歴史道

私たちは歴史というものを教科書で学びます。しかし本当の歴史は教科書には書いていないことがほとんどです。その理由は、歴史は勝者の歴史でありその時の勝者の目線で都合よく改ざんされていくからです。事実も、事実の様で事実ではありません。現実はさらに多くのものが関わり、同時に敗者の歴史もあるからです。

真の歴史を知るためには、起きたことを丸ごと理解して受け止めていくような歴史道のようなものがあるように思います。それは今まで連綿をつながってきたものにアクセスをし、それがなぜ行われていたのかをその土地や文化から学び、それを辿りながらかつての人たちの想いをつないだり甦生させていく過程で学ぶのです。

つまり本当の歴史は人々の心を伝えていく中にこそ存在するということになります。これは人の生きる道であり、まさに連綿と続いている歴史です。

歴史は生きているというのは、生き続けているということです。つまり生ものですから保存するには漬物のように漬け直して発酵させ続けていく必要があるのです。保存とは本来、放っておいて保存はできません。そこにはお手入れが必要です。そのお手入れは、物であれば行事ごとに出したり仕舞ったり、片づけたり、そして磨き直して手入れします。これが食べ物であれば、先ほどの漬物のように何度も漬け直して腐敗しないように手塩にかけて守っていくのです。

歴史も同様に、常に私たちが手塩にかけて育てていくものであり、また定期的に古くなり腐敗しないように漬け直していくことで甦るのです。

形だけを残すのなら、ホルマリン漬けや氷漬けにして深い暗闇で光が当たらないところで保管すれば可能かもしれません。しかし、そんな形式だけ残っても何の意味もないのです。

私がやっている歴史の甦生は、形をただ残すことに意味を感じていません。そうではなく、その歴史の道を残すことの方が大切だと思っているのです。そのためには、先ほどの伝統保存食の知恵がそのまま使えるのです。

私が漬物から学んだのは、この甦生や保存の知恵でありそれが和の心であり、すべてにおいて対応できる道の処し方とつながっているのです。

子どもたちのためにも、真の歴史を伝承しその知恵がどの時代でも活用できるように私の役割を全うしていきたいと思います。

 

 

目と心の和合

欲に目がくらむという言葉があります。目というのは眩いものに弱いようでどうしてもキラキラしていると目がくらみます。他にも目の格言を色々と調べてみると面白い言葉が多いことに気づきます。目から鱗がおちるというものがあります。これは何かがきっかけとなって、急にものごとの実態がよく見え、理解できるようになることのたとえです。

他にも、目にまつわることわざはたくさんあります。どれも共通するのは、目というものがそれだけ人間の感情や心の状態を示している部分であることがわかります。目は口ほどにものを言うという言葉もあります。それだけ、この目は影響を与えあっているということです。

日ごろ何を見ているのか、どんなものを見るのかでもその目の状態は心に影響を与えます。人は自分が何を目を通してみているかで写りこむ世界が変わります。

掃除をしたりゴミを拾ったり、磨いたりしたあとはまるで曇りガラスが綺麗になったあとのように世界も鮮明になります。その逆に、都会のネオンや派手な人工物をみていたら目が疲れて澱んでいきます。いくら澄み切った青空があっても、美しい山々があっても、広大な海の前に立っても、その目の状態次第で真実や本質は目には入ってきません。

よく座禅をしていて「半眼」というのを行います。これは目を半分開いて、半分閉じている状態のことです。 つまり目を見開いているのではなく、心の眼が半分、あとは残り半分。つまり全部目でみずに、心の眼で自分を見つめている状態になっているともいえます。

目で追いかけているうちに、人は不安が増えていきます。あまり見すぎてしまうのはかえって余計な疑念を生み、自分の見たい証拠ばかりを目で追いかけてしまうものです。

目で目は見えぬという格言もあります。これは自分の欠点は自分ではわからないということです。そういう時は、素直に謙虚に自分の目がどうなっていますかと、澄んだ心の目を持つ人、または真実や本質を見ようとしている人にアドバイスをいただくのも一つの半眼かもしれません。

子どもたちのためにも、丁寧に目を閉じ、そしてゆっくりと開き、瞬き一つが修行と思って心を研ぎ澄ませていきたいと思います。

 

一期一会の一日

一つ一つの家を修繕していくというのは、一つ一つの丁寧な物語を紡いでいくことに似ています。悲喜こもごもに様々な出来事があり、謙虚に素直になってその物事を見つめます。

いつも大切な局面において試練があり、その試練の意味を見つめます。

そして試練の時こそ、その根本や根源はどうだったか、最初の目的は何であったかを振り返り、自分の生き方や初心、そして信念を修繕する機会になるのです。

そうやって逞しく育っていくことで、様々な体験を経てまたお智慧をいただきます。このお智慧は、謙虚さと素直さです。自然は常にこのお智慧をつかい循環をして已みません。

かつての先達の方々もきっと本質を保ちながら試練に耐え、この世の中でバランスを磨いていかれたのでしょう。穏やかな海のときもあれば、荒れている海の時もある。時折転覆しそうな時もあれば、追い風で一気に進む時もある。人生はこの舟のようなものです。

一つの目的に向かって、偉大な理想に向かって漕いでいきますがその中で様々な試練を体験するようになっています。そうして浮かべた舟ですから、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれというようにあとは全託する境地でゆらゆらと大空に吹かれていくだけです。

私は、試練の意味をみつめるとき、その試練に対して全託します。

これがどのような福に転じていくのか、そこに奇跡を感じて好奇心がワクワクします。どこに辿り着いても、大切なのはその心の在り方であり、生き方です。子どもたちのためにも、ブレずに理念を実践し、今日も一期一会の一日を過ごしていきたいと思います。

清らかな生き方

先日、清々しい人にお会いしました。この清々しいというのは、けがれがなく気持ちのよいさまだと辞書にはあります。「清」の字には、水が綺麗で澄んでいることや、心や行いにけがれがないこと、気分が良い意味です。そしてこの「清々しい」は、この「清」の字を重ねることでより一層清らかさや爽やかさを表現する言葉です。

その清々しいの対義語は、気が塞いで晴れ晴れしない、あるいは気持ちがよくないという意味で「鬱陶しい」「鬱屈した」「不快」「気持ちが悪い」「癪に障る」「邪魔」という言葉があるといいます。

この清々しいのことを調べていると、お金に対して清々しいという言葉とお金に汚いという言葉のことを知りました。お金に対して清々しいや綺麗という人はどのような人なのか。

以前、悪いことをして得たお金を貰いたくないという人に会ったことがあります。あるいは、自分だけが得をして独占するようなことをしたくないという人にも会ったことがあります。または、いつもお金に助けてもらっていると感謝して使っているという人にも会ったことがあります。そして托鉢や浄財によって暮らしをととのえている人たちにも会ったことがあります。

そういう人にお会いすると、清々しい気持ちになった記憶もあります。これはお金のことを感じたのではなく、その人の生き方のことを感じたのです。

人間は、どうしても自己中心的です。そして道具や物を自分の都合のよいように使うものです。しかし、その使われる道具もどのようなことに使われるかで使い手の人柄が道具に現れます。みんなが喜ぶように、また仕合せになるようにと願いながら使う道具にはどこか徳が具備されていきます。しかしその反対に、戦争や不幸の傍で使われるものはどこか殺伐としてきます。

不思議なことですが、同じことをやる道具にしてもそこに清々しさや汚さやケガレのようなものがあるのです。私が尊敬しているむかしの侍は、道徳規範を持ち、大義や忠義を重んじ、人として恥ずかしいことをしないという生き方を示した人たちがいました。

その清々しさというのは、いつまでも心の規範として心に宿っているものです。どの時代でも、生き方を磨いて清々しくしていくことはできるものです。透明な水のように清らかな人に会うと、心もまた清らかになっていきます。

そんな生き方を学び、子どもたちにも清らかな環境をととのえていきたいと思います。

大局的な生き方

時代には大局というものがあります。大局を見極めている人は、目先のことの影響をうまく乗りこなしていくように思います。私が尊敬する自然農の川口先生も、大局を観ておられたように思います。それは自然を相手にしているからかもしれません。

自然から私たちは大局を学べます。自然は長い歳月をかけて変化していきます。毎年、一年、365日で巡っていきますが確実に変化は数百年、数千年、数万年単位で微細な変化を遂げていきます。

これは石を水滴が穿つように、また陸が海の波で浸食していくように、日々の小さな変化は目にはみませんが確実に変わっていくことに似ているのです。

大局というのは、根源ともいえます。

根源は何か、あるいは偉大な方向性ともいうべきものを如何に直観して自分から近づいていくか。私たちは畏敬の念や謙虚さがあれば、そういうものの存在に気づいて自らの使命や役割を考えていくことができるようにも思います。

結局、進化や変化は私たちがしているものではありますが大局的にみたら一緒に変化しているともいえるのです。一緒に変化しているからこそ、私たちは変化を怠らず変化のために自分自身を努めていく必要があります。

生きていると同時に活かされているこの自分だからこそ、自分の喜びや仕合せがみんなの喜びや仕合せになっていくように徳を積んでいくのです。

子どもたちに伝承したいと思うことは、このことの他にはありません。

暮らしフルネスや、真の豊かさを繋いでいくことは失われたものを甦生するのではなく、もともとあるものに気づかせ甦生することなのです。

私のやっていることは以上のことです。

日々の変化は味わいながらも、大局の変化に内省しながら子どもたちの懐かしい未来を紡いでいきたいと思います。

本当の基本とは

何をするにも基本というものがあります。その基本は、その基本を話す人の定義によって異なるものです。この意味を辞書でひくと物事の判断、行動または存在などのよりどころとなるもと。大もと。どだい。基準。基礎とあります。

この基本は「中心」、基礎は「土台」ともいわれますが、両者はほぼ同じ意味の言葉で使われています。例えば「基本を身につける」と「基礎を身につける」などです。

しかしこの基本がわかるというのはどういうことか、これを深めていると色々と思うことがあります。私は、なんでも好奇心があり取り組んでいきますからこの基本というベースを本当に意味でわかるからそれを応用して様々なことに取り組めます。

自分でも自分は百姓といって、あらゆるものを自分で取り組んでいますからこの基本を理解するというのはとても大事なことに思うのです。

私が思う基本は、自然から学ぶということです。

もともと私たちはこの宇宙や地球を含めた自然の一部としてこの世に存在しています。当然、私たちを成り立たせているものの中心は自然であることは間違いありません。その自然がどうなっているのかを理解しているということは、基本は理解しているということです。

では何が自然かということになると、それは言葉で語れるものではなく直観するものです。何を直感するかといえば、無数の全体を構成している要素を丸ごと理解しているという具合です。例えば、自然のリズムであったり、四季の循環であったり、あるいはいのちや共生などあらゆるものを感得することです。

人間は知識を得てから自然から少し遠ざかっていきました。しかし、結局はどこまで突き詰めても私たちの科学は自然を応用したに過ぎず、すべての基本や基礎は自然そのものです。

なぜ幼少期に自然に親しむのがよいのかといえば、この自然の基本や基礎を身に着ける場を得られるからです。しかしそれで終わりではなく、一生をかけて自然を学び続けていくのが本来の人間の素養でしょう。

子どもたちにそのモデルになるような生き方や実践を伝承していきたいと思います。

御蔭様の存在

私たちは身の周りには多くの人たちの御蔭様で存在しています。同時にそれは今までの御先祖様や先人たちの苦労や努力、真心の集積の御蔭様であることがわかります。この書いているブログも、パソコンがなければ打てませんし、インターネットの環境があるのも多くの人たちの御蔭様によって成り立ちます。

そうやってもうもう一度、身の周りを見渡せば何一つ御蔭様でないものはないことに気づきます。これは本当はすごいことだと思うのです。私たちはみんながつくってくれたものや、大勢の人たちが残してくれたものの恩恵を多大に受けています。自分がやったことはその恩恵を使って形にしただけです。

恩恵あってこそと気づけるかどうか、そこに人の謙虚さがあるように思います。

今の時代は、お金を払えばやって当たり前のような風潮があります。サービスが悪いとか、費用対効果がないとか、損したとか得したとか、そういう話ばかりをします。裕福になっているのはなぜなのかとは考えず、裕福になってもないものねだりや不平不満ばかりを繰り返します。それは御蔭様であることを忘れるからです。

実際に、自分が何かをしようと思う時、それができると思うのは能力に過信しているからです。今の自分があるのは、多くの様々なお力添えをいただいているからだと気づけば目には見えない力をお借りしている感謝の気持ちが湧いてきます。自分が今、あるのはそういうものの集積だと思うと、自分自身に対する感謝の気持ちも湧いてきます。

家があるのも、食べ物があるのも、本があるのも電気があるのも水があるのも、それぞれがみんなで協力し合い助け合って実現しているのです。その徳を使って人はまた徳を積みます。徳は自分の喜びがみんなの喜びになるようにしていくことです。そういう気持ちでいたのなら、物も喜び、人も喜び、地球も喜ぶようにしていきたいと思うようになります。

むかしの人たちはそれが観えていたからこそ、謙虚に懐かしい未来をつくり続けてきたのかもしれません。

時代が代わり、消費文明において謙虚さを失っていきますが今の自分があるのは何の御蔭様なのか、忘れないで歩んでいきたいと思います。

寿命をととのえる

人間にも寿命があるように物にも寿命があります。その寿命は、形あるものとカタチのないものもあります。形のあるものは、身の回りの物体、目に見え手に取れるものすべてのものです。そしてカタチのないものは、いのりや願いなどの想念、言い換えれば魂や遺志などです。

前者の形のものは形をなくしてもまた時間をかけて再生しまた別の形になります。それは土が集まって山になったり、石になったり、もしくは木や水などあらゆるこの世のものは形を換えて変化しては役目を持ちます。そうやって歳月を経ては繰り返し、循環を続けています。

そして物には同時にカタチのないものもあります。それは物が語るように、その物とのご縁で結ばれた様々な歴史がその物に語り継がれていくのです。その物語は、その物に触れて感じていくことで直観していくものです。

私の周りには、古民家甦生をしているからか伝来物の古い道具ばかりありいつも手入れをするとその物のもっている歴史に触れていくことができます。特に人に大切につかわれてきたもの、そして仕合せな記憶を持っている道具たちは歳月の中で新たに出会うご縁をとても楽しみにしているようにも思います。

いつまでも綺麗に磨いてくれる存在、そして丁寧にお手入れしてくれる存在によって私たちは仕合せを感じます。大事にしてくれたご縁や記憶はいつまでも心の中に遺るように、物にも残っています。

すべての存在には物語があるという真実。

こういうことを感じながら生きている人は、一期一会のご縁を大切に生きていくことができます。目には見えないからと言って無視するのではなく、眼には見えなくてもその存在に気づいていくことが私たちが目覚めるためには必要です。

気づく感性を磨いていくことが、物語を聴く力を磨いていけます。

聴福人、聴福庵の庵主として物の声を聴いて寿命をととのえていきたいと思います。

真の融合

最先端と伝統文化の融合をみていて色々と思うことがあります。私は先人の智慧や先人の願いや祈りを尊重しますからあまり目新しくなる感じにはなりません。むしろ地味で、何が新しいのかわからないという具合にほとんどが目には見えません。今、あるものを活かし、そのあるものを別のものと組み合わせていくなかで今の自分に相応しい使い方を味わいます。

器というものは、その器は無です。しかしその器に何を載せるのか、もしくはその器をどう使うのかは、その器の天命にも関わってくるものです。

ある器は、飾り物になり、ある器は花の場になり、またある器は何かの想いを宿します。器は器、そして私たちもまた器にもなりえる存在でもあります。難しくなってきたかもしれませんがシンプルにいえば、徳を磨いていくということです。

私は古いものと新しいものを融合するとき、そこに徳を見出します。その徳は、いのちを尊重する中で顕現してきます。丁寧に磨き、丹精を籠めてお手入れをする。そうして、みんなが喜ぶように、そして少しでも長く幸福になれるようにとそのものの豊かさをみんなで味わいます。

ご縁を大切にしていく中で、自分に与えられた天命に従っていく。

そういう生き方が折り重なっていくとき、私たちは縦の糸と横の糸を結ぶように一期一会の融合に出会います。

よく考えてみるとわかります。

私たちの今もまた古いものと新しいものは融合し続けています。それは自分自身がそうであるからです。先祖からずっとつながっている自分、そして今を生きる自分。先人の恩徳に深く感謝して、今も子孫のために謙虚に自らを磨いて今以上に美しい世の中を推譲していく。

こういうことの繰り返しの中にこそ、真の新しいものと古いものの融合があるのです。見た目の融合ではなく、真の融合なのです。

私の取り組んでいることは、すぐにはわからないかもしれませんが時を経て歴史や時代に鑑照すればいつかは理解してくださる人も増えていきます。悔いのないよう、今とご縁を結んでいきたいと思います。

暮らしフルネスの真価

春うららかな天気が続くと、犬や猫、鳥たちも心地よくゆったりと過ごしています。自然は四季のめぐりと共に、自然のリズムで時が流れます。現在のような人間都合のスケジュールではなく、まさに自然の時は全生命の時でもあります。

本来、むかしは人間も同様に自然のリズムで暮らしをしていました。今では暮らしが失われ、労働するための時間に管理されなかなか自然のリズムで生きることは難しくなっています。

その中で、暮らしの意味も変わり、暮らしはリズムとは関係のないものとして言葉も定義されて使われます。私の定義する暮らしは、自然のリズムのことであり決して日常生活のことをいうのではないのです。

私たちは本来、この自然の営みの中に伝統的な暮らしを持っていました。これを生活文化ともいうのでしょう。この文化が失われて、現代のような文明が優先されていく生き方が求められ息苦しくなっている人も増えているように思います。

子どもたちは、自然そのもので産まれてくる存在です。その最初の三つ子の魂のときは、私はできる限り自然のリズムで生きられるような環境を用意する方がいいと思うのです。それが地球で自立して生き残るためのチカラを得ることができるからです。

あまりにも早期に文明に慣れさせすぎると、人間は性格のバランスがととのわなくなります。人間の性格は、その後の社会でのバランス感覚や、その人が自分の人生をよりよく生きるための柔軟性に影響が出てきます。

だからこそ、私たちの先祖たちは日本の家屋の中で自然のリズムと調和する暮らしを永続して生きる力、生き残る力を醸成し伝承を続けたのでしょう。

私が古民家にこだわる理由も、自然のリズムと一体になって暮らしていくのに都合がいいからです。もちろん、大都会でもできなくはないですが圧倒的に自然のリズムに包まれにくいから智慧と工夫が必要になっているのです。それは決してデジタルで無理やりに自然をつくることではありません。もっと、リズムを考えて暮らしをととのえていく工夫をみんなで知恵を絞って取り組んでいくということです。

私の暮らしフルネスは、足るを知る暮らしと一般的にはお伝えしますが自然のリズム側から話せば暮らしだけで充分という意味でもあります。

暮らしの真価を子どもたちに伝承して、今と未来をよりよくしていきたいと思います。