心を一つに

昨日、無事にクラウドファウンディングの目標を達成することができました。約60日の間、皆様からご支援、応援、激励をいただきそれが力になりました。思い返すと、最初は小さなほんの小さな活動からはじまりました。協力者もごくわずかで、話も半信半疑、こんなことは夢物語ではないかと心配されていました。

私も必ずやり遂げると決心してからも、数々の困難や試練が訪れ挫けそうなことばかりでした。今度こそは無理かもしれないと諦めそうなところを支えてくださったのは信じてくださった方々の想いに応えたい、裏切りたくないという思いだったようにも思います。そして、いつもその困難な現場に足を運んでくれて気持ちよく手伝ってくださって徳を一緒に磨いてくださる方もおられました。あらゆるご支援いただいた方のその心がどれだけ工事の時の支えになったことか、、本当に感謝しかありません。

特に今回の宿坊は、もともと僧の暮らす家だからこそみなさんの布施を集めて甦生させたいと願っていましたから特にお布施のプロセスを重視して取り組んできました。寄付といよりも、自他一体に徳を喜びあうように全体の仕合せを意識して取り組みました。その御蔭様で甦生も無事に取り組んでこれました。

そして取り組むのにもっとも大事にしたのは歴史をつなぐことです。最初からこのj業は日本の伝統的精神で取り組みたいと願い、かの東大寺の大仏の布施を集めた重源上人や行基菩薩のやり方を参考にしてきました。もともと大仏建立は聖武天皇が自らの不徳を反省して世の中が真に安らぐようにと願い取り組んだはじまりです。しかしここに日本の和の心の原型があると私は感じています。

この聖武天皇の時代は本当に大変で政変、旱魃・飢饉、地震、病気、そして愛する幼子を亡くし、もうこれでもかというような災難や苦難の連続でした。そして天平9年(737)聖武天皇は自ら省みて「責めは予(われ)一人にありと全責任は私一人の不徳であったと定め、そして大仏造立の詔を発します。

そこにはこうあります。

「人有(あり)て、一枝の草、一把(にぎり)の土を持ちて、像を助け造らむと情(こころ)に願はば、恣(ほしいまま)に聴(ゆる)せ」

意訳すれば「もしも、誰かが、一枝の草や一握りの土を持ってきて、自分も大仏造立を手伝いたいと言ったならば、これを許せ」と。つまりどのような小さな力でもいい、みんなで和心を合わせて心を一つにしようと言葉掛けるのです。そして布施を集めて見事に美しい大仏を建立するのです。

私もこの歴史を知った時、涙が出ました。御先祖さまたちはこうやって苦難のたびに人々の心を一つに和合し、大事な局面をみんなで小さな力を合わせて繋いできてくださったのだと。これを参考にしたいと願ったのもこの歴史を学んでからです。

一枝の草、一握りの土、それでもいい。みんなで一緒に心ひとつに徳を積もうとの声掛けにこの苦しい時代を転じて人々を分断から救ったのではないかと思うのです。

はたしてこの現代は、どうでしょうか。今はまさに分断の時代ともいわれています。物質的には豊かになりましたが、心はどうでしょうか。みんなの心は一つになっているのでしょうか。小さな力を合わせて、本当に大切なことをみんなで守ることができているのでしょうか。

宿坊の甦生は、単に古民家を直して観光名所や発信拠点にしようとしているのではありません。むしろその逆です。秘かに静かに平和を守るために先祖たちと同じ気持ちで丹誠を籠めて山の暮らしを慎んで実践していく。そして未来の子孫たちに、その祈りや願いを伝承していきたいから甦生させているのです。

心は形はありません、しかし心はみんなでカタチにできるのです。

この宿坊をこうやってみんなの気持ちを一つにして甦生してこれたこと、自分のこと、そしてみんなのことを心から誇りに思います。御先祖様も喜んでくださったでしょうか。直接の何のメリットがなくても、子孫や未来の徳のためにと真心でご加勢頂いた皆様に改めてこの場をお借りして心から感謝いたします。

皆さんの心のカタチを守静坊でしっかりと守り続けていきたいと思います。

来月にはすべてととのえて、7月初旬には皆さんと苦楽を分かち合うような感謝祭を開催したいと思います。ぜひ徳の余韻を皆様にも感じていただきたいと思います。日時が決まりましたらまたお知らせいたしますので、引き続き見守りをよろしくお願いします。

本当にありがとうございました。

一期一会 令和4年5月31日
一般財団法人徳積財団 副理事長 野見山広明 拝

彦山譜の甦生

昨日は、全国的に有名な立螺師が集まり勉強会が行われました。そこには法螺貝を100個以上持っている方、また倍音を研究するためにホルンやトランペットなどあらゆる楽器を深めている方、他には自作の拭き口をなん本も磨いて法螺貝をつくりあげている方がおられました。

音階もさることながら、あらゆる音を出せ、そしてそこには艶があります。音の余韻も、穏やかで静寂が流れるものから、龍が飛び跳ねるような躍動感のあるものまで、まさに信仰そのものが音に現れていました。

鳴り響いた音がずっと身体の中を流れ続けていて、今朝も起きたときに血液の中を駆け巡っているような感覚が残っています。こんなにも音が全身に宿るのかと、今まで感じたことのない音とのつながりを学ぶことができました。

現在、私は英彦山の宿坊の甦生をしています。もともとこの英彦山の甦生に取り組むキッカケになったのは、宗像環境会議のご縁でしたが法螺貝との出会いは英彦山の有名な修行場での出会いです。

そこで法螺貝に触れてから、急に禊や滝行とのつながりが産まれました。今思い返せば、意味があって私は法螺貝を持つことになったことが分かります。

法螺貝の音は、それぞれの風土によって音色も音譜も異なります。基本は、号令や指令などの合図として使われてきたもので軍事的なものにも用いられましたから合図は秘密です。なので口伝でのみ伝承されてきました。そしてそれぞれの地域には、それぞれの文化があるようにその地域の文化の影響を色濃く受けた立螺師もいるし法螺貝も音譜もあります。

英彦山にはかつて、彦山譜というものがありました。今ではそれはもう残っていないといいます。もしも祈りが叶うなら、その彦山譜を甦生させるお手伝いをしたいと昨日、心に決めました。

何百年、何千年も続いてきたその土地の風土を伝承しその土地の風土になるには、その土地でその文化を甦生させ、極め抜きそのものと一体になる覚悟が入ります。まさにこの土地風土の化身のような存在が音色に出てくるはずです。

未来の子どもたちのためにも、風土や文化を顕現する人の営みや精神、そして伝承の知恵など、あらゆる方面から取り組み、それを次世代へと結んでいきたいと思います。

ご縁に心から感謝しております。

自然のリズム

先日、浮世絵師・廣重の東海道シリーズ「三嶋」の中の三嶋明神前でほら貝を吹く男の図というものを見ました。これは何の図だろうと深めていたら、むかしはお役人さんたちが宿場町で時を知らせるのに法螺貝を用いたとありました。山伏だけではなく、むかしは役場職員たちも法螺貝を吹いていたということになります。そういえば、先日、インドから来られた留学生もインドでは朝や夕方にみんな法螺貝で今でも時を知らせているといわれていました。それだけむかしは、法螺貝は暮らしの中で当たり前に存在した道具だったのでしょう。

話は変わりますが、もともと今のような24時間を分刻みで生きるようになっているのは現代の特徴で少し前までは不定時法といって自然のリズムに合わせた時間が用いられていました。

一日の長さを等分に分割する時刻制度を「定時法」で、これに対して一日を昼と夜に分けそれぞれを等分するやり方を「不定時法」といいます。江戸時代までは日本はこの不定時法が使われていました。つまり昼と夜をそれぞれ6等分し、一単位を「一刻」と呼びました。

これを使えば、一日のうちでも昼と夜の一刻は長さが違い、同時に昼夜の長さは季節によって変化しました。つまり時間が昼と夜と季節によって変わるということです。時間に合わせるのではなく、自然のリズムに合わせた時間を生きていたということです。

そしてその時の呼び方も数字ではなく真夜中の子の刻から始めて、昼夜12の刻に十二支を当てました。一方で子の刻と午の刻を九ツとして、一刻ごとに減算する呼び方も使いました。子の刻が九ツ、丑の刻が八ツで巳の刻の四ツまで行ってまた午の刻で九ツから数えます。これは数字だと、同じ数字が2回出てくるのでどちらの2つとか、どちらの3つとか聞き直すこともあったからでしょう。それで夜の九ツ、昼の九ツ、明け六ツ、暮れ六ツといった区別をつけたのです。泣く子も黙る丑三つ時というのもここから出てきます。

これはよく幽霊が出てくる時間帯といわれ怖がられました。これは中国の陰陽五行のもっとも陰の強い時間帯のことです。陰陽はたとえば「月は陰、太陽が陽」「裏は陰、表は陽」ともなります。そして「丑は陰」で「寅が陽」となり、その中間にある「丑寅(午前3時)」は「鬼門」です。つまり「鬼が出入りする」方角となるため、近い時刻の「丑三つ時」が「鬼門」と深い関係があると解釈されこの時に幽霊が出ると信じられたのでしょう。

むかしの人は昼と夜の時間を棲み分けしていたといいます。昼は人の時間で夜は神の時間だったのです。そうやって自然のリズムで自分たちの働き方を換えていきました。今では働き方改革には自然のリズムが無視されています。そのすべては人間中心です。

私たちの暮らしフルネスでは、自然のリズムを取り入れています。人間が本来持っている暮らしの時間は、今まで生きてきた時間軸を使うことで甦生していきます。子どもたちが真に豊かな時間を持てるように、この時代で逆行小舟と言われようとも子どもの憧れる生き方と働き方の実践を磨いていきたいと思います。

今度、法螺貝で時を知らせてみたいと思います。

身近な自然との調和

現在、「サル痘」という感染症が世界で流行り始めています。このサルという名前がついているのを調べたらあまりサルとは関係がないことがわかりました。このサル痘ウイルスによる感染症は、1958年、最初にこのウイルスが発見されたのが医薬品開発のために集められたサルだったことから、サル痘と呼ばれはじめたそうです。

実際にはいろいろな自然動物の血液を解析したところ、リスやネズミなどのげっ歯類がこのウイルスを持っていてこれらの動物にかまれたり、血液・体液・発疹などに触れたりするとヒトにも感染するということがわかっています。それがヒトからヒトへ感染になると大変です。飛まつ・体液・発疹などに触れることで感染していきます。

ヒトからヒトへの感染はあまりないといわれていますので感染拡大はないといわれてますがすでに20か国で感染拡大があったそうです。

また6月から海外からの入国が緩和されていきますが、これから発生してくる感染症をどのように対応していくのかはまだ解決していません。コロナでここ3年間くらいを過ごし、もしももっと強力な感染症が流行ったらまたどうなるのでしょうか。

人間と自然との共生関係やバランスが崩れて行き過ぎると、すぐにこのようなことが発生してきます。島国の動物たちなどがよく絶滅するのも、本来そこにいない生態系やウイルスが入ってきて抵抗力のない生き物たちが絶滅していきます。

現在、アフリカの奥地にあるようなウイルスや、ひょっとするとシベリアの永久凍土の中にあるようなウイルスも人間の移動や輸送のときについてきます。虫たちも船や飛行機と一緒に入ってくれば、それまでの風土の生態系が崩れます。

感染症の問題は、生態系の問題でもあります。そうなってくると環境問題、つまり人間の問題が産み出しているということですから解決がなかなかできないのです。

ウイルスとのイタチごっこですが、治療薬もそんなにすべてをすぐにつくりだすことはできません。この辺で、冷静になって人類はどのようにこれから本来の暮らしをとのわせていくことが永続する未来につながるのかを身近な実践から見つめ直していく必要があるのではないかと思います。

暮らしフルネスの実践を磨いて、身近な自然環境との調和をととのえていきたいと思います。

 

智慧の甦生

守静坊にあった古い道具や食器などを洗っていると、随分と傷んでいました。200年以上前の御椀ですから当たり前ではありますが、どのように修繕すればいいかを色々と調べています。

この時代の御椀はどれもしっかりしていて重厚感があります。今みたいに機械がありませんから一つ一つ、手彫りで行われたこともわかります。それに厚めの漆も塗られていますが、漆がだいぶ剥がれています。直せば何回も使えるものとわかっていますが、今の時代は周囲にそれができる職人も少なく自分でやろうとすると色々と悩んでしまいます。

むかしは、どうしていたのかなと想いを馳せます。

ひょっとしたら自分でやっていたのではないか、御椀にある文字や漆の塗り方をみていたらそれを感じます。むかしは、多くの時間がありました。特に厳しい冬はいろいろな内職をやっていたかもしれません。みんなそれぞれに手に職を持ち、民芸品などの生活用品をつくっていたといいます。

草鞋や蓑などのわら細工のもの、また竹細工のもの、手先も器用になったはずです。

今では機械に任せて、ほとんどの手仕事がなくなっていきました。確かに便利にはなりましたがその分、どのようにそれを直していたのか、どのように修繕をすればいいかといった智慧や伝承も失われていきました。

両方あってもいいのですが、どうしても人間は便利な方、楽な方、安易な方へと流れていきます。特にお金が優先される経済になってから余計に、加速度を上げて変化していきました。

今、私が取り組んでいる甦生はまるでその逆の方へと進んでいます。しかも、機械も否定せずにです。だからこそ、そのバランス感覚を磨く必要があると思っています。

子どもたちのためにも、智慧を甦生して新たな未来を創り続けていきたいと思います。

ハレの精神

宿坊に遺された先人たちの道具を丁寧に洗浄し磨いています。墨で年代を書かれた箱に入った食器などは200年以上前のものばかりです。それくらい前からずっとあるというのは、それだけ多くの人たちが使ったということとそれだけ長く大切に今まで保たれたということでもあります。

お椀などは漆が塗られていますが、だいぶ傷んでおり修繕できるもの、できないものがあります。どれも土台はしっかりしていて、塗り直せばまだ使えるものばかりです。

昔の人たちは、道具や物を大切に扱い、使ったら仕舞っていました。日用品とは異なり、ハレの日や大切な時に用いたものだったからでしょう。今は、仕舞うというよりは倉庫や棚に入ったままになるのでどうしても使わないものになってゴミになって捨てられていきます。

ハレの日に使うというものは、ハレの日が何かということがきちんと定義されていたからかもしれません。現在、辞書でハレの日を調べたら節目のことだと記されます。

このハレの節目というのは、何か物事が転換される時、また何か成長をする大切な時機、種から芽が出るように新たな人生の物語がはじまる時などにケガレを祓い清めて晴れ晴れとするということになります。

心を澄んだものにし、雨上がりの美しい晴れ間のように心を澱みや汚れを洗い流して新たに生き直そうとする日本人の大切にしている生き方を顕すものです。禊もまた同じように、穢れを祓い清めハレるために用いられます。

節目を大切にすることで、心を清め続けたのかもしれません。

この古い道具たちに新たな出番をどう用意していけばいいかと思案しています。この道具たちとのご縁があったからこそ、ハレの日を待ち望む未来のためにさらに寿命を伸ばして大切に今の時代も使われるようにしていきたいと思います。

一期一会の出会いを大切に、子どもたちのために精進していきたいと思います。

託された想い

昨日は、飯塚市でブロックチェーンの記者発表に参加してきました。私がブロックチェーンに関わるようになったのは、友人の高橋剛さんが切っ掛けです。彼が不慮の事故でインドで亡くなってから今日で約4年と2か月が過ぎました。あれから一緒に、彼の夢を受け継ぎしっかりとこの場所に夢を残すと取り組んできました。

私は彼ではないので彼のやってきたこととは違うことをやっているかもしれません。でもその心や想いだけは一緒にやっていこうと取り組んでいます。

そう思えば、他のことでも同じです。託されたと思っている私は、いつも託された想いの方を優先して取り組みます。それを他の人たちからみれば、一見、彼はそんなことをしないといわれることもあります。私は彼と同じ同じではなく、別の人間です。どうやっても同じことはできません。ただ、同じ想いに近づくことができるだけです。

同じ想いに近づいていこうとすると、勇気が湧きます。そしてまるで隣に一緒にいるかのように感じます。生前のその人の気配が身近に感じられ、彼ならどう思うだろうかと考えるようになります。すると、まるで別のことをやっているはずなのに彼も一緒にこの今、ここで取り組んでいると感じるのです。彼の心を身近に感じるのです。

人は身体は失いますが、心はいつまでもこの世に遺っているように思います。それを受け継ぐ人や、託された人と共にあるのです。そうやって長い歳月、私たちは一緒にみんなで託されたものを繋いできました。

繋いできたものがあるから、大変な時でも耐え忍ぶこともできます。つながっている存在に励まされ、応援され、いつも自分の初心を貫くためのお守りになります。

どんなに時代が急変して周囲の評価が変わっても、その想いは何の影響もありません。自分自身が託された想いを胸に、残りの道を真摯に歩んでいきたいと思います。

お茶のご縁

昨日、守静坊である仙人のような方からお茶を立てていただき一服頂戴するご縁がありました。その方は、千利休の時のお茶を甦生させようと真摯に自らを磨いておられる方でした。

茶道具もすべて自分でつくり、その美しい道具のもつ雰囲気に清廉と静寂を感じました。ありとあらゆるものを深くそして高く遊び、まさに一線を超えているその卓越した技に、心が共感しました。私も、自分で色々なことを創造し、その物と対話しながら自分を盡していきますから物をみればその取り組む心が伝わってきます。

素晴らしい先輩がいることを知り、この道の面白さにさらにワクワクする想いがしました。

その方との話で売茶翁(ばいさおう)のことをはじめて知りました。この方は、日本ではじめて喫茶店を開いた方でもあり煎茶の祖ともいわれています。その生き方がとてもユニークで、1675年生まれの方ですが今でもその生き方は人々の心の中で語り継がれています。

この売茶翁というのは名前ではなく、お茶を売る翁(おきな)という意味のあだ名です。本名は柴山元昭、幼名は菊泉といいます。僧侶としての名前は月海で、晩年は高遊外と名乗りました。

禅の心を持つ雲水の中には、本来の雲水そのままである人がおられます。この世にいてまるで五次元のところでゆらりと遊んでいるような風貌の方です。心を自由自在に操りまるで雲水そのものです。

この方の面白いエピソードは、死期を悟り売茶業を廃し、自分の茶道具も燃やしてしまうものです。これは自分の死後、俗世に渡り、売買されるようなことになってしまえば茶道具自身が悲しむだろうと思い一緒に燃やしてしまったそうです。本来の雲水そのものが雲水そのものの道具と共に旅をし遊ぶ。まさに禅の生き方と共にしてきたパートナーだからこそ、一心一体だったのでしょう。

心を遊ぶというのは、奥が深くまだまだ私にはわからないことばかりです。千利休はどうだったのでしょうか。もうお会いできませんが、同じように千利休の求めた心を求めて、売茶翁が行った実践を参考にして、私自身も茶を遊んでみたいと心から感じました。

素晴らしい出会いに心から感謝しています。

日本人の伝道

昨日、親しい友人たちをお招きし久しぶりに祐徳大湯殿サウナの石風呂に炭を熾して入りました。備長炭を10キロほど使い、4時間ほど温めていきます。もともとこの石風呂は、日本の伝統的な文化を基盤にして創り上げたものです。

仏陀の温室教を参考にし、千利休の茶室の知恵も融合し、さらにフィンランドサウナの善いところ取りもしています。日本の歴史に精通している人であればあるほどに、温故知新したこの石風呂に感動していただけます。

私はもともと歴史を深めて、日本の文化を深く愛しています。日本人であることと、日本人とは何かということを子どもたちに伝承しようとして取り組んでいることがほとんどです。

最初の動機や目的を伝えていくことで、その味わいもまた深く格別なものになります。お昼も、穴料理といって日本の伝統的な食を味わいました。日本人としての歴史の一つ一つのつながりが、全体で結ばれるとき、私たちは何か不思議な感覚を覚えます。

ととのうという言葉も、本来は原点回帰や調和などをいいますがその深さが真に文化に根差したものであるときにこそ訪れるのではないかと今では感じます。

久しぶりに炭の話をしていたら遠赤外線のことについて色々とワクワクすることがありました。もともとこの遠赤外線とは、波長が3000nmから1,000,000nmの光のことをいいます。ほとんどのものには、遠赤外線が出ています。炭からも石からも、そして私たちの身体からも遠赤外線が出ています。

この遠赤外線を吸収した物は分子が振動します。その分子の振動が激しくなると温度が上がる仕組みです。そうやって分子を振動させる力によって私たちは熱を発するのです。その遠赤外線は、水の中に吸収されます。水の分子を動かすのです。太陽の光をあびて私たちは体の中に遠赤外線を吸収し体温があがります。

そう考えてみると、この世のすべては朝太陽が出てすべてのいのちが遠赤外線を吸収して熱を持ち、分子レベルを振動させて活動していくのです。この分子をととのわすのに、私は石や炭を使います。

炭はもともと穏やかに遠赤外線が放射されています。炭の近くにいてぬくもりを感じるのは、この遠赤外線を感じているからです。そして石は演繹外線を貯めこむことができます。特に波動が高い石、振動が強い石が遠赤外線を貯めこみ密度を高めて放射すれば水分子の小さなものまで極限状態の振動を与えていきます。

その振動を身体に浴びることで私たちはととのうことができます。この時の整うのは、私の言葉で定義すれば「自然のリズムで分子が振動することができた」ということです。

自然のリズムを崩すと、振動もまたバランスを崩します。私たちは常に自然と一体になって振動している存在ですから、あまり都市化された中でありとあらゆる電磁波を受けていたら分子もおかしくなっていきます。それと元の状態に戻すために私はあらゆる禊や法螺貝、仕組みの知恵を使っているのです。

非科学的に思われるかもしれませんが、本来の科学とは自然をどこまでわかっているか、つまり自然と共に実践をして自分のものにしているかということでもあります。知っているだけではものにはなりません。だからこそ五感や六感を研ぎ澄ませてそれを科学するという発明が必要になるのです。

子どもたちのためにも、私の実践で伝道していきたいと思います。

伝統固定種の甦生

昨日は、自然農の畑で伝統固定種の堀池高菜の種どりをいつも親しくしている情報工学の学生さんや友人のご家族と一緒に行いました。新緑のいい風が吹いていて、今年は特に種をたくさん収穫することが目的でしたからしっかりと種どりを行いました。

もともと高菜というのは、漬物にすることで有名です。日本三大漬け菜として「高菜漬け」「野沢菜漬け」「広島菜付け」があります。そして九州を代表する漬物がこの高菜なのです。

高菜というのは、前にもブログで書きしましたが平安時代くらいに種が日本にも入ったといわれています。平安時代は8世紀末ですから1200年以上前からずっと日本で育ってきたということになります。日本の風土に根付いて、日本の味になり、さらに九州の風土の各地に根付き、それぞれの美味しさに進化してきました。

調べると西暦892年発刊の『新選字鏡』には高菜の事を「太加奈」と記載してあるといいます。明治時代には中国四川省から高菜の在来種というべき青菜が日本伝わり九州・東海地方に伝わったといいます。そこで九州では紫高菜、柳川高菜、相知高菜となり高菜漬に適した三池高菜になったそうです。もともと筑豊地域の高菜漬けはとても美味しかったと年配の方々からよくお聴きすることがあります。

炭鉱の時代、炭鉱夫はお腹を空かせてたくさんのお米を食べたことでしょう。その時、もっとも食卓でご飯の友として食べられたのがこの高菜だったことは簡単に想像できます。それが今では、飯塚のほとんどの農家さんが積極的に高菜を作っていません。

その理由は、やってみるとわかるのですが重労働にもかかわらず見合う収入が得られないということがほとんどです。高菜は安いわりに大変な労力がかかるのです。よくラーメン屋にいけば無料で高菜がついていたりします。他にもスーパーなどで販売していますが、どれも安いことが分かります。高菜イメージが安いというものでできていますから、それが高いと売れないという理由もあって農家さんの収入の役に立ちませんでした。

そういうことがあり農家さんの高菜離れが拍車がかかり今ではほとんど作らくなったということです。さらに福岡には三池高菜があり、その有名な高菜を種をもらい筑豊でも三池高菜の種を植えるようになりました。他にも大手種メーカーで自由に高菜の種を買えますからそれを植えています。そうするとそれまであった地元の伝統固定種と交雑しますし、さらには農薬や化学肥料をつかうことで本来の味わいも落ちていき形状も変わっていきました。

本来の伝統固定種というものが失われていくのは、こういった消費優先の経済活動によってそれまで醸成されてきた1200年の文化ともいえる進化が消失するのです。

よく考えてみたらわかりますが、今もむかしも重労働であったのは1200年間変わっていません。それでも人気だったのは、郷土の知恵料理であり、懐かしいふるさとの味を子どもたちにつないで残していこうとした先人の想いや願いもあったことがわかります。

それが今、安易に生活できないからという理由や便利さを優先し簡単に変化し守る努力を諦めてやめてしまえばそれまでの歴史も潰えてしまうのです。時代が変わっても流行で価値観が変わっても、変えてはいけないものがあると私は思います。それが未来への宝になり、子孫たちへの与贈になるのです。

必ず時が経てば、本当の価値や真実は時間と共に明るみになります。希少価値とはそういうものです。しかしその時にやろうとしても種が残っていなく栽培できる環境がなく、消えてしまってはあまりにも悔いが残ります。これを新しいテクノロジーを活用し温故知新して新たなものにし、新たな価値に乗せて守り育てていきたいと改めて感じる一日になりました。

手触りや手入れは、心とつながっていますから目的や初心を忘れることはありません。人間に寄り添うテクノロジーを私は突き詰めていきたいと思います。伝統と歴史、地域や風土、人、物、心の和合、堀池高菜からはじまる伝統固定種の甦生を楽しみにしています。