英彦山の守静坊には、古い茶の木がいくつかあります。ほとんど長い期間、手入れをしていなかったのか野生が強くなりヤマチャのようになっています。むかしは、英彦山の山中でつくられたお茶は特産でもあったといいます。山伏たちの生計を支えた大切な暮らしの一つであり薬でもありました。その名残がいくつか宿坊のお庭には残っています。
今年は、その古い茶の木から新芽を摘みむかしながらの釜炒り茶をつくってきました。この釜炒り茶の歴史は古く、室町時代くらいから九州に伝来してきたお茶づくりの技法です。特に九州の山間部でこの釜炒り茶は発展してきました。
現代は、ほとんど蒸し茶になっていますが釜炒り茶は19世紀前半には蒸し製と勢力を二分するほどであったといいます。上田秋成『清風瑣言』(1794)には、茶には蒸し製・焙じ製・鍋炒り・日干しがあるという趣旨の記述があり、釜炒り茶は蒸し製に次ぐ位置づけだったといわれます。江戸期の日本茶は、今のように「日本茶=蒸し製煎茶」ではなく地域ごとに蒸す・炒る・湯通しする・日干しするなど多様な製法が並立していました。
ではなぜ今、日本茶=蒸し製茶になったかというと明治時代の政策がまた関与してきます。大体、明治の頃に日本文化の原型はだいぶ破壊されていきます。英彦山の文化もまた明治に衰退しています。
お茶の方は、明治から茶の輸出をはじめました。すると不正茶・粗悪茶を問題にします。特に日干しで仕上げる「釜炒り日干し茶」が粗悪茶として取り締まり対象にし「釜炒り茶」全体の評価下がったといいます。明治前期には釜炒り茶の生産量が3万トン近くあり、全国各地で作られていたにもかかわらず、1893年には静岡県茶業組合連合会議所が釜炒り茶を禁止し、1894年から農林省統計でも調査対象茶種から外れたとされます。
味で蒸し茶に負けたからなくなったのではなく、輸出向けに再現性が高い蒸し技法が優先されたということです。現代も似ていますが、標準化して大量生産にあう便利な製法が増えて本来の素材を活かしたり、職人技といった地域や人の徳性の違いなどは無視し費用対効果を追求した結果ともいえるでしょう。
釜炒り茶は、やってみるとすぐにわかりますが香り・火入れ・手の感覚・地域差がでます。標準化には向いていない技法ということです。
しかし私は炭を使った調理をはじめ、火を丁寧に扱うことが得意ですから私にはぴったりの技法です。
蕎麦打ちにも共通しますが、身体感覚をよく使います。まず茶の葉を摘むところから、茶の木の個性を感じて葉っぱの肌触りや厚み、強みなどを感じます。その後は、薪になる木を選び火を熾します。鉄の釜やフライパンなどに感じる熱の雰囲気を指先でなぞりながら、適量の茶葉を入れて殺青といって新鮮なうちに発酵を止めます。
その後は、丁寧にゴザの上や掌で手もみしていきます。さらにもう一度、釜で炒り適度な状態になるまで手作業で乾燥させていきます。あとは、余分な水分をじっくり取り除き完成です。
砂鉄の鉄瓶で満月の英彦山の湧水を汲んで、備長炭で火を入れてその茶葉のお茶を清浄な宿坊の調った場でいただきます。
これがむかしの伝統のヤマチャであり、釜炒り茶の甦生です。
何でも便利さや大量生産ばかりを優先したこの150年、もう一度、日本文化とは何か、日本人がどのような感性を大切にしてきたかを暮らしの中で子どもたちに伝承していきたいと思います。