英彦山に残る“守静坊のしだれ桜”伝承物語

これは今から二百年以上前の江戸時代から霊峰英彦山の山伏の宿坊、守静坊(しゅじょうぼう)にある一本の老樹、しだれ桜と共に語り継がれているお話です。

霊峰英彦山は九州福岡にあり、日本三大修験場の一つに数えられ修験道のはじまりの聖地であり、古来においては霊験を極めた仙人たちが棲む神仙の地で人々が憧れる天国のようなお山であったといわれる場所です。

現代ではあまり聞きなれない修験道というのは、厳しい自然の中で修行をする修行者のことを指し、金剛杖や法螺貝などを持ち歩き、深山幽谷に入り自然と調和し己を磨きその験徳を実践する方々のことです。

そしてこの守静坊は、戦国時代末期から続く修験者の棲む宿坊で先代の駒沢大学名誉教授の長野覚氏で十一代続いている由緒ある坊です。

守静坊のしだれ桜が英彦山の地に植樹されたちょうど二百二十年年前には約三千人以上の修験者たちが英彦山の中で暮らしていたといわれます。当時の英彦山はとても賑わっており、山伏たちは薬草で仙薬をつくり、信仰者へのお接待やご祈祷や祭祀、護符の授与や生活の知恵の指導などを生業として暮らしていたといわれます。

その当時の面影を残し、今でも清廉に咲き誇る「しだれ桜」が守静坊の敷地内にあります。この桜はもともとは京都の祇園にある桜でした。品種名は一重白彼岸枝垂桜(ひとえしろひがんしだれざくら)といいます。澄みきった可憐さを持つ花びらと、鳳凰のように羽を広げた姿はまるで今にも飛翔していきそうな姿です。

実際には樹齢二百二十年以上、高さ約十五メートル、幅約二十メートルほどあります。言い伝えでは、江戸時代の文化・文政年間に(1804年~1819年)に当時の守静坊の坊主である守静坊普覚氏が二度ほど、英彦山座主の命を受けて京都御所へ上京しました。その時、京都祇園のしだれ桜を株分けしたものを持ち帰りこの英彦山に植樹したといいます。

樹齢としてはもっと長いものがありますが、守静坊のある場所は標高六百メートルほどもあり、冬は特に厳しいもので雪は積もり、鹿などの野生動物も多く被害にあいます。厳しい環境の中で生き抜いてきた老樹は今までも何度も枯死する危険に遭遇しました。平成二十年には台風で倒木し枯れる寸前で花もつかなくなっていたこのしだれ桜を九州ではじめて樹木医と認定された医師による治療の甲斐あってまた満開の花が咲くほどに復活しました。

同時に守静坊も人が住まなくなって数十年ほど経ち坊内や庭園の荒廃が進み倒壊し失われる危機を乗り越え飯塚にある徳積財団が譲り受け皆様よりのお布施の御蔭様のお力をいただき修繕し新たな物語を繋ぎ結い直しました。また甦生で出た屋根の古い茅葺をしだれ桜の周囲に敷き詰め土壌をふかふかにしたことでさらに美しい花を咲かせてくれるようになりました。守静坊の敷地内に苔むした石垣と共に宿坊と見守り合うように凛とそびえ立つ姿はまるで英彦山の伝説にある仙人の佇まいを感じます。

しかしなぜこの京都の円山公園にある伝説の祇園しだれ桜が、ここで生き残っているのかということ。もしかするとむかしは大志を志す同志が共に初志貫徹しあうことを願い、同じ霊木の苗木を分けそれぞれの生きる場所に植えて大輪の花を咲かせようと誓い合ったという言い伝えもあります。その初志を叶えるために今も桜は私たちを見守っているのかもしれません。果たしてどのような浪漫が隠れているのかは、この守静坊のしだれ桜を直接観に来ていただきお感じしたものを語っていただけると有難いです。

私たち一人一人にも誰もが語り継がれてきた歴史を生きています。

先人や先祖の物語の先に今の私たちがそれをさらに一歩進めて結んでいます。今、私たちが生きているということは歴史は終わっていないということです。今も新たに生き続け語られている現在進行形の物語を綴っているということになります。みんなでご縁を結び、かつての壮大な物語に参加することは私たちもその語り継ぐ一人として同じ歴史に入ったことになります。

この守静坊もしだれ桜も偉大な語り部です。私は、毎年この時季の満開の桜を眺めると言葉にならないものが語りかけてくるようでいつも魂が揺さぶられています。

伝統と伝承は純粋な気持ちによって永遠に結ばれ繋がれていくといいます。

大和桜花の季節、霊峰英彦山守静坊にてご縁と邂逅を心から楽しみにしています。

本草学の伝承と甦生

本草学という学問があります。これは元々は古く中国で発達した不老長寿その他の薬を研究する学問のことです。日本には奈良時代にこの学問が伝来したといわれ、江戸時代が最盛期だといいます。この本草は木と草のことを指しますが、古来薬用植物だけでなく薬として用いられる動物や鉱物などの天産物として薬用があるものがほとんど記されていました。

日本にある最も古い本草書は、701年の中国の古典『新修本草』といわれます。そして江戸に入り李時珍の『本草綱目』があり、そのあとは私の故郷の偉人でもある貝原益軒が江戸中期頃に『大和本草』を出版しました。これは貝原益軒が79歳の時に一生をかけて本草、名物、物産について調べた結果をすべてまとめたものです。そしてもう一つが同じく江戸時代中期の百科事典『和漢三才図会』です。これを著したのは大坂の医師寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭されたことが編集の動機であったといいます。もともとは中国の明の王圻による類書『三才図会』を範とした絵入りの百科事典で、約30年余りかけて編纂されたものを参考にしたものです。江戸時代がどれだけこの本草学が充実していたかがよくわかります。これに蘭学が加わり、明治に入るころには植物学・生薬学として受け継がれたといいます。

明治や大正の頃の博物学者、南方熊楠もこの和漢三才図会を前頁書き写したともあります。今の時代のように簡単にプリントアウトできない時代は、一つ一つ手作業で模写していたことを思うと学問への姿勢そのものが違うようにも感じます。

古来からの本草学は、神仙思想と合わさり不老不死を求めてきたものです。英彦山の不老園の歴史を調べると、この本草学の影響を多大に受けていたことがよくわかります。信じられないほどの長い年月を薬草の治験や実証実験を幾度も幾度も繰り返し、そして自然の篩にかけられて改善して磨かれたものだけが残っていきました。

まさに伝統と革新の集積そのものがこの本草学であることは間違いのない事実です。先日からスリランカのアーユルヴェーダ省の大臣も来日され、お互いの国の伝統医療の話など色々と意見交換をしましたが日本の誇る本草学をもっと学び直していきたいと感じる機会になりました。

これだけ研ぎ澄まされてきた学問が、明治以降は残念ながら西洋化の波を受けて失われていきました。これでは先人たちの努力や遺徳への配慮があまりにもないようにも思います。微力ながらこの本草学を私なりの暮らしフルネスの実践で甦生して、多くの方々に本来の日本の薬草の知恵を伝承していきたいと思います。

スリランカの大臣

昨日からスリランカにあるアーユルヴェーダ省の大臣、シシラジャヤコリ氏とその奥様、秘書と通訳の方が聴福庵に来庵されお泊りになり暮らしフルネスを体験していただいています。

他国の大臣が来庵するのもはじめてで安全面や食事の内容など緊張しましたが、いつも通りの私たちの暮らしの中で安心されとても喜んでいただきました。ちょうど今の季節は桃の節句の行事を実践している時期なのでお祀りしているむかしの人形の場をご覧いただきウェルカムドリンクに甘酒や玄米おはぎなどを一緒に食べ場を味わいました。

その後は、一通り聴福庵の生い立ちや甦生のためのルール、部屋ごとにむかしの懐かしくそして今に新しい暮らし方を説明しました。長いフライトでお疲れでしたので、先に粕漬の樽を甦生した大風呂に入っていただき備長炭を用いた七輪で春の地元の春の山野草を中心に湯豆腐やこんにゃくなどの日本式アーユルヴェーダの料理で古くて新しくした食文化をお伝えしました。

また会食の間にスリランカでの薬草の話や、在来種の話なども大臣からご教授いただきいつかスリランカに訪問の際は大臣が所有している現地の伝統在来種の薬草の畑やそれを活かした様々な取り組みをご案内いただくことになりました。将来的には両国の薬草や種を通して未来の子孫のために交流できるような関係をつくっていけたらという有難いご提案もいただきました。食後にも英彦山に千年以上伝承されてきた伝統の和漢方の不老園をお湯と共に飲んでいただきましたがスリランカの皆さまにもとても美味しいと評判でした。

最後に、伝統の日本の職人の手作りの和布団でお早目にぐっすりとお休みいただきました。朝食には私が聴福庵の地下水で手打ちで打った十割蕎麦をこれから振舞う予定です。初来日ということもあり、懐かしい日本の文化と真心を聴福庵と共にお届けでき仕合せでした。

もともとスリランカは仏教への信仰が厚く仏陀の教えや生き方を今でも大切に実践されております。私も英彦山の御蔭さまでお山の暮らしの中で修験道の実践することが増えて仏陀の教えに触れていますがそのためかとても親近感があり手を合わせる感謝の交流にも心豊かに仕合せを感じます。

親日国といわれますが、私もスリランカのことが今回の交流でさらに深く親しみを感じました。長い年月で結ばれてきたアーユルヴェーダの薬草の関係や伝統医療が今の時代に日本の暮らしと和合し新しくなり、子孫を見守っていただけるようになればと祈りが湧きます。

ご縁に感謝して、暮らしフルネスを丁寧に紡いでいきたいと思います。

場の例大祭 2024辰年

今年も有難いご縁にたくさん恵まれ、場の道場にある妙見神社(ブロックチェーン神社)の例大祭を執り行うことができました。前日から降り続けた強い雨でどうなることかと心配していましたが例大祭中は雨も降らず気温も上がり晴れ間も出て美しい夕陽と竜雲、彩雲が顕れご参列の皆様もとても感動していたのが印象的でした。

ここに神社を建立してから5年目になりますが、何かに導かれるように様々なご縁をいただいてきました。この期間に無二の仲間たちとも出会い、奇跡のような徳積の活動を実践することができました。自分で考えていた以上に、考えてもいなかった素晴らしい御蔭様と豊かさにずっと支えられていました。

この節分から立春という廻りは、春の兆しをたくさん感じます。冬の厳しい寒さと春の柔らかい温かさが交互に空に顕れ、また大地を潤します。寒暖差の中に水や風が揺らぎ場に澄み切った空気感を醸し出してきます。

今回、例大祭では昨年ご縁があった即興ピアニストの今井てつさんに奉納をお願いしました。共通のご縁は、自然農の故川口由一先生です。私もかんながらの道を歩んでいますが、いのちや生きものがいっぱいの自然風景を心に響かせる生き方をしています。今井てつさんの音楽もまた同様な自然の響きを奏でています。

私たちは心に映る風景を、それぞれの思いの波動を通して全体に響かせることができます。その響きは、音楽のように奏でて消えるのではなくそれぞれの場所や意識に影響を与えてその中で一体化して永遠に活き続けていきます。ご縁も音も、そして響きも波動も消えるということはなく食べもののいのちのように身体や精神、心に和合して意識を変化させる素となるのです。

いい人に巡り会うことは、いい人の生き方を宿すことでもあります。同時にいい音に巡り会うことは、いい波動を宿すことでもあります。そしてそれをどう表現するか、感動するかで人と人の間に感動はさらに広がり、その美しい種がまた新たに人々の心や場に蒔かれていきます。これが人徳の魅力です。

そうやって思いの種は最初は小さな種であっても、蒔かれていけばそのうち花が咲き広大なお花畑のようになることもあるのです。自然の有難さというのは、いつも自然があるということでしょう。その芽出度さは日本人の心でもあります。日本人の先人たちは暮らしの中でいつも自然を忘れず自然に感謝して自然と共に歩んできました。今年の例大祭ではよりその自然への畏敬を味わうことができた素晴らしいものでした。

最後に舞の奉納をしてくださった全さきさん、彌樹さん、母娘。それに直来で美味しい料理を準備してくれたまどかさん、お手伝いの恵輔さん。暮らしの音楽を奏でてくれた祐輔さんと晃輔さん、そして雅さん。節分祭から場を一緒に調えてくださった星覚さん、全体を調え石笛奉納までしてくださった奈々子さん。何よりいつもお手伝いを気持ちよく協力してくださる素敵な仲間たちに心から感謝しています。

予祝としての思いに、おめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

畜の意味

最近、社畜という言葉を改めて気にする機会がありました。なんとなく世の中で使っている言葉の響きが不愉快だったので調べると家畜を参照して作成された言葉のようです。社畜の意味は辞書を参照すると「日本では社員として勤めている会社に飼い慣らされ、自分の意思と良心を放棄し、サービス残業や転勤もいとわない奴隷と化した賃金労働者の状態を揶揄、あるいは自嘲する言葉」とあります。また家畜を調べると「ヒト(人間)がその生活に役立つよう、野生動物であったものを馴化させ、飼養し、繁殖させ、品種改良したもの」とあります。さらに社員ではなくアルバイトの場合はバ畜と呼ばれ「アルバイトをする学生がバイトに多くの時間と労力を割いてしまう状況を表す言葉」だそうです。

この「畜」という文字の語源は、会意文字で「玄(黒い)+田」の意味で栄養分をたくわえて作物を養い育てる黒い土のことをいいます。この発酵した黒い土がある御蔭で、植物や生き物たちの健康は守られます。

私は自宅で烏骨鶏や犬を飼っていますが、家畜といっても無理やり卵をたくさん産ませようとしたり犬をこき使って働かせようとは思ったことはありません。他にも自然農や田んぼをやっていますが、無理に作物を育てませんしその土を大切にするために農薬なども使ったことはありません。高菜のお漬物もつくっていますが、在来種の種を大切に自家採取してはまたそれを蒔き育て、その高菜で採れる分だけで木樽に寝かせて林の中でお漬物にしています。

私にとっての家畜は、大切な家族で共にこの世で生きていくためのパートナーです。家畜というものを悪いことのようにいうのは違和感があり、その流れで社畜というのはもっと違和感があります。

私は会社の社員のみんなを親戚や家族のように思っています。毎日、顔を合わせては健康の心配、子どもたちや家族や親せきの状態、仕事のこと、暮らしのことを気にしては一緒に語り合い助け合います。みんなで尊重しあえるように話を聴く時間を工夫して確保し、丁寧に一緒に生活の改善を続けています。飼いならすというよりは、みんなで協力しあって暮らしを創っているという感じです。大切にしている畜土(場)は、会社の文化であり、それは連綿と毎日続けて受け継がれてきたみんなの生き方や働き方の歴史が醸成されたものです。社畜という言葉がなぜ悪く言われるのだろうかと不思議でなりません。

結局、この言葉の意味の変遷は時代的な価値観として「いい会社かどうか、いい家庭かどうか」のその話をしているということでしょう。悪い意味でつかわれる家畜も社畜もバ畜も、まるで人間がいのちのない単なる物体のように扱われ、一人ひとりが尊重されない環境のなかで主体性を放棄した状態ということになります。そういうように動物たちや植物などの家畜を扱い、そういうように人間も扱うようになったということでしょう。一方的な奴隷化、搾取、それを飼いならされた状態というのでしょう。

実際にうちの烏骨鶏でいえば、柵も鳥小屋もあるのは野生動物や蛇などの天敵から守るために設けるものです。それに広さを十分に確保し、止まり木があり、発酵土を設け、泥浴びができるようにし、風通しのよい日陰で新鮮な空気があり目が届く場所に設置するのは奴隷化するために飼育しているのではありません。犬も同じく、綱があるのは車社会で飛び出すと危険であることや保健所に連れていかれて殺処分されたり、犬に乱暴に扱う人たちがいることから守るためでもあります。飼いならすことと守ることは違います。大切ないのちを守ろうとするからこそ「畜」はあるのです。

「畜う」という字は、「やしなう」とも読めます。つまりは、大切に育て養い守るということです。そして見守られている側もきっとそれに気づいて安心して育つはずです。そうやって「お互いにやしないあう=見守り合う」ことで私たちはいのちの寿命をのばして仕合せになるように思います。

言葉の使い方の中に、時代の価値観や人々や民衆の感じる不信や不満がでてきます。全部がそうではなく、そしてそうではない生き方の人たちの実践もあることにももっと目を向けて子どもたちのために将来がどうあってほしいかよく考えて今を生きる大人として取り組んでほしいと思います。

私たちも引き続き、子ども第一義、私たちの道を拓いていきたいと思います。

親友の仕合せ

幼馴染がはじめて家族と一緒に聴福庵に来てくれました。小学校5年生の時からの友人で色々なことを星を観ながら毎晩のように語り合った仲です。転校してきたのですが最初からとても気が合い、お互いにタイプも異なることもありとても尊敬していました。

音楽が好きでアコースティックギターを弾き、また工作が好きで半田鏝を使い近くのパチンコ屋さんの廃材で色々なものをつくっていました。他にもパソコンが得意でプログラムなどもかいていました。私はどちらかというと野生児のように自然派でしたからとても理知的で新鮮でした。

中学では同じ部活に入り、レギュラーを競いバンドを組んでは一緒にライブなどを行っていました。塾も一緒で成績でも競い、その御蔭で勉強もできるようになりました。思い返せば、尊敬しあい好敵手という関係だったように思います。

高校卒業後は、私は中国に留学し彼は岡山の大学に行きました。そして社会人になって一緒に起業をして今の会社を立ち上げる頃にまた合流しました。毎日、寝る時間を惜しみ休みもなく働き努力して会社を軌道に乗せました。私の右腕であり、苦楽を共にするパートナーでした。しかし、その後、お互いに頑張りすぎたり結婚をはじめ色々な新しいご縁が出てきてメンタルの不調や社員間の人間関係の問題、過去のトラウマや祖父母の死別など様々な理由が見事に重なり別れることになりました。

そこからは孤独に新たな道をそれぞれに歩むことになりました。もっとも辛い時に、お互いにそれぞれで乗り越えなければならないという苦しみは忘れることはありません。あれから20年ぶりにお互いの親友の通夜で再会してまた語り合うことができています。

離れてみて再会してわかることは、その空白の20年のことを何も知らないということです。当たり前のことを言っているように思いますが、その間にお互いに何があったのか、伝えようにも関係者や周囲がお互いの知らない人ばかりになっていてどこか他所の他人の話になります。私たちの知り合いは20年前に止まったままでその頃の人たちももうほとんど今ではあまり連絡を取っていません。

人のご縁というのは、一緒にいることで折り重なり記憶を共にするものです。同じ空間を持つ関係というのは、同じ記憶を綴り続けている関係ということです。喜怒哀楽、苦楽を共にするときお互いのことが理解しあい存在が深まるからです。

今では、親友は新しい家族を築き子どもたちも健やかで素敵な奥さんとも結ばれて仕合せそうでした。20年たって、一番嬉しかったのは彼が今、仕合せであることでした。

そう思うと、最も自分が望んでいるものが何かということに気づかされました。私が一番望むのは、私に出会った人たちがその後に仕合せになっていくことです。だからこそ、真心を籠めて一期一会に自分を尽力していきたいと思うのです。

いつまでも一緒にいる関係とは、仕合せを与えあう関係でありたいと思うことかもしれません。親友との再会は、心が安心し嬉しさで満たされました。苦労の末に掴んだ彼の仕合せに感謝と誇りに思いました。

善い一年のはじまりになりました、ご縁に心から感謝しています。

遊行の源流

暮らしの中の遊行巡礼をはじめると、空也上人とのご縁が出てきました。もともとこの空也上人という方は平安時代中期に活躍した念仏僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)とも呼ばれています。生れは延喜3年(903)とされ、醍醐天皇の皇子とも言われています。

もともと空也上人は、「優婆塞」と呼ばれ、「俗聖(ぞくひじり)」とも呼ばれていました。得度しても僧名の光勝を名乗らず自らは空也の沙弥(しゃみ)を名乗っていたといいます。

「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路や橋、井戸や寺院をつくり町中を遊行して乞食し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝承されています。そして遊行のありさまは絵画や彫刻にあるように短い衣を脛高(はぎだか)に着て草鞋(わらじ)を履き、胸に鉦鼓(しょうこ)台をつけて鉦(かね)を下げ、手に撞木(しゅもく)と鹿角杖(わさづえ)を持ち行われていたといいます。この遊行の鑑のような生き方をなさっておられた方でその後の一遍上人などにも多大な影響を与えています。

有名なものに木造空也上人立像があります。死後250年以上経ってから制作されたものですがまるで、目の前にいるかのような一度見ると忘れられない像です。これは運慶の四男 康勝の作といわれます。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで遊行する姿です。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられています。

これは「南無阿弥陀仏」の6文字を唱えると、空也上人が阿弥陀如来の姿に変わったという伝承を表しているからだといいます。

六波羅蜜を遊行を通して実践し、それがその時代の人々の心を癒し苦しみを安らげ、心魂を鎮めたのかもしれません。

また私は鞍馬寺に深いご縁がありますが、空也上人が鞍馬山に閑居されていた話も知りました。その閑居していたときに、いつも鳴いている鹿を愛していましたが定盛という猟師が射殺しました。これを知った空也は大変悲しみ、その皮と角を請い受け、皮を皮衣とし、角を杖頭につけて生涯離さなかったといいます。また、鹿を射殺した定盛も自らの殺生を悔いて空也の弟子となったともあります。これは英彦山の伝説とも似ていて共通点があります。そのことから鞍馬寺は浄土教の聖地として発展したといいます。鞍馬山にはその旧跡という「空也の平」という名の場所もあるそうです。

大分では国東に空也上人の開基した興満山興導寺というお寺もあります。また九重町の宝泉寺では空也上人が諸国遊行の途中この場所に経ちより農家に宿泊したお礼として持っていた杖を大地に立てたといいます。その杖がのちの大杉となり、天禄三年(972)この地に大地震がありその大杉が倒れたあと根元より突然温泉が湧出したといいます。そこで驚いた村人たちは、わき出る温泉のほとりに一宇の寺院を建立して空也上人が宝の泉を下さったということで寺を平原山宝泉寺と定 め本尊に空也上人と大日如来を安置したという伝承もあります。

歩きはじめて、まさかのご縁がこの空也上人でした。てっきり法連上人かと思い込んでいましたから、道はやはり歩いてみなければわかりません。引き続き、遊行を深めながら知恵を学び直していきたいと思います。

徳の戦略 

江戸中期の徳の実践家で思想家の三浦梅園に、「悪幣盛んに世に行わるれば、精金皆隠る」があります。これは、西洋ではグレシャムの法則といって、「悪貨は良貨を駆逐する」が同じように有名です。私は、徳積循環経済に取り組み、ブロックチェーンの技術を徳で活用していますからこの辺の話は参考にしています。

そもそもこの三浦梅園が自著「価原」でなぜこういうことを言ったのか、それはこの明和9年(1772年)から発行された、南鐐二朱判は一両当りの含有銀量が21.6匁であり、同時期に流通していた元文丁銀の一両当り27.6匁と比較して不足している悪貨であったといいます。このことが南鐐二朱判を広く流通させ、このような計数銀貨が次第に秤量銀貨である丁銀を駆逐していったということもあったといいます。これよりも前の元禄8年(1695年)に行われた品位低下を伴う元禄の改鋳後にもまた良質の慶長金銀は退蔵され、品位の劣る元禄金銀のみが流通したともあります。

そしてグレシャムの法則の方は、16世紀のイギリス国王財政顧問トーマス・グレシャムが、1560年にエリザベス1世に対し「イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣改悪のためである」と進言した故事に由来しています。これを19世紀イギリスの経済学者・ヘンリー・マクロードが自著『政治経済学の諸要素』(1858年)で紹介し「グレシャムの法則」と命名してできた言葉です。

他にも調べると、似たようなことは古代ギリシアでも行われていました。劇作家アリストパネスは、その自作の登場人物に「この国では、良貨が流通から姿を消して悪貨がでまわるように、良い人より悪い人が選ばれる」という台詞を与え、当時のアテナイで行われていた陶片追放(オストラシズム)を批判していたといいます。

今の時代もまた似たようなものです。これは貨幣に限らないことは半世紀ほど試しに人生を生きてみるとよくわかります。市井のなかで、「本物」と呼ばれる自然な人たちはみんな私心がありません。世間で騒がれている有名な本物風の人ばかりが情報消費に奔走し、あるいは流通し、同様に消費されていきます。実際の本物は粛々と自分の持ち場を実践し磨き上げ場をととのえています。そこには消費はありません。

そういう人たちは、世の中では流通せずにそれぞれに徳を積み、そうではないものばかりが資本主義経済を拡大させていきます。そもそも人間の欲望と、この金本位制というのは表裏一体の関係です。そして金本位制を廃止してもなお、人間は欲望のストッパーを外してはお金を大量に発行して無理やり国家を繁栄させ続けようとします。すでに、この仕組みで動く世界経済は破綻をしているのは火を見るよりも明らかです。国家間の戦争も歴史を省みればなぜ発生するのかもわかります。

かつて国富論というものをアダムスミスが定義提唱し、富は消費財ということになりました。この辺くらいから資本主義の行く末は語られはじめました。如何に現代が新しい資本主義など世間で騒いでみても、そもそものはじまりをよく観ればその顛末は理解できるものです。ジャッジするわけではありませんが、歪みを見つめる必要性を感じます。

実際の経済とは、経世済民のことです。その経世済民を支えるものは、相互扶助であり互譲互助です。つまりは、人は助け合いによって道と徳を為すとき真に富むということです。この時の富むは消費財ではなく、絶対的な生産であり、徳の醸成です。そういうものがないのに経済だけをブラッシュアップしても片手落ちです。

本来、テクノロジーとは何のために産まれるのか。それはお金を増やすためではありません、世の中を調和するためです。だからこそ、どのように調和するかを考えるのが技術まで昇華できる哲学者たちであり、思想を形にする実践者たちです。

私はその調和を志しているからこそ、ブロックチェーンで三浦梅園の生き方を発信していきたいと思っているのです。そこには先人への深い配慮や思いやりが生きています。

先人たちのこれらの叡智、そして知恵は何世代先の子孫のために書き綴られそれは魂と共に今も私たちの中に生きています。少しでも子孫たちの未来が今よりも善くなるように私の人生の使命を果たしていきたいと思います。

場を磨く

弱っている場所や荒廃している場所が、活き活きと甦ると周囲の気配も空気も変化していくものです。不思議ですが、私たちの生きるところでは外すことはできない大切な場所というものがあります。

例えば、水が分岐するところにも神社を設けて清浄に保ち調えて祈ります。他にも、湧水が出てくるところ、あるいは巨石が鎮座するところなども同じです。

重要な場所には、それぞれに大きな役割がありその役割が全体を守っていたりするものです。風水なども、その原理や掟を守ります。

今では、観光的に便利で目立つ場所や商業的に繁盛をするところなどを大切な場所にして、むかしから守られてきた要所や場所をおざなりにしています。そこで気の流れも変わり、場所全体が荒廃に進んでいくものです。

人間だけがこの世にいるわけではないので、私たちは共生しながらもっとも自分たちの場所が居心地がよくなにはどうすればいいかを突き詰めてきました。そうすると、よくよく観察し大切な場所は丁寧にお手入れしていこうとする伝承が繋がります。

私が取り組んでいるのは、世間ではどうでもいいと思われて放棄され荒廃したところを地域全体最適や地球全体最適をみて、それを守り調えていくことで場所を守りその場づくりをしていこうとするものです。

子どもたちには、場を一つでも甦生し遺していく必要性を感じます。なぜなら、子どもたちは場によって育つからです。

場づくりは時間がかかり労力もかかりますが、場を磨き続けていきたいと思います。

魂を磨く暮らし

人が何かを体得するというのは、日常の暮らしになった時に獲得するものです。頭でっかちに知っても、それを知恵として持続することはできません。知恵にするには、その人の生活そのものと一体になっているときに実現します。

この日常にするというのは、習慣化するということです。習慣化というのは、知恵化するともいえます。私たちの今いる現代は、知識は消費の一つになり知識を膨大に得てはそれを日々に消費しています。有名人やインフルエンサーなど、毎日のようにSNSで発信し、専門家や芸能人などは知識の発信に余念がありません。そしてその知識を早く得ようと、膨大な費用を使っては消費活動を拡大させていきます。

情報化社会というのは、情報がお金になり、その人が持つ時間をいかに情報に費やしたかどうかで費用を使わせるという具合です。

もともと現在の経済は、経世済民ではなく如何に経済を発展させるかに余念がありません。経済が衰退するとき、国家が滅ぶとさえ信じ込まされていて経済的な破綻=国家の破綻となっています。これは人間の破綻もまた経済の破綻と同じと定義されています。

しかし本来の破綻とは、生活文化が失われていくことではないかと私は思います。それは古来からの知恵が失わていくことです。例えば、食文化や伝統文化、生活文化、伝承文化、先人たちの体験から得た気づきを知恵にしそれを連綿と繋いできたものが失われた時にこそ、真に滅ぶのです。経済が破綻したとしても、文化があればいくらでもそこから甦生できます。しかしいくら経済が発展しても、文化が失われたらそこでお終いです。

これは人の生き方も同じです。生き方が残っているからこそ、魂は守られます。魂を売ってしまうと、あとは奴隷のような時間が残るだけです。人は魂を優先するとき、知恵を伝承することができるものです。

暮らしというのは、本来は魂を磨いていくことです。

魂を磨いていくことは、人生をよりよいものにし子孫へその知恵を伝承していくことです。教育の本義もまたそこにあるはずで、知恵のない教育など物質文明の中の消費材の一つになっているだけの産物です。

現代人は時間がなく、知恵を獲得するのにかかる習慣化や持続の時間を確保するのに抵抗があるものです。それもお金にならない場合はなお選択しなくなります。しかし一つの知恵を獲得するのにかける時間も費用も本当は対価がつけられないほど偉大なものばかりです。

純度高く、取り組んでいく人こそ知恵の伝承者です。

子どもたちに生きる力、知恵が伝承していけるように日々の暮らしを調えていきたいと思います。