よい振動(ゆらぎ)

それぞれの人や物には波動というものがあります。人でいえば、善い波動を醸し出している人と悪い波動を発している人がいるのがすぐにわかります。物にも清々しく凛とした物もあれば、禍々しい何かを出している物があります。これは感覚で直観していくものですが、誰もがその感覚を持っているものです。

例えば、善い波動を出している人は心の状態が静かで穏やか、平和で愛が溢れていたりします。それは日頃からその人が生き方やあり方をはじめ波動を調えるような暮らしを実践しているからとも言えます。

イライラや不安、恐怖や怒りなど感情に呑まれている人はその波動を発します。波動の面白さは共鳴していくということです。これは音楽とも似ています。どのような音を出しているかで周囲の反響が変わります。音楽家が発する音で私たちはとても大きな影響を受けていきます。

以前、ヘルツのことを深めたことがありますが周波数次第では心が穏やかになったり心がざわついたりするのです。私たちは振動というものを持っていて、海の波のように、また風のように音のように振動をし続けています。振動の中にいるとも言えます。

正確には振動とは何かが振れ動くことを言い、波動はこの振動がつぎつぎと伝播していく動きのことを言います。揺れ動いてそれが周囲に伝播していくということ。一人が善い振動を出せば、周囲の人たちも善い波動が伝播していきます。

そう考えてみると、朝の太陽が出している元気な波動を浴びて波動を調えたり、お山のお水のせせらぎの近くの優しい波動を浴びて調えたり、鳥の鳴き声や木々が風でせせらぐ波動、田畑の共生しあい助け合う波動、私たちは身近な自然から波動の伝播の仲間になることもできるのです。

日々の暮らしの中で、どのように波動を調えていくか。

欲望や強い怒りや恨みや恐怖は波動が乱れていきます。情報というものもまた脳を利用して行われる波動の一つです。常に調和するために、波動をどう調えていくのかに取り組むのは今の時代だからこそ科学的に取り組んでいく必要を感じています。

波動を調えながら、子どもたちによい振動(ゆらぎ)を伝承していきたいと思います。

自然に倣う

現在、企業では人の採用に多大な費用を使って集めています。人口が減少していく時代は、今までの人数が確保できず体制を維持できなくなることから採用に躍起になります。高齢者の再雇用や外国人の採用、最初は女性からはじまりましたが今ではDXやAI,そしてロボットを導入して乗り切ろうとしています。

そもそも拡大をしていくことはできても縮小していくことができない経済モデルの中では人口減少というのは悪になります。しかし、いつの時代も人口は増減しておりその中で社会が上手にバランスを取って国家を運営してきました。

自然界においても、増えすぎれば減るのは当たり前で常に自然のバランスが壊れないように調整しています。競争社会というのは、自転車操業に似ていて走っていなければ倒れてしまいます。誰かが走り抜ければ、自分も負けないと無理をして競争します。そのうちにみんなのスタミナが切れて全部倒れていきます。

本来はみんなで協力して、ゆっくり走ったり弱る人を牽引したり助け合った方が遠い未来までずっと走り続けることができます。時代が大きな企業やどこかだけの企業に占有されるのがよい時もあるかもしれませんが、そうではない時代は小さく協力しあって分散しながら和合していく方がよい時もあるものです。

変化というのは、揺れ戻しというものがあり時代時代に右に触れたら左にいくように必ず中庸に回帰します。暑すぎる夏があれば、寒すぎる冬がきます。これもバランスによるものです。自然を変えることはできませんから、私たちは自然に従うしかありません。

先人たちはその理を自覚していましたから、自然の中で自分をどう振舞っていくことがいいかをみんなで考えて適応してきました。暑すぎないように寒すぎないように、自然のご機嫌をお伺いしながら自然が喜んでくれるように働きました。それは素材選びから、場所選び、そして好循環するように工夫してきました。

今の時代は工夫の意味も変わってしまい、何でも人間の思い通りになることを推奨してきました。その結果、誰も止めることができないような走り方をする人たちばかりが世の中の大多数になり、それが常識となってそろそろ環境も人も疲労困憊しています。

例えば、誰かが増やさないで足るを知るという選択をすること、消費をしないで生産をしようと選択をすること、また得を追いかけず徳を磨こうとすること、そうやって自然の営みの邪魔をしないように生きていくことで世の中に一つのモデルを示していくことはできるように思います。

世間はあと数年後のことで危機だ大変だと騒ぎ立てますが、本来は百年後、数百年後の危機に備えた暮らしをしていくことが人類の智慧だったはずです。

今、なぜ世間と別の道を往くのかといえば子孫の未来のためにや先祖たちが託してくださった思いを大切にしていこうと思うからです。

恐怖は勇気を引き出すものです。世の中が不安と恐怖で満ちるとき、同時に世の中は安心と勇気も満ちていきます。バランスは、いつも日々の実践の中で気づき磨かれるものです。

自然がそうあるように、自然に倣い行動していきたいと思います。

お山の徳

日本にはたくさんのお山があります。このお山ではあらゆる人たちが長い間、お山の暮らしをしてお山と共に生きてきた歴史があります。山は、私たちが生活しているような平地の里とは異なり寒さも厳しく食料も乏しいものです。しかし、よく観察しているとお山の霊氣に満ちていて不思議と元氣が漲ってきます。

私たちは、山の中にいることで里や平地にいるときよりも何か大きなエネルギーをいただいているような気持ちになります。これは、お山の持つ徳のようなものかもしれません。

そのお山も山によってまったく種類が異なります。例えば、低いものもあれば、横に広がったものもあり、また岩でできているものもあれば谷が深いものもあります。それぞれに山の個性があり、それぞれにその山の気質があります。

以前、群馬の赤城山にいったときは強い圧力を感じ、滋賀の伊吹山にいったときは生命力を感じ、出羽三山や大峰山のときは澄み切った空気を感じ、京都の鞍馬山では厳父と慈母のようなぬくもりを感じました。

お山に入るタイミングなのかもしれませんが、何回も訪れているとそのお山の持つ深い心やいのちに触れていると自分の心身の調子も変わってきます。私たちはお山に入ることで、そのお山に抱かれそのお山の源氣を纏います。

英彦山は、宇宙根源の元氣を纏っていてまるで仙人たちの棲む伝説の蓬莱山の気配があります。

きっと先人たちがお山を歩くのは、そのお山の気質の學ぶことが修行だからです。私たちは場所の影響を受けて育ちます。それは植物だけではなく、動物をはじめ昆虫もすべてのものが同じです。その場所が化けたものが私たちのいのちの姿だともいえます。

それぞれのお山にはそれぞれの気質に合った人たちもいます。面白い個性を混淆和合させ、真の平和のために貢献していきたいと思います。

日子の徳道

英彦山の遊行をはじめて体験し、お山の中にいにしえから存在する岩窟や暮らしの跡を辿りました。お山の中は、静かに先人たちの信仰の功徳の数々を遺し場所場所にその祈りの深さや積み重ねてきた行の声を聴くことができました。

これまでもお山には何度も親しみ、存在を深く感じていましたがその場所で悠久の時を暮らしてきた人々の息遣いを実感したのは今回がはじめてでした。苔むして自然に還った庭園、土砂が流れ込んでいる岩窟、また落石した巨石群に大雨で流れた石畳、自然は人々が手入れをしなければあっという間に人間のいない元の姿に回帰していきます。

しかし不思議なことに、人間が長い歳月をかけて信仰して祈るあとには道だけはいつまでも遺っています。その消えかけて失われてきた道を、よくよく辿り歩んでいく先に先人たちの願いや生き方を実感するのです。

私が歩いたように、先人たちも同じように道を歩んでいます。時には一生のうちに何千回も、あるいは一期一会で一度きりだったかもしれません。しかし、その生き方を通して私たちは人間として何が最も大切なことかを学び、自分の人生にとって重要な気づきを得たように思います。

人生はそれぞれ、人それぞれ異なりますが杖がその行く末まで連れていくものです。

この日子山での遊行が、この先にどのような展開になっていくのかはご縁のお導きにお任せしていきます。ただ、この一期一会の方々と祈りながら歩んだ道は一生の宝物になりました。

人生は道です。

道は今も無窮であり、歩く人の志と六根清浄に由り変化します。

また美しい朝霧の光に包まれつつ、この先もまた一途に日子の徳道を歩んでいきたいと思います。

お山を歩く

英彦山の山中を歩いていると、かつての宿坊跡や石垣や墓石など多くが苔むして存在しています。むかしはどうだったのだろうかと想像すると、信仰が盛んな場所だったことはすぐにわかります。いくつかの岩窟を巡り、また祈祷をしたであろうとする場所場所を感じるとこのお山に棲み、どのような暮らしをしていたかも感じ取ることができます。不便極まりないお山の生活の中で、何をしていたのか。それでもこの場所に居る理由に思いを馳せます。

もともといつからこのお山が信仰の場所になったのか、伝説を辿れば最初に入山した僧侶によると遺っています。しかしもっとそれよりも前にも、人がここを訪れこの場所を聖なる場所として大切にしてきたことがわかります。

今では人工林も増え、間伐していない鬱蒼な森が広がっていますがむかしはきっと岩と苔、そして多様な木々に包まれた水が湧き出る場所だったようにも思います。

今から400万年前に火山の影響でできたお山が、長い歳月をかけて今に至ります。

巨石や岩窟を観ては、その当時の溶岩がどのように変化して固まったのかを感じ取ります。明らかに人間よりも数十倍から数百倍の大きな存在を前に、深い尊厳を感じます。

私たちのご先祖様たちはその前で祈り、火を熾しお水を供養し祈りを捧げてきました。その道を踏み分け歩いていくのは、お山に生きた人たちの懐かしい気配を感じます。そういう人たちをまた尊敬した人々の気配も感じます。

私たちは日々にあらゆることで穢れます。そういう時、その穢れを清浄にしようとした生き方の人々をきっと深く尊敬したのでしょう。これは、僧侶をはじめ、侍や儒者なども同じです。

お役目として、美しい生き方を守ろうとする人々、そしてそれを尊敬しいつまでも人間らしい姿を生きようとみんなでお山を歩いて穢れを浄化しては和合し助け合って暮らしてきたように感じます。

私たちはずっと、お山の存在に助けられて今があるのを感じます。この時代も、子どもたちが健やかにあるようにむかしと変わらずにいのちを大切にし、みんなで徳を磨き、恩に報いていきたと思います。

懴悔懴悔六根清浄

私たちは一日に一度、あるいは何度も自分の行いや日常の一言一句や振る舞いを内省することで自分の心を見つめることができます。これは有名な論語の「曾子曰わく、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」にあるように何度も何度も自分の真心を確認するのです。

そうやって自分本来の生き方を守っていくなかで、本来の自分はどう思ったかと二つの自分と一つに対話をして調和していくことが安心立命の精進になっているということでしょう。

お山での修行の一つには、お山を歩きながら懺悔懺悔六根清浄(さんげさんげろっこんしょうじょう)というものがあります。この懴悔の語源は元々はサンスクリット語(梵語)の「クシャーマ」(耐え忍んで許すこと)からきているといいます。元々は懺摩という言葉が悔やむ意味で、それがそのまま「懺悔」となりました。

悔やむという字はの意味は、自分の行いや過ちに対して心を痛めることをいいます。そしてこの「悔」の字は心臓の象形である「りっしんべん」に髪飾りをつけて結髪する女性の象形である「毎」を組み合わせ、「心が暗くなる」や「くやむ」を意味する会意兼形声文字として成り立った漢字だといいます。

仏教では、僧侶が日々に懴悔し仏様にゆるしを請い、自分の犯した罪を仏の前に告白し悔い改めるときに使われる言葉ともいいます。

もともと懺悔は現代は「ザンゲ」になっていますが、江戸時代中期以降までは「サンゲ」と呼ばれていました。

山伏たちが山歩きをしながら「懺悔懺悔六根清浄」と唱えるのは、自分の日々の行いを振り返り色々な日常で発生してきた罪穢れの数々を見つめ直していると心が痛みます。それをお山の清浄な場において悔い改めて耐え忍んで許していこうという声掛けによって心を清々しく浄化して新たな生に生きていこうとする覚悟の歩みのように私は感じます。

私も、一日の中でつい感情に呑まれそうになり、気分で行動や言動が揺さぶられてしまうことがありそんな時は振り返ると自分の立ち振る舞いを思い出し心が痛み反省します。感情の御蔭で私たちは色々なことを深く味わい今生の精彩を感じることができますが同時に心は静かに生き方を見つめ続けています。その両輪を丁寧に味わい盡していくなかにこそ、本来の自分というものを和合していくことができるようにも思います。

これから二日間、大切な仲間たちと一緒に日子山を歩きます。秋の清浄なお山の元氣をいただきながら、真心と感情を和合する仕合せを味わい盡していきたいと思います。

ありがとうございます。

 

働き方の智慧

IT産業で働く人たちのうつ病は他の産業の2倍ほどになっているともいわれます。もともと深夜まで働き、太陽も浴びず運動不足で食生活も不規則、過剰なストレスに目や指先、肩ばかり酷使すれば血流も悪くなり脳の疲労も蓄積していくことはすぐに予想できます。それが働き盛りの30~40代のときにちょうどピークに達し、そこから精神を病み休職するという流れです。

もともと私たちの身体は健康を保つことで最大のパフォーマンスを発揮できます。それは肉体的にも精神的にも自律神経的にもすべてが調和した状態を維持するということです。

そのために、身体を動かし、よく食べよく寝て自然のリズムを味わいよく笑い楽しく元氣になっていることが大切です。人とのつながりもまた、心の安心につながります。

少し前の時代に、「24時間戦えますか~」と栄養飲料のCMがありました。あれを飲むと一時的に興奮状態になりましたが、そのあと数日間ずっと疲れが出続けたものです。そもそも人間はロボットや機械ではないから連続して休まずに働き続けることができません。人間は休息をとることで、全体調和のバランスを取ります。特に、あらゆる器官はいつも働き調和に努めていますから休みを交代でバランスよくとっています。心臓についても、あれだけ一生産まれてから止まることがなく働き続けるものでも心臓のゆらぎといって呼吸し吐き出すときに休みをとっています。

休み方や食べ方、眠り方、暮らし方を社会人になる前に生活習慣の自立の発達の最終段階として大学などで學ぶことが必要な時代になっていると感じます。

それだけ現代は、働き方が変わり仕事の質も変わり、生き方にも大きな変化を与えているからです。病気は、大切な人生を変えるサインでもあり、自分という大切な存在に気づくチャンスでもあり、健康で幸福に生きるためのヒントになります。

暮らしフルネスは、そういうことが総合的に智慧として集合した生き方の実践です。子どもたちには一生、健康で幸福に過ごせるように日本人の先人たちが紡いできた暮らしを伝承していきたいと思います。

比べない

幸福度というものは、他者との比較で実感するものです。自分がどれくらい幸福かというものも、他者を知らず自分だけでいるならばそれが幸か不幸かわからないものです。生まれながらの場所で、最初から具わった状態で自分がそこでどのように感じるかはその感じ方次第です。ある人は、大変凍てつくような厳しい土地であったり、またある人は砂漠の焼けるような暑さの中であってもその場所に適応してその場所で幸福を味わうものです。

しかし、ここに経済的な文明人が入ってきて豪勢な家や車、便利な家電家具、またあらゆる世界の美味しいものを自由に食べて煌びやかで楽しそうな生活を見せられると、若い人や子どもは好奇心から体験したいと思うこともあるのでしょう。そうやっていつも情報をテレビなどでとって、その煌びやかな富に満ちた生活を憧れるような広告やモデルやドラマなどを見せられていたら自分の今の境遇と比べてしまうものです。

北朝鮮なども、私たちには非常に貧しくて悲惨な独裁国家というイメージを持たされていますがもしも他の国のことをその国民が知らなければ本人たちはそれを不幸とは思いません。韓国ドラマを観たりすると死刑になると若者たちが犠牲になっていましたが、それはその生活を観てしまうと自国があまりにも惨めになり政府への反発が出たりするからというものでしょう。

そう考えてみると、人は他者と比べないことがもっとも幸福の近道であることがわかります。自分には今の場所、今の環境で十分と足るを知る暮らしができているのならどんなに外的環境が変化しても幸福度は変わらないということになります。

むしろ必要以上にたくさん持てば持つほどに、幸福度は下がってくるともいいます。余計なものが増えていけばいくほど、足りていたはずが足りないことに転換されていきます。

想像すると、むかしの縄文人たちはその日暮らしです。しかし一年間、どこになんの食べ物があり、何を食べると生きていけるかは知っています。服装も簡素なものですが、縄文土器をはじめ装飾品などをつくり楽しむ時間がたくさんありました。食料は少なくても、食料を加工していく時間もまた楽しい時間だったのかもしれません。

今では便利な機械で合理化されて、手作業でやろうとする人などほとんどいません。それだけ効率化され便利な世の中は、忙しいのです。みんなで忙しくしては、他者を羨ましがるような生活を胃しています。

結局は、人は比べることで自分を見失うことが幸不幸の問題なのかもしれません。与えられた天命を知り、自分を盡していくことが幸福の傍にいることです。子どもたちのためにも、シンプルで丁寧な生き方を磨いていきたいと思います。

宇宙は無尽蔵

昨日、スリランカから来客がありその方の生き方のことをお聴きするなかで宇宙意識というものがありました。私たちは元々、宇宙と一体になっている、それはこの自分の肉体はじめすべてと結ばれているというのです。

この方は、仏教徒ではありますが宗教色は強くないといいます。つまりこれが絶対として組織を優先し他を排斥することはなく、他宗教の方々とも親しくお付き合いをしています。

NGOを自分で立ち上げ、障碍者や産まれながらに病気や怪我などで苦しむ方々への治療や車いすの提供など、慈善活動をなさっておられます。結婚もして子どもも二人いて、ご自身の生活もありながら自分の食べるものを減らしその分で少しずつ寄附を続けておられるそうです。

中国の債務の罠でスリランカは国家全体が疲弊し、貧富の差は開き、汚職がお金によって蔓延し貧しい方々は飢餓などでも苦しんでいるといいます。特にその中でも福祉が必要な人たちのところに手が行き届かない状態だといいます。

彼になぜ、そこまで慈善活動をするのかをお聴きするとそれは宇宙の意識だからということでした。また自分の生き方として真善美を生きたいということです。自分が善いことをすることはそのまま世界が善くなり、自分も守られるし幸福や幸運を得られるということです。

確かにこれは当たり前の真理です。しかし人間は、欲望に呑まれ他人との比較のなかで自分を見失っていくものです。すると、宇宙意識というものよりも自分の眼先の利益や損得勘定に走り徳を積むことなどを忘れてしまうのかもしれません。

実際に宇宙意識というものが何か、現代は量子力学の研究が進むにつれて潜在意識と呼ばれるものが実際には脳でではなく、脳の管を通して宇宙全体と繋がっているという量子もつれが発生することが分かってきました。意識は脳内だけでできているのではなく、何か偉大な全体意識と常に結ばれて交流しているということ。また脳のほとんどすべては潜在意識で、顕在意識は1~2パーセントだとも言われます。つまり、私たちが知っている最先端の脳科学の情報はこのわずか数パーセントの知識しか解明できていないのです。他の大多数の機能は一体何をしているのか、そこに宇宙意識があると直観するのです。この直観もまた宇宙意識があるからです。

いにしえの仏陀の教えの中に「阿頼耶識」というものがあります。これは人間の全ての感覚の一番深いところの意識です、言い換えれば潜在意識に近いように思います。まず六識というものがあり、それは眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、顕在意識です。それに次が、末那識というものでこれは自我意識のことといいます。この世の欲望や自律神経などもその一部です。そしてその全てを含んだ奥にある八識目が阿頼耶識です。

よく考えてみると、直観というものやタイミング、或いはご縁というものはどこからやってきてなぜそれをそうだと感じるのか。それは阿頼耶識や宇宙意識が関与していることはすぐに自明します。もともと、仏教の面白さは現代でいう科学的研究によって理論を組み立てていることです。現代では西洋の科学が本物で、かつての古代の科学はスピリチュアルなどといわれますが私に言わせれば、今でも最先端の科学です。それを別の視点から現代でも科学研究が進んでいるだけということでしょう。

話を戻せば、宇宙意識はこの全体の一部として自分たちが存在している証拠ということになります。これは仏陀に「山川草木悉皆成仏」があり、「山も川も草も木も皆悉く仏に成る」という意味です。その理由は結びとしてすべてのいのちは宇宙の一部であるからということで明らかになります。

宇宙の一部だからこそ、私たちは仏(宇宙)でありこの世に存在するあらゆるものは宇宙そのものであるという意味でしょう。私たちは、宇宙そのものの意識に触れることができるのなら真の心の平和を得られるように思います。比較もせず、自分の真心のままに自分を生き切ることができる。そういう生き方の道の中には、あらゆる宇宙が入っていて宇宙の一部としての役割を果たそうとするいのちがあります。

全体の宇宙(蔵)は無尽蔵です。

スリランカと日本は離れていますが、宇宙は離れていません。意識を常に共にしているのなら、一緒一体にそれぞれの場所で私たちは意識もつれによって真善美に結ばれます。それが私が実践しているかんながらの道でもあります。

子孫や子どもたちがいつまでも宇宙蔵の守護の恩恵が得られるように、丁寧に暮らしを結んでいきたいと思います。

改めて、ご縁に感謝しています。

カタチをつくる

理解できないものを理解させようと世間に合わせていると、理想から少しずつ離れていくものです。その理由が、今までにないものや現実としては難しいという考え方に囚われていくからです。

現在、成功しているモデルは現代の仕組みの中で成功するものです。例えば、経済などは分かりやすく現代の経済モデルの中でつくられた仕組みはむかしの物々交換のような経済ではなく、金融が中心ですからかつての仕組みでやっていたら全く成功することはありません。しかしだからといってどちらかに偏ってもうまくいきません。なので、現代は折衷案を探して両方バランスが取れるところをやることが精いっぱいです。

しかしたとえば、誰も見たことのない仕組みを考えたとしてそれを実行しようとしたら誰も理解できませんから理解者が出てきません。理解してもらおうと必死に頑張っても、大体よく分からないという反応がかえってきてなかなか前に進まないものです。そのうち、ほら吹きなどといわれ相手にされなくなっていきます。それで折衷案ばかりを探すようになっていくのでしょう。そうなる時は、もう理解してもらおうとするのを諦めて形にしてしまえばいいと私は思うようになりました。

形にしようとすると、その形を観て、人は何かを直観するものです。その人にしかない世界や理想が、何かという姿が少しでも垣間見ることができれば理解しなくても、一緒にやってみようとはするものです。

私も理想を追って真摯に挑戦していますが、時折、色々な方々が来訪されるなかで世間にもっと合わせた方がいいのかなと感じる機会があります。それは色々な会社が関わると、迷惑がかかるのではないかと感じるときがあるからです。しかし、どれだけ世間や周囲に配慮しても結局は理解が追いつかず迷惑をかけることになります。

そう考えてみたら、やっぱりカタチを先に創る方が性に合っているように思います。小さなモデルでも、小さなカタチでもそれができればあとはそれを大きくもできるものです。

主体性や自発性、覚悟や責任などの初心を忘れず自らの手と感覚で実装し実現していきたいと思います。