暮らしフルネス的な生き方

いよいよ本日は、英彦山守静坊の感謝祭です。昨年からずっと写真を振り返ってみてここまでの経緯を辿ってみました。まるで英彦山に呼んでいただいたように多方面から英彦山のキーワードをいただき、そして宿坊を甦生するように運ばれました。

私の生き方は、もともと天命に委ねるタイプであまり計画を立てることがありません。今、発生したことから組み立てて一期一会に学び続けます。過去からのプロセスの集積と繋がり、全体からのメッセージの声を聴いて今、何をやるのがもっとも全体快適になるのかと運を優先して徳を磨きます。

なので私自身が何が発生するのかもわからず、その時々に最善を盡していくために当たり前からもしれませんが常に充実した学びに満ちています。

時折、自分の分を超えたものに出会えばこれは大丈夫なのかと不安にもなります。しかし、天が命じたのならきっと大丈夫ではないかと覚悟を決めてあとは粛々と取り組んでいくのです。

意味はその時は分からなくても、きっと後から意味が着いてくるだろうと安心して一つ一つ、やり切っていきます。結構、ここ数年はさらに意味が分からないことが増えてきて世間一般的には意味のない(無価値)のことをやらせていただくことも増えました。

こんなことをして一体、誰が関心を持つのだろうかと思うものであってもいただいたご縁に忠実に取り組むだけです。

しかし一つだけ、いつも意味を感じるものがあります。それは「ご縁」というものです。ここで出会った、私のところまで来てくださった、有難いという「もったいない」という歓びです。

この出会いをもったいないと味わうからこそ、生まれてきた甲斐を自覚します。こんな体験をさせてもらえることの仕合せ、ご縁を感じられる歓びは常になくなりません。

だからこそ、味わおう、あとは何とかなるだろうと明るさが磨かれるのです。善いか悪いかではなく、豊かさに充たされます。まさに一つの暮らしフルネス的な生き方があります。

人生は二度とありません、この思い出もまた一期一会です。

長い歴史の縦の糸、そしてこの時代に生まれた横の糸、その結び目には美しい和があります。和を大切にして、心を紡いでいきたいと思います。

英彦山守静坊の甦生 感謝祭

明日は、いよいよ英彦山の守静坊の甦生感謝祭を行います。振り返ってみたら、本当に多くの方々に見守られ無事に宿坊を甦生することができました。結に参加してくださった方々のことを一生忘れません。この場をお借りして、改めて深く感謝しています。

思い返してみたら、今回の宿坊の甦生は困難の連続でした。工事に取り組み始めてからも何十回、もしくは何百回も神様に真摯に拝み、尽力することはやりつくすのでどうかお力をおかしくださいと祈り続けました。少し進んだと思うと、大きく後退し、善いことが起きたと思ったら八方ふさがりのような状態に陥ったり、一喜一憂してばかりの日々を過ごしてきました。

そんな中でも、本当に有難かったのは身近でいつも支えてくれたスタッフや家族、どんな時でも丸ごと信じて応援してくれた叔父さん。そしていつも見守ってくれていた仲間たち、結に参加してくれて見返りを求めずに徳を一緒に積んでくださった同朋のみなさま。小さなお気遣いから、大きな思いやり、取り組みに深い関心を寄せてくださった方々に心を支えていただいていました。

今回の宿坊の甦生で、故長野先生はじめこの宿坊に関わったこられた歴史の先人の皆様。そして英彦山に少しでも御恩返しすることはできたでしょうか。喜んでくださっているでしょうか、もしもそうなら努力が報われた想いになります。

私たち徳積財団、及び結の仲間は宗教組織ではありません。むかしの先人たちが暮らしのなかで信仰していたように、お山を拝み、お水を拝み、いのちを大切にし、お祈りを実践し、生活を助け合うなかで心をむすぶために信じあう仲間たちの結(ゆい)です。この結というのは、つながりや結びつきの中で暮らしていくという古来からの日本人の知恵の一つで「和」ともいいます。

私は、和が永続することを「平和」だと思っています。そしてそれは徳を積むことで得られると信じています。この徳を積むというのは、自分の喜びがみんなの喜びになり、みんなの喜びが自分の喜びになるという意味です。自然をお手本にして、全体のいのちが充実していくように、暮らしを充実させていくことです。それが暮らしフルネスの実践であり、徳が循環していく安心の世の中にすることです。

今の私たちは歴史を生き続けている存在です。終わった歴史ではなく、これは今も私たちが結び続ける責任を生きています。今までの先人たちの徳の集積を、さらに磨いてこの先の子どもたちに繋いでいくのが今の世代を生きる私たちの本当の使命です。

最後に、感謝祭に来てくださってお祝いをしてくださる友人たちがむかしの家族的な雰囲気で舞や唄を披露してくれます。この宿坊の谷は、弁財天さまの谷で弁財天は芸能の神様でもあります。むかしのように囲炉裏を囲み、みんなで一緒に同じ釜の飯を食べ、笑い、踊り、唄を歌う。心地よい法螺貝の音色が宿坊全体に広がっていくように豊かで仕合せなひと時を皆様と一緒に過ごせたらこれ以上の喜びはありません。

これから親友で同志のエバレットブラウンさんが、宿坊に滞在し英彦山の徳を出版や湿版写真等で伝承してくれます。そして私は、一人ひとりの徳を尊重し合い磨き合う場として仙人倶楽部というものをこれから徳積堂にてはじめます。私が心から尊敬する師の一人、二宮尊徳はこれを万象具徳といい、それを顕現させるのが報徳ともいい、その思想を一円観といいました。私はこれを現代にも甦生させ、「平和が永続する知恵」を子どもたちに伝承していきたいと思っています。

本日がその一つの節目になります。このひと時を永遠の今にしていけるように皆様と祈りをカタチにし、懐かしい未来を味わいたいと思います。

ここまで本当にありがとうございました、そしてこれからもどうぞよろしくお願いします。

善友と道

道を歩んでいく中で、多くの仲間に恵まれます。その仲間の御蔭で、孤立することもなく孤独も豊かなものになっていきます。人は、必ず心の中に良心を持っています。それは思いやりや優しさです。同時に、自我というものもあります。いろいろな人たちとかかわる中で、その善い方を導いていこうとするのが人生の修行そのものかもしれません。

仏陀の話の中で善知識経というものがあり、弟子のアーナンダに善き友について話をするシーンがあります。

意訳しますが、仏陀がサッカラの村に着いたときにアーナンダはこう質問します。「共に仏法を学んでそして共に仏の道を歩んでいく。このような善き友がいるということは、修行の既に半ばを達成できたに等しいと私は思ったのですが仏陀はどう思われますか?」と。それに仏陀は応えていいます。

「善き友がいることは修行の半ばではなく、そのすべてですよ」と。つまり、真の修行は善き友を持つことで完成しているということでもあります。

また別のところで仏陀は「悪友を避けて善友を求めよ、しかし善友が得られなければ、孤独に歩め」ともいいます。

仏陀は、皆が私を善き友とすることによって仏の教えを学びそして共に仏の道を歩んでいるように善き友を持つことを心がけることを言いました。

つまり善き友とは、自分の中にある善心そのものでありその心と歩んでいくことで心の平安が宿り、その仲間たちと道を歩み続けていくことで修行が為ると言ったのかもしれません。

常に心は持ち方次第で、どうにでも世界は変わっていきます。物事のどの方を観るか、そして何を想いカタチにするかによって変化していきます。仏陀は同時に悪友を避けなさいといっています。何が悪友なのかは、道を歩めない仲間たちのことかもしれません。

友達がたくさんいたらいいわけではなく、真の友は心の中に存在する友です。その友は、それぞれの心の中にいてみんな同じように優しくありたい、思いやりのある人でありたい、心美しくありたい、感謝のままでありたいなど、素直なところにあります。

そういうものを磨いていこうとする人が、同じように仲間たちと出会い日々に修行をする。そして磨き合い高め合っていく、まさにそのことが人としての一つの集大成ではないかとも私も感じます。

人間力を如何に磨いていくか、これからテクノロジーがさらに発展していくなかでその深化は必要不可欠です。だからこそ、道を歩む、そして善友が必要だと思います。2000年以上たっても、真理や真価はまったく変わらずにあることに安心します。

引き続き、自分はどうかと内省しながら言葉ではなくカタチで実践していきたいと思います。

出会いの哲学

昨日、久しぶりに恩師の一人である吉川宗男先生が訪ねてきてくださいました。コロナもですが、色々なことがありなかなかお会いできなくて本当に久しぶりでした。思い返せば、まだ20代のときに同じような生き方を目指している先生に出会うことで私のインスピレーションも膨らみました。

今、場の道場を始めたきっかけも宗男先生とのご縁でした。その当時、先生からは、伝統的日本の文化である「場と間と和」の話を聞かせてもらい、ありとあらゆるものがメビウス上につながっているというメビウス理論を学び心が震えました。

先生の著書には5つの知の統合こそが人間力の知(HQ : Humanity Quotient)だといわれます。①知力、ヘッドナレッジ、IQ(Intelligence Quotient)頭で知る力。②感力、ハートナレッジ、EQ(Emotion Quotient)心で知る、観る、感じる力。心眼知。③行力、ボディナレッジ、BQ(Body or Behavior Quotient)身体の力。身についた技能。身体知。④活力、シナジーナレッジ、SQ(Synergy Quotient)そして上記の三力を源泉として生まれる生命力・活力・共生力。⑤場力、フィールドナレッジ、FQ(Field Quotient)場の暗黙知を感知し、場にライブ感を創り出す力。

このトータルな人間力の知は「全人格人間力の知」と定義しています。

昨日も、私が暮らしフルネスで創造した場の石風呂に入りながら色々とお話を伺いました。「味わう」ということの大切さ、そして出会いを哲学する人生をずっと歩んでこられたこの今の姿からも改めて生き方を学ばせてもらうことばかりでした。

人間は何歳になっても、出会いは無限です。

出会いに対して純粋な姿、ご縁を結びそのご縁を深く味わい余すところなくそれを好奇心で追い求めていく道を歩む姿勢。メビウス理論や場と間と和のどの話も、宗男先生と一緒に体験していく中で得られる知恵そものです。

説明ももちろんわかりやすく、非常に言葉も磨かれておられますがもっとも磨かれておられるのはその純粋なありのままの出会いの哲学です。

ちょうど色々と私も悩んでいた時期、遠方より師が来るで元氣をたくさんいただきました。大切なことを忘れずに、一期一会の人生を歩み切っていきたいと思います。

ありがとうございます。

経済の本質

道徳と経済の一致という言葉があります。渋沢栄一は、論語と算盤という言い方をしました。これはそもそも二つは一つであるという意味であろうと思います。二宮尊徳は、道徳なき経済は犯罪 経済なき道徳は寝言であるといいました。犯罪と寝言、厳しい言い方のようですが実際には今の資本主義の中ではなかなか理解し難いものかもしれません。

よく経済を血液の流れのように例えられることがあります。血液が綺麗でサラサラであれば、健康でその逆は不健康だといわれます。血液が循環し続けることで身体も維持されますからその血液を澱まないようにしていくためには工夫が必要です。

どうしても人間は、二者択一、対立構造で物事を分類していきます。本来は分けられないものを分けることでわからなくなります。その分かれているものを一致させていくことで本来の一つにしていくというのは魂の力です。魂という言葉もまた、心身一如、主人公としての自己一致の境地での言葉です。

本来、はじまりの言葉が何であったのかを考え抜くことで原点や初心を思い出すことになろうとも思います。

道徳も経済もそもそもは人の生きる道です。その道をどう歩んでいくかは、どのような実践をするかにかかっているともいえます。まず道があり、その道をどのような志で歩んでいくか。そこには徳があります。その徳をどのように磨いていくかで、社会を豊かにしていきます。

何のためにそれをやるのかを忘れずに、それぞれが道を歩んでいけばそれぞれが仕合せな社会を築いていくことができます。そのために、まず足元の実践を見つめ直す必要があります。

石田梅岩という人物がいます。この方もまた経済と道徳の一致を述べていた方です。その方が商人の道としてこんな言葉を残しています。

「商人の蓄える利益とは、その者だけのものではない。天下の宝であることをわきまえなくてはならない。」

天下の宝という認識は、今の世の中には少ないように思います。本来、私たちは何のために経済を豊かにしていくのか。

子どもたちや未来のためにも原点を忘れずに実践していきたいと思います。

仙人の知恵

生活の中で様々な知恵を持っている人がいます。この知恵は暮らしの中で活かされるものばかりです。むかしは知識はあまり多くはありませんでしたが、知恵の宝庫でした。

田舎では、知恵をたくさん持っているお年寄りがいてその話を聞くのはとてもワクワクしました。今思えば、時代がどんなに変化してもずっと変わらずに役に立つ知識というのは伝統文化のようであると思います。

本来は、知恵をたくさん持っていることで豊かさは増えていきます。豊かな暮らしにはこの知恵が欠かせないのです。今では便利になってあまり知恵を必要とはしなくなりました。流通を含めほとんどがシステム化され、知恵を使わなくてで誰でもそれ相応の効果が得られるからです。

そしてそこにはお金がついてきますから、お金をかける方が知恵であるとさえなっている世の中でもあります。知恵そのものの定義が変わってきたということでしょう。

しかし本来の知恵は、自然の知恵に近いものです。あるものをうまく活かす、そしてないものは求めないという具合に物事のある方を観て知恵を発揮していくのです。

これは一つの仙人の知恵かもしれません。

私はそれを暮らしフルネスといって、足るを知る暮らし、そして暮らすだけで十分こそが知恵とも思っています。仙人の生き方は、これからの人類に大きな影響を与える気がしています。

これから仙人倶楽部を発足しますが、知恵をたくさんもった人たちが歴史を繋いでいけるように場をととのえていきたいと思います。

甦生の道を精進していく

物事は小さくはじめて大きく育てていく方が自然に近いように思います。最初から大きくしようとすると、確かに注目されて目立ちはしますがじっくり味わい取り組んでいくことができません。

現代はすぐに結果重視で、なんでも派手に目新しいことを探します。そして一度、見てしまえばわかってしまったと安心して飽きてしまいます。わかることが目的になっているからです。しかしわかるというのは、そう簡単なことではありません。なぜなら知ったことと、真にわかることは別のことだからです。

わかるというのは、本当はとても奥深く時間が必要です。しかし今の時代は、時間をかけることを嫌がります。時間をかけずにすぐに結果が欲しいと思うのです。だから、わかりにくいものを毛嫌いします。わかりづらいと文句をいったりします。

しかし本当はそれは真にわかろうとしない人の意見であることがほとんどです。ちゃんと理解しようとする人たちは、何度も通い、体験をし、その深い意味や味わいを感じ取ります。一度ではわからないから何度も通うのです。

私も今までわからないことを真にわかろうとして、何度も通い続けているものがあります。ひょっとすると死ぬまで通いながら学ぶのではないかとさえ思います。他には、法螺貝などもそうですが練習してもしてもわかりません。わからないから、もっと練習しますがそれでもわかりません。先日、先輩たちの会合で練習風景を見学しましたが何十年とやっていてもまだわからないとみんな目をキラキラさせています。

人が何かをわかるというのは、道を究めるということです。

道を究める志があるからわからないのであり、それがわかるというのは道がわかるということです。知識ばかりが増えて、なんとなくわかったらそれでもう終わりというのは冷めた感情だなと思う時があります。ワクワクドキドキし、好奇心を発揮させ、面白い世界を学び、まだ見ぬ世界の広さや深さを学ぶことは人生を真に豊かにしていきます。

わかってもらおうと思う自分への焦りも捨てて、滋味にじっくりと地道に甦生の道を精進していきたいと思います。

知恵を学び直す

むかしの格言には様々な知恵があるものです。それは生きていく中で先人たちが実体験して、得た法則のようなものが取り入れられているからです。それを長い年月をかけて何回も検証し、自然や時代の篩にかけられても残っているものだからです。

実体験を如何に観察していくか、それは反省と改善の繰り返しです。人生経験の豊富な人や長老たちは知恵の宝庫です。それは人生の中で何度も試行錯誤して学んできたからです。

そう考えてみると自然界も同じです。

すべての生き物は知恵を持っています。それが進化に現れていきます。時代が変わっても環境が変わっても適応していきます。そして知恵に生きている生き物はずっと生き延びています。長いもので数億年も同じように生き続けられています。それは自然の法則に沿っていることであり知恵そのものを生きているからでもあります。

知恵は自然の摂理です。自然の摂理というものは、私たちは自然の一部ですから自然が存在している以上、自然に寄り添って自然の知恵を持てば自然と共生していくことができます。

逆に自然から離れて、自然から反するとそれは知恵ではありません。私たち人類は、知恵を捨て知識ばかりを得てきました。知識を得たから自然の摂理を忘れていきました。すると、ある時、自然の摂理を思い出すようなことに遭遇します。そして謙虚にまた知恵を学び直すのです。

私たちは知らず知らずに自然の摂理の中に存在します。この身体も、そして心も精神も、これは空気があるように水があるように、朝晩があるようにあらゆるところに絶対的な影響を受けていきます。そんなものを疑ったり、分かれたりすることは意味もなく、自然であることに安心し、知恵を学ぶことで仕合せの意味を感じ直すこともできるのです。

最近、ウェルビーイングが世界的に流行っています。生き甲斐や働き甲斐、また暮らし甲斐など心身健康である生き方のことです。逆を言えば、心身不健康になっているから求めているということでもあります。

自然に寄り添うということの豊かさ、そして自分自身であることの仕合せ、真の喜びは自然体の中にあり、それは知恵を学び直すことで得られます。私の取り組む「場」にはそれがあります。

子どもたちに子どもらしく子どもが憧れる未来と共に今を歩んでいきたいと思います。

和紙とは何か

英彦山の宿坊、守静坊の甦生のクラウドファウンディングの返礼品を用意するために和紙の準備に入っています。和紙の定義は、現在では西洋から伝わった製法の木材原料を主とする洋紙に対して、むかしながらの製法でつくっているのが和紙と言われます。他にも手漉き和紙のみが本来の和紙という定義もあります。また最近では原料に三椏や楮が100%使われたり、機械でも手すきに近いものも和紙と定義されたりしています。

何が和紙というのかは、それは個々人の受け止め方ですから厳粛に何が和紙かということはわからなくなってきています。以前、伝統のイグサで畳をつくっている農家さんからイグサは加工品ではなく生産品であるという話を聞きました。つまりいのちあるものとして生きているものだということです。

私にとっての和の定義は、いのちがあるものということになります。そういう意味で和紙は、私にとってはいのちのあるものでつくっているものという意味です。それでは何がいのちがあるのかということになります。

もともと日本の和紙作りの三大原材料として使われているものは楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)です。この植物を収穫し、丁寧に扱って和紙の原料をつくっていきます。それを和紙職人が、一枚ずつ手で漉いていきます。私もその場面を何度も観ましたが、とても神秘的で神々しい様子です。

その和紙は機械ではでない風合いがあります。これは手漉きだけではなく、最初からずっと完成するまで日本の伝統的精神でつくられているからです。

和というのは何か。

この問いは私にとっては明確な定義があります。それは日本の心でであるということです。日本の心とは何か、それは思いやりのことです。思いやりを忘れない、すべての主体をいのちとして主人公としていのちをすべて全うできるように配慮や尊重があること。

そうやってつくられたものだからこそ、和であり和紙になるのです。

だから自然の篩にかけられても長持ちし、何百年、もしくは千年を超える時間を維持することができるのです。そういういのちを入れるものだからこそ、むかしはお札にも使われていて人々の暮らしを守ったのでしょう。

返礼品は、このいのちをそのままお届けしたいと思います。

英彦山の守静坊から思いやりを伝承していきたいと思います。

自然のリズム

先日、浮世絵師・廣重の東海道シリーズ「三嶋」の中の三嶋明神前でほら貝を吹く男の図というものを見ました。これは何の図だろうと深めていたら、むかしはお役人さんたちが宿場町で時を知らせるのに法螺貝を用いたとありました。山伏だけではなく、むかしは役場職員たちも法螺貝を吹いていたということになります。そういえば、先日、インドから来られた留学生もインドでは朝や夕方にみんな法螺貝で今でも時を知らせているといわれていました。それだけむかしは、法螺貝は暮らしの中で当たり前に存在した道具だったのでしょう。

話は変わりますが、もともと今のような24時間を分刻みで生きるようになっているのは現代の特徴で少し前までは不定時法といって自然のリズムに合わせた時間が用いられていました。

一日の長さを等分に分割する時刻制度を「定時法」で、これに対して一日を昼と夜に分けそれぞれを等分するやり方を「不定時法」といいます。江戸時代までは日本はこの不定時法が使われていました。つまり昼と夜をそれぞれ6等分し、一単位を「一刻」と呼びました。

これを使えば、一日のうちでも昼と夜の一刻は長さが違い、同時に昼夜の長さは季節によって変化しました。つまり時間が昼と夜と季節によって変わるということです。時間に合わせるのではなく、自然のリズムに合わせた時間を生きていたということです。

そしてその時の呼び方も数字ではなく真夜中の子の刻から始めて、昼夜12の刻に十二支を当てました。一方で子の刻と午の刻を九ツとして、一刻ごとに減算する呼び方も使いました。子の刻が九ツ、丑の刻が八ツで巳の刻の四ツまで行ってまた午の刻で九ツから数えます。これは数字だと、同じ数字が2回出てくるのでどちらの2つとか、どちらの3つとか聞き直すこともあったからでしょう。それで夜の九ツ、昼の九ツ、明け六ツ、暮れ六ツといった区別をつけたのです。泣く子も黙る丑三つ時というのもここから出てきます。

これはよく幽霊が出てくる時間帯といわれ怖がられました。これは中国の陰陽五行のもっとも陰の強い時間帯のことです。陰陽はたとえば「月は陰、太陽が陽」「裏は陰、表は陽」ともなります。そして「丑は陰」で「寅が陽」となり、その中間にある「丑寅(午前3時)」は「鬼門」です。つまり「鬼が出入りする」方角となるため、近い時刻の「丑三つ時」が「鬼門」と深い関係があると解釈されこの時に幽霊が出ると信じられたのでしょう。

むかしの人は昼と夜の時間を棲み分けしていたといいます。昼は人の時間で夜は神の時間だったのです。そうやって自然のリズムで自分たちの働き方を換えていきました。今では働き方改革には自然のリズムが無視されています。そのすべては人間中心です。

私たちの暮らしフルネスでは、自然のリズムを取り入れています。人間が本来持っている暮らしの時間は、今まで生きてきた時間軸を使うことで甦生していきます。子どもたちが真に豊かな時間を持てるように、この時代で逆行小舟と言われようとも子どもの憧れる生き方と働き方の実践を磨いていきたいと思います。

今度、法螺貝で時を知らせてみたいと思います。