精進

私たちは精神や精気、精力のように元氣や活力があるものがあって活動していきます。元氣な人は、「精」があるともいえます。精を出すや精魂込めるとか、精進、丹精、精一杯とか色々な言葉もあります

この「精」というものの正体は何かということです。

精の漢字の由来は、米と、音符靑 (セイ)とから成ります。これはきれいに精白した米の意を表していてそこからひいて、すぐれている、きよいなどの意味になるそうです。また意味には、清らかや優れたもの、気力や神霊、純粋などの意味も含みます。

漢方ではこの精は生命エネルギーのことを指します。例えば、先天の精とは主に父母(両親)より受け継がれた精のことを指し胎児の原始的物質で生命が誕生する本源となるといいます。精があって人間が象られるということです。その先天の精は基礎として、後天の精というものがあります。

後天の精は日々の飲食を通して消化吸収を行ってエネルギー源を作り出していく臓器によって消化吸収をしていくものです。これを「水谷之精」といい、先天の精と相互に促進補助しながら人体を維持します。これができなくなると、精虚となり様々な病気になります。

つまり精が失われると病気になって死んでしまうというものです。中国の漢方や仙人の伝承には、この精気を高める食べ物や薬草のことがたくさんあります。滋養がつくもの、腎臓を元氣にするもの、色々とあります。

英彦山の薬草園では、この「精」に注目し精のあるもの、精のつくものを薬膳などに取り入れます。

仙人の智慧を遊びながら精進し、植物と共生していきたいと思います。

世代交代 役割交代

世代交代や役割交代という言葉があります。どちらも交代するときに使う言葉です。これは位置や役目が代わることをいいます。これは人だけではなく物でも同じく、この世にいる以上、変化や進化の過程でそれぞれの人たちで交代しながら歩んでいます。

たとえば、私たちは赤ちゃんで誕生します。その時は、祖父母も両親もあるいは親戚もあります。成長していく過程で、今度は自分が親になり、孫を持ち、親族にもなります。家であれば、古民家などは代々何百年もそこに住んでいますからある時は、商家になり、ある時は治療院になり、またある時は隠居する場所になりとその時々の時代の流れに合わせて役割を変化していきます。

基本や基礎になっているものは変わりませんが、明らかに世代や役割は交代していくのです。これは肉体の機能なども同様です。事故などでもしも自分の肉体の一部が損傷したらそれを補うように他のところが交代します。私は右後十字靭帯が断裂していますが、それを補うように筋肉がその役割を果たします。肉体全体を維持し、生活を保つためにそれぞれが役割を交代するのです。

そして世代というのは、変化し続けるこの世の真理や道理の中で時間の経過と共に変わっていく存在だからこそ世代もまた交代が必要です。自分が最前線で第一線でいつまでもやっていけるかといえば、高齢になり病気をするようになり脳の判断も落ち、活動量も下がれば同じようにはいつまでもできません。そして企業や組織は自分よりも長く生きていくのならば必ず後人を育てていく必要があります。自分がいなくなっても、そのあとを続いていく人たちは道をつなげていくからです。

むかしは、隠居というものが文化として存在していました。水戸黄門などもご隠居なり呼ばれていましたが、実際には隠居して陰ひなたから後人を見守り支える存在になるということです。

見守るということを実践していくと、必ず自分の進退や隠居にも正対する時がきます。人生はいつどんな時にどのような結末を迎えるのかわかりません。だからこそ、信じた道を、あるいは仲間や後人を信じて見守る生き方をしていきたいと思うのです。

子どもの仕事をしていると、子どもの将来のためにいのちを懸けられることの喜びを感じます。子どもたちが成長し、自分の仕合せを謳歌していく姿を実感できるのは自分のことのように有難く思うものです。

古い道具たちや家と暮らしながら、同じような気持ちになりますが必要に応じで智慧もあれば、役に立つこともある。出番を待ちながら、いい仕事、いい人生を実践していきたいと思います。

暮らしのお茶

まもなく梅雨入りしてきますが、空気中の水分が湿度が上がってきているのを感じます。この時季は植物も旺盛で、日々に猛烈な勢いで成長していきます。野菜の苗たちも、根をしっかりとはり、葉もたくさんつけていきます。

家の周囲にはドクダミの花が咲き、独特な香りです。フキの佃煮つくりもこのころに纏めてやるのでこの時季の暮らしは植物たちと一緒に過ごすことが多くなります。

私が好きなお茶の一つに、マメ科カワラケツメイ属カワラケツメイ茶があります。これは漢字では「河原決明」と書きます。これは漢方でよく使われるケツメイシ(決明子)に効能が似ていて河原によく自生していることからそのように命名されたという由来です。

また弘法大師様がご自分の健康保持で愛飲していたといい、そこから「弘法茶」とも呼ばれます。また唐津など海岸の砂地で自生したものをお茶として飲み始めたことから「浜茶」と呼ばれています。

見た目は茎が中心なのでほうじ茶のような感じもしますが、滋味深い甘みがあります。私もこのお茶は相性がよく、よく飲みます。他にはどくだみ茶、よもぎ茶も愛飲しています。桑茶やナタマメ茶なども好きです。

お茶は、本来は未病の薬として古来より大切にしてこられました。嗜好品ではなく、日々の健康を支えてくれる存在として植物の力を借りていたのです。

時代が変わっても、人間の身体は変わっていません。それに自然の摂理も、私たちの循環してきた生き方もそのままです。そのまま変わらないものをよく観察して、今の時代も暮らしを味わって健康を保っていきたいと思います。

太古からの道

季節の変わり目というのは観察し続けることで実感するものです。日々の微細な変化、身近な生き物たちを観ているとそれぞれが自然に必然に絶妙なタイミングで成長していきます。その成長に合わせて、自分も心身を調えてその時々の働きをしていくことで自然の循環が察知できるようになるものです。

現代では、人間都合のスケジュールで仕事をし、自然とはあまり関係がない経済効果や目先の問題解決ばかりに躍起になります。しかしそうした中でも自然はいつも通りに変化し、また循環をし、すべての生き物たちは全体最適になるようにそれぞれに進化を已みません。

人間にとっての大きな変化よりも、自然の変化の方がはるかに偉大で悠久の時間をかけて変化します。その偉大な変化にあわせて、何をどう順応していくのか。それぞれに自然は悠然とそして必死に今を生きていきます。

人間の善さは、自然をよく観察し、それが調和するように周囲に場をつくりあげることができることです。人間がいることで、生態系が豊富になりそれぞれが調和するように美しい風土をつくりあげることができます。

かつての日本の原風景や、日本の杜にはそれを実感できるものがまだ残存しています。自然の循環をやめてしまえば、都市化は進みさらに環境は汚染されていきます。経済を優先し、経済以外は排除してきた中で日本の田んぼは失われ、空気もお水も汚れ、自然災害も増えてきました。そろそろ目覚める時機ではないかとも思います。

いよいよとなれば、さすがに目を逸らすことはできません。では何をすればいいのか。それは一人一人が目覚めて、自分の身の回りから改善し実践していくことです。暮らしフルネスはそれを実現する一つの手段でもあります。

太古から続く、普遍的な日本人の道をお手入れして遊行していきたいと思います。

建具の美しさ

現在、浮羽の古民家甦生で建具を色々と調達しています。解体された古民家の建具、また実際に古民家に住み使わなくなったものを譲ってくださったもの、あるいは古材の建具専門の業者の方から仕入れています。

建具は、サイズもあれば用途も異なります。現代のようにどの住宅にも合うような量産するものではありませんから一枚一枚まったく同じものはなく個性があります。その個性の組み合わせで日本の民家は構成され和が美しくなります。

この和の美しさは、単に工芸品としての美だけではなく採光、防犯、遮音、調湿、観賞、風通し、機能性、智慧などが豊富に和合している美しさのことです。調和するとき、場が生まれます。場が生まれるというのは、それだけ調和が見事に和合したということでしょう。

私は建具は組み合わせで観ていきます。もちろんゼロからつくる場合は微細なところまで職人と話し合うのですが、すでにあるもの、古建具などは修繕をして磨いて新しくて配置していきます。つまり組み合わせをよくよく調えていくのです。

もともと建具の歴史を調べると、日本最古の建具は飛鳥時代の法隆寺金堂の板戸と言われています。そして一般的に暮らしに建具が導入されるのは平安時代の寝殿造りだといわれます。寝殿造りのときには、あらゆる建具が登場してきます。蔀などもとても印象的です。日本人らしい自然との調和、適度な自然との折り合いが暮らしに取り入れられています。

そして桃山時代から江戸時代が書院造りになります。私が取り組んでいる古民家甦生は江戸時代から明治が多いので書院造りを参考にしているものが多いです。職人たちの意匠も見事で、建具はどれもうっとりします。欄間や襖、そして板戸、帯戸、舞良戸、格子戸、あらゆるものが美しく飴色に変化した建具の美は言葉になりません。

そして明治以降になると、西洋の思想が入ってきて気密性や断熱性、アルミサッシなど入ってきて現代では3Dプリンターなどであっという間に建物は完成します。建具は、耐熱や防音ガラス、木材よりも化学加工物が増えている印象です。あっという間に田んぼがなくなり住宅地になりますし、タワーマンションなども鉄筋コンクリートで仕上げています。自動ドアで重厚な金属、西洋建築のようになっています。

日本人の木造建築技術は世界一ともいわれます。それにはそれだけの歴史があるということです。法隆寺は1300年経った今でも現存してしっかりと建っています。

自然と調和してどう生きたか、私の建築のルーツは法隆寺です。法隆寺に倣い、この国の子孫の平和をいのり今度も一期一会の場に仕上げていきたいと思います。

蒸しの智慧

蒸し料理というものがあります。一般的な焼きなどと違い、蒸し料理は栄養素が消失しないものとして旨味を残す健康的な料理として知られています。この蒸しというのはどのような効果があるのか、少し洞察してみたいと思います。

もともと蒸し料理の由来は東アジアで発達したといわれます。今から6000~7000年前の中国新石器時代に黄河流域の遺跡から粘土で作った蒸し器が発見されています。それ以前まではゆでる、煮る、焼くといった調理法が基本だったと考えられているそうです。

日本への伝来は中国東北地方、朝鮮半島を経由して3世紀頃の北部九州に入ったといいます。具体的には福岡の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しました。

もともと土器を使った調理は、蒸しの要素があります。石を燃やしてその石に葉っぱを乗せて蒸し焼きにしていましたから縄文時代から蒸し料理のようなものはあったのかもしれません。

現在、薬草風呂をつくっていますがこの薬草風呂は蒸し風呂です。私たちの身体も蒸すことで毛穴が開き、身体が蒸気によって柔らかくなり緊張がほぐれます。これは蒸し料理を見ていたらわかりますが、野菜なども透明になって活き活きしてきます。玉ねぎなどは、透明になりじゃがいもなどもほくほくです。

お水というのは、蒸気になることで非常に粒子の細かい水分になりそれが密閉されると全体に水分が行渡ります。

畑などをし野菜をつくっているとその土の中に手をいれると蒸されているのがわかります。土が発酵しているのです。この蒸しというのは発酵と関係があるように私は思います。私たちの身体も水分を常に吸収し、それを身体から発していますが服の中では蒸しているともいえます。私たちが蒸しているのは、私たちの身体も発酵しているからです。

私は自然養鶏で烏骨鶏を飼育していますが、この土もいつも蒸しています。水分がなくなればサラサラになりますが、少し水分を入れたらまた発酵します。

蒸していくというのは、この発酵を促進させる効果があるようにも思います。御餅なども蒸してつくりますが、それが美味しさの秘訣になっているようにも思います。

色々と蒸しの智慧を深めていきたいと思います。

不老不死とは

「鶴は千年、亀は万年」という言葉がります。この言葉は元々は中国の淮南王朝に書かれた思想書である「淮南子」の第十七説林訓に「鶴歳千歳、亀歳三千歳」という言葉が由来だといわれます。

古来の中国では仙人がいて、鶴や亀は蓬莱山に棲み仙人の使いと信じられてきました。長寿の目出度い存在として、縁起のよい生き物としてむかしから重宝されてきました。そこから縁起物や贈り物に鶴や亀がよく使われます。

実際の寿命を調べると、鶴は50年くらい、亀は大きいものだと250年くらい生きるともいわれています。通常の鳥や動物よりも長生きするのは事実ですが千年も万年も生きてはいないようです。

もともと仙人というのは、中国の古来の信仰の一つで道教でいう長年の修行で超自然的な力を持った存在として崇められてきました。神様というのは、先天的に神聖で絶対的な存在なのに対して仙人は後天的に修行や自己修養をし不老不死の存在になったものをいいます。仙人は真人ともいわれ、超自然的な力を縦横無尽に発揮できる存在でもあったといいます。かつての人間ということでしょうか。人間は進化の過程で人間性を失い劣化していきました。原初の人間は、自然の中でどのように振舞ってきたのか。歴史を辿って観てみたいものです。

話を戻せば、鶴や亀のいる蓬莱山は「仙境」と呼ばれる土地です。世間や世俗の煩わしさから解放された清浄な場所とされそこに仙人もいると信じられてきました。

もともと英彦山は、かつて仙人の棲む仙境であったといわれてきた聖山です。宿坊に滞在して場を調えていると、仙境のイメージがたくさん湧いてきます。自然の音だけが聴こえてきて、時が止まっているかのようです。

そして不老不死とは、何か。

これは単に物理的にいつまでも若々しくて死なないという意味ではないことは直観します。現代では、メタバースやクローン、遺伝子組み換えや冷凍保存、マインドアップロードなどあらゆる技術で不老不死に挑んでいる人たちがいます。これは物理的に若々しくて死なないことを修行ではなくテクノロジーで実現しようとするものです。

そもそもこれらのテクノロジーというのは、苦労や修行をしなくても簡単便利に手に入れる方法を指すことが多いように思います。その方がお金になりますし、その方がこの世の真理に逆らっていくことで膨大なエネルギーを消費できるものです。

実際の仙人の不老不死は超自然的なものであることがわかります。それは永遠の循環と一体になっていることです。つまりはこの地球などの存在そのものになっているかのようなものだと感じます。

郷里福岡の禅僧、仙厓和尚が「鶴は千年、亀は万年、我は天年」といいました。天年とは、天命を生きることです。実際には、それぞれに天命がありそのままになること、そのままに生きること、その存在こそが永遠の循環になっているように私は感じます。

仙人になるというのは、どういうことか。不老不死とはどういうことか、これからも豊かに楽しく修行を味わっていきたいと思います。

暮らしの甦生

英彦山の守静坊で薬草園をつくっていますが、色々と考えることばかりです。本来は薬草は山で採取していくものです。しかし英彦山は国定公園のために許可なく採取できません。正確には、耶馬日田英彦山国定公園といいます。

この国定公園を調べると、自然公園法に基づき環境大臣が指定し、都道府県が管理する自然公園のことです。具体的には、すぐれた自然の風景地を保護するとともに、その利用の増進を図り、もって国民の保健、休養および教化に資することを目的として指定するものとあります。

調べると、国定公園の風致を維持するうえで支障があるものは全部ダメとあります。
自然公園法第20条第3項第11号に「高山植物その他の植物で環境大臣が指定するものを採取し、又は損傷すること。」とあります。高山植物は採取はダメだということです。もしも採取又は損傷する場合には、国立公園にあっては環境大臣の、国定公園にあっては都道府県知事のそれぞれ許可が必要とあります。

ただ環境省では、自然公園法施行規則第11条第24項で「学術研究その他公益上必要であり、かつ、申請に係る場所以外の場所においてはその目的を達成することができないと認められるものであること。」第2号「採取し若しくは損傷しようとする植物が申請に係る特別地域において絶滅のおそれがないものであること。ただし、当該植物の保護増殖を目的とし、かつ、当該特別地域における当該植物の保存に資する場合はこの限りでない。」としています。

そもそも高山植物は、最初からあったものなのか、それとも人工的に人の手によって植えられたものなのか。またお山での人々の暮らしにどのように関係してきたのか。そこには先人たちの智慧や暮らしの文化ががあります。ただその植物を物としてとらえれば、何もしないで放っておくことが保存となっていますがもしも人の手が入っていたのならそれは人の手が入り続けなければ保存とはいいません。

これは古民家でも同じことです。カタチだけの古民家を保存して大量の補助金を投入してその後は、見学料を数百円とってショーケースのようにしても古民家を保存したとはなりません。

古民家は周囲の環境と循環するように建てられ、そしてその循環を維持する仕組みになっています。例えば、藁ぶき屋根の古民家では藁を採取して藁でふき替えていきます。茅葺も同じですが、ちゃんとその地域の素材や原料が暮らしの中で活かされ周囲の環境がより豊かになるように人の手が入っているのです。

本来、高山植物や薬草も同じくちゃんと暮らしの中で活かすことがあってはじめて保存しているともいえます。今の保存の考えでは、高山植物はどこにあるのかもわからなくなりますし枯死したりあるいは絶滅してしまいます。私は宿坊で薬草園をしますが、基本はハーブが中心で木々などは移植したりしないと難しいものです。しかし実際に採取禁止されていますから、採取ができません。

提供してくださる人たちから集めて少しずつ、宿坊の敷地内で活用していくところからやっていこうと思っています。

本来の暮らしを失えば、すべて保存することはできないのです。大きな矛盾ですが、保存は暮らしの断絶を推進しています。本気で保存する気があるのなら、ちゃんと暮らしを甦生してほしいと思います。

まずは自分一人からでも丁寧にお山の暮らしを甦生させていきたいと思います。

忙しい

人は忙しくなってくるとそこまでのプロセスを味わうことをやめてしまうものです。あるいは結果ばかりを気にしてプロセスを味わいたくないから忙しくするというものもあります。本当は、素晴らしい体験や経験、その経過は一期一会で人生において最も有意義で価値のある時間だったとしてもそれを敢えて忙しくすることでプロセスそのものを味わいたくないものにしてしまっています。

つまり忙しいというのは、単にやることがいっぱいで納期や期限があるから忙しいというものだけではなく結果ばかりを追い求めていることを忙しいともいうように思います。

私たちは体験させていただくことや経験すること、そして経過そのものが本来の人生ともいえます。結果も大切ですが、結果が喜びになるのはその経過が素晴らしいからです。その経過を楽しみ、その経過を慈しみ、その経過から人生は彩られ豊かさに溢れます。

私は座右に人間万事塞翁が馬というものがあります。これはよくよく観察し、じっくりと待つことで別の結果があることを學ぶ格言です。

実際の人生は、思った通りにならず思った以上のことが発生します。その時々で、よくよく自分の人生における経過を観察し、その経過にどのような気づきがあったか、何を学んでいるかを繰り返し内省していると恩恵の偉大さに感謝することばかりです。

まさに探そうとしても探せず、手に入れようとしても手に入れることができないほどの一期一会のご縁をいただいていることに出会います。それが経過の有難さです。経過を忘れるほどに日々に結果ばかりを追求していたら、一期一会の仲間との邂逅やまさに天恵などの奇跡の贈り物、あるいは役割をいただけることへの感謝、身体が動くこと、生きがいややりがいなどもおざなりになってしまいます。

忙しいというのは、とても大きな損失であり見落としばかりの日々を過ごすことになるかもしれません。微細な変化、成長、感謝、邂逅、奇跡に気づくことができる人生はとても豊かです。

忙しいという価値観に呑まれないように、一度きりの限られた今世での一生涯、丁寧に一円対話や内省を続けていきたいと思います。

問題と先生

問題というものがあります。問題というのは、問題そのものを直視し見つめるときにはじめてその問題そのものが大切な答えを持っていることに気づきます。問題を解決しようとする前に、その問題そのものをよく見つめることからというのが問題の本質であるように思います。

思い返してみても、問題をそのままに解決するということはできません。問題をよく見つめずに解決策を考えても問題がなくなるわけではありません。そもそも問題というものは、それが悪いものではなくその問題そのものが価値があることがほとんどです。その価値がある問題の意味をよくよく洞察すると、それが自分の本当にやりたかったことや、自分のお役目だったり、あるいはそれが全体最適につながる最適解だったりすることがほとんどです。

ではなぜ問題を直視できないのか。

それはその問題に感情がつき纏うからです。問題の解決には多大な感情のプロセスや時間、あるいはエネルギーを費やすことが観えているからです。そこには例えば自分の内的トラウマが潜んでいたり、乗り越えなければならない壁が立ちふさがっていたり、あるいは膨大な時間やお金が必要だったりと色々と観えてきます。すると、問題が大きくなるばかりで問題そのものを直視することができなくなるのです。そうすると問題の先送りをしたり、問題を挿げ替えたり、問題を避けて通ろうとするものです。一度、その選択をしたら問題を正面から直視することがさらに難しくなるのです。

問題を直視するというのは、この問題の本質は何かということを突き詰めることです。そこには様々な複雑な感情があるかもしれません。それをひっくるめて正面から問題そのものを見つめるとき、問題そのものが自分を導いて大切な気づきを教えてくれるものです。

つまり問題とは、本来は自分の先生ということになります。

先生は答えを教えてくれる人ではなく、問題を教えてくれる人です。問題を教える人は煙たがられ、嫌われることも多々あるものです。しかし、本当の問題を教えてくれるのならそれは自分をより成長させ、真の意味での解決、つまり生き方を学び直すチャンスとなります。

問題とは、その時々で自分の人生において生き方をはじめ最も大切なことを学び直すチャンスです。

問題をがあることで人生は豊かになります。問題をチャンスと捉えた時点で、禍転じて福になるものです。ピンチはチャンスというのも善い言葉です。ピンチの由来は、英語のクライシスでそれはギリシャ語のカイロスといい、これはチャンスというそうです。

やっぱり問題は生き方を換えるチャンスだと思うと、問題ばかりの人生はチャンスをたくさん持っている状態ともいえます。

そして先生とは、いつもチャンスの切っ掛けをいただける存在です。

何でも問題を悪いものとせず、問題こそ人生の醍醐味として子どもたちのお手本になるように豊かに明るく挑戦していきたいと思います。