いのちの根

今朝、窓を開けると冬の美しい純白の風景と合わせて透明な光が差し込んでいます。昨夜のお月さまも綺麗でしたが、この時季の光とお水との調和は清々しさを増していきます。

私たちが清々しいと感じるのは、この光と水の調和、さらに言えばあらゆる自然の調和が合わさるときにこと実感するものです。この調和というのものを感じるのは心を感じることからはじまります。

心が何を感応したのか、光を観る時、光の何を観ているのか。そして雪を観る時、雪の何を観ているのかということです。あらゆる存在を遍く照らす透明な光、そして丸ごとすべてを包み込むお水。その中にある自然に私たちは心の和合を覚えます。そこには目には観えないハタラキがあり、全て同じ粒子が波打っています。

素直さというものを磨いていくとき、人はいのちの存在に気づきます。いのちは渾然一体であり、バラバラではなく調和しています。それを活かしあうとき、私たちは徳の循環を感じるものです。和の尊さ、それが私たちのご先祖様たちが最も大切にしてきた生き方です。

今はまさにいのちを見つめ直す時代です。それだけいのちに包まれていることを人間が忘れた時代ともいえます。つまりいのちとは何か、いのちを見つめる視点、いのちを知ろうとする原点から学び直すのです。

そこにはいのちの根とつながる暮らしが大切です。

そしていのちの根がつながれば、あとは克己の工夫が必要になります。それが暮らしフルネスとも言えます。畢竟、環境や自然が問題になったことは宇宙創生いらい一度もなく、すべての問題は人間の問題があるだけです。

だからこそ、人間がいのちという存在に目覚めてみんなでいのちを輝かせていくことが人として生きる使命だと感じます。

だからこそ私は、私の居る場を「人間のいのちの拠り所」にしたいと思い今があります。

今はこの世に亡き、私の大切な御師匠さんは今は「光」になりました。今朝の光は、御師匠さんの光です。いつも見守ってくださって感謝しています。今日も、いのち輝く宇宙の光の中に入り、かんながらの道を歩んでいきたいと思います。

例大祭と5周年

久しぶりの大雪のなか、御蔭さまで無事に例大祭と徳積財団5周年記念を開催することができました。真っ白に光り輝く風景のなかで、美しい奉納音楽や神楽舞、祈りの時間は心に深く遺る有難い時間になりました。

思い返せば、何もなかったところからはじまり今ではたくさんの仲間や同志に恵まれています。それぞれに無二の役割があり、天命を全うするために徳を磨いておられる方々ばかりです。時折、道を生きる最中に場に立ち寄りその努力を分かち合い、苦労を労い合うことは心のエネルギーを充足させます。何かの偉大なものに見守られていると実感する場には、お互いを深く尊重しあう安らぎや元氣があります。

一人一人がそのような安心で健やかな元氣に充ちれば心も解放されます。心を解放していくことは、心を喜ばせていくことです。真のおもてなしというのは、心の解放があってこそです。

この例大祭は、みんなで協力しあっておもてなしの準備をはじめます。同じ釜の飯を食べ、綺麗に場を清め、静かに穏やかに暮らしを調えます。真っ白な雪の中、妙見神社のお汐井川に若水を汲みにいき、桜の薪に炭火をいれて火を熾します。その火を竈に移し、前日からお祓いして汲んでおいた井戸水を鉄鍋にいれてじっくりと昆布や高菜を煮出していきます。直来は、白いものとして御餅や素麺等、そして福茶などご準備します。

自然の恵みと薫りに包まれた仕合せな時間です。

祝詞にはじまり、岩笛、法螺貝、篠笛、そして鈴に太鼓と懐かしい音に包まれます。龍の舞に音楽、お祭りも賑やかで弥栄な一日でした。恵方も偶然にも、龍王山や龍神池、そして神社の方角にピタリと合っていました。5周年でしたが、またこの恵方になるのは次回は5年後の10周年の時です。周期の豊かさも味わう有難いひと時でした。

人間は見守り見守られるという感覚をお互いに持つことで自然と一体になっているかのような同じような安心感を得ていくものです。安心感は徳を活かしいのちを輝く場を創造していきます。どれだけ安心感の種を蒔いていくか、安心の場こそ懐かしい未来であり心のふるさとです。

これからも子どもたちに先人の生き方を譲り遺せるよう精進し、道を確かめ道を手入れし、真の人間らしさや人間性を高める場を弘げていきたいと思います。

 

 

祓い清める生き方

昨夜は立春のご祈祷をして奉納演者の方々とみんなでお豆腐を食べてゆっくり過ごしました。同じ釜の飯を食うという言い方もありますが、寝食を共にして心を打ちとけてゆったりと過ごします。毎年例大祭の時は、節分からの流れで穢れを祓い、そして福を招きます。祓い清めるというのは、私たちの心の修験の真髄です。

そもそも私は特別な宗教や宗派に属しているわけではありません。神道も修験道も形の中にこだわるものはなく、神道であればかんながらという常に神人合一の実践をしていこうとする生き方であり、修験道は今をどう内省して深く味わい今を磨くかという今を生き切る実践をする生き方として認識しています。

日々の暮らしは、まさに実践そのものであり日々は修行そのものです。

先人たちは生き方としてこの祓い清めるということを生活の中心に据え置いていたように思います。例えば、お水を中心に暮らせば日々に洗い清める連続です。火も、土も風も光もすべて洗い清める存在です。

昨夜は大寒波の襲来で凍てついた空気でしたが、空には美しく澄んだ月が出ていました。お月さまもまた、祓い清める存在として夜を暮らします。暮らしは土に入れば、お墓です。そのお墓に祈りを捧げご供養することもまた、穢れを洗い流し、清めて福にしていくことをします。

日々というのは、小さな祓い清めの連続です。

お掃除やお手入れの功徳はまさにこの祓い清めることをすぐに味わう実践でもあります。場を調えて、場を磨いて、場を清める。この行為もまた、かんながらの道であり修験道であり、暮らしフルネスの実践です。

同じ人生であるのなら、場を荒し、場を穢し、場を壊し、場を乱すようなことを積み重ねる人生よりも場を少しでも美しく清らかに調える方が今に感謝し、未来に徳を譲れるように思います。

同じことを繰り返したとしても、その同じことの中には必ずこの祓い清めるという生き方がある。その安心感こそが、先人が遺してくださった智慧だと実感します。

みんなで祓い清めて新たないのちを彌栄元氣にしていきたいと思います。

場の祭典

妙見神社の例大祭があり奉納舞や奉納演奏の演者たちが今日から準備で場に入ります。毎年、即興舞や即興演奏が中心になっていますので場も一期一会です。即興というのは、その時に降りてきたものでという具合ですがそこまでには膨大な情報が集まっています。実際には、例大祭は同じ日に毎年行う神事ですがその中身は常に変化を続けています。

同じ例大祭をしたことは一度もなく、環境は改善していきますから似たものが多くあったとしても意味や本質を変えないために大きく変化を続けています。この変化は成長でもあり、磨かれている今でもあります。

特に5年間、演奏舞を続けてくださっている龍の巫女はこの神社のある場と相性がよくいつも喜んでいることがよくわかります。それは場が落ち着き、場がおもてなすのがわかるからです。

その理由は、私は場道家であり場を常に読みます。これは特殊能力なのかもしれませんが、その場にいくと場を感じる力が発揮されます。時には未来が読めたり、またある時には何があったのかという歴史を読めます。空間認識能力ともいうのかもしれませんが、空間そのものを丸ごと認識することが得意ということです。

即興演奏のピアニストの方も同様に空間認識能力を持っています。空間そのものを音にされるのです。なので、言い換えるのなら場を読み、場を調え、場を創るのです。

場の道場で行われる例大祭は、場の祭典でもあります。

場を鎮め、場を清め、場に還る。

自分の居る場所は、地球の一部であり宇宙の一部です。この今自分が確かに居る場を丁寧に祈れば、世界を祈り自然を癒します。実践というものは、空想や妄想をするのではなく脚下の実践を一人一人が丹誠を籠めて取り組む真っただ中にこそあります。

いよいよ五周年を迎え、心新たに龍と共に修行を続けていきたいと思います。

立春 ぬくもりの循環

昨日は浮羽の古民家甦生の件で、お水の検査をするために井戸水を採取しにいきました。井戸のお水の温度は一定で冬の寒さ厳しい空気のなかではとても暖かいぬくもりを感じます。

このお水のぬくもりというのは何処から感じるものか。それは地中のぬくもりから感じるものです。この地中というのは、地球の温度があります。表面的な地面は、外気の影響を受けたり日光の影響を直に受けますから変化は大きくなります。しかし、地中はゆるやかに数十年、数百年、あるいは数千年をかけてじっくりと影響を受けて変化しています。その温度を蓄えているのです。そしてそのぬくもりが入っているのです。

私たちは身近な寒暖はすぐに感じます。しかし、地球の深部の寒暖などはほとんど感知していないものです。しかし実際には、悠久の歳月が地球を温めています。私たちの生命がこの地上で謳歌できるのも地球が長い時間をかけて温められてきたらです。まるで鳥の卵のように温度によって生命は孵化します。その温度を地中から吸い上げていくのも植物や木々たちであり、太陽の熱を吸収しながら地上の温度を調整するのもこのぬくもりを循環させているからです。

このぬくもりの循環を最も担うのが、お水です。

お水を感じる時、私はそのぬくもりも一緒に感じます。これは単に冷たいとか温かいとかいうものではなく、そのお水そのものがもっているぬくもりを感得するのです。

例えば、自然の火で時間をかけてじっくりと待ったお水は冷えたとしてもそこにぬくもりを感じます。人によっては「まろやか」になっているという表現をしたりもします。

このぬくもりやもまろやかは循環の味のことです。循環する味わいを実感することがお水によってできるということです。私たちの生き方もまた、このお水に倣って世の中をぬくもりのあるまろやかな社會にしていくと調和や仕合せを感じることができます。

立春になり、本年の目標を定めていますが「お水に學ぶ一年」にしようと決意を固めました。蛇年に相応しい脱皮の年にしていきたいと思います。

使命

人にはそれぞれに使命があります。自分を生きるというのは、自分を知り自分であるということです。現代のような競争社会の中では、気が付くと自分であることを見失っていくことも多いように思います。さらに評価にいつも晒されているようなところにいればいるほどに自分のことが分からなくなるものです。

承認欲求や自己肯定感のなさなどもこの自分というものの認識に大きな影響を受けているのもわかります。しかしよく考えてみると、人にはその人にしかない人生を生きていくしかないことは分かります。他の人にはない何かその人にしか感じられないものがあるからです。

同じ体験をしても、まったく同じことを感じることはありません。この世に同じというものは一つとしてありません。似ていることや共感することはあったとしても同じではありません。もっと言えば、いくら機械で同じ物質を生成したとしても見た目も分析も同じに観えても同じ時間ではありませんし、空間でも同じことはありません。

私たちの認識として同じであると認知したのは実際には錯覚です。みんな種別や種類を分けて同じ科目に分類してさも同じように認識してきたから同じと思い込みます。植物でも動物でもヒト科においても、特徴が似ていたら同じとします。しかし細胞一つ、指紋一つ、葉っぱ裏の葉脈一つ同じものは一つとしてないのです。

この同じものがないという事実を悟るのなら、自分を知るということがどういうことかという根底の価値観が変わります。そもそも同じではない、ではみんなそれぞれに使命があり役割を生きていると思うのです。

さらに言えば、自分には自分にしかできない大切な意味があり自分らしく自分を生きる使命があると自覚するのです。この使命感というのは、何処から来るのか。それは、自分の体験を深く味わうとき、あるいはご縁の妙味を感じるときに実感できます。自分の体験をすべて自分にしかない大切な経験だとし、丸ごと受け容れるときいのちが活き活きと輝くからです。禅語に主人公とありますが、自分が常に主体的に主人公でいる人は比較や競争、承認欲求の刷り込みが入りません。

本当は、そういう社会があったころはみんなはそれぞれに大切な使命を生きてみんなで活き活きと助け合い生きていくことができました。現代のように富が独占されたり、いのちが単なる物のように扱われることもなかったのでしょう。

子どもたちの未来のためにも、いのちが活き活きと活かされ合いそれぞれの使命と天寿を全うできる世の中にしていくために暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

暮らしながら時を待つ

人間は自然との調和というものを見失ってから目先のことばかりに追われるようになりました。その自然との調和もまた、本来の太古のむかしからある人間性の回復ではなく単なる今だけ乗り切るだけのその場しのぎの対処療法をすることになっていきました。

現実には、この便利な生活を手放すことはできないからその帳尻を合わせることを調和としたのです。例えば、二酸化炭素の排出権などもわかりやすく実際に空気を汚染する国が汚染していない国から排出権をお金で購入します。それでさらに産業を発展させます。しかし実際に気候変動などで影響を受けて被災するのはその空気を汚さない国です。結局は自然災害に遭う費用を購入しているというおかしな状況になっています。

このお金というものは、そもそも自然を破壊するために今では使われています。大量に増産して使えば使うほどに、自然を壊すのです。自然を壊すための兵器こそお金になっています。他にも人間界で環境問題に取り組む様々なことはほとんどが実際には環境破壊の免罪符のように使われます。

私もそれに気づいてから環境運動には参加しないようになりました。結局は、ミイラ取りがミイラになってしまう構造があったからです。本質は、環境問題ではなく常に人間の問題であるからです。

ではその人間の問題をどのように解決していけばいいか。

それは人間自体の在り方を見つめ、日々の暮らし方を換えていくしかありません。一人一人は小さな存在でも、その小さな存在が行う日々の暮らしは偉大な効果を発揮します。

それは自然が一つに結ばれているように、あらゆるものが循環して繋がっているように一人の影響は偉大なのです。

だからこそ、身近な一歩を如何に自然と共生し調和した暮らしで実現していくのか。先人たちが暮らしで自然と調和したように、自然との調和は私たち人間の問題を解決するのにとても大きな役割を果たすと私は思うからです。

一人一人が目覚めその時が来て伝承するものがなかったではあまりにも悔しく思います。暮らしフルネスは、現代では理解が難しいかもしれませんが丁寧に取り組み、暮らしながら時を待っていきたいと思います。

法螺貝のお導き

昨日も法螺貝を通したご縁に恵まれた一日になりました。私は法螺貝に出会ってから、とてもたくさんのことを学びました。法螺貝という貝の生態がどうなっているかということだけではなく、神話の時代から法螺貝が人類にどのような役目を果たしてきたか。また法螺貝を立てる立螺師たちの生き様、その音や波動に至るまで今でも新たな発見が続いています。

そもそも法螺貝の音の世界に優劣や序列などはなく、権威や権力などもありません。ただその人の出す全身全霊の祈りの音やその修行によって磨かれた生き方の波動が出てくるだけです。

言葉でどれだけ語りつくそうが、一息の法螺貝の音で一瞬でその人が悟れます。

それだけ法螺貝には何か、その人としての本質を顕現させる神具としての力を秘めているように思うのです。

また龍という存在と法螺貝はとても相性がいいものです。お水の振動をふるわせ、虚空に響きます。あの世とこの世の境界線を曖昧にし、音がその龍門のようなものを開きます。

これは感覚の世界ですが、確かに何度も法螺貝と共に道を歩んでいれば自ずからその境地に巡り合います。どの場所でどれだけ法螺貝と波動を磨いたか、その磨いた波動の分だけ音に出てきます。

今まで出会った立螺師には色々な方がおられました。技術に長けている方、身体能力がずば抜けた方、器用な方、研究熱心な方、伝統伝承を大切にしている方、道統を守ろうとする方、直向に法螺貝に向き合う方、法螺貝が伴侶のようになっている方などです。

どの方も、法螺貝を通して人生が導かれ、法螺貝と共に修行をしておられました。

私にとっての龍とは何か、それはお水です。

そしてお水とどのように調えて磨いていくのか、その道具が法螺貝です。

これからも法螺貝と共に真の実力を磨き、海と山と空と虚に包まれた道を歩んでいきたいと思います。

ご縁に心から感謝しています。

徳の伝承

私たち人間は本来は自然の一部でした。自然の一部であるときは、自然の中にいて自然に守られてきました。しかし自然から離れてしまうことで、自然の外に出ていきました。そのことで、自然の一部ではなく自然を人間の一部にしてしまいました。人間の一部になれば、人間のために自然はあるわけですから自然をどうにでも管理していくことを正しいことだと思うようになったのです。

例えば、都市部などはまさに人間が住むための設計されたものでそこでの自然は街路樹や公園くらいです。どれもが管理され人間の生活が快適になるように用いられます。都市部では人間にとって便利であるものであふれかえります。それを支えているのはお金です。

このお金というものは、本来は物の交換手段として使われてきました。あるいは、最古の貨幣のトークンにあるように預かりの信用の証明として使われてきました。しかし現代は、お金は別の機能として増産され発行されゲームのように使われています。人間界でのお金は、自然とはまったく何も関係がありません。もはやお金が世界を席巻し、自然を呑み込みました。人間はもうお金の一部になってしまうのもそんなに遠い先のことではありません。

私たちはどこからがズレてきたのか。それは自然から離れたところというのは間違いない事実です。ではいつこんなに離れたのか。私は古民家甦生を通して懐かしい暮らしを学び、新しいとは何かを深めてきました。その中で、徳を積み、いのちを循環させる暮らしをしていた先人たちの知恵にたくさん触れました。

伝統という名のつくものや、伝承されてきた道の中には自然の一部であることを忘れていない人々の生きざまが垣間見れました。そこには自然とは離れないという確かな遺志を感じるものばかりでした。

私が今、暮らしフルネスをしているのはこのように先人たちの遺志や思いを受け継いできたからです。別に人間界での便利な暮らしを丁寧にしても人間の一部として自然を扱っているのではミイラ取りがミイラになるだけで資本主義の助長の一部になっていくだけです。

だからこそ、何をすることが今は最も自然の一部として生きていけるのかを考え抜いて取り組む必要を感じるのです。道はまだ途上ですが、徳が循環する出会いのなかで少しずつ自然の一部としての自分を取り戻してきています。暮らしフルネスの真の目的はこの一点であり、子どもたちに譲り遺していきたい未来は徳の伝承です。

真摯に学び直して、志を磨き、日々を精進していきたいと思います。

当たり前

人間は善悪や正否という考えに刷り込まれているものです。特に日本は集合意識というか大多数の人たちの正義や事実を真実というように思いこみます。マスコミをはじめ、テレビで報道される内容を鵜呑みにしている人が多い国とも言えます。

以前、海外の友人が来られたときにリテラシーの話をしました。彼らは自分から常に情報を取捨選択し、自分から行動して真実を確かめるようにしていると。コロナ騒ぎの時も、自分で本当に何が正しいのかを判断するまで情報を取捨選択したといいます。

今のように情報が氾濫しているような時代は、何が真実かもわからなくなってくるのは仕方がありません。私は自分でお米や野菜をつくっていますが、周囲では無農薬や減農薬、有機栽培や自然農法など色々といわれて販売されています。実際には、本当はどうなのかは自分でつくっていないとわかりません。本来、むかしはみんな無農薬で化学肥料など使っていませんでしたからそんな情報などなくても問題ありませんでした。今では、種の改良をはじめ遺伝子組み換えなどもでていますから何も情報がない野菜はむしろ危ないのではないかと心配される始末です。

つまりは生産性を優先して、不自然に無理な生産をする過程でおかしなことをしてきたから情報が氾濫してきたともいえます。これに加工方法まで不自然な加工をしているから何が真実なのか手に届いた時には誰もわかりません。

そこで現在は、ブロックチェーンを使ったトレーサビリティといって生産から加工まで不自然なことをしていないかを証明する仕組みを導入するところが増えています。これは偽装をさせないししていないという証明ですが、そもそも不自然な生産をしているものを証明してもそれを不自然だと思わなければ本末転倒になるでしょう。その中にはお金のために過剰に大量に生産することも不自然ということになります。

私は伝統在来種の高菜を育てて加工して漬物やスパイスにしていますが、いわゆる何もしていません。むかしながら種で普通に種を蒔き、農薬や肥料も使うことなく収穫したら天日干しにして樽に塩で漬けこみます。塩も海水を薪で煮込んで乾燥し天日干ししたものです。いわゆる何もないむかしの高菜漬けです。

しかし周囲の高菜は、宣伝文句や加工方法に無添加とかパラベンフリーとか自家農園生産とか、発酵無使用とか手作りとか書いています。そういう私も結局は説明するために、何もしていないことを書くために長い文章と写真でパンフレットをつくっています。

おかしな話で、今が偽装や不正が多いからそうではないよというのがアピールポイントや商品の魅力になっています。私からするとそんなことしないことが、生産するうえで生産者として「当たり前」でそれは不自然だから当然しないという人間性や真心の問題だと思います。

お金をたくさん得るために過剰に生産をして販売をする。そのうちに当たり前だったものが当たり前ではなくなり、情報が錯綜していくのでしょう。

今の時代、真の情報とは何か。

それは生き方だと私は思います。真心の生き方をしている人は、そこに偽装は必要ありません。そして当たり前にその人は、自然に寄り添った人生を歩みます。それは暮らし方にも出てきますし、働き方にもでてきます。生き方は偽装できないからです。

子どもたちのためにも、日々に丁寧に当たり前の暮らしを磨いていきたいと思います。