農の道

田んぼのお水管理をしていますが、私の場合は先に知識を入れず田んぼと稲を見ながら取り組むため他の田んぼとは異なる農法になります。なので毎回、感覚が試され、何が自然で何が不自然かということと向き合うことばかりです。

今年は、暦や月のリズムなどを暮らしに取り入れて生活をしています。明日は新月ですが、法螺貝を立て田んぼにいのりを捧げます。英彦山の弁財天と関係性を結び、ご祈祷して取り組んでいますから巳の日にもこだわります。

お水を深める一年にしていますから、田んぼや稲はとてもお水を學ぶのに偉大な先生になっています。どの時間帯のお水か、どの場所からお水か、水量をどうするかなど、興味は尽きません。

以前、注ぎ師の方にお水の注ぎ方で味がまったく変わることを教わる機会がありました。お水は私たちの意識にも感応しますし、どのようにお水を尊敬するかでその変化は無限に異なります。

人間の体で考えてみてもお水がどのように働いているかを考えればすぐにお水の性質を発見します。

私たちは口からお水を空気と共に吸収します。酸素は血液の中に呼吸で溶け込み、それを吸収して二酸化炭素を排出します。また飲めばそれを内蔵が吸収し全身を循環して糞尿として排出されます。これは自然界も同様の仕組みです。

お水は呼吸と一体になって動きます。

田んぼもまた同様に、風が田んぼを揺らすことでお水は循環します。これは息をするのと同じです。土は酸素を吸収して栄養を取り込みます。これは人間の腸と同じです。お水を飲み過ぎば循環が澱み、少なすぎても乾きます。人間の身体であれば、小まめにお水を飲む方が身体によいといわれます。運動している時は、お水をがぶ飲みしても返って吸収するのが難しくなります。休息と共にゆっくりとお水を飲めば、内臓が穏やかにお水を吸収します。

太陽が出ている間は、植物たちは必死に光合成をし疲れます。そして夜になり月が出れば、月の引力に導かれ成長していきます。その時に、穏やかなお水があれば稲は休息ができ治癒します。

呼吸をするようにすべてのいのちは、活動と休息を繰り返します。それを助けるのが太陽や月や大地です。大地は体そのものです。その大地とどう接していくか、その大地が健康であるようにどう関係性を築いていくか。

農の道の妙味はここにあります。

何が自然で何が不自然か、そして何が健康で何が不健康か、刷り込みのない澄んだお水のような心で学び直していきたいと思います。暮らしフルネスの場にとって、田んぼはまさに先達です。

徳が循環する世界を見守れるように実践を続けていきたいと思います。

徳積循環の理

古来より、「時は流れる」という表現をします。これは万物は変化するということを示します。変化とは何か、それは言い換えれば流れ続けるということです。

水が流れ続けるように、いのちも流れ続けます。すべての存在は関係性のなかで変わり続けるのがこの世の真理です。変わらないものはありません。だからこそ先人たちはそれを受け容れて変わらないものを変化そのものとしました。変化する中で、形を変えても変化しないものを守り続けたのです。人間であれば、初心を守るということも同様です。

時が変化し、あらゆる状況が変わっても、自分で定めた初心を守るために自分自身の変化を喜んで受け容れていくということ。これは産まれてから老化して死ぬまでの間にも何度もその初心を内省し、向き合い、その都度に初心が守れるように変化していく。流れを止めないでいる、敢えて流れることで守るのです。

変化の書『易経』には「窮すれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば久し。」

という言葉があります。行き詰まれば変化が生まれ、変化すれば流れが生まれ、流れがあれば長く続くという意味です。

そう考えてみると、この世で最もこの変化を産み促している存在は「お水」です。

今年の私の一文字は「水」でしたが、水を深めれば深めるほど変化のこと、循環のこと、そして徳に回帰します。

レオナルドダヴィンチは、「Water is the driving force of all nature.」ともいいました。お水が自然の偉大な原動力であるとも。

原動力とは、「流れる」ということです。流れるものが動力であり、流れている最中こそ動力が活動している状態ということです。そしていのちは、そのとき、全体のいのちと一体になって躍動していきます。

だからこそ停滞、澱み、循環しなくなればいのちは弱ります。変化できないというのは、流れなくなるということです。

医書「黄帝内経」には「通ぜざれば則ち痛む」(不通則痛)とあります。

つまり流れなければ痛みとなる。これは人体ですが、自然環境でも同様です。痛みとは、自然災害によって引き起こされます。

健康を維持するとは、きちんと呼吸をし氣が巡っていることです。自然であれば、風水が流れているということです。

そして人類はそれを「暮らし」によって調えてきました。これを養生ともいいます。自然もいのちも健康もまずは養生の実践からです。養生の実践は、徳の循環に由ります。

引き続き、徳積循環の実践を弘めていきたいと思います。

 

元氣の甦生

元氣というものがあります。これは「氣の元」とも言えます。私たちは空氣を吸っては吐き、息をしていのちを保ちます。呼吸していなければ生きていくことはできません。食べ物がなくなってもしばらく生きられますが、呼吸できなくなれば生きることはできません。

この呼吸は、氣の交換でもあります。私たちのいのちは、いつも交換しながら循環し流れては調和しています。別のいのちと交換しながら全体のいのちを育みます。私たちは全体調和のなかでいのちを生きる、まさに全体と一体になって存在している部分の一つです。

その中心的なものがこの「氣」というものです。この世のすべては空氣で結ばれています。この世のすべてのものは氣を通して呼吸しています。これは無機質のものに至るまで、呼吸しないものはありません。だからこそ、氣がどうなっているのかをよく観察し洞察すれば病気の根源も認知できるものです。

「養生訓」を記した貝原益軒が巻第一「総論上」の中でこう記しています。

「素問に、怒れば気上(のぼ)る。喜べば気緩(ゆる)まる。悲めば気消ゆ。恐るれば気めぐらず。寒ければ気とづ。暑ければ気泄(も)る。驚けば気乱る。労すれば気へる。思へば気結(むすぼ)るといへり。百病は皆気より生ず。病とは気やむ也。故に養生の道は気を調(ととの)るにあり。調るは気を和らぎ、平(たいらか)にする也。凡そ気を養ふ道は、気をへらさざると、ふさがざるにあり。気を和らげ、平らかにすれば、此二つのうれひなし。」

意訳すれば、「中国最古の医学書『黄帝内経・素問』には怒ると、気は上へとのぼる。喜びすぎると、気はゆるみ、締まりを失う。悲しみすぎると、気は消耗する。恐れると、気の巡りが悪くなる。寒さにあたると、気は閉じこもる。暑さにあたると、気は外へ漏れ出る。驚くと、気は乱れる。働きすぎると、気は減ってしまう。あれこれと思い悩みすぎると、気は滞ってしまう。このように、あらゆる病は気の乱れから生じるのである。「病」とは、まさに気が病んだ状態をいう。だから、養生の根本は、氣を調えることにある。「氣を調えるとは、氣を穏やかにし、偏りのない平静な状態に保つことである。」そもそも氣を養う方法は、二つしかない。一つは、氣をむやみに減らさないこと。もう一つは、氣を滞らせないこと。氣が穏やかで、偏りなく、よく巡る状態を保っていれば、この二つの心配はなくなり、病になる原因も少なくなるのである。」と。

ここでの要諦は、病気は氣から起こる。氣を調えていれば病気の心配はない。氣の養生は、二つしかない。氣を滞らせずに循環すること、氣をむやみに減らさない、平氣でいることであると。

氣の持ちようは、健康を司る大きな鍵です。元氣は、いつも元氣であるように暮らしを調えることからはじまります。では元氣な暮らしとは何か、それは孟子の浩然の氣にこそヒントがあるのではないかと私は思います。

『孟子』公孫丑上の中で孟子は弟子との対話でこう言います。

「我善く吾が浩然の氣を養う。」

弟子が「浩然の氣とは何ですか。」と尋ねると、孟子は答えます。

「至大至剛にして、直きをもって養いて害することなければ、天地の間に塞がる。」

これは弟子との問答の中で、浩然の氣は、義を積み重ね、道にかなった生き方を続けることで育つということを諭します。浩然とは、広大で、のびのびと満ちあふれた状態のことをいいます。これは私は「元氣」のことだと定義しています。

つまり元氣でいるというのは、浩然の氣を養うこと。養生とは、この浩然の氣のことです。そして浩然の氣は、直き心、素直さ、義の心、そして徳を積むことで養われるというのです。

暮らしフルネスの実践は、この「元氣の甦生」にこそあります。

畢竟、短い人生の中で何が遺せるか。それは生き方や生きざま、そして実践です。実践を遺せば、後に続くものたちの道になる。徳と氣は表裏一体なのです。

道は元氣の甦生からというのが、私が場道家として場づくりをする理由です。

子どもたちに初心伝承できるように、精進していきたいと思います。

徳の循環

式年遷宮というものがあります。これは20年ごとに社殿を建て替える伝承の取り組みです。今は63回目、次回は2033年に64回目になります。見事に甦生され、いつ拝見しても新しく若々しく瑞々しさが保たれています。まさに永遠の象徴です。

この式年遷宮は、人は変わっても同じ精神・技術・形を何度も新しく活かすという仕組みです。この20年というのが絶妙な期間で、これが100年になれば職人たちも不在になり失われてしまいます。20年に一度というのは、職人の人生であれば3回は立ち会えます。最初の1回目の若い頃は年配のベテランの技術者や宮司はじめ神社関係者に指導されます。2回目、3回目は今度はそれを指導する側として同じことを取り組みます。

いくら同じ精神、技術、形があっても材料も人の環境も気候も価値観もすべて異なります。

それでも永続して初心を守ろうと取り組むところに、甦生の本質があります。

此の世の真理として死なないものは一つもありません。誰もが産まれては老い、死にます。死なない存在はありません。それがこの世の摂理です。だからこそ、人は死なないことを永遠とするのではなく「循環」することを永遠と定義したのでしょう。

循環し続けても、本質は守り続けるという実践。

日本にある老舗はみんなそれを守っています。式年遷宮と同じことをずっと繰り返しているのです。私の友人の会社や寺院も何世代も続いているところがあります。今でも何百年前のままに老舗を経営しています。

時代は廻ります。

たとえば、戦争の時もあれば平和な時もある、あらゆる天災人災に遭います。しかしそうであってもその時々の人が初心を守り本質を維持していたから今でも元氣に若々しく経営を続けています。それはそれぞれの老舗が「循環」を守ってきたからです。そしてこの循環には思いやりが必要で、次世代のためにと生きた先人たちの存在が不可欠です。

それを私は「徳」と呼びます。

徳が循環するというのは、永遠に甦生するという知恵の伝承なのです。

引き続き、人類、および子どもたちが安心して暮らしていける世の中になるように残りの人生も真摯に働いていきたいと思います。

暮らしと心身の健康

昨日は無事に英彦山の守静坊で夏至祭を実施することができました。宿坊周辺のお掃除やお手入れの作務にはじまり、法螺貝を磨き、夏至に因んだものを調理しみんなで囲炉裏を囲んでお昼を食べました。その後は、仙人と一緒に供養の本質を学び直し、いのり読経し、瞑想をしました。不老園のお茶を飲み、お水まんじゅうをみんなで味わい法螺貝を立てて太陽の光を浴びながら御祈願しました。

ゆったりと夏至の時間を共にいのり味わう。場によって癒され疲れがとれまたエネルギーが漲ります。健康というものは、心身の調和に由ります。心の健康は暮らしの中に存在します。

日本の文化にはハレとケという考え方があるといいます。簡単に言えば非日常と日常という言い方もします。現代は、ハレが日常でケが非日常になっています。つまり本来の日常が失われ、非日常だったものを日常のように過ごしているのです。人間中心の人間都合の時間軸やスケジュールですべて動いています。毎日入ってくる情報は、ほとんど人間だけで切り取られた目先の問題のことばかりで心が休まりません。忙しいという言葉が出ないほど、忙しいことが日常になっています。

残念なことにここに本来の「暮らし」はほとんどありません。

本来の暮らしとはどのようなものか、それは自然との共生や調和があってその循環に人間が寄り添い安心するものです。

心身の休息は、五感を通じて自然を味わう中に存在します。自然の中の人間性を快復していくのは「場を調え、間をつくり、和が訪れるのを静かに見守る」時にこそ実感できるものです。

先人たちは、まさにそのことをそれを「暮らし」としました。

忙しくなることはあっても、暮らしは失わない。どんなにハレがあってもケは守り続ける。それがハレとケのバランスであり調和だったのではないかと私は思います。

夏至は太陽と地球、宇宙のリズムに和合していく暮らしです。朝に目覚めの太陽に溌剌と手を合わせ、夕に沈む太陽に内省して拝む。太陽を感じながら一年の巡りを調えていく。心身は元氣になり太陽の光の中に包まれていく感覚が得られるものです。

子どもたちに何が遺し譲れるか、それは私はこの「暮らし」そのものではないかと実感します。学びは教科書や文字からだけ学べるものではなく、暮らしから感覚を通して自学自悟することによってのみ伝承されるように思います。

引き続き、暮らしフルネスの実践を通して場の大切さを伝承していきたいと思います。

 

丸ごと治す

今年、韓国の智異山に訪問している中で許浚(ホジュン)という人物のことを深めました。この方は朝鮮王朝中期の名医・王室医官で、韓医学の古典『東医宝鑑(とういほうかん)』を編纂した人物です。この『東医宝鑑』は1613年に刊行され、アジアをはじめ日本にも伝来し大きな影響を与えた書物の一つです。2009年にUNESCO「世界の記憶」に登録されました。

このホジュンは王を診た名医だっただけでなく、民衆のために医学知識を体系化し、薬草や治療法を使いやすくまとめたことで朝鮮の養生文化が醸成されました。一部の特権階級でしか受けられなかった医療や、専門書や中国にしかない薬草を身近な朝鮮の山野草に変換、翻訳され、また民間療法や未病につながる生活習慣の改善の仕組みまでも記されます。これにより韓国料理のナムルのように野草を日常から取り入れる習慣や微生物を活用した発酵食などにも大きな影響を与えたのではないかと私は思います。まさに医食同源の実践です。

ホジュンが編纂した『東医宝鑑』では「病気になってから治すのではなく、病気にならない生き方を大切にする」という思想が入っています。つまり人の健康は薬や治療だけでなく、食事、睡眠、呼吸、心の持ち方、人との関係など、日々の暮らしそのものによって育まれると考えられています。これは私の提唱する暮らしフルネスの実践とも一致しています。

畢竟、人間の暮らし方が変わらなければ本質的な病はなくなりません。いつまでも病気になるような生活を続けてその対処療法ばかりをしていても、根源的な人間性の甦生、つまり人が本来持っている力や幸福感が発揮される暮らしが調わなければ真の健康とはいえません。病を治すと同時に、どう人を治すか。教育とか医学とか、分類わけされていますが本来は「人間を自然に調える仕組み」のことです。

むかしから医者には「小医は病を治し、中医は人を治し、大医は国を治す」といいます。ホジュンという人物はまさに養生文化によって民衆の未病を促すまさに大医の実践をした方のように思います。大医は場を通して人間を丸ごと治していくのです。

人間の生き方や働き方を調えることは、まさに養生をすることです。保育の世界にも養護という言葉がありますが、これは養生から発生した言葉です。養生を守るということです。見守ることの大切な要素の一つです。

何かを足すのではなく、もともと具わっているものを甦生する。つまり徳や天分を引き出すような環境、場づくりをするということです。それによって自然に育つ力が発揮されるということです。

本来、人間に免疫力が具わっているように自然に人間性も回復していくものです。そしてそれは暮らしが土台になっているのは歴史が証明しています。真の豊かさは、養生からはじまるのでしょう。

自分を養生することは、周囲を養生することになります。場が調和していけば、自然に養生される人々が増えていきます。私の尊敬する二宮尊徳もまた大医の実践者でした。

時代や国を超えて、大医の実践から學ぶことばかりです。

暮らしの夏至祭

一年で最も昼の長さが長くなる2026年6月21日、英彦山守静坊では暮らしの中の夏至祭を行います。夏至は太陽の恵みを最大限に享受する日として、世界各地で独自の祭りや儀式が行われています。例えば神道では半年間の穢れを祓う「夏越の禊」も、夏至の頃に行われる代表的な風習の一つです。太陽と地球の関係性のエネルギーがあり、そして中庸になる一期一会の光で人々は自然への感謝と無病息災を祈ります。

現在、お山の暮らしを甦生していますがお山との関係性を磨いていくとかつての日本人が忘れてはいけない大切な初心や生き方、そして場があることに氣づきます。

現代は、時間に追われ忙しさや無理をして頑張る生活の中で自然感覚が麻痺してしまう人も増えています。この自然感覚とは、暮らしの場が失われているということです。

今回の夏至祭では、自然感覚と仏道を修養された仙人も一緒に参加し、生き方や場づくりを共にしながら先祖供養の大切さや日々の自己内省や環境づくりなども学び合います。

また夏至は陽極陰性ともいいます。陽が極まり陰が産まれる、つまり一陰来復です。冬至が光がやってきて陽に転じるのに対して、夏至は光が陰になっていきます。しかしこれが自然の法理でり、陰もまた好循環の兆しなのです。盛者必衰であり、老化していくのはいのちの循環です。

その大切な節目に、よく内省し養生し今を受け容れて甦生することがいのちを逞しくし健康にしていきます。無病息災を祈り、長寿を祝い、ご先祖様に感謝する大切な暮らしの行事なのです。

日子山仙螺講の方々と、法螺貝を立て、法螺貝を磨き合います。お水と紙やすりで丁寧に手入れします。英彦山の倒木を片付け、場を清め調えて、甦生した石風呂サウナを実践しお山の霊水で禊をします。

また音のご奉納や神事後の直会なども予定しています。

私たちが大切にしているのは、「場づくり」です。人は個人で回復するよりも、場によって人間性は回復します。純度の高い場、そして純度が磨かれ続ける場は、人間の自然感覚を呼び覚まします。

環境や場は、人を見守り続けます。

成長と成熟~自我との折り合い~

人間は人格が磨かれないと自我との折り合いがつきません。自我とは調和であり、自然体の姿でもあります。これは一人の人格の中に二人の人がいるような感覚です。神経では、交感神経と副交感神経との関係に似ています。

通常、成長成熟は人間的にも才能的にも技術にも完璧になった人のように語られます。地位も名誉も人格も身に着いた人物のように言われます。

しかし実際には、良寛さんやあるいは名も知られずとも地位がなくても見事な生き方をした僧侶や医師がいたりします。最近では、ウルグアイのホセ・ヒムカ氏などもそうです。

艱難辛苦がその人の自我を調え、見事に調和した「一人」になっておられました。つまり自我が調い、真の人間性を生きることができたということです。

そこから逆説として、では何が成長成熟なのかということを洞察してみると人間はどのような状況でも自己を深く探求し学問を続けることができるということ。また人間の理解が深まり、何が未熟であるのかがわかるということ。そしてどのような状況かであってもどう生きるかという生き方を磨いていくということが真の人格、自我との調和には関係していることがわかります。

人生は一度切りですが、生き方はそれぞれが決めるものです。

そして真の資質とは、その人がどのような状況でも本質が保てるかということに他なりません。

本質を学び、本質のままでいることは人格を高めることです。同時に、本質を守る人の周りには同じく人格を磨きたい人が集まってくるものです。孔子の一生が十五にして学を志し、七十にして心の欲するところ矩をこえずといったのは、本質を学び続けて遂に自然体の一人になれたということでしょう。

本質を保とうとすれば必ず苦労は訪れます。

残りの人生も、意味を味わいながら自我の調和を暮らしの中で調えていきたいと思います。

螺旋の道

明日は、英彦山守静坊で法螺貝を七神お渡しする儀式をします。誓願した法螺の五百羅漢を目指し、いま七十四羅漢になりました。ますます法螺を通した波動は揺れ螺旋の繋がりが広がりより中心への思いの結びつきは強くなります。

法螺の意味は、「螺旋の真理」という意味です。ではこの螺旋の真理とは何かということです。螺旋というものは、宇宙の姿であり、星々の姿であり、意識や生命の姿です。そして分子や量子の姿でもあります。波動は揺れていますが、それを纏めているのが螺旋です。

つまり波動がカタチになったものが螺旋ということです。

例えば、空気中の風は揺れています。しかしそれが纏まるとき、台風や竜巻になります。海や川などの水も同様です。流れがありそれが揺らぎ螺旋になることで調います。時が動けば波動、空間や場が螺旋です。

最近は、脳科学でも螺旋波というものが見つかり私たちの脳の認知や意識は螺旋上に信号を送ることで纏まるといわれます。心臓も単なるポンプをするのではなく、螺旋状に包まれた筋束が螺旋のように呼吸をして血液や酸素を全身に巡らせているというものです。つまり螺旋はマクロ宇宙からミクロ宇宙まで全て網羅しているあらゆる真理の姿です。

此の世の全ての神秘には、波動や螺旋が深く関わっています。古代より人々は螺旋の力を発見し、紋様をはじめあらゆる暮らしの中心に螺旋を取り入れてきました。ある部族は、蛇を象った螺旋の踊りをすることでいのちを蓄えました。またある宗教では螺旋はすべての神人合一の象徴としました。陰陽道やタオといった道もまた、波動と螺旋が顕現したものとされました。

法螺貝を持つということは、螺旋の道を実践するということでもあります。

人は日々の生活の中で様々な感情を持ち心を調えます。この瞬間瞬間の一期一会には、波動と螺旋が深く結びついています。微細な揺れから大きな揺れ、それを自己内省によって螺旋にして調えます。

私たちが「調っている」という状態は、螺旋になっているということです。そして調うとは、成長すること変化すること、シンプルに言えば「旅をする」ということです。宇宙を太陽系の星々と共に螺旋しながら旅をするように、私たちのいのちは螺旋の道と一緒に歩みます。

法螺貝を吹くとき、私たちは螺旋になります。

螺旋になるということは、あらゆるものを一円和合して成長して真に自己に氣づくことを繰り返すということです。

何度も何度も繰り返し同じことをしても、必ず前と同じ円ではなく螺旋となるという法則。そこに絶対的安心を直観するから今でも法螺貝は人々と共に旅を導く存在として大切に守られ人類のお導きの存在、宝ものになっているのでしょう。

宇宙自然、全体調和、波動の中で旅をし、螺旋の道を究めていきたいと思います。

桜の徳

樹齢230年の桜を見守っていると、時の流れを感じるものです。最初は小さな苗木から老木と呼ばれるほどの風格を持っています。同じように四季を巡り春には花を咲かせ、今も花を咲かせます。

その花を眺める人は変わっていきますが、花は誰が来ようが来まいが咲かせます。

230年の歳月を考えてみると、人間であれば苗木の時が初代としても少なくても5代目以降の子孫が今の桜を観ることになります。そして同じように200年後にはまた10代目以降の子孫が観るのでしょう。

桜を守るということは、どの代がやってきたのと同じように桜と寄り添い生きていくということでしょう。

私はある意味天命として古民家を甦生しています。それまでの暮らしをお手入れしてそのまま今に温故知新して子孫へと伝承しています。

その中で代が継がれていくというのは、その暮らしや生き方を守っていくということです。代々がそれぞれに桜を見守ってきたように、自分も桜を見守るのです。

もしも自分の方が桜よりも長生きだとしたらどうするでしょうか。もしも自分の寿命が1000年あり、桜が500年だとしたらどうするでしょうか。

きっと、私なら桜の苗木を育て見守るでしょう。それが途絶えないように、また美しい姿で生き続けられるようにと場を調えます。今は桜の方が長生きですから次の人間が現れてくれるように美しい心を育て見守っているのでしょう。

人の心の中にこそ、桜の徳は存在するのです。

結局、関係性いうのはお互いが見守り合いバトンを渡していくように伝承されていきます。

伝える側と、承る側の一生の契りと一期一会です。

美意識というものは徳意識でもあります。

長い歳月の中でどちらかが先にこの世を去ったとしても美しい心の風景を見守り合っていこうとする譲り合い、救い合い、分かち合い、許しあう慈愛の真心です。

桜との出会いを大切に生きる日本人が多いこと、先人たちの真心にただただ感謝です。