ご縁を活かす

人の出会いや繋がりには必然性があるものです。これはよく考えてみると、連続しているからにほかなりません。一つの出会いは途切れているのではなく、ずっと今もつながっています。それが節目節目に何かの形でご縁を実感できているということだけです。

つまりご縁というのはすべてご縁というものであることがわかります。天網恢恢疎にして漏らさずという言葉があります。この世は網の目のようになっていて、その網の目の中で私たちは結ばれて生きています。

これが一人一人の自意識が自我によって自分というものを分けて世界を認識していますが、実際には偉大な意識の中で常にご縁と共に存在しているということになります。

この存在という意味を深めてみると、すべてのこの世に目に見えるものは勿論のこと、目に見えないものにいたるものもご縁のむすびのなかにあります。誰かが作ったもの、もともとそこにあったもの、存在というのはまるごとあります。

その意味を深めて、そのご縁をどのように結びなおすのかというところにご縁を活かす妙味があるように私は思えるのです。

ご縁を活かすというのは、悠久の関わりや結びつきを時代時代にどのようにほどいて結びなおすかということです。それは着物の糸をほどいてもう一度反物をつくり別の着物にするように、私でいえば古民家や古材をどのようにいのちをつなぎあわせて甦生していくかに似ています。

別のものを組み合わせているのではなく、ご縁を活かすということです。

先祖のつながりなども、前世のつながりなども目には観えません。しかし、ご縁をよく味わっているとこれはきっと先祖から今までそしてこれからのためのご縁であることに気付きます。

全て繋がっていると思って生きている人は、どのようなご縁であってもこの先にどのように変化していくのかが直感します。どういうご縁であっても、自分自身がご縁を大切に生きていくことが大切であり一期一会であることに集中することがそのご縁を生きる実践になります。

子どもたちにも素晴らしいご縁が結ばれていくように一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

教育の醍醐味

昨日、かつてある高校で3年間一円対話を実践し指導してきた生徒に改めて一円対話の意味を説明する機会がありました。これは卒業論文の研究テーマを一円対話にしてくれたことからのキッカケです。関わったのは7年も前になりますが、それがいつまでも心に残りこのように自分が教員になっても大切にしたいと思ってくれていることに有難い想いになりました。

教育の面白さは、見返りのないこと、そして長い年月をかけて醸成されそれによって世の中がさらに善くなっていくことです。私も保育に深く関わってきましたが、創業して21年になりますから最初に関わってきた園児たちは間接的にももう20歳を過ぎています。

思い出すと、あの頃も今も変わらずに未来へ希望を持ち、子どもたちがこの先の人生を真に豊かに幸福になってほしいと祈りながら取り組んでいることは同じです。有難い人生を戴いたことに改めて深く感謝しています。

取材の方は、そもそもなぜ一円対話をはじめたのかというものでした。

改めて、ヤヌシュコルチャックのこと、二宮尊徳のこと、良寛さんや親鸞さん、吉田松陰や郷中教育など自分に影響を与えたことを整理して話をしていると私も初心を思い出すいい機会になりました。

世界が戦乱になってからの対処療法ではなく、未然に如何に防ぐのか。未病のうちにいかに健康を維持するのか、そのために教育が大切であることを改めて説きました。そして今のように伝統文化のこと、伝承のこと、知恵のこと。先人への感謝と供養、そして子孫たちへつないでいくことの本当の意味なども話をしました。

今の世界の社会が今のようになったのは、ここ数十年の教育がどうだったかを証明するものです。そして今さに今、よく洞察し反省したことを如何にこの先の数十年に活かしていくのか。悠久の歴史の中で、教育は循環し反省と改善を繰り返していきます。

人類は、何度も似たような歴史を体験し同じ状況に陥ります。現在のような人口が増えた時代はここ数千年でははじめてですし、現代文明の石油や金融をはじめとした科学技術も軍事技術も進んだのもはじめてです。

しかし人間の本質は変わったわけではありません。

この短い一生で果たして何ができるだろうか、それを思う時、私はやはり徳や教育の方に深い意味を見出していきます。今だけ、金だけ、自分だけというような歪んだ個人主義や権力権威主義といわれていますが人類は本当は今生きていられるのは、先人たちの苦労や努力、いのりがあってこそです。

大切なことを忘れず、常に初心をお手入れし日々の暮らしから改善していきたいと思います。

真の知恵

ロシアとウクライナの戦争の局面がさらに進展しています。ある程度、予想通りでしたがいよいよロシア側も国民を総動員して戦争に入り込んでいきます。もともと、特別軍事作戦というように簡単にウクライナを占領できる目算だったものが当が外れたところから泥沼の戦争に入っていきました。クリミア半島のようになるだろうとの予想が外れたともいえます。

この予想というのは、過去の経験が予想を決めます。しかしその予想も過去のものであり、過去のどちらを観るかで変わってきます。教訓ということを観るのか、それとも成功体験の方かでも変わってきます。お互いに失敗の経験から学び、その失敗を活かした方が真に学ぶというものです。

人類は、何度も戦争を経験してきています。その都度、戦争の悲惨さ、理不尽さ、醜さを体験してきました。そこから得た教訓は、人間にもともと備わっている戦争の種をどうコントロールしていくかということです。

トルストイは、戦争というものは、最も卑しい罪科の多い連中が権力と名誉を奪い合う状態をいうといいました。そして内村鑑三は、戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などとはかつて一度もあったことはありませんともいいます。

戦争は戦争の心が戦争を起こします。それは、自国第一主義で自分たちの利益や権利を守るために行われます。分け合えば余り、奪い合えば足りず、足りなくなれば他人のものまで侵略するというのが戦争の心です。

資源が豊富にあったときは、もっともっとと貪っていてもありあまる物資があるので戦争は起きません。しかしそれが次第になくなってきたらどうなるか、奪い合いがはじまります。かりそめの平和は、結局は欲を増大させただけで幸福や平和とは程遠いものでした。

老子は、平和を尊ぶ人は武器に頼らないといいます。人生の目的のために知恵を持つことをいいます。知恵とは、平和を維持するための知恵です。どのように生きることが、平和を尊ぶのか。それを私は「徳を積む」ことであると実感しています。

徳が循環する社会をつくれば、真に心の平安と平和が循環するものです。そのために私たちは知識を買うことを休め、知恵をもっと使うことを思い出す必要があります。初心を忘れないこともまた知恵の一つです。

こんな時だからこそ、時代の変わり目に大切な知恵を伝承していきたいと思います。

いのちの甦生

私たちの身体は、いのちをいただくことでいのちを活かします。この世のすべての存在はいのちを移し替えることによって存在しているともいえます。あらゆるいのちを転換して移動しているともいえます。これが循環の本質でありいのちの姿です。

そのいのちの移動で大切なことは、いのちを壊さないように丁寧に移し替えることです。例えば、いのちを壊すというのは心を籠めない、丁寧に扱わない、粗末にする、差別をするなどという時に行われます。その逆に、尊敬をし、真心で接し、大切に扱い、感謝すればいのちは甦生します。

いのちというものは、関係性の中、つながりやご縁の中にこそ生きているもので私たちはその「いのち」をいただき暮らしを営むものです。

一番悲しいことは、単なるいのちのない物として扱われることです。いのちがあるものを、いのちがないように扱われることで循環が止まります。いのちの循環が止まるというのは、つながりが断絶するということです。自然が失われるということでもあります。

私たちはそもそも自然という有機的なつながりの中に存在します。この宇宙もまた、いのちと捉えたらすべてはつながって存在していることに気づきます。その中の一つに私たちがあります。

死は死ではなく、新たないのちになっていくという感覚もまた同じようにいのちを大切にする生き方を通して感じられるものです。いのちは水の流れのようにありとあらゆる物質を透過し、通過することですべてのいのちをつなぎます。

私たちは水がなければ生きていけないのは、いのちの循環ができないから死ぬのです。肉体的な死だけではなく、私たちは空気中の水分、あるいは食べ物を通しての水分などいのちを吸収しいのちを転換して元氣を保っているともいえます。

現代は、いのちをあまり感じない生活が増えてきました。これは自然の循環をとめてしまうような環境が増えたともいえます。本当の環境問題とは何か、それは温暖化でもなければゴミ問題でもありません。これはいのちの問題のことです。

いのちを直視して、いのちを大切にする暮らしが私の実践する暮らしフルネスですが、いのちの甦生を通して自然の循環も甦生させていく必要性を感じています。知識ではなく、知恵としてこれを実践してこそ意味があります。知ることとわかることは異なります。知っても知っただけであれば、何も変わりません。

わかることは、知恵の中に生きているいのちがつながっている証拠です。子どもたちにも知恵が伝承していけるように丁寧にいのちことを実践していきたいと思います。

時の知恵

動物や植物たちは人間の持っている時間というものがわかりません。自然のリズムに従って活動し休みます。毎朝、早くから鳥たちが活動して夕方に巣に戻ります。季節の変化で、大風が吹いたり雨が降ったりするなかでそれぞれのリズムで活動を続けます。

自分の居住区域には縄張りがあり、餌場がありますからその環境の変化や餌を共にする存在は脅威になります。自然と共生するなかで環境が変わるというのはそれだけで大変なことです。

現在、人間社会はスケジュールというものに大きく管理されます。毎日忙しく、空いているところに次々とやることを入れていきますから時間に追われる日々を送ります。時間を増やすために如何に時間を短縮して作業ができるかを考えだし、様々なものを合理化していきました。

例えば、炊飯ジャーや電子レンジなどもその一つです。コンビニというものも忙しくなってしまった現代人が簡単便利に合理的に生活が済むように商品が陳列しています。お金さえあれば、時間すらも買える時代になっているというような錯覚が得られるものです。

実際には、食事でいえば食は本来は薬です。医食同源という言葉もありますが、むかしは生きていくために日々に養生を兼ねて食に気を付けました。食べ物はまさに健康のために旬のもの、丁寧にいのちをいただいてきたのです。

不思議なことですが大金をかけて便利で合理的な道具を使い、スピード重視でできあがる食べ物を求めては病気が増えています。見た目ばかりよいもの、添加物で似た味付けになっていれば美味しいものになっているのです。

美味しいものというのは、身体が求めているものです。人間の身体は自然が形成したものですから、自然の循環に適うもの、自然のリズムに適うもの、自然の火やお水、プロセスを経たものが美味しいものです。しかし現代は時間短縮を優先するという前提があるからそれを省いていくことに経済を使っているように思うのです。

子どもたちは今、どれくらいゆったりと時間を忘れて食事をする場があるでしょうか。朝から急いで朝食をとらせ、お昼も給食や集団で一気に食べ、夜もやることがたくさんありますからスピーディに食べては残りの時間を惜しんで過ごします。そんなにやることばかりを増やしていったら、ますますスケジュールに管理されますがそれが当たり前の世の中になっているのです。

幼い頃から大人の忙しい生活を押し付けられて育てば、それが社会に出ても同じような生活をしていきます。経済を繁栄させるためにとスケジュールをさらに詰め込みますが、本当の豊かさはスケジュールとは関係がないところにあることに気づきます。

自然から学ぶと、私たちは自然がもつ空間に悠久の時があることに気づきます。そこには時という知恵があり、記憶という豊かさがあります。子どもたちにも幼いときに、人生の真の豊かさを自然から学んでほしいと願います。

暮らしフルネスの実践がどのように花が咲くかわかりませんが、子ども第一義の理念をカタチにしていきたいと思います。

いのちの養生

昨日は、堀池高菜の漬け直しを行いました。春先に漬け込んだものをこの時期に漬け直せば来春までまた漬かります。長いものでは9年目に入ったものがあり、3年目や今年のものもあります。長い時間をかけて漬け続けるにはコツがあります。

私はもともとこの堀池高菜は、供養のために続けています。採算度外視で儲けるためにやっているわけではありまんから唯一無二のものです。

例えば、30年以上農薬も肥料の入れない畑で自然農で行いこの地域にしかない伝統固定種の種のみでつくります。樽は吉野杉で塩も平窯天日塩、また天然秋ウコン、蓋は楮の和紙で閉じています。そして発酵場は林の日陰の風通しの良い場所で備長炭と共に寝かせ続けます。

こんな環境の中で育っていますから菌もイキイキしています。はじめて3年目くらいまでは腐敗することがありましたが今ではほとんどそれもありません。手塩にかけて塩梅をみながら丁寧に関わっていく。ずっと生きているものとして関わりますから大切に一緒に育っている家族のようなものです。

現代は、大量生産、大量消費で儲かるためにあらゆる作業を省いて効率優先、合理化優先していきます。すべては売り物、そして買い物にするために加工するのです。

私は加工することは儲かるためだとは思っていません。加工するのは、大切に扱うためのプロセスだと思っているのです。私が手掛けるこの堀池高菜は生産、加工という名の家族と共に暮らす豊かで仕合せな営みなのです。

その営みのなかで出来上がったものだからこそ、舌先三寸では味わえない深い滋味があります。その滋味を感じていただける人たちからは、本当に喜ばれ、運がよくなりそうだと感動されます。

この場所、この土地ならではの風味は風土がつくります。

そしてその風土で育ち、風味をわかる人だからこそ滋味が出せるのです。身土不二という言葉もあります。これは『体と土とは一つである』という意味です。私たちは土を食べる化け物ですからその土地の味はその土の味でもあります。

今では遠くの食べ物をどこでも便利に食べれるようになりました。しかし本来、食事というのは食養であり大切ないのちの養生の根源です。

だからこそこの土地に来て、この土地で自然に食べてもらうことこそがその土地のいのちを味わうことになります。

私がやっていることは、今の資本主義社会でやっている儲けるための食事とは異なるものになります。だからこそ儲からないし売れないし売らないのでは誤解され、道楽や趣味のようにいわれます。しかし本来、伝統文化や伝承というものはそのためにやっているのではなく、先祖代々、豊かに暮らし仕合せにいきる知恵を自分も同様に生きているということを守っているだけです。

子どもたちや次世代、子孫へ知恵が伝わり同じような仕合せが繰り返されるように今の時代の価値観に流されずに本質を保ち喜びを楽しむのです。これからますます遣り甲斐も生き甲斐も増えていきますから大切にいのちを養生していきたいと思います。

 

戦争の時代

ロシアとウクライナの戦争がさらに進行しています。世界を巻き込んだ戦争、第3次世界大戦はすでにはじまっています。もともと第一次、第二次世界大戦のときもやっている最中はそういう意識ではなく終わってみてあれは世界大戦だったとなっていたのです。

どの国が先に本気で火ぶたを切るのか、これはもはやロシアであることは間違いないことです。もう随分長い間、平和が続き私たちも戦争の記憶がなくなった人たちばかりです。まさか自分が戦争に巻き込まれるはずはないと考えるものですが、実際にはみんなそのまさかで巻き込まれます。

自分だけはみんな巻き込まれないはずと安全バイアスが働きますが実際には全体を巻き込んでいますから他人事ではありません。

昨日もニュースで、ロシアで召集令状が出され一日にして大勢の人たちが戦地に輸送されていきました。家族、恋人や妻子と別れていく様子は映像をみていて心が酷く傷みました。行きたくない戦争、政治的に行われた戦争に強制的に参加させる。参加しなければ刑務所で刑期10年といいます。この刑期も果たしてどのような刑期なのか、無理やり理由をつけては戦地に送り出されることも予想できます。すでに、10万人ほどのロシアの兵隊も死者がでていて戦況は悪くなるばかり。それでも諦めずに兵隊を送り続けてあとどれくらいの人が死ねば戦争をやめようとするのか。為政者によって戦争が行われるというのは歴史の事実であり時代が変わっても何も変わりません。

戦争の歴史を深めると、その理由はほとんどが為政者の都合です。皇帝といわれるような独裁者が権力を握りしめ独断で行うもの、あるいは内部が腐った組織、その民衆の依存した既得権益者たちの操り人形のような組織、他には集団的無責任で保身だけにひたすら走る組織、キリがありませんが発端は思考停止になっているところからはじまります。もっとシンプルにいえば「まともではない」状態に意識が入っているのです。

戦争をしている当事者、もしくは巻き込まれた人たちは保身がちらつきますから身の危険を感じてまともではなくなります。安心安全なところにいる人からすれば、そんなことはないだろうと思いますがまともではない人たちになっているのだからそんな理屈は通じません。気が付いたら巻き込まれているのです。

召集令状一つにしても、明治頃は市役所が赤紙といってそれを自宅にもって「おめでとうございます」とあいさつに来ます。それを受けて逃げれば家族全員が非国民として差別され、受けたら家に旗をたてて英雄と称えられます。もはやこれだけでもまともではありませんが、戦争とはそういうことです。ロシアでは、選択肢は戦争で罪のない人を殺すか、あるいは刑務所に入るか、もしくは海外逃亡しかありません。他にはいつも時代も同じですが、政治力や資金力、コネや賄賂などを渡して戦争でも死なないような職種や配属をさせたり、兵役を逃れられるように話をつける人たちが逃げられることです。実際に政治の中枢にいる家族や子どもは守られるという構図です。

人間はいつの時代も似たようなことを繰り返します。権力や権威は何のためにあるのか、本来は人々の生活を守るためにあるものが権力闘争や利権に巻き込まれ結果、大勢の人が悲惨な戦争に巻き込まれます。

そうならないように本来は、教育があり人間学があり道徳を習慣にする文化があったはずです。今思い返せば、世界経済が破綻寸前まで紙幣を発行し、感染症で人々のつながりが分断され、自然災害が追い打ちをかけ、大国間の戦争が発生する。もはや歴史通りであり、シナリオそのままです。

この先、どう生きるのか。

失敗から何も学ばない人間だとしても、失敗を未然に防ぐためにできることはあるはずです。それは現代のように情報で世界がすぐにつながるのだから、一人一人の意識と行動が変革を促すはずです。

私がDAOや徳循環、ブロックチェーンのテクノジーに可能性を見出すのもその部分です。気づいていないのだから、気づいた人が草莽崛起することしか今はありません。

残りの後半の人生、今まで学んだことを活かし、やるべきこと、使命を果たしていきたいと思います。

言葉の意味

言葉というものには不思議な力があります。この言葉は何かの鍵のように別の世界の扉を開いてくれたりするものです。例えば、ある悩みがあったり思い込んだりしてものを力のある言葉によって開放されたりするからです。

私もよく人間万事塞翁が馬という言葉や、禍転じて福にするという言葉を使いそれまでの自分の発想から抜け出すことがあります。最近、滝行を通して真言を学び直していますが真言にも似たような感覚があります。

むかしの人たちは、この言葉の持つ別の側面の力をよく理解していたように思います。何度も何度も繰り返し同じ言葉を発し続けることで自分の中にある囚われや思い込み、執着を乗り越えていくことができます。

ある意味、人間は思い込みの生き物でこの思い込みによって世界を想像しています。集団の思い込みが強いほどに国家や世界が形成されていきます。人々がどのような心で生きていくか、その心をこの世界に反映させていくかで世界もまた変わっていきます。

人間は根本的なところで、あらゆる欲を持っています。社会を形成する中で、自我がありますからそれをうまく調和させ世界に天命をもって活かしあう仕合せな世の中にしていきたいと何度も挑戦を続けてきました。

その都度、どうにもならない自分の中の心を磨きととのえていくために修行や養生を行いました。自然の持つあらゆる力をうまく取り入れ、心を澄まし人格を高めていきました。そういう先人のモデルをみては、自分もそうありたいと道が続いてきたともいえます。

不思議なことですが、日本は自分たちの自然観のなかにあらゆる教えをうまく取り入れていきます。真言も同様に、古代語であるインド、アジアの洗練された言語を今でも使いいのりを唱えています。疑問にも思わずに誰しもが般若心経をはじめ漢文や古代語を使いますがそれはそのまま他の国々でも広がり使っているのです。

言葉は特に人生の経験を深め、意識も磨かれていくと言葉の意味も変わってきます。そして使っている言葉の重みや価値も変化していきます。何度も同じ言葉を使っていても、体験して得た質や数によって力も変わっていくのです。

言葉を大切にしていくというのは、言葉の持つその意味を大切にしていくということでもあります。

何歳になっても体験を重ねても、言葉を学び続けてその言葉の持つ真の意味を高めていきたいと思います。

お手入れと対話

昨日は、秋晴れの気持ちいい天気のなか畑のお手入れを行いました。土に直接触ることで、土の状態はよくわかります。美しい畑に憧れてから、食べるだけでなく畑に入ることで心身がととのっていきます。私たちは自然に触れて自然から学ぶことで地球と対話していくことができます。

この地球との対話というのは、あらゆる五感の感覚を使うことですが私は暮らしフルネスを実践していますから手の感覚をとても大切にします。この手は、手触りというものです。手で触れるというのは、私たちが原始時代からずっと大切にしてきた感覚です。

もちろん耳も眼も鼻もありますが、手は対話につながります。最初に握手をするという文化もまた、手触りで心を伝え合う仕組みを用いています。最近は、量子力学で眼もまたお見合いするなかで触れ合うことができるともいわれます。花を見て心が触るように目でもいのちの存在に気づきます。しかしやはり、お手入れすることが私は人間に与えられた大きな力であるように思うのです。

自分の手を使って何に用いるか。

ある人はいのちを守り、ある人はいのちを奪います。それも全部手で行います。手作業というものは、温かみがあると今ではよく言われます。その反対が、機械で手が入っていない冷たいものとも。手を入れるというのは、人間の心が手から通して物質に宿るという仕組みがあるように思います。

便利になって、頭で考えたことがそのままデータとして転送されたり指示されたりする近未来も予測できます。そうやって手を使うことをやめていくのが便利さというものです。しかし大事なことを失います。それは自然や地球からまた遠ざかっていくということです。

人類は不思議ですが、心の本体やいのちの正体である自然やいのち、地球からすぐに離れていこうとします。征服したり縛られたくないと抗ったり、まるで地球から逃れたがっているかのようです。そうやって逃れてみると、やっぱり地球が一番よかったとかなるのでまた可笑しなことをします。

手を使い地球と触れなくなることで私たちは何か大切な感覚を失っていきます。だからこそ私はお手入れの大切さを話し実践をします。掃除も、磨くことも、拭いて綺麗に整えることも手を使うためです。

手を使うことで私たちは自分の心との対話もできます。手は心が直に触れるものであり、自然と対話するための大切な命綱のようなものです。

子どもたちも手で色々なものに触れて心を育てます。どのような存在に触れるのか、できるだけ地球と対話できるような本物を、いつまでも生き続けているいのちのぬくもりを伝承していきたいと思います。

自然教育の本質

ここ数日、自然災害のことについてもう一度深く見つめています。この美しい自然が突然の猛威によって荒れ狂い人間の生活を破壊することがある。これは歴史の事実でもあります。

地球は何度も凍ったり、津波で陸が失われたり、隕石で燃え氷河期がきたりを繰り返しました。私たちはその自然災害の合間に、ひと時の安定した状態で生活を営みます。生き物たちは恐竜にみるかのように何度も絶滅の危機に遭遇し、その都度、地下に住み、あるいは氷山の中に隠れ、冬眠し、時折、大変過酷な環境下でも生き延びてまた甦ってきたともいえます。

どうしようもないほどの災害、まさに自然の猛威に人間はなすすべもありません。いくら月に逃げても、火星に住居をつくっても、生き延びる過酷さからいえば似たようなものです。如何に、今の環境が恵まれていることに感謝して大切に生きていくか。そういう危機を忘れずに今を見つめることで人間が暮らしをどうしていけばいいのかという原点にも回帰することができます。

また現代の災害の教育は、自然の猛威をあまり意識せず身近な数日間を乗り越えるものしかありません。その間に、物資が届き、経済力や科学力で乗り越えられるという算段です。しかし、もしもですが日本の半分が沈没するような大津波がきたり、日本の国土のほとんどが壊れるほどの地震が来たり、あるいは火山があちこちで噴火したりすればどうするでしょうか。

そうなったときにはきっと一巻の終わりで諦めるというのでしょう。しかし実際に生きている私たちは、家族を守り子どもを助けるために最後まで諦めずに藻掻くはずです。史上最悪の事態に備える、そういうところから本来は日々の防災は産まれるはずです。現在の防災は、あるいみ人間の知識や科学に頼るものであり自然の知恵を活かすものではありません。

むかしの人たちは人間の知識や対処療法では自然に太刀打ちできないことを自覚していました。その証拠に、自然に勝ったような知恵はなく自然の偉大さに対してそれを尊重して対応するという意識を持っていました。沈み橋や、建築の抜き工法、他にも発酵技術なども同じです。自然を征服する人間の科学に頼らずに、そのまま自然の知恵を活用したのです。

生き乗るために必要なのは、人間の知識や科学ではありません。知恵です。この知恵をどれだけ重んじているかで、この先訪れずであろう人災の巨大さを思い知ります。

人間は目先の欲望のために危機を見失います。本当の危機を感じる力を捨てて、危機を過小評価して無視します。その無視したものがある時、自然の猛威によって目が覚めます。何をしていたのかと。しかし、現実は目先のお金の方が重要で人間社会での生き残りの方がいつやってくるかもわからない自然のことは後でいいと片づけます。戦争も似たようなもので、地球規模の災害が来たら誰も戦争している場合ではなくなります。

そうやって自然は畏敬をもって謙虚に生きるように生き物たちを導いてきました。人災が拡大していくと、非常に恐ろしい人災に巻き込まれます。日本人は長い時間をかけて自然災害の多いこの日本で自然に教育されてきました。まさに自然教育こそが日本人を育成して見守ってきたともいえます。

私たちの遺伝子には、自然に「徳」という意識が具わっています。これは災害によって得た教訓を反省し、思いやり助け合うことで災害を最小化させる知恵を持っているということでもあります。

本来の自然教育は、別に山に入ることでも川に遊ぶことでもありません。「自然への畏敬を忘れない」ことです。

子どもたちには自然の教育を通して、自然の猛威に対してどう生き抜いていけばいいか、今の時代、極端だと笑われてオオカミ少年かと非難されることもあるかもしれませんが生き延びる戦略、本質的ないのちの守り方について伝承していきたいと思います。