水鏡の徳

鏡のことを深めていると最初はどうだったのかということに思いを馳せます。水鏡というようにむかしは水たまりをみてたのでしょう。鏡の由来は、影見という自分の蔭がうつるというものであったり、輝見というように光がうつるというものであったりもあったようです。

よく考えてみると、浸透することや透明なものになにかがうつるというものはそのものが何かと結合しているということです。うつるという広義の意味においては、水の中に何かがうつっているということになります。それが自分であるのなら、その瞬間に水に自分がうつるのです。

こんなことを書くと、ワープの世界とかテレポーテーションの世界とか、あるいは次元の話とかSFっぽくなってきます。しかし、実際に「うつる」ということを一つの性質としてとらえてみたら物とも人でも空間でも場でも、うつりこみながらそれぞれに定着しているという考え方もできるのです。

ものづくりでいえば、そのものをつくる人の想いや心がものにうつります。すると、そのものはそのうつりこんだものの一つとして同じ世界に同化します。つまり、自分の観ている世界にうつりこむのです。そして同時に相手の世界にもうつりこみます。うつりこんだものは、存在として認識します。

何がうつりこんでいるのか、それは人間であればご縁の記憶であったり、何かの出来事の絆であったりします。うつりこんだものをととのえていけば自分自身の深いところもまた磨かれていきます。

物を磨いていくことは自分を磨いていくというのは、自分のいるこの世界を如何に調和させていくかということでもあります。調和して丸くしていくというのは、地球の生命をはじめ宇宙が取り組んでいることと同じです。自分というものがミクロの一つの宇宙や地球でもありますから自分がよく調和すれば世界もまた調和していくことです。暮らしフルネスの実践で徳を磨く理由もまたここにあります。

日本人はお水の偉大な徳を享受されています。そのお水に学び、お水を尊び、お水と感謝で暮らしてきた民族です。子どもたちと、その恩恵への感謝と共に未来へ向けての挑戦をしてきたいと思います。