます。しかしそう思っても、実際には行政が決めたから仕方がないと諦めては自分たちの利益を優先してしまいます。

この問題は、地球全体、人類で最も重要な課題でまさに文明末期症状の特徴の一つでもあります。今の配慮と尊重なき一方的な浸食を続けるだけでは、結局は人類も滅びの道にまっしぐらに進んでいくのがわかります。

自然と敵対して征服する生き方か、あるいは自然と共生して寄り添い尊重していく生き方か、覚悟と決心が問われます。人間が差別し続け戦争が失われない理由も、そして子どもたちが精神を含めて病気がこれだけ増える理由もまさに今こそ、この問題をどうあるかを全人類で考える時に来ているように私は思います。子どもたちのことを真に思えば、今手を入れないと取り返しがつかなくなります。

しかし実際には、数の論理で運動論のみで何かをしようとするのは歴史に学んだことにはなりません。それぞれが自分の居る場所でどうするのか、どうあるかを考えて真摯に実践するしかありません。私は場道家であり、暮らしフルネスを実践するものです。

今日もマヒヤンガナの森のなかで、伝統的な暮らしや生き方を学び直してきます。ここでの氣づきを形にして相互に自立しあえる発見をしてみたいと思います。

 

2025年のテーマ

今朝も素晴らしい太陽の光が差し込み、2025年の新しい年を迎えました。昨年より正月は冬至に行っており、この1月1日の元旦は二度正月を楽しむ機会にしています。夜中の年越し蕎麦も年々、滋味深くなり、家族と参拝する初詣も子どもの成長を感謝する大切な機会になります。

昨年は、いのちの対話をテーマにしていましたが大切な人たちが天に還られますます私も残りの人生の使命を強く覚悟することができました。この世にいなくなるのは寂しいですが、生前の雰囲気や声はいつもイキイキと心に響いています。いのちと対話するのに昨年は自分自身の体と対話することをとても大切に過ごした一年になりました。内臓もこれだけいのちを支えているのに普段はあまり配慮せずに反省もありました。いつも偉大な働きをしてくださっているその内臓と対話するような暮らしをはじめています。また自分の普段の意識にも目を向け、波動を調える美しい暮らしを心がけました。また無機物の発する音や風や水や火という精霊のような存在のゆらぎからもその深い徳と偉大な叡智を学びました。

その上で今年のテーマは、「謙」を一文字として設定しています。この謙は謙虚の謙からの言葉です。言うは兼ねると書きます。今から29年前、当時のメンターから謙虚であれとたくさんご指導をいただきました。もうこの歳になりまたなぜ改めて謙なのかと考えてみると、そもそもこれは一生涯の生き方に関係する言葉だからだとわかります。

私は謙虚を想像するとすぐに素直という言葉が出てきます。これは常に一対です。つまり素直を実践するとそれが謙虚になります。至誠も正直も同様に、私たちは言行一致、真心のままに行動するということが一番の徳積みです。あれこれと考えを巡らせては自分の置き所を間違っていくのが人間でもあります。私は35歳になったときから来たご縁を選ばずにすべて受け容れると決心して、それからは栃の実が川に流されるようにすべてお任せにするようにして生きてきました。

しかしご縁は不思議で自分の思ってもみないことの連続に心を痛めたり、あるいは判断を迷い苦悶することも多々あります。同時に、自分の想像を超えるような偉大なご縁であったり、一期一会の大感動に魂が震えることもたくさんあります。

まだまだ未熟で私が知らないことばかりの膨大な宇宙や世界がこの世にはあります。悟ることやわかることは大した意味はなく、それよりも自他一体になることや全体快適であること、あるいは神人合一するような体験や修行のプロセスの中に永遠普遍の喜びや豊かさは生きています。畢竟、自分の人生にちょうどいいことしか自分にはやってこないということでしょう。そうやって手放した数だけ自分自身との一人の対話が成り立ちました。

今年はまさかのスリランカのワニアヤ・アエット長老とのご縁からスタートです。ナーガ族とヤタ族、マヒヤンガナのもりの民。人類が原初に何処からきてそしてこれから何処にいこうとするのか。子どもたちの平安や真の幸福のために最善を盡していきたいと思います。

本年もよろしくお願いします。

波動を調える

今年一年を振り返って見ると御蔭様で新たなご縁に恵まれてとても充実した一年になりました。その「新たな」というのは、「新たな意識で出会ったご縁」ということです。ご縁は自分の波動や意識が大きな影響を与えています。日頃の暮らしで何を観て何を考えて何を食べてというように、自分が日々に調えている波動や意識によって出会うご縁も変化します。

例えば、霊峰英彦山の宿坊に棲み静かに光や水の音に耳を傾け空気を深く吸い込み静かに座禅をしているとお山の気配を感じます。お山の気配とは、お山の呼吸のことです。その呼吸に自分も一緒に包まれていると、そのお山の波動になっていきます。

すると、それまで見えていた景色が変わり今まで観えなかったものが観えてきます。同時にあらゆる感覚が変わり、刻の流れや場の雰囲気すら変わります。場がその波動を調えて変えていくのです。

何だかスピリチュアルな話だと思われそうですが、実際に人間の身体感覚というのはどこまででも鋭敏になります。直観というものもまた、鋭敏な神経が見事に波動と調和して事前に洞察させたり感得させるように思います。シンクロニシティやテレパシーなど超能力のように閃きが迸ります。

話をご縁に戻せば、それだけご縁というのは次元を超えてあらゆる波動と巡り会っているということでしょう。そうして暮らしていると、似たような波動の人たちが集まってきます。さらに深く言えば、同じ身体感覚や神経を研ぎ澄ませて鋭敏にしているような仙人のような人たちと出会うのです。

仙人というのは、単なる能力が秀でた俗世から距離を置いた人として解脱したような存在と思われていますが実際にはそうではありません。当然、波動を高め徳を磨いていますから人間として深い魅力があり思いやりを持ちます。同時に、生き方を見つめ、生き方を優先していますから道を一人歩んでいます。

有難いことに仙人苦楽部を続けていると、よく仙人に出会います。そして私も仙人のような暮らしに近づいていきました。私たちは誰もが仙人としてのポテンシャルを秘めています。それが開花するかどうかは自分の波動をどうするかに由ります。そしてその波動を調えるのに暮らしの改革が必要です。別に仙人になったら何かいいことがあるのか、便利な何かがあるのかと思われるかもしれませんがそんなものはありません。

ただ仙人は、お山であればお山がどう生きて自然を守り豊かないのちを育んでいるのかを察知でき喜びを深く味わえます。また伝統的な先人たちの智慧に包まれ仕合せを深く味わえます。つまり永遠に豊かな心で生きていくことができるように思うのです。

好奇心というものもまた、仙人たる由縁の一つです。来年も、好奇心を存分に発揮して原初の道を求道し丁寧な暮らしを実践し波動を調え、新たな出会いを大切にしていく一年にしていきたいと思います。

今年も本当にお世話になりました。改めて感謝申し上げます。

人類の大先達

スリランカのヴェッダ族のことを深めていると、驚くことが次々と出てきます。このヴェッダ族は人類の起源にまで遡るほどの歴史を持っている奇跡の民族です。ヴェッダ族に触れることは、人類の起源に触れることにもなります。人類のルーツが何か、これは私は保育の仕事に取り組んできたからこそずっと追い求めていたテーマの一つでした。今回の訪問では、これからの未来の子孫たちの行く末のためにも人類の深淵に出会ってきたいと思います。

もともとこのヴェッダ族は、古代、中石器時代に生きた最古の人類であるバランゴダ人 (ホモ・サピエンス・バランゴデンシス)の直系だといわれます。これはスリランカの大多数のシンハラ人とは異なります。洞窟の遺跡から発見されたバランゴダマンは少なくても紀元前 38,000 年前には定住していたともいわれます。別の科学者によれば、50万年紀元前からこのスリランカの地にいたともいわています。

人類の原初の暮らしを今でも持続し保ち続ける奇跡の民族、このヴェッダ族は地球と共生してきた人類の原型です。今でも狩猟採集民としてスリランカの森や自然環境と密接に結びついた暮らしを続けています。

もともとこのヴェッダという言葉の語源は、ウェッダー(Vedda)です。弓矢を持った狩人を意味するサンスクリット語の「ヴィヤダ」に由来します。実際のヴェッダ族は自らを「ワンニヤレット(Wanniyalaeto)」(森の民)と自称します。

日本の古神道の杜と同様に自然崇拝で、あらゆる自然の叡智と共に場を守り暮らします。自然や森の精霊を尊び、いのちの循環する宇宙の真理と共に生きます。私たちが文字や映像などで見聞きした何よりも神聖な空間と結界を守り続けて今でも真実を生きています。

私たち現代の人類は、あらゆる欲望の成れの果てに今の人類のみの世の中を好き放題に席巻してきました。もはや教えというものも何が正しくて間違っているのかも、あらゆる宗教派閥紛争や権利権力の集中や歪んだ知識の上書きの連続でもはや原型すらとどめていません。時折、自然災害に遭遇し目覚めるかと思えばまた同じことの繰り返し、人類は歴史から学びません。

しかし現代のようにいよいよ人類の成熟期で文明の末期症状が出ているからこそ、私たちは原点回帰し今一度、真実に目覚める必要があるのではないかと私は感じます。その真実は、誰かの専門家や権威の知識ではなく、大多数が信じる何かではなく、説得力のある本質的な正論でも教えでも記録でもなく、「真実を生きてきた人たちの背中」から學び直すことだと思います。

人類は、過去に何度も滅びそうな目にあってもいざという時のために種を遺してきたから今も持続しているともいえます。種は改良してどうしようもないほどに改悪されても、もしも最初の種が残ってあればそこからちゃんと生まれ変わり甦生することができるのです。

その種とは単なるDNA的なものではなく、意識や精神、生き方や暮らし方などを保つ人々の生活様式などが統合された今も遺り生きる人々の叡智のことです。

私は暮らしを変え場を創ることで、人類は変わると信じている一人の人間でもありますが暮らしの根源を持つ人たちはまさに私にとって人類の大先達です。

大先達から人類とは何かを真摯に學び直し、子どもたちのために真実の道を結んでいきたいと思います。

地域の宝徳

昨日は早朝より庄内中学校の有志の生徒たちが100人以上が集まり飯塚市の桜の名所の一つでもある鳥羽池周辺の清掃とゴミ拾いを行いました。地域代表としてお手伝いに参加してからもう3年目になります。最初は生徒会で実験的に取り組んでみて、その後は部活動の生徒たちが参加し、今では全校生徒で有志が集めいつも100人以上の参加するほどになりました。

庄内中学校は、校内にあるメタセコイヤの大木にイルミネーションをつけて地域を明るくする活動や、その資金調達にクラウドファウンディングに取り組むなど、実社会に基づいた社会への参画を色々と挑戦しています。またブロックチェーンの講義を受けたり、コロナ後の地域のお祭りに新たに積極的に参加したりとこの数年は特に目覚ましい活躍です。学校行事も次々と生徒が主体的に自由に取り組んでいるのが拝見でき、素晴らしい教育と大勢の見守りのある学校だと改めて母校の変化に感銘を受けました。

この鳥羽池の清掃では、初年度のゴミは恐ろしいほどの量で粗大ゴミや産業ゴミなどとても中学生の手におえないほどのものが出てきました。池の水が少なくなるこの冬の時期に誰かが捨てたものが池の中から出てきます。この場所は、夜は住宅が少なく人目につかないからと捨てに来る人がいるのでしょう。それを真摯に靴も泥だらけになり汗をかいて拾っている子どもたちの姿を見たら捨てられるはずはありません。

またゴミのほとんどを分別すると、ビールやコーヒー、ジュースの空き缶とペットボトル、それにお菓子や弁当などの袋、プラスチックや発泡スチロール、それに釣り道具などです。自然には容易に分解されないゴミばかりが池の周辺や池の中に大量に出てきます。同じ場所に吸い殻や同じ空き缶があるところは、同じ人がそこで捨てているのかもしれません。

この取り組んでから3年間、毎日散歩している人が拾ったり、ゴミ箱を設置してあってもゴミは1年に1度、生徒たちで清掃すると同じくらいの量が出てきます。しかもゴミ袋30袋以上の大量のごみです。これは一体なぜでしょうか。

一つには金融構造や欲望優先の消費経済、他にもシチズンシップや家庭教育の問題などいろいろとあるでしょう。以前、ゴミ処理場を運営している経営者にゴミ処理場を経営したら日本という国がどういう国かがよくわかると教えていただいたことがあります。ゴミの処分の仕方、ゴミに対する政策の内容、そしてゴミの種類や捨て方などにすべてが日本という国のありのままの姿が出ているからというのです。

以前、イエローハットで掃除道で有名な鍵山秀三郎氏から「足元のゴミ一つ拾えない人間に、何ができましょうか」という言葉を聴いたことがあります。そして著書でこう続きます。「『ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる』私の信念を込めた言葉です。ゴミを拾っていて感じることは、ゴミを捨てる人は捨てる一方。まず、拾うことはしないということです。反対に、拾う人は無神経に捨てることもしません。この差は年月がたてばたつほど大きな差となって表れてきます。人生はすべてこうしたことの積み重ねですから、ゴミひとつといえども小さなことではありません。」と。

これは徳を積むことも同じです。地域の代表として私からはみんなに「コツはコツコツ」の話をしました。コツは一つだけではなく、継続しコツコツとなることで非凡になると。ゴミ拾いというのは、継続と凡事徹底を學ぶ智慧にもなり、徳を磨き、己の心を育てるための素晴らしい教育になるということです。これは私の徳積財団の活動や丁寧な暮らしや社業の実践でいつも話していることです。

私がこれを改めて皆さんに発信したいと思ったのは地域の人たちに庄内中学校の生徒たちが真摯にキラキラと心を磨きお掃除をする姿を伝えていきたいと思ったからです。地域を守ることは、一人一人がコツコツと心をみんなで磨いていくことだと私は思います。

日本人は元々、来た時よりも美しくという精神を持っていて世界では試合後のゴミ掃除の姿がとても尊敬されています。正々堂々として清らかであろうと、荒んだ心を調えて和を尊ぶ国民性がある人たちといわれます。

都会に出て地域に子どもが少ないとか人口減少で過疎化しているとか不平不満ばかり並べる前に、凡事徹底して地域の宝や徳を磨き、それを未来へと大切に見守っていけるような日本人でありたいと思います。

 

お手入れの功徳

日本には古来から穢れという概念があります。これは別の書き方で氣枯れともいいます。元氣が枯れていくということで元氣がなくなるということでしょう。元氣というものは、どういうときに失われていくのか。それを一つ一つ見つめていると、わかりやすいものに病気というものがあります。病は気からという言葉もありますが、気が枯れることで病気になっているとも言えます。

そもそもこの病気の定義は、身体の病気、心の病気、精神の病気、あるいは環境の病気、場の病気、あらゆるところに病気はあります。その一つ一つを取り除いていくことが、穢れを祓うことであり、清めていくということになります。

この清めるというものは、どのようなものか。それは私たちは日常の中ですぐに感覚として理解できるものがあります。これは掃除です。掃除は、あらゆるものを祓い清めてくれます。先ほどの身体も心も、精神も場も清められます。私たち日本人が、清々しさを大切にするのは古来より気枯れを予防するような生き方をしてきたからです。

気枯れは、例えば不安、心配、恐怖、また苦痛や執着、猜疑心や嫉妬などあらゆる悩みからも発生します。また水が澱み、風通しがわるいときも発生します。他には、ゴミのように使わなくなったものが増え、消費や浪費が多いところにも発生します。不平不満をもって文句を言えばすぐに発生するものです。

人間は生きていれば、知らず知らずのうちにこれらの感情に呑み込まれていきます。特に現代のようなお金を優先にして比較されたり差別されるような格差環境では気枯れは容易に発生します。

だからこそ主体的にそれを乗り越えていくような祓い清めが必要になります。つまり気枯れではなく、「元氣」になるように生き方や心の持ち方を換えていく実践が必要になります。

心の世界は、心の世界で禍を転じて福にするために感謝や徳を積むという実践があります。精神の世界では、全てをお任せで安心の境地に入る実践があったり、身体の健康ではちゃんと真に元氣があるものを食べるような医食同源の実践があります。

しかしこれらを全部ひっくるめてやっぱり最も効果があるものは何かと突き詰めれば「掃除の実践」であるのは間違いありません。掃除は私はお手入れともいいますが、お手入れをして穢れを祓い清めるのです。

日々の小さな実践でもっとも効果があるのはこのお手入れの功徳です。丁寧な暮らしを通して、子どもたちと一緒にお手入れの功徳を積んでいきたいと思います。

冬至の巡礼

今日はこれからBAで冬至祭があるため、柚子の仕込みや準備をしています。今年は英彦山守静坊の敷地にある山伏柚子が大豊作だったのでその山伏柚子をつかってみんなで柚子三昧をします。

この柚子というのは、先人の智慧の結晶、むかしからの保存食です。日持ちがよく、あらゆる調理に使えます。柚子胡椒、柚子味噌、柚子茶など、工夫して柚子を健康保持に役立ててきました。

また柚子は、ゆず湯が有名ですがこれは科学的にも効果が認められていて柚子に含まれるリモネンという成分にリラックス効果があり、ビタミンCも豊富でお湯に入れることで皮膚から体内に吸収されるんです。また柚子の香りの成分も自律神経系に働き、ストレス解消や睡眠に効果があります。湯上りにも湯冷めしにくいともあり、最高です。これは平安時代頃から続いている行事ですが、柚子を太陽に見立ててその力に肖るという縁起ものです。

もともとこの冬至は、現代は知らない人の方が増えていますが実際にはこの日がもっとも一年のうちで大切な日でしたから今でいう正月のようにお祭りのような日だったといわれます。朝からお餅つきをし、柚子三昧で過ごし、夜は大晦日のように過ごし、翌日の朝日をお迎えして「明けましておめでとうございます」とご挨拶するのです。

明治以降に、スケジュールやカレンダーといった西洋の暦を中心にした時間だけをみるような生活に代わりましたが本来は自然や宇宙、星や太陽の運行にあわせていのちのリズムや自然の全体調和に合わせて私たちは暮らしを営んでいました。

冬至は、その太陽が甦生するという一年で最も大切な日。いつも以上に太陽に感謝しながら過ごせる最高の日です。この日こそ一年で最も豊かな日です。

私は暮らしフルネスの実践を通して、この冬至の豊かさに氣づきました。そしてその御蔭で、年々、暮らしが豊かになってきました。これは物質的な豊かさというよりも、太陽や空気、そして光や風や生きものたちとの触れ合いが増えた喜びです。

私たちは「意識」というものをいつもどのように保っているかで、感じるものが変わります。感性というものは、この「意識」によって左右されます。意識は実践や継続をするとき、主体的になりますが意識がどこを向いているか、どの境地でいるのかは人生の豊かさにとても大きな影響を与えるものです。

冬至に祈り、暮らす人々は、意識が太陽から離れません。太陽の周りを巡りながら一緒に太陽と銀河を旅しているのが私たちですから一周巡るたびにまた一ついのちは磨かれていきます。

一期一会の冬至の巡礼を味わって過ごしていきたいと思います。