暮らしの本質

現代は利便性を追求していく世の中でもあります。便利を追及すればするほどに、奥深いもののことを考える意識が消えていくものです。本来は、どのようなハタラキがあるのかや、全体にどのように循環しているのかといったことは考えず、目の前に起きる現象だけをみてそれで結果を求めます。

しかし本来、この世はすべて繋がっていますからそう簡単に便利に事は運びません。事が運ぶには、全体を配慮しながらみんなが喜び合う関係を築いていく必要があります。それはどちらかといえば、不便です。不便を喜び合うというのは、不便でも全体のためにちょうどいいということに気づくということでもあります。

物事には、表層で行われている事象と共に深層で行われる事象があります。目に見えるものが動いているというのは、水面下で目に見えないものも同時に動いているということになります。

原因を持てば、その原因によって因果の法則が発生しそれを中和するのに何かの事象が発生します。それは目に見えるところの循環もあれば、目に見えないところの循環もあります。同時に発生する循環をどう調和させていくか、それを観えていた先祖たちはいのり、ハタラキ、実践をして暮らしをととのえていきました。

不便な暮らしといって現代の人が捨てていったものには、捨ててはいけない見えない世界の循環を喜ばす仕組みもありました。仕合せや豊かさというものもまた、不便だと思う側の方にもあります。つまり物心の両面を豊かにしていくには、物心が豊かになるように丁寧に不便なプロセスを味わう必要があります。現実世界でいくら便利で幸福だと思っても、目に見えない深い世界では不便なことが幸福であることもあります。幸福の両輪でもあります。同時に、現実で幸福なことは目に見えない世界では不幸なこともあります。人間万事塞翁が馬の故事のように、深遠微妙な世界や神秘幽玄の意識では目に見えて善い結果だけがいいとは限らないのです。

時間をかけてご縁が循環していく世界では、御蔭様の存在を感じて生きているかどうかというのはとても大切な生き方の基準になると思います。自分だけの力でなんとかしようとするのではなく、偉大な他力といったような全体のお力の御蔭様にお任せしていくという生き方。

いのちの世界に身をおくことの大切さを先人たちは子孫へ結んできたのが暮らしの本質だったのでしょう。

暮らしフルネスの場は、その本質を学ぶ場所でもあります。時間と空間、横軸と縦軸をよく磨き直して本来の在り方に触れることですべてがととのってきます。水の徳を感じることで、循環を邪魔しないことが素晴らしいとわかるように暮らしの徳を磨くことで同じく循環を尊重し仕合せを味わえます。

これからも実践を通して知恵を伝承していきたいと思います。