運と風~風土のチカラ~

世の中には運というものがあります。よく運がよかったとか悪かったとか、何かの結果が出た時にそれを人はつぶやきます。自分にとって運がいい悪いは時として周囲にとってはそれが逆になることもあります。

つまりは運とは、その人の心の持ち方に影響を受けていることに気づきます。

幸田露伴にこういう言葉があります。

「順風として喜んでいる人が遇っている風は、逆風として嘆いている人が遇っている風とまったく同じ風なのである。”努力して努力する”―これは真によいものとはいえない。“努力を忘れて努力する”―これこそが真によいものである」と。

運とは、その人の風の感じ方そのものでありその風に乗っていく人と、それに逆らう人がいるだけであるとも言えます。風任せの生き方ができる人は、雲のように融通無碍に運に従います。しかし、人間は我がありますから無理をしてでも風を無視して前に進みたくなるものです。

世の中の潮流、いわばその風は時代と共に変化していきます。日々に窓を開けて外の風を感じれば、色々な風が吹いているのがわかります。今日の風はどうだろうかと、風を感じて風を活かす人は運を味方につけているとも言えます。

運とは、自然あるがままを活かす智慧のことでありその運を引き寄せる人は自分を自然に対して変化させ続けることができる努力の人であるということです。

努力とは、自然と一体になっている状態の事です。それは四季の花々が真摯に生きて花を咲かせているように、魚や鳥たちが自由闊達に泳ぎ歌うのと同じようにです。

変化し続ける力は、まさに運を味方につけていきます。運を高めるためには、変化する力を磨き上げる必要があります。風に合わせて自分自身の境遇や環境をブラッシュアップしていくのは、足るを知り、来た風に逆らわずその風を活かすときにこそ実現していきます。

風土というものは、運の根本を司っています。

引き続き、今の子どもたちのために風土を醸成し自然かんながらの道を踏みしめていきたいと思います。

育つ~いのちの叡智~

何かが育つというのは永い時間が必要になります。今の自分が育つのでさえ人類の永さで計れば大変な時間をかけてここまで成長してきたのです。遺伝子の中には、これまでに育ってきた記憶が記録として刻まれています。

あらゆる病気や災害、そして事故、戦争も平和もすべて体験し、両親がその遺伝子を繋ぎまた子孫へと譲り渡しここまで生き延びてきました。つまりは育ってきた時間を持っているのが今の私たちということになります。

この育つのは、人間だけではなくあらゆる生きものは育っていきます。時折、あらゆる自然環境の変化に順応するために生き方を変え、変身し、その環境や風土に適応していきます。今の私たちの育った姿は、過去の歴史の中で変化してきた変容の姿そのものなのです。

そしてそれが多様性であり、私たちの個性を彩ります。その個性は、歴史が育ててきたものです。この個性を活かすのは、どのような環境の変化においてもみんなで力を合わせて生き残ろうとしたいのちの叡智です。

個というものを全体と捉えるのなら、私たちは全体としての個になります。地球が一つの生命体だと定義するのなら、私たちのいのちはその地球の一部です。地球が多様化の中で豊かに充実するのは、それがいのちの仕組みです。

細胞が60兆、それぞれに偉大な働きがあります。まさにその働きは地球のいのちの姿そのものです。何が自分の体の中に育っているのか、自分が如何に育った存在なのかを考えることが、教育というものの本質や本義の根本に触れることになるのではないかと私は思います。

引きつづき子どもたちのためにも、育つ環境を見守るために社業に邁進していきたいと思います。

持続可能の基礎

物事には短期的なものと長期的なものがあります。現在の世の中はスピード重視、便利さ重視、結果重視で個人重視ですからどうしても短期的なものが増えていきます。すぐにリターンがあったり、すぐに成果につながらないものは効果がないとみなされたり失敗だとも評価されます。

しかし遠くにいこうとすればするほどに身近な失敗は成功の糧にもなります。また成長しようとするのなら、数々の失敗や挑戦を繰り返さなければ長期的に見てそれは成功ではないように思います。

むかしは、7代先を観て物事に取り組んでいくという視点があったといいます。常に300年先を見据えて何をすべきかということを話し合いそれぞれが実践に努めたのです。

持続可能な社會を掲げていてもそれが一向に進まないのは、それは短期的なもので持続可能を観ているからです。本来、持続可能や循環型、そういったものは長い歳月と一人一人の真摯な努力によってはじめて実現するものです。

二宮尊徳にこういう言葉が残っています。

「樹木を植うるや、三十年を経ざれば、則ち材を成さず。宜しく後世のためにこれを植うべし。今日用うるところの材木は則ち前人の植うる所。然らばなんぞ後人のために之を植えざると得ん。」

樹木を植えても三十年は待たないと材量にはならない。だからこそ後で使う人のために今、樹木を植えるのです。今、用いている材料はすべて先人たちが私たちのことを慮り植えてくれたから私たちはそれを使うことができています。その恩恵に感謝する心があるのならなぜ子孫のために植えようとしないのかという解釈です。

私たちは自分のメリットや今さえよければいいと、物事の判断を自分軸のみの物差しで計算して行動しています。しかしこれがもしも後世の人たちや子孫の人たち、先祖への感謝の報恩であればどういう物差しになるでしょうか。

長期的な物差しとは本来、これらの長い時間をかけて持続可能としていた社會の存在を感じて判断していくものなのです。何を計画するにも、その土台や基礎になっている初心や哲学、基本にその思想が入っていなければ決して持続可能の実践にはつながっていかないように私は思います。

二宮尊徳はこうも言います。

「遠くをはかる者は富み近くをはかる者は貧す。それ遠くをはかる者は百年のために杉苗を植う。まして春まきて秋実る物においてをや。ゆえに富有なり。近くをはかる者は春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず。唯眼前の利に迷うてまかずして取りえずして刈り取る事のみ目につく。故に貧窮す」

何が本来の豊かさであるのか、豊かさや富の本質を持続可能の社會ではまったく視座が異なることを私たちは先人の実践から気づく必要があります。

育てるという仕事も本来、長い時間をかけてじっくりと育てるものです。それは土づくり似ていて、何十年もかけて育ててきた土だからこそその中で立派な作物ができてくるのです。人づくりも然り、まちづくりも然りなのです。

自分の代で見返りがなくても、すぐに自分の代で結果がでなくても、本当の意味の子々孫々への思いやりや真心での持続可能に取り組む人たちが未来を変えていくのでしょう。

子どもたちのためにも、周囲の理解が得られなくても覚悟を据えて子どもに必要な伝統や風土、文化を伝承していきたいと思います。

快適な住環境

昨日は、自然農で育てた高菜漬けの漬け換え作業を行いました。8年目になる高菜や杉樽からはまるで熟成されたウィスキーのような薫りがしてきます。手塩にかけて育てて8年、まったく腐敗することなくいつもの姿がいつもの薫りと共に感じられることは仕合せです。

この手塩にかけるというのは、本来は昔の食膳に添えられた少量の塩のことを指しました。もともとは、不浄なものを祓うために添えられたものですが自分の好みに合わせて料理の塩加減を調節するというためにあったそうです。その意味から他人任せにしないで自ら面倒を見ることを「手塩にかける」と言うようになったそうです。

一般的には、「手塩にかけて育てた子」のように手間暇を惜しみなく愛情を注ぎこみ自らで世話をして大切に育てるという使い方をされますがこれは漬物も同じことです。

定期的に塩を入れてあげなければ発酵の乳酸菌が腐敗菌に入れ替わり漬物は私たち人間が食べれないものになってしまいます。これは万物は、消滅するために腐敗する自然の仕組みを発酵という自然の智慧を用いて乳酸菌を育て樽や食べ物を丸ごと住まいにしてしまうという発想からきています。

つまり樽は、乳酸菌の大切な家でありその家の居心地が乳酸菌にとって快適にしてあげればいつまでもそこで乳酸菌は活動を続けてくれます。乳酸菌が住んでいるからそこに腐敗菌は入ってこれないのです。乳酸菌にとって快適な環境は腐敗菌にとっては不快な環境です。腐敗菌にとって快適な環境は当然、乳酸菌とっては不快になります。

このようにどのような住まいを創るかで、私たちは健康を管理してきたのです。この自然の智慧と技術こそが自然の叡智の根本原理でもあります。私が古民家甦生でイヤシロチを創造するのは、この発酵の智慧を活用しています。

人間の住まいにとって快適なものとは本当は何か、それは単に便利かどうかではなく健康を末永く維持できるということです。その健康が維持される住宅だからこそ、私たちは先ほどの乳酸菌のように活動し腐敗菌を寄せ付けません。同時に不健康を寄せ付けなくなるのです。

日本の家屋というものは本来、この乳酸菌の樽のように健康を維持するための快適な環境を用意していたのです。それが不健康になってきたから、病気が増え、感覚が鈍り、居心地が悪くなってきているのです。

漬物も住まいも、他人任せにしてはいけません。自らで手塩にかけて育ててこそ本物の住まい、本物の場が醸成されるのです。

引き続き、場を学び直しながら改めて大切な智慧を子どもたちに伝承していきたいと思います。

勇気の源

人は誰かが成長している姿を見ると勇氣が湧いてくるものです。この湧いてくるものは一体どこからやってくるのか、なぜ自分の中にその勇気が湧き出てくるのか。不思議ですが誰かの勇気を出す行動を観ていると、自分自身も奮い立たせてくれるのは事実です。

この湧くの同義語には、・込み上げる・芽生える・湧き立つ・あふれ出る・湧き起こるなどがあります。やはり成長には、何か不思議な力がありその力は多くのいのちに多大な影響を与えているように思います。

私はたんぽぽがとても好きなのですが、道端でたんぽぽが咲いている姿に真摯さを感じて勇気づけられることもあります。一生懸命にいのちを輝かせて活きている姿はそれだけで他のいのちを感動させるのです。

ではこの湧いてくるものは、一体どこから出てくるのかということです。これは自分を信じることで湧いて出てきます。自分を信じるというのは、何を信じるのか。それは私の直観では今までこの世に生きてきた永遠の連鎖、そしていのちの深い生命の源を感じているのではないかと感じます。

人はいのちの源泉というものを持っており、その源泉に触れることでいのちの泉が湧いて出てくるものです。それは地中から水や溶岩が湧いて出てくるように源泉にはいのちそのものの元氣が満ち溢れています。

日ごろはそこに触れることもありませんが、何かしらのいのちの源泉を身近に感じるとき私たちは汗が出てくるようにそのいのちの元氣が湧いて出てくるのです。これが勇気の源ではないかと私は感じます。

自分の勇気が誰かの元氣になり、自分の勇気ある行動が誰かの勇気を引き出すことになる。そう思えるだけで人は、元氣を周囲のいのちに分け合い共生し貢献し合うつながりや絆を享受し合えるのです。まさにこの世が楽園になっていく道理は、このいのちの元氣の連鎖で起こります。

勇気の源は、みんなの元氣の源です。

自分の勇気をさらに発揮して、子どもたちのためにも挑戦を続けていきたいと思います。

家祈祷の価値

昨日、郷里の神社の宮司様に来ていただき「家祈祷」を行いました。この家祈祷とは一般的にその土地や家等の建物の神仏をご供養し、日々のご守護の感謝と家族の健康や安全の幸せな生活と福徳円満を祈るご祈祷のことを言うそうです。

今ではマンション住まいが増えてきていますから、敢えて家祈祷する習慣は失われてきているといいますがむかしは定期的にその土地への感謝や家内安全、家族の平安などを守ってくれている存在を身近に感じたのでしょう。

その理由は、神棚をはじめ仏壇、そのほかにも様々な家の神様をお祀りし供養していた習慣をもっていたからです。家の中には、数々の家の守り神、そして家の外にも祠を設けて守り神がいて常に見守りを感じながら生きてきました。

また風水や縁起を信じていて、南天や柊、四方の方角に合わせて様々な厄除けを行いました。昨日もまたお祓いを中心に、鬼門や裏鬼門のお話や神棚の設置場所、そのほか、清め方など教えていただきました。

またこの土地にどのような歴史があり、なぜ今の神社が氏神様なのか。かつてはどのような人たちが何をやっていたのかなどを教えていただきました。

改めて自分自身が住んでいる土地のことを省みることができ、その土地に見守られて暮らしている実感を味わうことができました。

家祈祷というものは、家を人格がある存在だと認めていることになるように思います。私の古民家甦生のやり方は、常に「家が喜ぶか」に主眼を置きます。これは会社であれば、「会社が喜ぶか」になります。

我が我がと個人が好き勝手にする世の中になってきていますが、本来は自分が守られ活かされている存在にどれだけの感謝を盡しているか。当たり前ではない守護してくださっている恩にどれだけ報いようとしたか。

それは生き方に出てきます。

運が善い豊かで足るを知る感謝の生き方は、この家祈祷の中にも生きています。引き続き子どもたちのためにも、失われてはならない日本人の大切な習慣を守り育てていきたいと思います。

本物の場

弥盛地(イヤシロチ)という言葉があります。これは日本の古文書の一つ「カタカムナ」の中で出てくる言葉です。簡単に言えば、場には「弥盛地」と「気枯地」(ケガレチ」というものがあります。

弥盛地は、万物を癒す場所、そして気枯地は、万物を穢す場所ということになります。生きものには、その場所によって生成する場所と衰退する場所があります。もちろん生きものにも種類があり、私たち人間にとって癒す場所と穢す場所がありますが他の生き物ではそれが逆転していることもあります。

水気が多い場所が好きな生き物、乾燥した場所が好きな生き物、その生きものたちの特性で癒しも穢れも変化します。この穢れは、「気枯れ」とも書かれます。それは元氣が減退しているということです。

この元氣というのは、生き物たちが根源からもっている元来の「気」のことです。私たちは肉体や精神を持っていますが、もともとその中には気が宿っています。その気の状態を如何に清浄にしていくか。まるで水のように澄んだ状態にして、自然や地球のいのちと一体になっているかが、日本の先祖が重んじた風土と一体になった状態であったのです。

風土は季節と一体ですから、そのバランスを崩さないようにいつも気を澱ませないようにと元氣が満ちた状態、つまり健康であることを心がけてきたのです。

その健康は、その場によって支えられるものです。それはその土地の風土環境をはじめ自分自身に与える気が澱まないようにいつも排水し続ける必要があります。体の状態と同じように、新陳代謝をよくし、水がしっかりと循環して老廃物を流し続けるように私たちの気もそうやって循環することで健康を守ってくれています。

健康を維持するためにはこの弥盛地の場チカラは大変重要になってきます。先祖は様々な工夫を凝らして暮らしを改善し、住環境を改善し、食を整えてきました。その智慧があったから、いのちが燃え尽きるまで幸せに活動をし続けて生を全うすることができたのです。

この時代は、自然から離れあまり弥盛地のことが重要視されなくなってきました。改めて子どもたちに本物の場を譲り渡していけるように、具体的なものを創造し伝承をしていきたいと思います。

場数の価値

「場数」を踏むというものがあります。これはその場の経験を体験し積み重ねることを言います。この場数というものは、生き物が産み出した偉大な智慧の一つであり人間が発達し成長するための最大の糧になります。

先日から、農業関連の方や建築関係の方、そしてまちづくりや教育の方とお話する機会がありましたが以前には考えられなかったほどに様々なことを理解できそれを実現できる力が自分に備わっていることに気づきました。

なぜだろうと思い返すと農業においては19年の自然農の経験が活き、建築では古民家再生での経験が活き、まちづくりでは見守る保育の経験が活きています。それは知識を単に持っているからではなく、自分のこれまで積んできた場数の実体験がある一定量を超えて質に転換されていることに気づいたのです。

人間は最初からなんでも一流のようにできる人はほとんどいません。特に、職人の仕事をはじめ一定以上のプロの業を会得するにはそれなりの時間がかかります。

その時間とは、何回も何回も場数を体験することでありその場数の中で量を積み重ねているうちにある時突然に質に転換されていくのです。

これは以前、行った「貝磨きの体験」に似ています。

貝を磨き続けていると、ある時ふと突然に貝が光りはじめます。最初はざらざらで、光らなかった貝が紙やすりにを何度も往復させていくことでパッと光り輝くのです。まさにこれが量が質に転換された瞬間なのです。この貝磨きの体験の素晴らしさはこの「場数を踏む」ことの大切さを子どもたちに体験させていることです。

最近は、あまり経験することを尊ばず経験しなくても簡単にできる便利な方法ばかりを選択する若い人が増えているといわれます。便利なものを知ってしまうと、自分を磨いたり、場数を踏んだりすることを嫌がる傾向があるといいます。努力の価値や、精進の素晴らしさを体験する機会が少なくそのために質もまた低下しているというのです。

この質の低下は、「積み重ねる」ということの価値が下がっていることをものがたります。そして「磨き上げる」という努力の評価が下がってきていることも意味しています。

しかし「技術を自分のものにする」というのはつまり「自分を磨き上げる」ということに他なりません。努力を積み重ねて挑戦し続けて体験を智慧まで高め、如何に熟練の粋に達していくかが場数の価値なのです。

場数を馬鹿にすることなかれ、場数こそ本物になる要なのです。

そしてその場数の質を劇的に高める方法が、初心を忘れないことなのです。人間は初心という物差しで振り返り続けていけば必ず自らの高みに達することができるからです。大切なのは、何のために生まれてきたのか、人生とは何か、その意味もまたこの場数を踏むことによって得られると私は思います。場数の価値とは、いのちの価値です。

引き続き、自ら時間を惜しんで何回も挑戦する機会を楽しみ、場数を踏んで自分自身の質を高めていきたいと思います。

志の醸成

人間はどのような環境の中で育つかで、その育ち方が変わっていくものです。その環境には、多様なものがありますがその一つに人的環境というものがあります。これはどのような人たちに見守られて育ってきたかということです。

人間が、赤ちゃんで生まれてから死ぬまでの間、一人だけで勝手に育つことはありません。両親をはじめ、多くの縁に恵まれながら私たちは育ってきます。そしてそれは身近では兄弟や友人たちになりますが、よくよく人生を観察していると多くの赤の他人ともいえる人たちによって支えられていることがわかります。

人間社会というものは、決して一人で生きているのではなく数多くの方々の見守りのネットワークの中ではじめて生きているということを確信するのです。

例えば、子どもたちは人生の中で必要なものを探して自立に向けて挑戦していきます。その時、必ずだれか見守ってくださっている存在があり、その子が安心して挑戦していけるように手助けてしてくれています。

その手助けの方法は、直接的もあれば間接的もあります。しかし確実にその子がその手助けの存在を直観し、自分も支える人になろうという気づきを得て社會の中で自立していく力が育っていくのです。

人類の支え合うというこの仕組みは、決して民族間や国家間問わずあらゆるところで機能しています。私も半生を振り返ってみたら、留学していたときも多くの外国人たちに見守っていただきました。そして幼少期から社会に出るまでも、時には叱咤され、時には褒められ、時には感謝され、時には背中を見せ、言葉をかけ、指導をしてくださったお陰で今があります。そのご縁や御恩は、今の自分自身を支えています。

その支えられた記憶がある限り、自分もまた同様の支える存在になろうと困っている人をみたら真心で接し、世の中に必要なことを実感したらそれを自ら解決しようとする志につながっていくのです。

「志」はつまり支え合う中で醸成されてきたということです。

子どもが志を持つためには、社會の見守りネットワークの必要は絶対に不可欠です。多くの見守りがあればあるほどに、子どもたちは志を確かにし自分自身の人生を社會の中で立てていくことができるようになります。

そのためには、そのネットワークをまちぐるみ、また国ぐるみ、世界ぐるみで丸ごと構築していく必要があります。現代社会は、競争的で画一的になっていますから様々な支え合いシステムも資本主義経済の中で綻びをみせてきています。

新しい時代、新しい世代は、この問題に正面から取り組む必要があるように思います。私も残りの人生は、支えてくださった方々へのご恩返しのために見守る仕組みを世の中に温故知新して和合する社會のために貢献できるように挑戦していきたいと思います。

子縁の本質

むかしから「子縁」というものがあります。これは子どもが縁をつないでいくということです。諺にも「縁の切れ目は子で繋ぐ」「子は縁つなぎ」というものがあります。

単に子どもは夫婦の縁をつなぐだけではなく、人類の世代と世代をつなぎ、世界をつなぎ、時間をつなぎ、文化や地域や伝統をつなぎ、希望をつないでいく存在だとも言えます。

この子縁が人々の断絶を甦生させ、失われていく未来をつなぐ存在になるのです。

そしてこれは人類の集団の叡智を担っているのです。

子どもという存在をどう捉えているか、そして子どもが集まるということが何か、さらには保育というものが如何なるものかをどの次元で受け止めているかで視座が変わっていくのです。

今もむかしも、子どもは両親だけが育てているわけではありません。数多くの方々の見守りがあってはじめて子どもは育ちます。赤の他人といわれる大人たちから見守られ、助けられ、見守られ、一人の子どもが立派に育っていきます。

その御恩をお返ししようとさらにより善い社會を創造していくのも子縁の叡智です。

人類はこれまで生き延びてきたのは、子縁があったからです。

その子縁を絶やさないことは単に子どもをつくればいいという問題ではありません。子を中心に如何に見守り合う社會を創造していくか。それがまさに子縁の本質なのです。

子ども第一義の理念をさらに発展させながら新たな挑戦を楽しみたいと思います。