運の善さ

世の中には運というものがあります。この運とは、運命の運とも言われますがこれは世間でイメージしている変えようのないものというものではありません。よくお導きといって、例えば川に落ち葉が流れていくように自然に循環しているものです。また宿命というものがあります。それはその人が元々、持っている使命のようなものです。例えば、落ち葉は木の成長の一部です。また天命というものがあります。これは寿命などもですが、例えばそのものに与えられたお役目や役割のようなものです。

この運命も天命も宿命も寿命もすべては命の話です。つまり命はどれも何かの存在によって与えられたものです。これを別の言い方では徳ともいいます。徳を高めていくということは、運を善くすることにも似ているのではこれはどちらも同質同一のものであるからです。

運命とは与えられたものですがその与えられたものをどのように解釈していくかはその人の精進でもあります。自然界が同様にすべての生き物には、無機物をはじめ様々な運命や寿命が与えられます。そのどれもが多様な道を歩み、それぞれに天命を全うします。その中で徳を磨いてきた存在は、一様に運の善さを持っているのです。

物であったとしても、徳が磨かれている物はとても数奇な運命を辿り善い運命を辿ります。そのものが必要としているものとめぐり逢い、また循環して徳を積むのです。つまりは、運が善いのです。

この運の善さとは、そうなるように自然的に導かれることです。例えば、私の手元には法螺貝があります。この法螺貝も海で誕生しオニヒトデを食べて成長しそれを人間がみつけ吹き口がつき法螺貝になり修行者と共に山を歩き音を鳴らします。200年以上前の法螺貝もありますが数々の人たちに伝来して今の手元にあります。

この法螺貝はその徳を磨き、見事な音を鳴らします。その音によって周囲が活かされ、また法螺貝も活かされます。お互いに活き活きとする、そして世が明るくなっていく。明るくとは光り輝いていくということです。ここに運の善さを感じます。

結局、運というものは明るさ、光るということと深い関係があるように私は思います。

運の善さとは、明るく生きること、そして自他を光らせていくこと、そのために徳を積み徳を磨くことだと私は思います。

子どもたちや子孫たちに運の善さを循環していけるように生き方や生きざまを見つめ、運命を明るく素直に元氣に広げていきたいと思います。

観察オタク

私は観察オタクと自分のことを呼んでいます。他にも炭オタクなどもありますが、色々とオタク要素があります。それは元はこの観察オタクから発生しているのではないとも感じます。

観察というものの語源は、本来は仏教から来ており「知恵によって対象となるものを正しく見極めること」という意味です。観察するということは瞑想であるという言葉もあります。

暮らしフルネスの中でも、私は暮らしを通して観察しているともいえます。この観察とは一体何か、それを少し書いてみようと思います。

観察とはそもそもあるがままに氣づくことともいえます。何も執着せず、刷り込まれず、そのものがそのままに観えるということです。そのままに観えるというのは、あるがままに直観するという具合です。この直観という字も、直に観るという字です。これも仏教用語 で「प्रज्ञा(プラジュニャー、 般若)」の訳語の一つである直観智とも言われるものです。

観察とはもともとどのようなものだったか、根源は何か、原点は何か、これは一体何かと問うのです。すると、自己の内面の奥深いところの心の機微のようなものに触れていきます。これを氣づきともいいます。自分が何に執着したのか、どのような煩悩に惑わされているのか、あるいは何を思い込んでいたのかを発見するのです。

そしてその自分の刷り込みや思い込みを取り払い、あるがままに物事や事物が観えるのならそれは真理に達したともいえるように思います。真理という言葉も、そもそも最初から当たり前にあるもので特別なものではありません。

色々な余計な知識が増えたせいで、真理から遠ざかったり別の物に挿げ替えられたり、イメージを刷り込まれたりしただけです。空気や水や太陽のように最初から存在し、お互いに循環作用しあい調和しているだけのものです。

私は35歳くらいから選ばない生き方ということを決心して実践してきました。それからは特に観察オタクに拍車がかかり、あらゆるものをじっと観察してきました。仕事でも内省や内観による氣づきが産まれるようなワークショップばかりを文化づくりに活かし、ライフワークも徳を磨くことやいのちを甦生することばかりに取り組んできました。

今思うと、これも観察オタクだからこそその道に入ったのかもしれません。

今では仏教の真似事のように、お経を詠んだり祈祷をしたりする機会に恵まれますがそのお経のどれもが、あるいは祈祷や坐禅のどれもが結局は観察の智慧の実践ばかりです。

まさに観察こそが悟りの境地ということなのかもしれません。

子どもたちのためにも、観察の大切さを背中で伝え、また子育てに関わる人たちにもその観察の素晴らしさを伝承していきたいと思います。

美の王、美の神

私は自宅に様々な貝を持っています。不思議ですが、貝を拾う趣味があるわけでもなく特別に海にご縁があるわけでもなく、しかし大切な節目にはいつも貝が登場して人生を導いてくださいました。

どの貝も一期一会で、大きいものからとても小さいものまであります。

もっとも長く持っている貝は、宮崎県の日南海岸で出会った貝です。海の中に一際光っている何かがあり、車を停めて海に入り150メートルくらい歩いてこの辺だろうかと手を海に入れるとそこに美しい巻貝がありました。それからこの巻貝を御守りのようにしてあちこちの国内外の出張や移住先などにも一緒に歩んでいきました。今でも、部屋の机の上に飾っていつも目の見えるところが置いてあります。

そのあとは、千葉県の館山で貝磨きをしたときに太古の貝を海岸で拾いそれに「聴」の古代の文字を刻んだビーナスの貝です。貝磨きはとても深淵で、磨けば光るということの美しさと素晴らしさを学び直しました。今でもお祈りをする場所に置いていて、いつもその貝を見ています。

そしてもう一つは、法螺貝です。この法螺貝は、宮古島周辺の海の貝でそれを私のメンターに吹き口をつけていただき修行のパートナーになっています。朝晩、いつも吹いては貝と対話して今の自分を見つめています。法螺貝は増えていき、今では色々な法螺貝が自宅にあります。一番、多いのが法螺貝です。

後は、大切な祈りの木像の眼に真珠の貝が入ったことです。貝の眼を通して、この世の美しい徳をさらに見出していこうとするものです。

貝は、いつも美しさと共にあります。

美しい心、美しい魂、美しい精神、美しい光が宿っています。

貝と出会ったことで人生も美しくなりました。貝は美の王であり、美の神です。これからも貝と一緒に歩んでいきたいと思います。

徳の道は

人をはじめ、すべてのこの世にあるものは徳を具えています。この徳は、元々最初からあるものです。この最初は、終わりのない最初のことではじめも終わりもない永遠の中にある徳ともいえます。

その徳は、様々なカタチを変えてはこの世に顕現しています。あるものは鉱物になり、あるものは動物になり、またあるものは植物にと、ありとあらゆる姿に変化しては得を発揮します。

そもそも徳はあるのですが、その徳を発揮するのには徳を磨いていく必要があります。自然界や循環の世界では常に変化して磨かれていきます。自分の存在そのものにして全ての一部としての役割を果たしていきます。そしてこの存在そのものを徳ともいい、仏教では仏性ともいうのでしょう。

曹洞宗の開祖の道元禅師が、「仏道をならうというのは自己をならうことなり」といいました。また、「自己をならうというは自己をわするるなり」とも言ったそうです。私の解釈では、徳を學ぶのは自己を學ぶこと、自己を學ぶのは自己の存在に氣づくことというのではないかと思います。

そもそも自己というものは何か。

自己とは、そのもののあるがままの存在のことです。他人と比べての自己でもなく、自分の価値観や知識で理解し思い込んだ自己でもなく、また或いは分類わけした個体としての自己でもありません。

この時の自己をならうとは、すべての存在と一体になっている役割のことでありあるがままの徳に氣づいている徳の境地のことではないかと私は思います。仏陀は自燈明法燈明ともいいました。この自己の燈明こそが、自己の徳であるということでしょう。

徳はまず最初から具わっているものの発見からはじまります。それを発見するために様々な暮らしの作務を通して無心になることで次第に顕現してきます。顕現したら今度は、それを磨いていき光らせていくように積んでいくのです。

そうしていくことで、人は悟り元来の人間性に甦生します。

元来の人間性とは、抽象的な言い方になりますが明るく清々しく素直で元氣なものです。それはまるで地球の自然界の生き物たちが最期まで生を全うするようにいのちのエネルギーを発揮している状態に似ています。

自己をならうというのは、學問の原点であり人間の本質なのでしょう。

最後に、老子はこういいます。

「高い徳を身につけた人は徳を意識していない。そういうわけで徳がある。低い徳を身につけた人は徳を失うまいとする。そういうわけで徳がない。」

と、自然体、かんながらの道の中に徳の教えは生きています。

そして「徳道は自己をわするるなり、自己を磨き、あるがままの徳になるなり。」

色々と試行錯誤の修行の日々ですが、一期一会に味わっていきたいと思います。

人間性とは何か

霊性を磨くという言葉があります。これは別の言い方では、心を高めるともいいます。自分自身の人間性をどれだけ修養するか、これは生き方や生きざまの話です。

この世に存在するものは、それぞれに時間の経過と共に変化していきます。その時々で必要なことが発生し、それを感じそれぞれに成長していきます。その成長は、その人その人によっても異なります。

例えば、幼少期から不運や不幸に見舞われて苦労して成長していく人。人生の後半になって様々な困難に遭遇して努力していく人。あるいはまったく幸福だけに恵まれて裕福に暮らしてきた人など色々あります。

仏陀なども、もとは裕福で何不自由なく暮らしていましたがある時にこの世の無常を感じて出家して修行を行いました。通常であれば、何でわざわざ裕福な暮らしを手放してまで苦労をしようとするのかと思うのでしょうがそれは何か魂がうずくような心の声があったからでしょう。

この心の声というものや、霊感、直観というものは何処から来るものか。それは深い内なるものから湧いてでてくるものです。それを内観や瞑想を通して内省して、自分をさらに磨きたい、高めたいと精進しようとするのです。

徳を積むというものもまた、霊性を磨き心を高めるためのものです。

そもそもなぜわざわざ徳を積もうとするのか。それは人間としてより成長したい、本来の心の働きをさらに充実させていきたいという本能から到来してくるものです。感謝で誰かの役に立ちたいと願ったりすることもまた霊性を磨き心を高める切っ掛けになります。

自然発生的に自然の循環に善いものをしていきたい、自分も循環の一部として全体最適な善い存在でいたいというのは何か地球や宇宙の意志をも感じるものです。

自然体に近づいていくというのは、本来の人間性に回帰するということかもしれません。

丁寧な暮らしの中にもまた、その人間性を磨くヒントはたくさんあります。地位や名誉や権力や金銭的な富よりも、もっと原始的で根源的なものに近づいていこうとする人こそ、心の働きや霊的な感性を学んでいる人のような気もします。

子孫のためにも一期一会に学び続けていきたいと思います。

薬草園の甦生

昨日から英彦山の守静坊に薬草園づくりをはじめています。改めて少し日本の薬草園の歴史を深めてみようと思います。

もともと日本最古の薬草園として知られているのに江戸時代の小石川薬草園があります。これは元々は、寛永15年(1638)に設置された品川の御薬園を移設したものともいわれます。また小石川といえば有名なものが貧しい人や身寄りのない人たちを無料で治療した医療施設の小石川養生所(享保7年(1722)です。ここでは貧しい人たちを対象に140年間、無料で薬をつくり医療を施していました。

これは享保の改革の目安箱に裕福な人だけが医療を受けられるのではなく、貧しい人たちも必要でありその場所を調えてほしいと投函されたものです。それを時の将軍、徳川吉宗に聞き入れられそれを町奉行の大岡忠相に命じ実現したものです。

その目安箱に投入したのは、江戸の町医師小川笙船(しょうせん)という人物です。この人は、若い医師を育成し、貧しい人たちの暮らしを医療で支えたことからその後は「赤ひげ先生」のモデルになっています。

この赤ひげ先生とは、山本周五郎の時代小説「赤ひげ診療譚」に出てくる町医者のことです。貧乏な人からお金を受け取らず、また他の医者が嫌がるような病人もこころよく診るので理想の医者の代名詞としても使わている日本一の名医を指します。

今の時代は、こういう御医者さんや環境はほとんどなくなりました。本来の医療は、大医中医小医とあるように国を治すのも医師の勤めということでしょう。もちろん、小石川療養所でも色々と人間本来の持つ問題や、組織の問題、環境の問題などもあり色々と歴史的には検証する必要もありますがもしも小川笙船先生が今の時代の我が国の医療の状況をみると果たしてどう感じられるでしょうか。

話を戻すと、小川笙船が設立を要望した施薬院では日本各地の薬草、薬木だけでなく韓国や中国からも取り寄せてあったといいます。

山野に行けば簡単に手に入る薬草も江戸にいてはなかなか手に入らなかったのでしょう。都市化の問題というのは、いつの時代にも似たような問題を抱えているように思います。薬草のつくり方や育て方を伝えて、みんなで薬の問題を解決しようとしたともあります。その後は、明治維新を経て西洋化が進みそれまでの漢方や薬草を中心にした医療は古いものとして捨てていきました。

現代は、サプリや西洋の科学的な薬が出回っています。その副作用も強く、日本各地にはコンビニと同じくらいドラッグストアがありどこも繁盛しています。病院も常に新しい病院が次々とできて賑わっています。

果たしてこれはこの先の100年後、300年後にはどうなっているでしょうか。

色々なことを考えて、お山での暮らしにこの薬草園の甦生を判断しました。そのうち、何をしようとしているのか伝わっていくと思います。

薬草園の甦生

現在、英彦山の守静坊の薬草園をつくるために色々と畑づくりをしています。腐葉土はたくさんありますが、鹿やイノシシなどの動物の対策が必要です。特に、鹿の数は増え続けていて当たり前に朝晩は庭に来ては私が育てている植物を食べていきます。全部丸ごとではないですが、お茶の葉や山椒の葉なども新芽はほとんど食べていきます。むかしはここまで個体が増えていなかったことからそんなに獣害もなかったように思います。

人が住まなくなり、都会的なライフスタイルが当たり前になり山での伝統的な暮らしが消失すればかつての人も自然のリズムや循環と一体になった場もなくなります。

かつて里山といって、私たち日本人は自然と共生して循環するなかで場をつくりあげていきました。そこでは、お互いが許され合う関係の中で調和して慎ましく助け合い暮らしてきました。

人間中心の貨幣経済や都市化の価値観は、あっという間に日本人のそれまでの暮らし方や心の在り方も変化させていきました。植物や鉱物に支えられてきた暮らしや、天地の廻りと調和して自然のリズムの豊かさを味わう暮らしはほとんどもうありません。

私は暮らしフルネスというものを提唱して実践していますが、自然と共生する暮らしはまさに足るを知る暮らしであり真の豊かさを教えてくれるものです。

人間は暮らしが消失すると、心も同時に消失していきます。

それを人は「忙しい」といいます。忙しい人は、ほとんど暮らしはできていません。今の時代の暮らしは、仕事の中に少しだけ暮らしを味わうことをしようとします。それもその暮らしをお金で買おうとします。タイムイズマネー、コスパやタイパが悪いことをしなくなっているほどです。

しかし、本来は暮らしはお金で買うものではありません。お洒落な台所用品や、見た目がエコでスローな工芸品を揃えて飾ることでもありません。お山であれば、倒木を片付け、その倒木を再利用したり生活の中で燃料として活用したりと杜を調えて水を守るのです。

つまり暮らしには、常に自然との共生や循環が宿っておりその中で自分もその自然の一部になって一緒一体に歩んでいくとき、私たちは心を守っていることになります。お山や里山には、日本人の心が宿っているといっても過言ではありません。

現代の世の中とは逆行しているような活動をしていますが、丁寧な暮らしを実践していくことは何よりも自分の喜びでもあります。忙しくしないように、忙しくならないように、暮らしフルネスに取り組んでいきたいと思います。

嘘と本当 本物とは何か

嘘というものがあります。これはよく観察していないと世間ではその嘘こそが本当になっているものがあります。改めて少し深めてみようと思います。

そもそも嘘というのは、自分に対しての嘘と世間や他人への嘘というものがあります。自分に対しての場合は、自分がよく分かっていますからすぐに自分でわかります。そうならないようにするには、自分に正直になるしかありません。自分に正直というのは、自分の心に思うことに忠実であるということです。そしてよくよく内省と実践を通じて人知れず他人の評価を気にせず、見返りも求めず徳を積むかのように自己との対話し改善を続けていく地味なものです。

しかしそうではなく、世間や他人が嘘と思わなければ嘘ではないという嘘があります。これは世間や他人が嘘と思わないように上手いこと帳尻を合わせたり、その時々の小さな嘘で調整することで誤魔化しまわりに本当だと信じてもらえば噓ではないという理屈です。周りが本当だと信じる、世間が嘘ではないと思えば嘘ではないというのは自分には嘘でも周囲が嘘ではないといえばそれでいいという考え方です。

現代、世間から認められようとして評価されようとすると現行のシステムや価値観に迎合していこうとするものです。孤高に孤独に取り組んでいることを諦めると、最初は小さな嘘からはじまりそのうち嘘が本当だと信じるようになっていくものです。その嘘を信じる人たちを増やしても、実際の価値観を変えるほどにはなりません。病気であれば、完全に治癒するのではなく治癒したように見せることができても治癒ではないのと同じです。

そもそも治癒の本質は、自分で治すために環境をつくることくらいしかできませんから治癒した気になるものを治癒とはいいません。湿布薬や風邪薬のように効いている気がするものが治していると思い、みんな便利にそれを手にいれますが実際には便利なものでは治癒しないのです。

これは先ほどの嘘も同じく、嘘でなんとかなる世の中ではありません。むかしは道徳というものが根源にあり、正直であることは徳目の第一義にして生き方を磨いていきました。そもそも嘘というものはなく、正直であることが当たり前でした。現代のように、大衆や世間にさえ認められているのならという価値観になっていたら正直な人たちはみんな求道者のような佇まいに観えるかもしれません。

何が言いたいかというと、実際には正直とは自分の心の中に存在するものであるということです。それは人知れず、コツコツと自己を練磨し修行を積み重ねるようにしていくもの。誰かに見せるものでもなければ、誰かに分かってもらおうとするものでもないということ。完璧に嘘がない自分でいることが難しい世の中だからこそ、そうならないように日々の自己チェックを怠らずに、丁寧に反省して何度も挑戦しやり直していく日々を精進していくことだと私は思います。そうでないと、ミイラ取りがミイラになるように気が付けば自分も嘘つきになっているかもしれません。それくらい今は、嘘がつきやすい環境が蔓延しているのです。

私も先人のように法螺は吹くけど、嘘がない人でありたいと強く心に思います。

自分がどうかと取り組めば、他人のことや世間のことなど考える暇もありません。子孫のために、地道にコツコツと自らの場を実践で調えていきたいと思います。

法螺道

驚覚(きょうがく)という言葉があります。これは文字通り、驚き目覚めることをいいます。何に驚き、何に目覚めるのか。法螺貝の波動や音にはこの驚覚の徳があるとメンターにお聴きしたことがあります。

この覚という字は、「覚る(さとる)」ともいいます。覚るというのは、世間一般的に定義されているのは煩悩から目が覚めるということです。この煩悩とは、身心を乱し悩ませ智慧を妨げたりする穢れや濁りのようなものをいいます。この煩の字は、物事が多すぎて煩わしいという意味になります。脳は、頭の働きのことです。簡単に言えば、頭で考えることが多すぎて煩わしいということでしょうか。

そのことから、人間は目覚めていないということです。つまり目覚めるというのは、煩悩から開放されることをいいます。それを解脱という言い方もします。穢れや濁りが洗い流され清浄になるという具合でしょうか。

法螺貝を吹いていると、この驚覚という感覚を特に深く味わうことができるものです。音の出す波動が、耳や肌、骨などに染み入りします。特に振動する波長は、眠っている感覚を呼び戻します。

何かの機会にその人のために祈り法螺貝の音を背中から通すと身体が熱くなって痺れる感覚になったとよく言われ喜ばれます。これはこの驚覚を感じて、心身が調い感覚が働きだしたということかもしれません。

日頃、頭でっかちな生活の中で日々に忙しさに追われていると感覚は確実に閉じていきます。感覚の中にこそ、真の喜びがあり仕合せもあります。そして自分の感覚に目覚めると、それまでの悩みは浄化されていくことがほとんどです。

ありもしないことを悩み、今を生きることができなくなっていきます。目覚めというのは、今ここの感覚に目覚めるということでもあります。

法螺貝の音は、三界の天衆を驚かし六道の妄夢を覚ます。そしてその音は獅子の吼えるようであるといわれます。獅子とは百獣の王のことで、その声を聞く時一切の魔物は消滅し、煩悩も吹き飛ぶと信じられてきました。

伝説の立螺師の本間龍演氏は法螺貝を立てるときにこう真言を唱えていたといいます。

三昧法螺声 一乗妙法説
経耳滅煩悩 当入阿字門

かるがゆえに金剛三昧の螺を吹いて、悪魔降伏の威を奮い
声字実相の音を立てて、内性心蓮の尊を驚かす
ゆえに長眠是を聞いて驚愕し、永夜是によって忽ちにして醒る

一切諸魔離退散
降伏諸魔宿伏者
遍至三千大世界
ノウマクサンマンダ ボダナン アン

まだまだわからないことが多い法螺道ですが、初心を忘れずに精進していきます。

甦生の仕組み

現在、古民家甦生に取り組んでいますがいつもこれが最期と取り組んでいますが気が付くともう何軒も取り組んでいます。いのちがあるものをいのちがあるがままに甦生するのは、自分のいのちもそこに使い切っていきます。別の言い方では、真心を全身全霊で用いるため心身気力を膨大に使うため疲労もかなり出てきます。

私の場合は、家と同期して家の気持ちになって取り組みます。家がそうしたくないと言えば、家に合わせて工夫する必要があります。また家をどう尊重しその家の徳やすばらしさを発揮できるかを見つめては家が引き立つように配慮していきます。

その分、職人さんや業者さん、周囲とのやり取りも大変になります。家の声を伝えているだけでも、周囲からすればそれはあなたの思い込みではないのかや、個人的な主観や趣味で意見を述べているのかと勘違いもされるものです。

物として扱わず、いのちとして取り組んでいるからこそそれが弱く脆いからこそ壊れないように痛まないようにと心を砕きます。また同時に、今までのものを別のお役目として甦生させていきますから特にそれが単なる住居ではなくお店などの目的に代わる場合はさらに治し方が異なります。

以前と同じに修復したから甦生したのではありません。今を生きる同じ時代を歩む存在として未来へ向けて一緒に変化することが甦生です。

一つの役割が終わり、新たな生や場を生き次の役割が担えるように手助けするのです。

家が喜ぶように甦生に取り組んでいきたいと思います。