徳の系譜

自分の先祖のルーツを辿っていると不思議ですがその間にいる別の先祖たちの生き方が似通っていることに気づきます。これは子孫の私に限らず、目指している生き方や求めている生き方が似ているのです。

例えば、天皇を守護し続けた先祖がいた場合、その後もずっと誰かを守護するような働きをしています。そして神官や僧がいる場合、その後も篤い信仰心で神仏に仕えます。科学的には証明できなくても、先祖や先人が生きた生き様や求めた道をそのまま子孫が継いでいるのではないかと思うのです。

私たちが先祖を知ることの価値は、大変偉大なものです。なぜなら、今の自分に流れている血脈や道筋や志の中に一生を懸けて繋いでくださっている人がいると実感することで今の自分の判断基準が確かなものになっていくからです。

そしてなぜか惹かれる場所や、歴史、物語、人物、仕事や神仏などもそれらはすべて過去の歴史で深い御縁が結ばれているところが多いからです。それに今、自分と出会っている人々もむかし深い御縁があった人たちが多く、かつてはお互いに協力したり敵対したり、家族になったりと様々な関係を持った人たちがいます。

それだけの深い御縁がある人たちだからこそ、自分の個人だけの狭い視野で個人の物差しだけで判断しないよう、全体から鑑みて本来の深い御縁を噛み締めていく必要があるように思います。

そして過去の栄枯盛衰を観る中で、何を最も大切に生きていけばいいか、何を継いでいけばいいかという本質に出会うのです。

先祖があって今の自分があるというのは、その徳に恵まれているということです。その徳を自分が高め、如何に子孫へと譲り渡していくか。いくら財産や財宝があっても、そんなものは長続きしないことはすぐにわかります。だからこそこの徳というものをよく観て、子孫にその大切さを伝承していく必要があるのです。

先祖の系譜を辿ることは、徳の系譜を辿ることです。

引き続き、徳を遺し譲れるように残りの人生を大切に使っていきたいと思います。

自立と自律とは

先日、あるお客様の創始理念のお話をお聴きする中で自律と自立について深める機会がありました。

この自律と自立の話というものは、個々人の成長の話などでもよく出てきます。自律の対義語は他律で、自立の対義語が依存です。しかしこの自律と自立の話はどこかその前提が崩れているような気がします。

そもそも自然界において自律や自立などというものがいちいち頭で理解してやっているものか。自然は絶妙なバランスの中で存在しています。そこには自然に自律も自立も存在します。これは地球が自らいのちを維持しているからです。そしてこれは人間の体でも同じです。人間の体は、いちいち意識していなくても自ら呼吸をし心臓を動かし体温を調節していのちを維持します。何もしていなければ、自然に体はバランスを保とうとします。

しかしこのバランスが崩れるのは、自分の体が不自然なものに囲まれ不自然なことを取り込んでいくからです。本来、体の声を聴いて無理をせずに自然に健康を維持していけるのなら自律できている状態がいつまでも維持できます。しかし最初から不自然だからこそ自律することができないのです。

農業であれば、自然にしていれば自然治癒自然浄化があるものが農薬や肥料を足して無理に増産したり変化させようとするから自律できなくなります。よくマネージメントで自律のことを語りますが、本来不自然なことをする環境があるのに自律がと個人に強要するのは勝手な利害の押し付けであることは明白です。

本来の自律とは、調和のことで如何に自然から離れないで生きていくか、足るを知り分度を守り、分限を超えるものは人に譲り、みんなと一緒に安心した社會を維持していくことです。

そして全体調和の中で自分も周囲と一緒に生きていくことを自立といいます。自然では、花と蝶の関係や、土中の微生物のようにお互いを活かし合う関係、お互いによっていのちを助け合う関係、思いやり生きていく関係、つまりは共生していくことが自立です。

生き物はそれ個体だけでは生きていくことはできません、私たちは全体の一部として働き、その尊いいのちを分けてもらっている存在です。その中で精いっぱい自分を生きていくことは、自分のいのちを社會や全体のために使っていくことです。それは感謝でもあります。自分が生きられる御蔭を感じながら生きることができるのならそれが自立でしょう。

自立と自律の本質を間違えてはならないと思います。人間至上主義のように人間が傲慢になればなるほどに、その意味もはき違えられていきます。謙虚にいのちとは何か、人間とは何かを深く見つめれば自ずから自立と自律の本当の意味も観えてくるように思います。

引き続き、見守る大切さをカタチにしながら子どもたちが安心して生きていける社會を醸成していくためにそのお手本になるような生き方を実践していきたいと思います。

 

 

常識と非常識

先日、歯科医院にいき治療しましたが一昔前の治療が今では180度逆転するというようなことが起きていました。つまりは過去の歯科医の常識は今では非常識になっているということです。

例えば、一昔前は虫歯は削って神経を取るというような治療が行われていました。今ではなるべく虫歯は削らずに神経も取らないことになっています。理由は、削るとさらに虫歯が進行しやすくなり神経を取ると歯が弱りすぐにダメになるからです。一説には顔も老けやすくなるともいいます。

過去に神経をたくさん抜いた人からすれば、今更という話です。

そしてもう一つ例えれば、一昔前は食べたらすぐに歯を磨くというのは常識でした。今ではすぐに磨くと歯の自然治癒が働かずかえって虫歯になりやすくなるのですぐには歯を磨かない方がいいという指導になっています。あれだけ学校で虫歯予防で教え込んできたことが今では違っていたといってもその告知は今の大人たちにあるわけでもなく今でも信じてそうやって歯磨きを続けている人たちがたくさんいます。

このように一昔前の常識は今では非常識に変わっていくのを見ると、如何にその時代の常識が絶対的に正しいわけではないとわかります。これは学校の教科書もそうですが、あれだけ必死に暗記したものが少し経つと勝手に変更されていきます。歴史などその最たるもので、何かの発見があったり間違いが指摘されると知らずに教科書が変わっています。年号も、名前もその後何の連絡もなく知らずに変わっていたのならテストで必死に暗記させられたあれはいったい何だったのかと疑問に思うのです。

常識というものはいくらでも非常識になるものです。そしてその時代の正解だと信じられていたものはいくらでも間違いになるのです。

これはマネージメントでも同じことが言えます。いつまでも目標管理型の組織が正しいと信じて、一昔前のものをいつまでもやっていますが今の時代はそれでは非常識であることもあります。後でいくら間違っていましたといっても、そんなのはその当時の人たちはわかりませんからそれを信じてやるだけです。

先ほどの歯の神経を抜くではないですが、一度抜いてしまった神経は復活することはありません。取り返しがつかないこともあるからこそ、私たちは医師任せにせずに自分自身で納得するまで深める必要があります。これはマネージメントも同じで、コンサルタント任せになどせず自分たちで何が本質で何が本物なのかを見極める必要があります。

現在のように経済原理や市場原理が優先されている世の中では、歪んだ常識を作り出してそれを売り物にしている人たちもいます。何が本物で何が偽物か、何が自然で何が不自然か、よく見極めて納得して取り組む必要があります。

流行に流されないようにするには、自分自身の主体的な研究や行動が必要です。敢えて疑えとは言いませんが、常識とはすぐに非常識になり、かつての非常識は今の常識になるという事実を理解しておく必要があると思います。

身体のことはむかしから変わらない真実もあります。それは自然治癒といって人間が持っている力を引き出して治癒するということです。不自然な生活や、不自然な環境が様々な病気を生み出しています。何が自然で何が不自然か、そして自然とは何かを本質から見つめ直したいと思います。

 

稲の妻~科学と自然~

昨日、東京では巨大な稲妻や稲光が何度もあり夜空は轟音と眩い光で埋め尽くされました。ベランダにある稲を観ながら、なぜむかしの人は雷に稲の字を当てたのだろうかと考えに耽っていました。少し深めてみようと思います。

ウィキペディアフリー百科事典などを読むと「稲妻(いなずま)は、雷そのものの事を稲妻とも呼び、雷の光を稲光(いなびかり)、雷光と呼ぶ。稲妻は秋の季語であるとあります。そして稲妻・稲光の語源は日本では稲が開花し結実する旧暦(太陰暦)の夏から秋のはじめにかけて、雨に伴い雷がよく発生するため、稲穂は雷に感光することで実るという俗信が生まれた。そこから雷を稲と関連付けて、稲の「つま」すなわち「いなづま」(日本の古語では「つま」は男女を問わず配偶者の意味)、稲光と呼ぶようになったといわれている。」とあります。

稲が結実するタイミングで稲光が出れば稲を妊娠させることができ多くの実をつけるという洞察は先人たちが見出してきたことです。

もともと気象学でも雷が多いと降水量や日照が多い、気温が高いなど稲の生育に都合が良いから昔から、雷が多い年は豊作になることはわかっていたそうですがこの現象を調べた島根のある高校生がいて最近では科学的にもこの原理が証明されたそうです。

このある高校生とは松江市の高校性・池田圭佑さんという方で宮沢賢治が教員時代に『カミナリと農作物の出来具合について何らかの関係がある』と書いてあった書物を読み興味を持ったといいます。

そこで、学校にある実験用の放電装置を使い、落雷と同様の状態を作りだし、カイワレダイコンの成長の様子を調べたところ、種子に50秒間放電してから育てた種子は、放電しなかった種子に比べて成長が約2倍も速くなることを発見しました。さらには育てるための水道水にも、放電させた水を使ったところ、芽の伸びが2倍にとなる結果が得られたんだそうです。

なぜそのような結果となるのか、放電した水を分析したところ、通常の水に比べて『窒素』の量が1.5倍になっていることを発見しました。窒素は肥料の3要素の一つ。これが成長を促したことを突き止め、この結果を『科学シンポジウム』で発表し、なんと最優秀賞を受賞したといいます。

むかしの人たちが洞察した自然の智慧を科学で証明するということは素晴らしい偉業だとも思います。単なる迷信と今では何でも目に見えないものは否定されますが、むかしの人たちの洞察力や観察力は今の科学でも証明できないほど精密であり正確なものもあるのです。

古来からの日本語や神話をはじめ各地の伝承には、その意味が籠められており少し疑問に思えばそれが非常に価値のある言葉や物語であることに気づきます。いくら科学が進歩しても、自然の一部しかそれを証明できません。しかし現代のように科学の方ばかりを信じて自然を信じなくなってきている世の中においては改めてお互いに畏敬の念をもって自然と科学を理解していく必要があるように思います。

むかしの人たちの智慧が未来の子どもたちに伝承していけるように、遺っているものを集めてそれを譲り渡していきたいと思います。

 

自分を気にし過ぎること

人は自分のことを気にするあまり他人からの評価が気になるようになります。また自信がなければ余計に相手がどう自分を思っているかということを気にして自分の行動基準が他人からの評価基準になってしまうこともあります。

本来、人間は自分がどうしたいのかが先にありそれをどう周囲と折り合いをつけながら取り組んでいくかということを考えるのですが自分のことを気にするあまり周囲と関係を上手く築いていくことができなくなるのです。

自分のことを気にし過ぎると、ありのままの姿が分からなくなります。同時に他人も自分のことも分からなくなります。自他が不明ですから、その人の存在は周りにとっても気になる存在になるのです。気になる存在になれば余計に周りは気にしますから、当人もまた周囲の目が余計に気になり自分のことばかりを気にしオープンな対話ができなくなるという悪循環に陥ります。

自分を気にする癖を何とかしなければなかなかそれを取り払うことができません。そのための一つは、相手がもしも自分だったらと相手の立場にたって思いやり物事を考えていくことです。自分を気にするのは、相手のことよりも自分の心配をし過ぎるからです。相手からどう思われているかということを基準にするのではなく、相手の立場で思いやり相手が自分だったらどんな気持ちだろうかと自分から離れて相手のことを慮ってみるのです。すると、相手が自分をどう思っているかというバイアスが消えてきっと相手にも深い理由があっているのだろうと心を共感することができるようになります。頭で考える自他ではなく、心で共感する自他になれば次第にオープンな気持ちで素直に対話ができるようになります。これも訓練していくしかありません。

もう一つは、全体快適といって自分だけの視野に囚われず全体が快適になるように自分を使っていくことです。自分ばかりを気にするのではなく、みんなにとって自分はどんな環境になっているだろうかと自分自身を見つめるのです。例えば、みんなが不愉快にならないように笑顔でいることや、安心できるようにオープンに自分からふるまうことなどをしていれば次第に自分のことが気にならなくなっていきます。どんなに環境がオープンでも自分を気にすればすぐに人間関係はギクシャクするものです。それは1対1の関係でも同じく、自分を気にする人は素直に対話ができません。

全体にとって快適であるかは、同時に自分も快適であるかということにつながっていきます。今の時代のように歪んだ個人主義で、それぞれの個がバラバラにされてしまっている環境の中で自分を気にし過ぎる人は増え続けています。だからこそ自分に囚われないように日ごろから全体快適であることを優先する意識を持つ習慣を訓練していくしかありません。

そして最後は、自分は何のためにそれをやるのかという初心に専念していくことです。自分の真心はどうしたいのか、自分はどう生きるのかと自分自身の決めた生き方に集中していくことで相手よりも自分の問題にしていくことです。自分自身との問題であれば相手は関係なく自分に打ち克つための修行になります。そういう意味では自分を気にし過ぎるかもしれませんが、それを逆手にとって自分の決めた初心を気にし過ぎるくらい反省を繰り返す訓練をすればいいのです。そうすれば、自分の生き方を貫くうちに気になる基準が変わり自分らしく自然体であるがままをみんなに見せられるようになり周りも安心してくれるでしょう。

これらの訓練というのは、積み重ねていくことで意識も価値観も変化していくものです。過去のトラウマも訓練というリハビリによって少しずつ薄れていきます。最初は勇気が要りますが、少しの勇気からでもはじめてみればいつかは自然体で自分らしくそして周囲と仲良く楽しく過ごしていけるような豊かな人間関係が築けます。

子どもたちが同じようになったときのお手本になれるように、生きるリハビリ、認め合い信じあう訓練と仕組みを実践していきたいと思います。

光を磨く

私たちは光を見て、物を確認することができています。これは光を見て脳が認識しているとも言えます。光が一切入ってこない真っ暗闇の中では何も物は見えません、それは光がそのものに反射しないからです。私たちは光の強弱などによってその物体を立体的に脳が認識して捉えることができるのです。

不思議ですが、その光が差し込んできて出てきた物体を見ると時にはそれが美しく感じ、時にはそれが儚く感じます。光というものを通して、その物を透かし見ているのかもしれません。光はいのちを透過させるようにも思います。

この光を見るためには、感性を磨く必要があります。言い換えれば、磨くことで光を観る感性が豊かになります。例えば、どんなものでもしっかりと磨けばそれは光ります。それが砂浜の砂であっても、貝であっても、または骨董品のようなものであっても、綺麗に磨けばそのものは光ります。

この時、光るのは私たちが光を観る感性が磨かれているからです。何も磨かなければただ眩しいだけですが、しっかりと磨いている人にはその感性によって光が本質を映すのが観えるように思います。

私たちは、四季の暮らしの中で様々な光を観ています。その光を観ることで、同じ空間であっても気配が全く異なり、同じ場所であってもまったく違った景色を観ることができます。つまりは、光を通して日常の一期一会を味わっているのです。

その光は、磨かれる場所や磨いている場所でこそ光そのものの美しさが出てきます。この光が集まる場のことを人はパワースポットと呼びます。つまりこのパワースポットとは磨き切られた場所のことを言うのです。

自分を磨く人は、その場によって磨かれた自分の感性を静かに見つめます。そして未熟さを知り、また磨き直していきます。このように神社や場を巡ることは、光に出会う旅路でもあります。そして光は私たちの生き様を通して灯りになります。

いつの時代も光を求めて人々は、集まりそして感性や魂を高めていきます。いのちのテーマは、永久不滅の理です。それぞれのいのちを活かし、子どもたちの持ち味を見守り続けられるように私自身の光を磨き灯りを守り続けていきたいと思います。

橋を架ける

現在、復古起新をしつつ暮らしを甦生させ子どもたちの未来に大切な日本人の心をつなごうと試行錯誤を繰り返しています。歴史を学び、先人たちの真心を読み、空間の中に佇んでいる言霊など、目には観えないものを手繰り寄せながら一つ一つを科学的にまた理論的に言葉にして整理することを続けています。

ユダヤの格言に、「自分の言葉を自分が渡る橋だと思いなさい。 しっかりした橋でないとあなたは渡らないでしょうから。」というものがあります。この言葉や文字もまた橋であり、その橋をしっかりと架けなければ人々はその橋を安心して渡ることができません。

よほどの勇気のある人でなければ濁流の滝つぼの上にある曖昧で不確か、そして今にも崩れそうで危うい橋を渡る人はいません。人々が渡る橋は、あちらとこちらが完全に繋がっていて安心して歩んでいける橋でしょう。その橋をつくるには、まず最初に自分が向こう側に渡る必要があります。そして渡ったら次にそこに橋を架ける必要があります。その橋が架かったのなら、最初は背中を押して一緒に渡っていける人を増やしそのうえで渡れた皆に協力してもらい向こう側とこちら側が安心して交流し行き来できるような立派な橋にしなければなりません。その後はその橋がまた崩れることがないように手入れを怠らずさらにその橋を見守り続ける環境を育てていく必要があります。

この橋を架ける仕事というものは、「つなぐ」ことです。何と何をつなぐかといえば、私でいえば歴史と今をつなぎ、子どもと大人をつなぎ、経済と道徳をつなぎ、自然と人間をつなぎ、人の心と心をつなぎ、世界と自分をつなぎ、文化と文明をつなぎ、目には観えないものと目に見えるものをつなぎます。

そしてこの「つなぐ」というのは、橋を架けるということです。

橋を架けるために、私はこのブログをはじめ、橋を架けるために自分に与えられたすべてを使って自分にできることを遣り切っています。その橋掛けは果たして何年、何十年、況や何百年、何千年かかるものなのか・・・考えると遠大で目が眩みます。

しかしその過程もまた橋になる途上ですから、その橋を架けることを豊かに歓びに換え渡る人たちのことを考えて丹誠を籠めて取り組みたいと思うのです。

日本人の仕事が世界で評価されるのは、後世の人に恥じないような仕事をすることです。私も目先の流行や、様々な我欲や、人間関係に惑わないように空を高く眺め、天の星の見守りを背中に感じながら橋を架けていきたいと思います。

この先も子どもたちが通る未来を楽しみに、橋を架ける人としての人生を歩んでいこうと思います。

質の本質

最近はよく「質」(しつ)に関することが話題に上がります。この「質」とは、本質のことで質が高いというのは限りなく本質に近いということでもあります。この「質」という言葉の成り立ちは価値の釣り合う+金銭が合わさる会意文字であり信に通じ「まこと」の意味を持つともいいます。

具体的に辞書を調べれば、 そのものの良否・粗密・傾向などを決めることになる性質。実際の内容。「量より質」「質が落ちる」 生まれながらに持っている性格や才能。素質。資質。「天賦の質に恵まれる」「蒲柳 (ほりゅう) の質」 論理学で、判断が肯定判断か否定判断かということ。 物の本体。根本。本質。「結合せるを―とし、流動するを気とす」〈暦象新書・中〉 飾りけのないこと。素朴なこと。「古今集の歌よりは―なり」〈歌源〉(goo辞書)とあります。

「質」とはそのものの本体でもあり、変わらぬ真実とも言えます。その本質が分かること、真実が観えていること、その真実に沿って取り組むことが質を高めることになります。

ではなぜ質が下がるのか、質が低くなるのかといえば真実から遠ざかっていったり、本質とは関係ないことをやりはじめるからです。その理由は、人間の個々の我欲や保身によることが多いように思います。

例えば、人間は「足るを知る」ことができれば豊かで質の高い人生を歩むことができます。それぞれが自らの分度を定め、十分に満ち足りているという暮らしを優先することができれば暮らしは人類の本質に近づいていきます。そこには助け合い思いやり、分け合い、尊重され、お互いが自由に幸福を味わっていくことができます。

しかしひとたび、「足るを知らず」、まだまだと欲望を際限なく肥大化していけば自ずから暮らしは消失し、貧しさが増え、人類の本質から遠ざかり比較、競争、画一化、奪い合いと不自由から不幸が増大していきます。

「質」から考えれば、本質的で質の高い暮らしは足るを知ることです。つまりは「質」を高めようというのはより原理原則に沿って真実に近づいていこうという生き方をしようということになります。

質が求められるというのは、それだけ本質的ではないことをやっているからです。今の時代は、本質であることよりも市場経済や金銭の獲得を優先するばかり本質ではないことの中で質を語られます。何をもって質なのかということすら、議論されることも少なくなっています。

そもそもそれは本当に必要なのかとそれぞれが足るを知る議論ができてはじめて、質とは何かということを考える入り口に立つことができるのです。物が増え、欲望もキリがなく、資本主義に呑まれ人類の手に負えなくなっているほどの今日、「質」について真剣に取り組む必要があると私は思います。

子どもたちの本質は何か、そして質の高い保育や暮らしとは何か、それを信念と実行で取り組んでいく本物の人物たちが次の時代を切り拓いていきます。私たちもその時代を創る一人になれるように、本質を見極めながら実践していきたいと思います。

 

 

自己の心

人間は自分のままでいいと自己を肯定していないと自分のことが分からなくなっていくものです。言い換えれば、自分のことを知ることができはじめて自分を認めることができるとも言えます。

自分のことを自分で知れば、自分はこのままでいいと思えますが自分を知らないからこそこのままではいけないと自己を否定してしまうのです。自己を否定すればするほど、自分のことを客観的に観れなくなりますし、他と比較しては自分にないものを求めてしまうものです。

ありのままの自分を如何に素直に認め受け容れることができるか、そこには心を育てていくしかないように思います。心を育てていけば、心が強く広く大きくなっていきます。

ではどのように心を育てていけばいいかということになると、それぞれに方法はありますが何よりも自分の心との対話を続けていくことのように思います。その心の対話は、心の声に耳を傾けることからはじまります。

例えば、一日が終わり色々なご縁と出会います。そのご縁を味わいながら一つ一つを丁寧に振り返りをします。そして振り返る中で、心の声に耳を傾けて内省します。内省した後は、心の声に従って素直に行動してみます。そうやって、心を前進していけば自分が何をしたいのか、自分とは何かということが次第に明らかになっていくようにも思います。

その時、心を澄ませていくための道具として仏陀や孔子、または同じように自己を発見した先人たちの書物や体験談を参考にしながら自己の穢れを取り除いていきます。もしくは共に道を歩もうとする師友を持つと人生の旅路も豊かに明るくなります。

様々な我や煩悩もでてきますが、その時こそ、自分の心と正対していくチャンスだとして自分と向き合っていくことを繰り返すのです。他人ばかり視ず、遠くばかり視ず、自分の主観や感情でばかりに囚われず、足元を見つめ直すのです。

心はそのように少しずつ体験を通して育っていきます。人間は体も育ちますが同時に心も育ちます。心は目には見えませんが、心は広く大きく明るくなって伸びていきます。天地の心といってもいいかもしれませんが、自然のような心を持てる人、地球のような心を持つ人に限りなく近づいていくことで私たちは天地人一体になります。

そう考えれば、人間が造った文明や市場経済、お金といったもので私たちは人間の本質や本来であったものから遠ざかっていきました。それをまた修行によって回帰しようとしているのだから、物質の進化と逆行して心の進化は劣化していきました。

今や時代の価値観の転換期ですから、心を育て心の豊かさで文明を維持するということも考えなければなりません。そうでなければ、本質的で確実な進歩もなく、物質の劣化も進むばかりです。本物の進化にするためには、人間の心を高めそのうえで物質を磨かなければなりません。

日本文化を深めていると、職人の人たちが高めたものを観るたびに畏れを感じます。そこには自然観や地球観、その広大無辺な心によって物質の持ち味を最大限まで活かして仕上がった精神性や真実を観ることができます。もしもこのままの心を高め時代が進むのなら、文明はさらなる進化に向かうはずです。

自分を知るという入り口は、時代の価値観を換えていくための偉大な一歩です。引き続き、分かっているようでわからない自分と向き合いながら謙虚に深め続けていきたいと思います。

共通の価値観

人間には共通の価値観というものがあります。それは、単に考え方が似ているやタイプが似ているという共通の価値観だけではなく、何を信じて生きていくか、何を大事に守っていくかという人間本来の道徳や理念的なものの共通の価値観もあります。

よく組織においては価値観の共有が大事だとは言われますが、それはその組織が何のためにあるのかと理解するために必要なだけで押し付けるものではありません。そもそもの理由が伝わっていないと、主体的に自ら考えて行動することができないから価値観の共有が必要なのです。

それが目的を伝えずに、価値観だけ共有させようとすると一つの価値観のみを優先するといったおかしなものになってしまいます。みんなそれぞれ人は異なりますから価値観が異なるのは当たり前です。しかしその中心となっている何のためにという目的を知れば、それぞれが異なって取り組んでも大丈夫という柔軟性が組織には必要です。それが安心感を醸成し、個々の主体性を引き出していくのです。

しかしこの価値観の共有は、お互いによく傾聴して対話しなければ理解することが難しいものです。それぞれ自分の価値観が優先させ狭い視野で対話を避けて思い込みはじめれば歪んだものになってしまいます。誰かに言われたことをやればいい、トップの決めたことに単に従えばいいとなると自分の価値観で相手の価値観を裁いていることになります。

自分の価値観が最上であると思うのではなく、自分の知識がもっとも正しいと思い込むのではなく、それもいい、これもいい、それも一理あると、一緒に考えていく中ではじめて価値観の共有は実現するのです。

人間はすぐに自分が中心になり正否を分別しますが、何のためにという方向がお互いに観えていれば色々な価値観があってもいいというのが本来の価値観の共有なのです。

このやり方でないとと固執するのは我執であり、こうでないとと思うのは自分に都合が良い方を無意識に選ぶからです。それを権力を持った人がやれば独善的になり独裁になります。全体にとって居心地よく快適である安心環境というものは、個々の価値観や生き方が尊重されながらも目的に向かっていける状態のことです。形を一つに縛らず、根底にある目的をお互いに大切にしていこうとするところに真の仲間も絆も産まれるように思います。

本物であるものだけが偽物であることも楽しめ、本質であるものだけが偽善であることも味わえます。これは仲間や絆でも同様なのです。

引き続き、仲間づくりをたのしみながら子どもたちが豊かに生きれる社會の土台を醸成していきたいと思います。