人間と道具

現在は、暗記を中心に勉強する仕組みがほとんどです。AIやコンピューターがその部分を担ったら私たち人間はその道具をどう活かすのでしょうか。むかしは、人間が磨かれて一流になり、同様にそれに相応しい道具が誕生してきました。私は古民家で様々な懐かしい道具に囲まれていますがその道具を見ると使い手の心が宿っているのを感じます。

たとえば、包丁などは研いで使っていますが研ぎ方が美しく素直なのです。私が同じように研いでも同じような研ぎ方ができません。それは砥石の問題もあるかもしれませんが、きっと今の私の方がよい砥石を使っているはずです。しかし同じように研げません。

それを振り返る時、その研いでいる人の人間性が磨かれて研がれていることに気づきます。これは道具の問題ではなく、使い手の人間力の問題なのです。誤解なくいえば、人間が研ぎ澄まされているのなら道具はほとんどどれでもいいということです。

これは決して人間か道具かということではありません。人間が高まることと道具が高まることがイコールであるという意味です。つまり人間が成熟してはじめて道具が産まれる。道具がいくら成熟しても人間が育たなければ道具は活かせません。しかし道具によって人間が育つということもあるでしょう。ただ、道具は人間が用いるものですから人間次第であることも事実です。

だからこそ、私たちは人間にしかできないこと、人間として何をすべきかということを振り返る必要があると私は思います。

物を粗末に扱う、そのうちそれは人間を粗末に扱うようになる。物を何でも消耗し消費する、すると人間も寿命を消耗し消費するようになる。便利になればなるほどに、心は忙しくなり貧しくなる。先ほどの暗記すればするほどに詰め込むばかりで窮屈になり息苦しくなっていく。何でもバランスが大事ですが、そのバランスとは人間と物が共に磨かれ磨き合う状態を保っているということだと私は思います。昔の人はそれを知っていたからこそ徳を積みました。畏敬の念、畏怖の念を持ち、自然と共生しあう世の中にしていました。そういう暮らしをととのえながら素直に誠実に謙虚に生きてきたのです。

頭ばかり知識ばかりが増えても、智慧が増えていません。智慧は先人からの真心とともに道具にまだ宿っています。その一つ一つをひも解きながら、子どもたちに大切な心を伝承していきたいと思います。