大気圧と法螺貝

私たちは、知らず知らずに大気圧の中で暮らしています。地球には大気がありその大気の重さ圧力が全身にかかっているという具合です。これは海で考えてみてもわかります。海に潜れば水圧がかかるように、地上にいる私たちにも、頭上にある大気の重さによって「大気圧」がかかるのです。

その大気圧は海面付近であれば約1013hPa。これは手のひらほどの面積にも、およそ100kg重に相当する力がかかっているほどの圧力です。大人の私たちには約18000kg重ほどかかっているという計算になります。

想像したらすぐにわかると思いますが、瞬時につぶれてしまう重さです。

空気も水でできていますから、巨大な海の中にいる状態と同じです。

しかしなぜこの重さがかかっているのに人間の身体が押しつぶされないのか。それは身体の内側にも圧力があり、外側の大気圧と「釣り合う」からです。

この釣り合うという状態こそ、大気圧と調和する状態です。人間の身体では、外から圧力がかかりますが内側からも圧力がかかります。

大気圧はまず上から押しつぶすのではなく前後・左右・上下、あらゆる方向からほぼ均等に作用します。それに対して人体の多くは水分でできていますがその血液や細胞内外の液体、組織などにも圧力が伝わっていて、外からの大気圧とほぼ釣り合う状態になります。

これは空のペットボトルを密閉して外側の圧力だけを強くすると潰れますが内側にも同じ程度の圧力があれば潰れないのと同じ仕組みです。

ただここに圧力差が生まれると、それを修正しようとして変化が生まれます。例えば、飛行機で耳が痛くなるのも、この圧力差が一時的に生じるからです。釣り合わないから発生するという現象です。

常に釣り合った状態でいるから、こんなに重たい大気圧を普段は感じないのです。

呼吸はこの大気圧を活用して行われます。胸を広げて肺の中の圧力を少し下げると、大気圧によって空気が肺へ入ってくるという具合です。つまり吸う力で呼吸をするのではなく、内側と外側の圧力差を利用して呼吸をしているのです。

この圧力差の微細な差を産み出すことで、呼吸をしています。

そして法螺貝も同じ仕組みを使っているのがよく分かります。まず法螺貝を吹くことは、大気圧との「圧力差」を利用して音を生み出していく法具です。息を吸うとき、胸郭を広げて肺の中の圧力を大気圧よりわずかに低くします。すると、外の大気が肺の中へ流れ込みます。反対に法螺貝を吹くときは、呼吸筋を使って肺や口の中の圧力を大気圧より高くします。その圧力差によって空気が外へ押し出され、唇が振動します。

その振動が法螺貝内部の空気に伝わると、空気は細かく圧縮と膨張を繰り返します。これが「音波」です。法螺貝の内部では、その形に応じた共鳴が起こり、特徴的な強い音となって外の大気へ広がっていきます。つまり法螺貝の音とは、単に強く息を吐いた音ではありません。

大気圧を基準に身体が小さな圧力差をつくり、それが唇の振動、法螺貝の共鳴を経て、大気中を伝わる「圧力の波」になったもので音が出ているということです。

普段は感じることのできない大気ですが、法螺貝を吹くことで、その大気が振動し、音として私たちの耳に届いているのがわかります。

私たち法螺貝を吹くものたちは、常に大気の流動や変動、気圧や振動を調えることで場を調和させることを実践しているとも言えます。

法螺貝の音は、まさに螺旋の響きですがこの螺旋の響きそのものが宇宙の振動と共鳴していきます。

呼吸を修めることは、大気圧を修めることです。

引き続き、精進していきましょう。

自然の本体、螺旋の力

「やたらめったら」という言葉があります。この言葉は深く考えたり順序を決めたりせず、むやみに、手当たり次第に行うようなときに使われるものです。つまり一般的には無計画や無秩序という少し否定的な意味で使われます。

これは先に答えがあって動くのではなく、動きながら出会うものによって調っていくという方法の一つです。

例えば自然も、川は蛇行し、風は渦を巻き、植物は自由に枝を伸ばします。一見すると無秩序でも、その動きの中から新しい形や秩序が産まれていきます。

これを私は螺旋の力であると直感しています。

そもそもこの大宇宙はすべて螺旋の力によって活動しています。マクロでいう大宇宙の銀河やブラックホール、そしてミクロの分子や細胞まで螺旋運動していないものなでこの世に存在していません。

この地球もまた螺旋運動をしています。少し考えてみれば自明します。

例えば地球はまず、自分自身の軸を中心に自転します。赤道付近では、その速さは秒速約0.46キロメートルです。つまり、私たちは地球の上にじっと立っているだけで、地球の回転によって秒速約460メートルの速さで動いています。

そしてその地球は、太陽の周りを公転しています。その速さは平均で秒速約30キロです。そして太陽は地球をはじめとする惑星を引き連れながら、天の川銀河の中心を回っています。その速さ秒約約230キロメートルほどです。そして我々の太陽系は、天の川銀河の中心の周りを秒速約230kmで公転します。

これをすべて合わせれば、私たちは止まっているように見えて、宇宙的な基準では秒速約370km、時速約133万kmもの速さで宇宙を螺旋的に移動しているのです。だからこそ宇宙の螺旋の力を得て速度が働くのだから影響を受けないはずはないのです。やたらめったらに動いているようで、実際には偉大な力によって制御され、調和するようにできているということ。ブラックホールをはじめ、惑星が場を螺旋のように歪めるのまた秩序と調和のバランスで成り立っているのです。

これが自然の本体なのです。

私が法螺貝を使って、可視化するのもまたこの螺旋の力です。

自然がどのように働くのか、その本質を直観することで私たちは自然の力の一部をいただくことができます。それが自然との共生の真髄であり、人類が永続して存在し仕合せになる要諦なのでしょう。

引き続き、自然の甦生を学び直していきたいと思います。

山の日

本日、8月11日は「山の日」です。この山の日は、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨として設けられた国民の祝日です。この山の日が休日になるのは山岳団体などによる長年の働きかけを背景に、超党派の国会議員によって法制化が進められ、2014年に祝日法が改正、2016年から施行されることになりました。海の日と同じく、山や海に親しみその恩恵に感謝する未来へ向けた大切な日ということでしょう。

私もむかしの五穀田でお山のお水を使って稲を育てています。お山からお水が流れていなければ私たちの主食は食べることができません。里山という言葉もありますが、里が潤い豊かになるのはお山の御蔭なのです。そのお山をただの楽しみの対象ではなく、敢えて恩恵を意識して感謝し、そしてどのように恩返しをする機会を得るかというのが山の日の本質ではないかと私は思います。

今日は、霊峰英彦山の守静坊で大地の再生の矢野智徳さんと一緒に仙人苦楽部を行います。英彦山はもともと北部九州の流域の中心です。英彦山から県内をはじめ北部九州の流域を育て海へとお水が流れていきます。そのお水の流れそのものがあって私たち里の暮らしは成り立ちます。

昨日も一緒に英彦山のお山の中を歩きましたが、水源のお水が澱み木々も弱りお山がそのものに手入れが必要になっていることが分かってきました。むかしの人々は、お山がお水を産む大切な存在であると知り山岳信仰というものが誕生しました。修験道などとも呼ばれ、お山を愛し、お山に親しみ、お山に感謝して、お山と共生し、貢献しあう自然循環の暮らしを営みました。

お山をお手入れすることでお山を活かし、人も活かし、周囲のいきもののいのち全てを活かしました。これを私は徳循環と呼びます。お山が活き活きと甦生していれば、人々の心もまた安らぎ生態系が豊かになって仕合せが増えていく。

まさにお山の健康状態が、人類の健康状態を決めるというものです。

今日は、「山の日」、お山への感謝の日。

当たり前にお水がやってくるわけでもなく、川が流れてくるのではなく、海が豊かになるわけではない。これはすべて「お山」があってこそであり、お山が人類を見守り育んでくださっているからであることを思い出す日でもあります。

娯楽でくる山もありますが、本来は感謝でいのる場がお山であり滾々と貴重なお水を調えて里から海へと届ける英彦山は故郷の大切な神様です。

英彦山の守静坊からお山に親しみ、この日をもってお山に何をどう感謝を恩返ししていけばいいかを私も覚悟を決心していきたいと思います。

貴重なご縁に心から感謝しています。

徳が循環する経世済民

自然には自然の快復力というものがあります。多少破壊されてもそれが時間をかけて快復していき元通りになっていくということ。これは人間の身体と同じです。

人間の身体にも自然快復力があります。これによって病気になっても休養していれば快復していきます。例えば、怪我などで傷めても時間が経てば快復して戻通りになります。

しかしもしもこの快復力を超えてさらに傷めたり、無理をさせると恢復が追いつかずにさらに悪い結果になっていくことがあります。つまり自然の快復が好循環なのに対し、身体も悪循環になっていくのです。

自然界は、この循環によって全体最適を実現しています。循環が乱れればそれを元の循環に快復しようと全体最適を自然がみんなで行います。多様ないのちや生き物たちも協力しあって自然の循環が澱まないよう、妨げられないように変化していきます。山から海、流域や地球などをよく洞察して対応していくのもこの全体快適かどうかを見極めていくことに必要です。

しかしもしも部分最適を優先し、病気だけをみて工事をし多様ないのちや生物を排除してしまえば自然の循環が滞り快復が妨げられ、さらに悪化していき崩壊に進みます。費用も嵩み、人工物だらけでさらに自然の循環が働きにくくなるのです。

そしてこの自然の循環がどのようになっているのかで民が安んじることができるかを洞察したのが熊沢蕃山です。そもそも、治水と治国は同質のものです。お水が安んじるような循環をすれば、国も同様に人々が安んじることができるというもの。

なぜ水害や洪水が起きるのか、根本的な原因を突き止めたのです。

例えば、山が荒れれば、川が荒れる。川が荒れれば、田畑が傷む。田畑が傷めば、人々の暮らしが苦しくなるという具合です。だからこそ熊沢蕃山にとって治水とは、川だけを治すことではなく、山、川、田畑、生業、暮らし、そして政治までを、一つのつながりとして調和させようとしました。

しかし今の時代と違って、一浪人が国家の政治を語るなど不遜であると幽閉され発言の自由をも奪われていきました。これは吉田松陰とも同じです。政治は権力と結びついていますから危険思想となりました。

時代を経てその後の歴史をよく推察すると、結局は自然を破壊して快復できなくなり現代の環境問題を生みました。対処療法の限界値を超えて、現代は打つ手が次第に失われてきています。温暖化をはじめ、公害、宇宙ゴミなど始末に負えません。

一部を豊かにするために、別の場所へ負担を押しつける、今を豊かにするために、未来を犠牲にする。これは部分最適をし続けたことで発生した人類の選択ミスとも言えます。だからこそ、今こそみんなで全体快適に取り組む必要があると思います。

それを一人一人の暮らしから見直すというのが、私が提唱する暮らしフルネスの実践です。環境問題は人が起こしていますから、一人一人の意識を変えていくことで解決していくというものです。自分が全体快適な暮らしをしていくことで、世の中全体も好循環をつくりだしていく。

自然から遠ざかるのではなく、自然と近づき共生し、少しでもいのちや全体が好循環するように小さな日々の暮らしを調えていくということです。私も中江藤樹と同じように、あまり政治や権力には興味がなく日々の小さな実践こそ大切だと感じています。

極端な取り組みは、その反対をつくります。結局それを繰り返していたら、同じ穴の狢のようになってしまいます。仕合せではなく、競争や比較になって自分を見失うこともあるものです。

自然の循環やいのちのリズムに合わせていく方が偉大な螺旋の影響をいただき大河のような流れを味わい安心するのも自他一体の境地です。

引き続き、徳が循環する経世済民を目指し色々と学び直していきたいと思います。

お山は国の根本

「山林(川)は国の本なり」という言葉があります。これは江戸時代の経世家、思想家、陽明学者でもあり当時の治水山林事業の第一人者でもあった熊沢蕃山のよく使う言葉です。

これはお山こそが国の根本であるという意味です。それ以外は末であるということです。まさに本末転倒は、どの時代でも発生するものです。それが人間の特性や欲望、視野狭窄になってしまう部分です。

私はこの熊沢蕃山を深く尊敬していて、この人物のことを深めたときがあります。中江藤樹との問答も大好きですし、後世には吉田松陰にも大きな影響を与えたといいます。

この山林(川)は、国の本なりと熊沢蕃山が著書で述べたところをいくつか抜粋します。

「それ山林は国の本なり。春雨五月雨は天地気化の雨に候。六七月の間には気化の雨はまれにして、夕立を以て田畠を養へり。夕立は山川の神気のよく雲を出し、雨ををこすによれり。山は木ある時は神気さかんなり。木なきときは、神気おとろへて、雲雨ををこすべきちからすくなし。」

この神氣というのは、まさにお山が産み出す循環のことです。それが国の根本であるとします。

「山川は国の本なり。近年山荒、川浅くなれり。是国の大荒なり。昔よりかくのごとくなれば、乱世となり、百年も弐百年も戦国にて人多く死し、其上軍兵の扶持米難儀すれば、奢るべき力もなく、材木・薪を取る事格別すくなく、堂寺を作る事もならざる間に、山々本のごとくしげり、川川深くなるといへり。乱世をまたず、政にて山茂り川深くなる事あらんか。」

ここでは経世済民と自然との共生こそ国の根本であるといいます。

「当時国に深山多もち給ふ大名は、山の運上多して一旦はよきやうなれども、山をもち給ふことは大事のもの也。山川は天下の源也。山又川の本也。古人の心ありてたて置し山沢をきりあらし、一旦の利を貪るのは子孫亡ると也。国中こぞりてかくのごとくなれば、天下の本源すでにたつに近し。」

お山の自然資本の元本を食いつぶすことが如何に危険なことか、自然の自然回復力や再生力を超えて目先の利益を追いかければ世の中の循環は絶えてしまうと。

「日本国中山つき変ぜば天下乱るべし。今山林つき、沢埋れたるは五行かけ五臓破れたるがごとし。ことごとく尽て変ずるといふ道理はなし。十に七八尽て、ようよう九つに至らんとする時、天下乱るべし。」

山林が壊れたら、心身が壊れるのと同じになると。自然の循環は少し崩れ出したら加速度的に崩れると。だからこそ、お山が天下の根源であるといいます。

つまり国があるのは、お山があるからでそれが破壊すれば自ずから国も亡びると説きます。これは非常に偉大な洞察であることがわかります。

今の時代は、どこから環境問題に関わればいいかとそれぞれに学者は述べます。しかし、よくよくお水の流れや循環を辿り洞察するとそれは「お山」からであることは一目瞭然です。

源流から治していかなければ、循環は調いません。

自然の快復力を最大限活かし、地球が喜ぶようにお水が見事に生態系全てを丸ごと循環して浸透していくように場をつくること。ここからです。

私が熊沢蕃山を尊敬するのは、天地自然を丸ごと師匠として學ぶ生き方と姿勢です。まさに徳が循環するということがどのようなことかを自明自覚されていました。

最後にこういいます。

「其本をよくせずして、末にての才覚は何としてなるべく候や。」

意訳ですが、根本根源を治さずに末端でいくら能力を出してもどうして問題が解決するのかと。「川だけ(部分最適)だけで観ず、上流のお山(根源)を見よ」という声ではないかと。

ということで、明日から妙見神社境内とお山の診断、そして明後日の山の日は霊峰英彦山の守静坊にて仙人苦楽部を開催します。

経世済民や徳積循環を実践する同志、仲間たちとどのように大地を再生することでお水が循環するかを仙人と共に學びます。

家の甦生

日本全国には空き家が増えています。しかし空き家があっても新築を建て続けます。これは現在の建築業界の仕組みとビジネスモデルが新築重視で組み立てられてきたからです。そもそも高度経済成長とは、大量生産大量消費モデルです。消費あってこその生産ですから、消費するには古いものを壊して新しく建てるのが一番です。しかしこの問題点は、部分最適や対処療法でのメリットを優先するあまりそのメリット以外の価値が消失していくことです。

古民家であれば、その場所の景観や配置、また暮らし方など連綿と長い歳月、知恵として継承されてきたものがあります。それは家の中の暮らしの痕跡にも残っています。

現代は、みんな西洋化された便利な暮らしが基準になっていますから金太郎飴のようにどの家もどの建物も間取りもかつて続いてきたような暮らしが感じられなくなっています。

新築を建てればほとんど手入れもせずに、数十年で突然壊れて建て直しを提案されます。その点、伝統的な古民家は少しずつ壊れていきますからその都度のお手入れがいります。しかしそこでお手入れすることで愛着が湧き、また技術も残り、時代の変化や暮らしの小さな折り合いをつけていくことができます。

日本的な精神で暮らしをしながら、現代に少しずつ合わせるという和魂洋才ができるのです。

家は本来は、日本人の先生として機能してきました。その先生として役割が失われた現代では子どもたちが安心して育ちにくい環境になってきています。家が先生というのは、家が暮らしを伝承し、そして家が伝統を継承するものという意味です。

実際に私が手掛けた古民家では、囲炉裏があり井戸があり、建具などもむかしの繊細で弱いけれど柔軟で強い和紙や畳など、数々の自然の叡智を活かした家具、また床の間や仏壇、神棚やおくどなど様々な場所を神聖に保つ智慧。日本人の生き方が家の家風に現れていました。

古民家を遺すことは、暮らしを伝承していくことと同義です。

引き続き、色々とご縁あるものから徳を甦生していきたいと思います。

草取り行事

昨日は、無事にむかしの五穀田の草取り行事を仲間たちと一緒に無事に終えることができました。無農薬の田んぼなのでみんな素足で入り、和気藹々を土が冷たいと喜んで草取りしていたのが印象的でした。

自分は左膝を傷めていて歩けないので田んぼには入れませんでしたが、表面の見た目にはわからない田んぼの奥深くにたくさんの草が生えていて風通しが悪くならないように除草していただきました。今年は3回ほど、田んぼで草取りをしましたが入るたびに大きな発見があります。

いよいよ田んぼは、これから出穂する時季に入ります。田んぼ一面に稲の花が咲き、神聖な場ができてきます。稲の花は風媒花といって、花粉を運ぶのに風を利用します。自家受粉ともいいます。稲は夏の暑すぎず涼しすぎない絶妙な風に見守られながら花が一つ一つ咲いていきます。この花が開くのは晴れた日の午前中、一般的には午前9時から11時頃で、その時間はわずか30〜60分ほどしかありません。しかしこの短い時間におしべの先にある葯(やく)が裂け、花粉が放出されその花粉はすぐ近くにある同じ花のめしべにつき、受粉が完了するという流れです。そして受粉すると花はすぐに閉じ、その中で受精が始まり、やがて一粒のお米へと育っていきます。この約1時間の奇跡が種をつくります。連綿と数千年以上、続けてきたことで種になり私たちの主食となっているのです。

そしてこの時季に稲は土中から大量のシリカ(ケイ酸)を吸収していきます。土の中の微生物が稲の根にびっしりとはりついて発酵し、鉱物を分解してシリカをはじめ大量のミネラルを吸収するのです。この成分が循環を促進し古来から不老長寿の成分としていのちを支えます。

稲にとってもっとも種の輝きを放つのがこの出穂や開花の時季です。

草取り行事の後は、みんなで本場のマサラ、インドスパイスカレーの体験しながら学び合いました。スパイスを選んでそこから調理する。調理の当たり前に氣づく大切な時間になりました。お腹ペコペコでしたので、みんな最幸の笑顔でモリモリ食べました。持ち寄った100年ぬか漬けや、キムチ、和楽のお庭のお野菜の塩漬け、差し入れのシャインマスカットに汲みたての井戸水や竈ごはん。子どもたちが賑やかで音楽あり祈りありと、今夏の素敵な思い出になりました。

暮らしフルネスの実践はあらゆるいのちの循環と共に生きる先人の智慧をこの時代でも甦生して結んでいくことにあります。経済活動も大切ですが、自然の循環やリズムの一部になって心身を安らぎ、場を調えることも大切な経世済民活動です。

今では忙しいことが当たり前になっていますが、ほんの少しだけでもその知性を休ませ、自然の循環と共生し貢献しあう一部になってみる。そのことで、忘れてはいけない懐かしい何かが甦生していくものです。

どんな時代に産まれてきたとしても、子どもたちや子孫たちにどんな未来を譲り遺していきたいか。

その答えを引き続き、場を磨きながら調えていきたいと思います。

遊びの味

今年知り合った郷里の地元の先輩が大変ユニークな方で色々と暮らしをご一緒する機会が増えています。この方は、私の3つほど上の先輩ですが中学校時代はかなりのワルで有名な方でした。危険なバイク事故などでも知られ、よく生きておられたなと驚くばかりです。

今では会社は2社ほど経営し、田んぼを約5町ほど持ち、山林をはじめ果物園や畑なども持っています。まだ農業ははじめて4年ほどとのことですがお米だけでなくシャインマスカットやイチジク、ブロッコリーなど様々な果物や野菜を出荷しています。

人生の生い立ちをお伺いしていると何でも究めるまでやってしまい、そこまでいくとまた別の事業をやるという具合です。ペットショップや爬虫類カフェ、他にも保険業や介護の事業など立ち上げてこられたそうです。

お話をすると生き方そのものが「仕事は遊び=遊びが仕事」になっているのがわかります。

実際には農業は大変でほとんど休みがありません。それも一人でやっていますから朝から夜まで体を酷使する作業ばかりです。しかもこの暑さです。普通ならもうやりたくないや面倒と思うところが、そこに遊び心が働き何でも好きになっていくのです。

例えば、ブロッコリーであれば36000本も収穫する時にカットしていくのですがそれも一人でやるから大変です。しかし、一本一本カットしていくのがなんとも心地よく楽しいと一人でやってしまいます。シャインマスカットやイチジクにおいては無農薬で本当に美味しいものを育てます。しかしその分、手入れが必要ですがどんな感じにできるのかが楽しいので色々と楽しんでいます。日曜日はキャンピングカーで海や川に釣りにいき、夜中は子どもたちとクワガタをとりにいきます。しかもクワガタも数百匹あっという間に集めてしまうほどです。

遊んでいるように働き、働きそのものが遊びになっている。

そんな人が育てた果物はきっと美味しいだろうと食べたらやっぱり納得の味。

ご縁ある方々にこの「遊びの味」を知ってもらおうとお贈りすることにしました。この遊びの味も、私が果物園にいって自分で遊びながら選定して自分でカットして箱詰めして送付するものです。

ついつい仕事は責任感で真面目であることがいいと刷り込まれていますが、郷里の先輩のように楽しく遊びにいくように仕事をしていきたいと新たな境地に挑戦していきたいと思います。

分類わけ

人間は世界というものは、分類わけして整理して理解しています。しかし実際には、分類できるものはなく全ては境界線がありませんし、結ばれ関係を持ち、溶け合っているものです。それを敢えて、分類わけして脳で処理したことで言葉が誕生し、学問が誕生し、科学を発展してきました。

しかし敢えて無理に分類したことから、その曖昧な中間や溶け合っているところが理解できず分類にならないものがわからなくなっていきました。

人は分類できないものを嫌うのは、理解が追いつかないからです。さらに言えば、理解できたというのはどこかの分類に入ったということ。あるいは分類できないという分類にしたということもできます。

よく私のことを分類わけできないと言う人がいます。自分もどの分類のなのか自分でもわかっていません。分類を考えたこともなく、関係性の中で自分のご縁や直観を信じて何でもやりますから余計に分かりづらく感じるのでしょう。全体最適や全体快適などというのもすべてを一つの生命体やつながりのように認識することで余計に伝わりにくいのかもしれません。

よく考えてみると、水とか火とか太陽とか認識していますが本当の存在は認識できていません。わからないものを無理やりにわかるようにしたことで余計にわからないものが増えていきました。特に最もわからなくなったのが原理原則などの根源のものです。

古代人たちはそのわからないものをわからなかったのか。実際には、わかったのならどのように認識していたのかにとても興味があります。そこから自然の織りなす風景が別のものになることや、神秘や未知の出会いに感動することが増えました。

実際には原理原則をはじめ私自身は、「螺旋」やお水が一つの宇宙・生命の根本原理だと直観してそのうえで、流れ=螺旋を生み出す運動、循環=螺旋が繰り返すリズム、場=螺旋が育まれる環境、甦生=螺旋が健全に回復する働き、初心・真心=螺旋を正しい方向へ導く人の在り方などと翻訳しています。

技術にするにはまだまだ探求が必要ですが、場を通して体験できるようにし子どもたちに継承していこうと思っています。

夏休みの探求授業のように、夏は学を味わうとてもいい時間です。

日本的精神と真心の実践

日本的精神を引き続き深めていますが、それは日本人の歩んできた古代からの記憶であり今も続いている道です。その道はどこから探り出していくのか。古の日本を研究する学問が、霊元上皇や国学、水戸学などの流れをつくり尊王攘夷を経て今に至ります。

今ではあまり日本の道は何かなど考える学問がありません。私はそれを「かんながらの道」と名付け二十年前から毎日欠かさずブログを綴り続けています。

そしてその日本の道、かんながらの道は、暮らしの中にこそあるとし『暮らしフルネス』というものを発案し実践して今に至ります。

もともと古代の記憶はどこに伝承されているのか、また先人が何を畏れ、何に感謝し、何を次の世代へ伝えようとしたのかは場や暮らしに継承されています。それを甦生し、その心をもう一度受け取り、今の時代にふさわしい営みにすることで道を甦生しながら共に歩み連綿と続く未来の子どもたちや子孫へこの日本人の生き方を譲り渡していこうとする文明実験の一つです。

日本的精神は特別な何かの抽象的な思想を掲げることではなく、日々の暮らしを通していのちのつながりを日々の所作や実践によって内省し改善を続けるものです。あらゆる自然と混然一体になり、祖先が共に自分の心身と共生していることを自覚し、悠久の循環の中に自分と関係するすべてを丸ごと結び、呼吸するように暮らしを投じていくこと。それを徳循環と呼んでいます。

一人一人が、暮らしを調えて徳を磨いていけば自ずから道は現れます。すべてのものや人との関係性を大切にしていくことで日本的精神は研ぎ澄まされていくからです。

かつて古事記や万葉集から本居宣長は、日本人の精神をつかみ取ろうと人生を懸けて洞察しました。そこで「もののあはれ」と「真心」であると発見します。「もののあはれ」とは、物事に触れたとき、その姿や出来事の奥にあるいのちや意味を感じ取り、自然に心が動くことをいいます。あらゆる縁起の中で心が動いたままにいる。私の言葉では、常に直感が働いている状態のことをいいます。

そしてこの感受性の根源の存在を「真心」としました。作為や作り物ではなく、完全に宇宙のまま、あるがままありのままの心の動きです。これは先ほどのもののあはれと一体のものです。

心があらゆる事象に対して微細に動く、あらゆる八百万の神々たちとの関係性の中で変化して無常である。まさにその自然や宇宙の繋がりの中で感受する渾然一体の存在です。それを私は螺旋や法螺貝を通して実践しています。

心のままであることは、日々の暮らしを大切にすることで守っていくことができます。

なぜ私がここまで暮らしにこだわるのかは、それは生き方や在り方、日本人の心を生きるためです。霊峰英彦山から日本人の暮らしを甦生できるよう、お山と一体になった真心の実践を伝承していきたいと思います。