知恵と陰徳

昨日は、無事に英彦山守静坊の甦生感謝祭を行うことができました。天候にも恵まれ、心地よい風が吹く中で皆さんと一緒にこの節目を過ごせたことが何よりも仕合せでした。

今回の宿坊の甦生は、一人ひとりの小さな力が集まってはじめて実現したものです。私一人ではどうしてもできるものではありません。大工さんはじめあらゆる職人さんたちも大変なご苦労をしていただきましたが、片づけや荷物運びなど大勢の加勢がなければ決して完成することはありませんでした。

目を閉じると、これまで甦生でお手伝いいただいた数々のシーンばかりが思い出されます。まさに皆さんのお布施の集積と和によって実現した宿坊になりました。奇跡のような日々に見守られ、心を合わせ気持ちを一つにして取り組めたことに何よりも感謝しています。

私は作務衣を着ていたり法螺貝を吹いたり、祝詞をあげたりするので新興宗教ではないかなどと批判されることがあります。しかし財団法人徳積財団は、もともと徳を積むことを実践するために設立されたものであり、さらにこの時代に徳の循環という新しい道徳と経済の一致を実現するために運営されているものです。ただし、徳は掘り起こされるものが多く、その中には伝統文化もあれば、先人の知恵などもあります。

それが時には、祈りの形態であることがあります。法螺貝もその一つでもあるし、祝詞やお経、托鉢であったり、神楽であったり、郷土玩具や郷土伝統食だったりもします。これは私は宗教ではなく、先人たちの暮らしの信仰であると思っています。むかしの人たちの文献を調べると、むかしはみんなで助け合いいのちを分かち合い暮らしを充実させていました。誰かが亡くなればみんなで亡骸を弔い、お経をあげました。病気になれば、それぞれで食べ物を分け合いました。自然災害があれば、みんな自分をあとにしても村の機能が回復するように工事をしました。

現代のようなお金で解決することができない分、みんなで知恵を絞って取り組んできたのです。その知恵は、その後の子孫たちに生きる指針や指南にもなり暮らしの知恵として信仰の一つにまで昇華されたのです。

知恵を使うというのは、知恵を守るということです。この知恵は知識とは違い、陰徳の高いものです。陰徳を積むことは、知恵を使うことと似ています。私は暮らしフルネスという実践を提案していますが、その中には信仰に近いものもたくさんあります。それで誤解されることもありますが、それでもはっきりと伝えたいのは子どもたちには先人の知恵という宝をそのまま譲っていきたいという願いです。

すぐに見返りもなく、評価もされないことであっても、歴史的に大切なものはずっと大切なものとして受け継ぎ、次世代へと繋いでいくことが知恵を守るためには重要です。

皆さんと一緒に、感謝祭でその体験ができたこと。倍音のハーモニーや、心を合わせて和の場を創造すること、そして同じ釜の飯を食べ伝統的な食を味わえたこと。一期一会の有難い時間になりました。

これからも真摯に、我が道、我が使命を磨いていきたいと思います。

ありがとうございました。

 

英彦山守静坊の甦生 感謝祭

明日は、いよいよ英彦山の守静坊の甦生感謝祭を行います。振り返ってみたら、本当に多くの方々に見守られ無事に宿坊を甦生することができました。結に参加してくださった方々のことを一生忘れません。この場をお借りして、改めて深く感謝しています。

思い返してみたら、今回の宿坊の甦生は困難の連続でした。工事に取り組み始めてからも何十回、もしくは何百回も神様に真摯に拝み、尽力することはやりつくすのでどうかお力をおかしくださいと祈り続けました。少し進んだと思うと、大きく後退し、善いことが起きたと思ったら八方ふさがりのような状態に陥ったり、一喜一憂してばかりの日々を過ごしてきました。

そんな中でも、本当に有難かったのは身近でいつも支えてくれたスタッフや家族、どんな時でも丸ごと信じて応援してくれた叔父さん。そしていつも見守ってくれていた仲間たち、結に参加してくれて見返りを求めずに徳を一緒に積んでくださった同朋のみなさま。小さなお気遣いから、大きな思いやり、取り組みに深い関心を寄せてくださった方々に心を支えていただいていました。

今回の宿坊の甦生で、故長野先生はじめこの宿坊に関わったこられた歴史の先人の皆様。そして英彦山に少しでも御恩返しすることはできたでしょうか。喜んでくださっているでしょうか、もしもそうなら努力が報われた想いになります。

私たち徳積財団、及び結の仲間は宗教組織ではありません。むかしの先人たちが暮らしのなかで信仰していたように、お山を拝み、お水を拝み、いのちを大切にし、お祈りを実践し、生活を助け合うなかで心をむすぶために信じあう仲間たちの結(ゆい)です。この結というのは、つながりや結びつきの中で暮らしていくという古来からの日本人の知恵の一つで「和」ともいいます。

私は、和が永続することを「平和」だと思っています。そしてそれは徳を積むことで得られると信じています。この徳を積むというのは、自分の喜びがみんなの喜びになり、みんなの喜びが自分の喜びになるという意味です。自然をお手本にして、全体のいのちが充実していくように、暮らしを充実させていくことです。それが暮らしフルネスの実践であり、徳が循環していく安心の世の中にすることです。

今の私たちは歴史を生き続けている存在です。終わった歴史ではなく、これは今も私たちが結び続ける責任を生きています。今までの先人たちの徳の集積を、さらに磨いてこの先の子どもたちに繋いでいくのが今の世代を生きる私たちの本当の使命です。

最後に、感謝祭に来てくださってお祝いをしてくださる友人たちがむかしの家族的な雰囲気で舞や唄を披露してくれます。この宿坊の谷は、弁財天さまの谷で弁財天は芸能の神様でもあります。むかしのように囲炉裏を囲み、みんなで一緒に同じ釜の飯を食べ、笑い、踊り、唄を歌う。心地よい法螺貝の音色が宿坊全体に広がっていくように豊かで仕合せなひと時を皆様と一緒に過ごせたらこれ以上の喜びはありません。

これから親友で同志のエバレットブラウンさんが、宿坊に滞在し英彦山の徳を出版や湿版写真等で伝承してくれます。そして私は、一人ひとりの徳を尊重し合い磨き合う場として仙人倶楽部というものをこれから徳積堂にてはじめます。私が心から尊敬する師の一人、二宮尊徳はこれを万象具徳といい、それを顕現させるのが報徳ともいい、その思想を一円観といいました。私はこれを現代にも甦生させ、「平和が永続する知恵」を子どもたちに伝承していきたいと思っています。

本日がその一つの節目になります。このひと時を永遠の今にしていけるように皆様と祈りをカタチにし、懐かしい未来を味わいたいと思います。

ここまで本当にありがとうございました、そしてこれからもどうぞよろしくお願いします。

水屋箪笥

昨日は、宿坊に水屋箪笥を運びこみました。この水屋というのは、台所ということです。この「水屋」はもともと水を扱う場所という意味で、台所を意味します。そこに置かれる台所の収納家具のことを水屋箪笥といいます。

また「箪笥」は、室町時代頃には「担子」と書いていたといいます。この「担子」は、中国では天秤棒の両端にかけた荷物の意味で、日本では持ち運び可能な箱のことをいいました。それが江戸時代に入り、引き出し式のたんすが作られるようになった頃から、「箪笥」の漢字が当てられたといいます。円形の竹の器を「箪(たん)」、方形のものを「笥(し)」とし、これを合わせて「箪笥(たんし)」呼びます。この「箪笥」は、中国では飯などを入れる小さな器の「櫃」のことです。収納して運び出せるものということだったのでしょう。

水屋と似た言葉にむかしトイレのことを川屋といいました。これはもともと古事記に水の流れる溝の上にかけ渡した屋という意味が有力だといいます。むかしの古民家では母屋のそばに設けるのが一般的であったことから、「側屋(かわや)」とも呼んだそうです。

少し前を想像してみると、今のように水道もなく電気もありません。水は井戸を汲んだり、綺麗な川から引いてきたりと工夫したように思います。水があるところでないと生活できませんから、水がある環境の場所を選んで家屋は建てたのです。

自然に水があることの有難さやもったいなさを感じる機会も多かったように思います。宿坊でも、近くには綺麗な清流が流れ込んできています。とても清々しい水で、心身や癒され、心地よい風が吹いてきます。

むかしの道具たちや家具に触れていると、その時代の名残や余韻を感じられます。

一つ一つを甦生するなかで、先人たちの豊かで情緒深い生き方に触れることができることもまた仕合せです。丁寧に甦生し、山での暮らしをととのえていきたいと思います。

 

心の師

人は人と比べる人生ではなく、自分らしく生きていくために初心や目的を振り返るものです。何のために生きるのか、どうありたいかは自分自身が決めることができます。ある意味、この自分の中の自由というものを磨いていくことで私たちは思いを醸成し世界をよりよくしていくことができるともいえます。

しかし実際には、思いを醸成するには多くの時間が必要です。思いついた思いではなく、まさに大木や植物がじっくりと根をはり育っていくような日々の積み重ねが必要です。

原点回帰ともいうべき、その日々の成長の繰り返しによって思いは育っていきます。その思いの強さや思いの豊かさが周囲をよりよい場にしていきます。

私が尊敬している方がいます。

その方は、毎朝日が昇る前に起きて太陽を拝み祈ります。昨日のことをよく反省し、よく努力したなかで善かったこと善くなかったこと丸ごと受け容れて御礼をし、また今日、真摯に取り組みますと思いを励んでおられます。

今、この一瞬、その時々を一期一会に生きては反省し精進するのです。

決して思い通りになることはなく、世の中はあまりいいニュースが流れません。しかしその方は、人間のことを深く信じ、深く愛し、世の中の平和を信頼しています。決してただの楽観的な方というのではなく、悲しみや苦しみに寄り添いながらもそれでも人間は学ぶ、人間は成長すると信じているのです。

話をしていると自然に安心して心の不安も消えていきます。

こんな人物のように生き方で周囲を安心させる存在になりたいと心から憧れたものです。実際の私は本当にまだまだで、心の不安も自分のことで精いっぱい、そしてよい波動が出せているのかと、それに自分の言動も未熟です。周囲のことを気にし、空気を不安がることもあります。

自分がこうありたいと決めた生き方に対して、真摯には取り組んでいますが自分自身の心をどれだけ磨いているのか。自分を見つめる毎日を送っています。有難いことは、私の心の中に尊敬する方々の生き方や後ろ姿、また言葉や眼差し、記憶が共にあることです。

道を歩んでいく中で、仲間も増え、そして心も育ってきました。道の中で一円観を実践し、円満にしていく場をととのえていくのもまた私の祈るところです。心して、天に恥じないようにこの今を大切に生き切っていきたいと思います。

暮らしの中の信仰

日本人は、むかしから信仰を暮らしの中で実践してきた民族です。多神教ともいわれますが、すべての存在にはいのちが宿っていると信じて丁寧にいのちを大切に扱ってきました。

それは日本の伝統工芸をはじめあらゆる文化の中で手に取ることができるのですぐにわかります。いのちだからこそ壊れないようにと尊重しながら丁寧に接していくのです。まさにここに信仰の原型があるように私は思います。

現在は、特定の宗教によって教えという形になって一つの教義となっています。信仰が暮らしから離れてしまっているものもあります。しかし私は、目に見えないことを頭で考える事よりも日々の実践を通して実感していくことが信仰に気づいていくようにも思います。

日本には古来から様々な行事がのこっています。そのどれもが感謝の行事でもあります。当たり前ではないことを忘れないように、ありとあらゆるものに神様のようなものを見出します。それは木であったり、水であったり、太陽であったり、私たちが普段忘れてしまっているような存在に気づき直します。

そこにはいのちがあり、私たちはそのいのちを分けてもらって存在していますからつながりや結びを忘れないようにしている仕組みでもあります。今の時代は、情報化の時代であらゆる価値観や知識が混雑して何が本当かもわからなくなってきています。

こういう時は、原点回帰して本来何がはじまりだったか。そしてどのようなものが本来の姿だったかを学び直すことで情報が削ぎ落されシンプルになっていくようにも思います。

私はよく特定の宗教の人と誤解されて困ることがありますが、暮らしの中の信仰を実践してきたいと思っています。それは山を拝み、川を拝み、海を拝み、岩を拝む。そして日々の食べ物や道具たち、ご縁や時を拝みます。私たちの身体を含めたいのちを丸ごと祈るところに懐かしい未来、暮らしの信仰もまたあるように思います。

暮らしフルネスの実践を大切にしていきたいと思います。

器を磨く

守静坊にお世話になった方々への感謝祭の準備をしていますが、故長野覚先生の親しかった方々が多数参加してくださることになりました。不思議なことですが、宿坊と関わってから生前にお世話になった方々から先生のことをお聞きします。

どの方々からもとてもよくしていただいたことや、人格的に素晴らしかったことなどをお聞きすることばかりです。私はほとんどお話する時間がありませんでしたが、こうやって生前の生き方や人柄を人伝いでお聞きすることで先生がどのような方がったのかが見知ってきます。

昨日も、感謝祭のために英彦山で真摯に昔ながらの製法で真摯にこんにゃくを伝承されている方とお会いしましたがずっと長野先生に大切に関わって可愛がってもらったと感謝しておられました。

それがこのタイミングでつながり、宿坊甦生のお披露目の精進料理のメインとして使わせていただくことに不思議なご縁を感じます。

以前、ある方から私の生き方は依り代のようだといわれたことがあります。確かに思い返してみると、器のように何でもその時々でまるで自分ではないように行動します。私は真心という言い方をしますが、その時の判断の中にはほとんど我が入っていないことがあります。気が付くと、その人の心になったかのように行動できたりもします。

私は想いに敏感なのかもしれませんが、むかしから大義で生きた人の心やその想いにすぐに共感して器に影響を受けていきます。かつての先人たちの生き様や、その生涯での偉業などをみては魂が揺さぶられていきます。

私のこの道は、一体どこに往くのかは今はまったくわかりません。しかし我が道をこのまま信じて歩んでいくだけです。器を磨いて、器を整えて、子どもたちの未来のために私のなすべきことに集中していきたいと思います。

徳と道と調和

徳には陰徳と陽徳があるといわれます。本来の徳は、実際には一つですがこの世が二つが一つであるように同じく二つが一つになっているものです。これは自己という存在も同じです。自己もまた二つで一つです。シンプルにいえば、目に見えるところと目に見えないところともいえると思います。

徳も同様に目に見える徳と目に見えない徳があります。例えば、目に見える徳は人に感謝されたり評価されたりするところです。そして目に見えない徳は、誰にも評価されたり感謝されていませんがそれがいつまでも場に余韻として遺るものです。そしてその場を磨いて徳を見出しその徳を活かし顕現するとき真の徳を実践していくことができます。つまり調和する徳というのは、自然に存在している真の道を歩むときにこそ陰陽もまた結ばれていくということです。

この結ばれるというのは、二つが一つになることをいいます。夫婦和合してそして子どもが誕生するように、共に一つのものを産み出します。これは太古から続いている道でもありますが、それを磨くことで子孫もまた発展して人類も深化していきます。

調和というのは、頭でなかなか理解できるものではありません。様々なものが混然一体になっているもんをなんと名付けるのか。それはそのまま混然一体というしかありません。複雑なものを私たちは一つに名付けます。人間というものも同じく、複雑ですが人間と名付けたらみんな人間です。そして神様というものもまた、複雑で混然一体になった存在ですが神様と括ります。

しかしよく見つめていると、調和したところに私たちは何か一つになったものを直感します。その時、私たちは調和の持つ真の深さ、真の温かさ、真の豊かさを感じることができるのです。

そこに真の徳もまたあるのです。

真の徳は、なかなかすぐにはわかりません。本人にしか調和が分からないのです。それは実践している中で味わうものであり、それを共に道を歩んでいく中で深め味わうものでもあります。

徳の道を歩んでいくのは、調和の道に導いていくことでもあります。人が徳に気づいて、それぞれの徳を磨いていこうとするところに真の実践もまたあります。真真と言っていますが、この真という字もまた調和を指す言葉です。

時代の背景もあり焦りや葛藤もありますが、あらゆるものを受容して徳と道の調和を目指していきたいと思います。

神鏡からの知恵

神鏡というものがあります。ウィキペディアには「神鏡の意義に関しては、一般的には太陽を鏡で指していると言われる。これは、鏡で日の光を反射した際、それを正面から見ると太陽のように輝いて見える為であり、日本神道 では太陽神 である天照大神 (アマテラスオオカミ)を最上の神として崇め祀るので、太陽を象徴する鏡で以て御神体 とし、神社に祀るとされている。『日本書紀 』においては、天照大神 は孫である瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト)に、「これらの鏡を私の御魂として、拝するように常に奉りなさい」と記述されている。」とあります。

神鏡は日本の神話で有名な三種の神器の一つなので聞いたことがあると思います。

今回、宿坊とのご縁で神鏡を預かりそれをお手入れして元の宿坊に戻すことになっていますが私がほとんど神鏡のことをわかっていないことに気づき、学び直しています。

鏡というと、毎日、洗面所で見ているものです。顔を洗い、自分を見つめるもの。自分をそのまま映すものです。しかしその自分はどのように見えているのか。いのちがあるものとして丁寧に見つめることがどれだけあるのか。ただの道具として、見た目がいいかどうかばかりを気にしていたり、目が届かない自分の身体の部分を見るのにつかいます。最近では、スマートフォンにも自分を映す機能がありますから鏡の代わりになっているともいえます。

以前、ある人に鏡というのは、カガミで真ん中のガが取れたらカミになるとお聞きしたことがありました。我が神の間にうつりこむというのは上手いたとえだなと感じました。

ここ数日、鏡が如何に自分自身であるかを痛感することがたくさんありました。曇っていては映らないこと、そして傷がついてしまっては観えにくいこと、磨き方やお手入れの仕方の中に自分の癖や隙があることなどです。今までよく考えもせず、神鏡を扱っていましたが改めて今回の出会いで学び直したいと思うようになりました。

これも神鏡を磨いたことでしか得られなかった邂逅です。ここに一つの導きがあるとして、磨くことを学び直したいと強く思いました。

知恵を学び、自分自身で神鏡から学び直していきたいと思います。

善友と道

道を歩んでいく中で、多くの仲間に恵まれます。その仲間の御蔭で、孤立することもなく孤独も豊かなものになっていきます。人は、必ず心の中に良心を持っています。それは思いやりや優しさです。同時に、自我というものもあります。いろいろな人たちとかかわる中で、その善い方を導いていこうとするのが人生の修行そのものかもしれません。

仏陀の話の中で善知識経というものがあり、弟子のアーナンダに善き友について話をするシーンがあります。

意訳しますが、仏陀がサッカラの村に着いたときにアーナンダはこう質問します。「共に仏法を学んでそして共に仏の道を歩んでいく。このような善き友がいるということは、修行の既に半ばを達成できたに等しいと私は思ったのですが仏陀はどう思われますか?」と。それに仏陀は応えていいます。

「善き友がいることは修行の半ばではなく、そのすべてですよ」と。つまり、真の修行は善き友を持つことで完成しているということでもあります。

また別のところで仏陀は「悪友を避けて善友を求めよ、しかし善友が得られなければ、孤独に歩め」ともいいます。

仏陀は、皆が私を善き友とすることによって仏の教えを学びそして共に仏の道を歩んでいるように善き友を持つことを心がけることを言いました。

つまり善き友とは、自分の中にある善心そのものでありその心と歩んでいくことで心の平安が宿り、その仲間たちと道を歩み続けていくことで修行が為ると言ったのかもしれません。

常に心は持ち方次第で、どうにでも世界は変わっていきます。物事のどの方を観るか、そして何を想いカタチにするかによって変化していきます。仏陀は同時に悪友を避けなさいといっています。何が悪友なのかは、道を歩めない仲間たちのことかもしれません。

友達がたくさんいたらいいわけではなく、真の友は心の中に存在する友です。その友は、それぞれの心の中にいてみんな同じように優しくありたい、思いやりのある人でありたい、心美しくありたい、感謝のままでありたいなど、素直なところにあります。

そういうものを磨いていこうとする人が、同じように仲間たちと出会い日々に修行をする。そして磨き合い高め合っていく、まさにそのことが人としての一つの集大成ではないかとも私も感じます。

人間力を如何に磨いていくか、これからテクノロジーがさらに発展していくなかでその深化は必要不可欠です。だからこそ、道を歩む、そして善友が必要だと思います。2000年以上たっても、真理や真価はまったく変わらずにあることに安心します。

引き続き、自分はどうかと内省しながら言葉ではなくカタチで実践していきたいと思います。

ご縁の循環

人のご縁というものはとても不思議なものです。長い時間をかけて、そのご縁の意味がなんであったかはあとから現れてくるものです。その時は、何ともなかったご縁でも、時間が経てばそれがとても大事なご縁であったことがわかります。

振り返ってみると、まさかここでこのタイミングでということで助けていただいたご縁がたくさんあります。過去に誰かに親切にしたことが、巡り廻って自分のところにもやってくるのです。ことわざに、「情けは人のためならず」があります。これは人に対して情けを掛けておけば巡り巡って自分に良い報いが返ってくるという意味の言葉です。親切の連鎖ほど、ご縁を有難く感じるものはあります。

そしてそれはいつからはじまったご縁なのかということに思いを馳せます。

自分がはじめて会った他人だと思っていた人でも、実は長い時間をかけて先祖や親族が親切にしてきた人かもしれません。偶然助けていただいた方でも、その方もひょっとしたら随分長い時間をかけてご縁が結ばれた人かもしれません。

一つ一つのご縁を大切にするのは、まだ見ぬ未来を明るくしていくためでもあります。それが時間をかけて育ってくるのを待ち、自分、もしくは未来に善い循環の流れをつくっていきます。

地球は循環を已みませんが、どのような循環をつくっていくかはその人の生き方次第です。毎日、それは試されていますしこの瞬間も実践する機会があります。そんなに人生悟ったようにはならないからこそ、ご縁を磨いていくような心がけが必要なのかもしれません。

子どもたちの仕合せを願うように、ご縁を大切にしていきたいと思います。