楽観の境地

先日、広島で人間幸学研究所の和田芳治さんと奥様にお会いするご縁がありました。逆手塾という塾も開催しており、かねてよりお会いしたいと思っていた方の一人です。お話をお聴きしていると、どのお話も本質的で時代が変わっても大事な本筋を見失ってはならないことを随所に語っておられたのが印象的でした。

和田さんは里山の守り人として、里山から本来の人間として生き方やあり方を発信されておられました。一周遅れのトップランナーを自称され、時代が時代ならまさに最先端の取り組みを行っておられます。

そう考えてみると、世の中の主流は大多数の人間が参加している価値観のことで傍流というのは時代の流行に左右されずに本筋や王道に取り組まれている方のことを言うように思います。言い換えるのなら、それが本流というものでしょうが不易と流行がある中で本来の普遍的なことに取り組んでいくというものこそが人間の原点の追求かもしれません。

人間は多様性がありますからそれぞれいろいろな人がいますが、自分の価値観で理解できないものを最初から批判したり非難することは度量が狭いように思います。確かに大勢の価値観の中に入っていくことは安心かもしれませんが、自分で考えて気づいたことや体験した学びを深めていく中で得られた新しい価値観を貫いていくということはなかなかできないものです。

他の人と異なることを信じていく生き方は、正解を求める生き方ではなく仕合せを求める生き方です。正解に安心する世の中か、仕合せに安心する世の中か。本来、人間が尊重されている世の中とはどういうものか、人間が物のようになっていないか、色々と思い当たる話ばかりをしていただきました。

特に印象に残ったものは、「面白がる」というお話です。

今の時代はマジメな人が多すぎて、楽しさを選ぶよりも単に合わせる人の方が増えているといいます。和田さんはなんでも遊び半分だといいます。遊んでいるだけではダメだという人がいますが、本気で遊んでいる人は楽しんでいる。楽しんでいるだけで学んでいないという人もいるけれど、楽しいだけで学んでいるとも言います。

やらされてやるのは楽しくないからこそ、なんでも自ら「面白がる」ことが主体性になっていくともいいます。

これは私の体験からも同様で、なんでも面白がっている人は仕事も生活もすべて楽しくなっていきます。その逆に面白くしない人は、なんでも義務になりなんでもしなければならないというように執着ばかりが増えていきます。

和田さんは、自分が楽しいからこそ周りを楽しくすることができる、自分が我慢して周りを楽しくさせてもそれでは楽しさをわけてあげることができないともいいます。自分がうんと楽しんでいるからこそ、その楽しんだ分を人に与えることができるからともいいます。

まさに、自他一体の楽観の境地です。

和田さんの逆手塾はそんな生き方を学ぶ場所であり私たちのこれからの変化にも欠かせない大切なご縁になりました。これからも引き続き、楽しく学び直していきたいと思います。

 

 

 

美しい言葉

先日、お会いしたある方から永六輔さんとの思い出話をお聴きする機会がありました。永六輔さんは放送作家、エッセイスト、作詞家、随筆家などいろいろと肩書がりますが、実際には「言葉の偉人」だったのではないかと私は感じました。

美しい言葉を記し、そして使える人はその生き方も美しい人です。そして美しさは本質的であったり、自分らしくあったり、深い愛によってさらに磨かれていくように思います。

この私たちが使う「言葉」は何によって磨かれていくかということですが、それは人生体験の質量であることはわかります。自分の実体験を深く掘り下げて、自分が体験から学んだことが使う言葉に顕現してくるからです。

例えば、傷ついたり辛い思いをしたり苦労をした人が似たような境遇にある人に共感して語る「言葉」はその人を救い導く含蓄があります。それは本人が人生で真摯に向き合って心を痛めたからこそその痛みが分かる人になるのです。

純粋な心を持っている人は、その純粋な心がむき出しになっていますからその分、無造作に傷つき痛むものです。しかしその心の傷や痛みを持ったまま前に歩んでいく人はその純粋性が磨かれてその人の深い魅力が輝いていくものです。

人間はどれだけ自分のこととしすべての物事を捉え、体験していくかで他人事ではなくなります。そうやって体験したことを一つの言葉にしていく、言葉に籠めていくことではじめて心が言葉になります。音楽にある詩や歌には、その「言葉」を伝える力があるようにも思います。

その言葉は、その人が大事にしてきたもの、大切だと思っていることが入っています。だからこそ、何が大切か、何が大事かといつも自分から発する言葉を大切に遣っていくことが重要なのかもしれません。

永六輔さんの遺した詩や言葉は、今でもたくさんの人たちの心支えになっているように思いました。

最後にいくつかその言葉を紹介します。

「自分が傷つかないで、怒ったり、叱ったりする人がいるけど、自分も傷ついて説得力がつくんです。」

「目を見つめて、一緒に笑い、一緒に泣く気持ちがないなら、他人の話を聞かないで」

「生きているということは、誰かに借りをつくること。 生きていくということは、その借りを返してゆくこと。 誰かに借りたら誰かに返そう。 誰かにそうして貰ったように、誰かにそうしてあげよう。」

「叱ってくれる人がいなくなったら、探してでも見つけなさい 」

「他人のことが気になるのは、自分が一生懸命にやっていないから」

「人の死は二度ある。 最初の死は、肉体の死。 でも、死者を覚えている人がいる限り、その人の心の中で生き続けている。 最後の死は、死者を覚えている人が誰もいなくなったとき。 そう僕は思っています。」

私も言葉を大切にして、永六輔さんのように生きる体験を真摯に味わい、人々の心の痛みがわかる自分らしい言葉で記憶に遺るような生き方を目指していきたいと思います。

椽の下の舞~縁の下の力持ち~

諺に「縁の下の力持ち」というものがあります。これは語源の由来を調べると、聖徳太子が建立した大阪の四天王寺の経供養で披露された「椽(えん)の下の舞」だといいます。

この「椽(えん)の下の舞」は昭和40年代になるまでずっと非公開で行われてきた秘事です。観客が一切見ていないにも関わらず、舞い手は努力して舞の練習をし舞い続けたのです。ここから陰で努力することや苦労することを指す言葉になったといいます。 その後は、時代の流れで言葉の意味を分かりやすくするために、「椽の下」を同じ発音の「縁の下」となり「舞」は「力持ち」に変化したとあります。

この「椽の下」の「椽」とは何か、これは訓読みで「たるき」と読め、屋根板を支えて棟から軒に渡す部材「垂木」のことを指しています。この垂木は最近、聴福庵の「離れ」の瓦葺きのときに屋根瓦を支えるために大事な役目を果たしていた印象深かったものです。この椽の下は、単に庭先にある縁側の下を支える木ではなく屋根や重い瓦を支える重要な「垂木」なのです。「えん」という字を椽から縁にしたことで、庭先に出ている縁側のイメージがついてしまいますが本来は家の屋根を守る垂木だと思うとその意味が違って感じられます。また「舞」のことを力持ちとされていますが、本来の伝統的な舞は「祈りや供養」のことを指していました。

「椽の下の舞」は、つまりは「人々のために人知れず祈り見守り続けていた存在」を知ったということかもしれません。

私たちは自分を中心に物事を考えて、自分の都合で目に見えるものを中心に解釈していくものです。しかしその自分を支えてくださっている存在に目を向けてみると、本当に多くの偉大な御蔭様によって見守られていることに気づきます。

私たちが雨や風や天災、災害から守ってくれているのは屋根です。その屋根があるから安心して私たちはその中で暮らしを営んでいくことができます。屋根がある安心感、屋根のある暮らしは、その屋根を支えてくれる「椽(えん)のチカラ」の御蔭様なのです。

いつまでもその屋根が家の中の人たちを守り続けるようにと祈り、むかしの大工たちが屋根の上には神様がいるとして屋根神様や七福神や鍾馗様、鬼瓦などで様々ないのりを祀ってきました。

四天王寺は聖徳太子が建立していますが、聖徳太子は民間信仰では大工の祖とされます。国家という家を形成するうえで、何が最も大切なのかということを理念として永らく密かに「椽(えん)の下の舞」を執り行われてきたのです。聖徳太子の「屋根を支えよ、そして祈りつづけよ」という初心を忘れてはならないという伝承を感じます。

「縁の下の力持ち」は、現代ではいろいろな使い方をされますがその本質を忘れはならないように思います。屋根がない家は家ではなく、屋根の存在を忘れて人は安心することはないということです。家の中心に屋根があること、安心して民が暮らしていける存在になることを祈り続けたのかもしれません。心を大切に守り祈り続けてきた大和の先人たちの智慧や真心に感謝の気持ちがこみあげてきます。

私も初心を忘れず、「椽の下の舞」を実践していきたいと思います。

全体こそ自分

今の時代は、経済効率優先の世の中で古いものは捨ててしまい新しいものばかりを購入していくことが当たり前になっています。古いものの価値はほとんど失われ、ただ古くて不便で非効率であるとして無価値のように裁かれています。

現在、日本の各地に出てくる空き家の問題も高齢化と少子化、若者の都市集中など、このままではいずれボロボロの街並みばかりを見かけるようになると思います。

先日、訪問したドイツの街は日本の街との景観や雰囲気がまるで異なります。これは単に文化が違うからという意味ではなく、日本のようにそれぞれが好き勝手に自分の好きな建物でバラバラの景観になっているのではなく、自国の文化風土にあったものをみんなで調和させるように建っていました。

特に西洋では、自分の家のことだけを考えるのではなく周囲の景観や全体がどうなっているかというところからそれぞれに皆で自律し合って街並みを保全しています。

日本人の現在は、自分さえよければいいという個々がバラバラになり全体快適や全体善のことなどを考える人が少なくなってきているように思います。これは単に家だけではなく、仕事においても自分のことさえしていればいいとし全体があって自分があることに気づかない人も増えています。

本来、社會というものがあってその中に自分が入っているから自分が守られ生活を維持していくことができます。道徳においても、なぜ自分がゴミを拾うのかを考えてみれば、それが全体にとって必要なことにつながっているからです。自分一人くらいと、自分が他人に迷惑をかけても問題ないという発想はそもそもの社會に対して自分から参画していないということです。

視野の狭さというのは、言い換えれば歪んだ個人主義の生んだ利己的な悪習慣の一つであり学問というものはその視野を広げるために必要なものです。人間は比較競争評価の環境下では自我や保身から利己的に傾くのです。その利己的な視野を広くするというのは、自分が存在することができている社會全体そのものを守ること、さらには自分が所属する世界を守ることに生きることで抜け出せます。自然界もそうやって循環しながらみんなで活かし合うのです。

話を戻せば古いものを大切にしなければ、世の中は新しいものと古いものが無造作に増えてしまいます。新しいものもそのうち必ず古くなりますから、それを壊し捨て続けることが果たしてどこまでできるのかと真摯に現実と向き合ってみれば現在の政策や経済原理が如何に大きな矛盾と限界とツケを子孫へと払うものであるのかは火を見るよりも明らかです。

だからといって、皆が進んでいる方と逆に歩めば周りからは奇人変人扱いされて理解されることもありません。人は自分で考えず周りに合わせて思考を停止して生きていく方が楽だからかもしれません。私も別にだからといってマイナス思考になって悲観すればいいと思っているわけではなく、現実を直視しそれを半分は世間様のため半分は自分のためだと全体にとっては善いことだろうと気楽に楽しめばいいと思っています。心は義憤もありますが、実際は有難い一期一会の体験をさせていただけているのだから感謝で人生を歩んでいきたいと思うのです。

つまり長い目で観ることも全体観であり、利他に生きることも全体善、そしてみんなが喜んでいる働き方も全体快適、この「全体」があっての自分であるということを決して忘れないように、自分をどのようにマネージメントし続けるか、どのような自助習慣を持ち続けるかが重要な生き延びるための知恵になると私は思います。

組織も国家も、世界にも、生き延びるための知恵とそれを活かすための勇気とそれを維持していく習慣が必要なのです。

引き続き、今と未来の子どもたちのためにも社業を通して子ども第一義の全体善の仕組みを現場で伝承していきたいと思います。

刻の記憶

昨日は、聴福庵の銅雨樋の設置を無事に終えることができました。壊れていたところからの水漏れや水はねが激しく、家が傷んでしまいそうだったのでなんとかこの梅雨の合間の晴れ間の時に交換ができて一安心です。

本来は、古い雨樋を修理して復古創新して甦生させたかったのですがどうしてもむかしの銅の雨樋が探し出せず現在の壊れた雨樋を新しいものへと交換するしかありませんでした。

今は、まだ古民家に銅雨樋が馴染まず光沢が出てピカピカに輝いていて違和感がありますが経年変化をして赤褐色、褐色、暗褐色、黒褐色、そして緑青色に変わっていく様子を年々楽しめる豊かさがあります。この変化の過程は数か月で赤褐色、数年で褐色、その後は数十年が暗、黒褐色、そして竟には緑青色になるという具合です。あと何年、生きられるかわかりませんが自分の次の代になるまで楽しめる銅の変化を継承し体験できることは有難いことです。

むかしから銅は永久と呼ばれるくらい耐久力が高く、日本では重宝されてきた素材です。屋根や雨樋に使われる理由は、銅の表面にできる保護被膜が腐食の進行を防ぐことによります。次第に酸化してできた緑青は雨水や酸素が触れる面にしか発生しないので、銅の内部まで錆びることはほぼありません。これが永久と呼ばれる理由です。またこの緑青はかつては猛毒などという誤認も昭和59年に厚労省が勘違いであることがはっきりしています。

銅のはじまりは銅は青銅器時代(紀元前3,500~1,200年)からで、日本では安土桃山や江戸時代によく用いられるようになりました。今では、家の内外だけではなく銅は電気製品など含めあらゆるところで活躍しています。リサイクルもしやすく、加工もしやすく、貴重な素材としてあらゆるところに重宝されています。

今では暮らしのあちこちに銅は使われ、経年変化した銅を観ているとどれもうっとりします。特に調理器具周りの銅製品は、木や竹の道具と相極まって調和して日本の価値観を醸し出します。経年変化とは、長い年月の付き合いによって深い味わいを出していくのです。この深い味わいが出てくるのを楽しめるのが心の余裕であり、その変化の中に刻の記憶がしっかりと詰まっているからこそそのものに深い味が顕現するのです。

時の変化は、単に過ぎているわけではなくどのようにその時を過ごしたかという時の味わいがあります。時の味わいを楽しめるのは、いのちの存在を身近に感じるからです。

変化を楽しみながら、変化をつくり出しながら、変化を味わい、かけがえのない刻の記憶を生きていきたいと思います。

 

日本の子ども観

日本にはむかしから大切にされてきた「子ども観」がありました。日本の諺にも、千の倉より子は宝、金宝より子宝、子に勝る宝なし、子宝千両、貧乏人に子は宝、子は第一の宝、子は人生最上の宝、年とれば金より子、我が子に替える宝無し、など沢山のものがあります。

子どもは決して大人にとって自分に都合のよい「宝」ではなく、生まれながらに宝の存在であるという子ども観があるということです。この宝は金銀や紙幣などの富のことを指しているのではないことはすぐにわかります。では何を宝というのかということです。

もともと人間は、生まれながらにして徳というものが備わっています。この徳は、道心とも言い、現代ならば道徳心とも言います。生まれながらにして思いやる心や優しい心があるということです。赤ちゃんを見て誰もがほほ笑むのはその赤ちゃんの赤心に触れるからです。

時折、野生の動物たちや昆虫たちも小さな存在である赤ちゃんに対しては種族を超えて守り育てようとします。それは赤ちゃんという存在に、自然に特別な何かを感じているからです。

この宝という言葉を私がもっとも理解するのに印象深かったものは天台宗の宗祖の最澄の遺した下記の言葉です。

『照千一隅、此則国宝』(一隅を照らす、これ則ち国の宝なり)

この一隅とは、自分の今いる場所を指します。意訳ですが、その場その場で一人ひとりが道徳を実践することこそが国の宝になるといになるという意味です。

そしてこう続きます。

「国宝とは何ものぞ、宝とは道心なり」と。

最澄は宝を道心と定義しました。むかしブログで紹介したこの道心とは、私の言葉では「初心」のことです。この初心は、その人がそもそも備わっている真心、もしくは大和魂や純粋な精神などと言ってもいいかもしれません。一人ひとりがはじめから持っているその初心を、それぞれが人生の中で大切に守ることができるのならそれが天下の国宝になるということです。

むかしの親祖や御先祖さまたちは本来、人間というものをどう捉えていたか。そこから受け継いできた本物の子ども観を見つめ直せば、日本の子ども観の真実が観えてくるものです。

引き続き、初心伝承を通してその初心によって一人でも多くの人たちの仕合せが引き出されていくように子ども第一義の実践を追求していきたいと思います。

 

科学のはじまり

ドイツから無事に帰国して国内線での移動の最中にこのブログを書いています。気候は似ていてもやっぱり日本の空気は湿度が高く蒸し暑く感じます。同じ気温で気候で風も同様に吹いていたとしても、気化している水分の分量は全くことなるのがこの湿度で分かります。

つまりこの湿度とは、空気中にどれくらい水分の量を含んでいるかという割合のことを指します。空気はこの水分が集まってかたまり移動をするのです、大気ともいいますがこれが一つの空間の中においても、その中心と隅でかたまりが異なってくるとその湿度もまた変わってくるのです。水分は高い温度ではたくさんの水分を含むことができるのですが、低い温度では少しの量の水分しか含むことができません。

なので冬は乾燥し、夏はジメジメするのです。そして人間は大量の水分を体内に保持しています。その体内の水分によって体温の調整を気化熱という仕組みを使って行います。つまりは水分を使って熱を外に逃がしたり、外の熱を取り入れたりする仕組みなのです。

私達は暑い時には汗をかいてその気化熱を利用して体温を下げようとしますが湿度が高いと汗が蒸発しにくくなってしまうため体温を下げる働きが弱まるといことになります。そうなると体温が下がらないので汗をいっぱいかきますが空気中の湿度がバリアのようになってさらに蒸し暑く感じます。に湿度が低ければ汗がたくさん蒸発していきますので どんどん体温が下がって寒く感じているのです。

私たちは知らず知らずのうちに、水分を取り入れたり取り出したり、水分調整によって体温を維持しているのです。気候が変われば、体の水分の調整にはじまり、温度の調整の仕方も変化します。

今回、ドイツでも「小さな科学者」の話がありましたがもっとも不思議に好奇心を覚える対象は自分の体です。自分の体を知れば知るほどに、この世の不思議や、人間の不思議、あらゆる自然の不思議を学べるように思います。

引き続き、当たり前になっていちいち考えたり気づいたりしないようなことに目を向けて探求するチカラを高めて自然や科学に近づいていきたいと思います。

 

不易と流行~いのちの恩寵~

ドイツ視察研修が昨日で終了し、今日から日本への帰国に向けて移動をする予定です。今回もとても学びが深く、改めてこれからの日本の未来をどのように導いていけばいいかと考える善い切っ掛けになりました。世の中は常に変化して已みませんから学ぶことを止めることはできません。常に本質的に取り組む中で新しいものをどう取り入れていくか、つまりは学問の不易を高めていくことで今を刷新していくのです。

もともと日本には「不易と流行」という言葉があります。これは俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の初心の一つです。この初心が生まれた背景には、芭蕉が奥の細道で源義経を慕い、その所縁の地を訪ねるなかでむかしから和歌で詠われたきた憧れの場所があまりにも変わり果てた姿にショックを受けたことからです。その場所を見つめていると失われたもののもののあわれと同時に、古来から言い伝承されたものがその場所に遺っているものも観ることができ、永遠というものの本質を知り、変わり続けていくものの中にこそ「永遠」の今があるのだと悟るというところにあるといいます。

人生も同様に、どんな人間であっても初心を守り続けていくためには変わり続けていかなけれなりません。一度、これでいいと分かったからや悟ったからと、結果が出た云々次第で簡単に変化を已めてしまったならばもはや本質を維持することもないのです。

どれだけ多くの経験を積んだとしても、そしてどれだけ膨大な知識を習得し知らないことはないほどになったとしても、世の中が無常に変化する以上、学ぶことを已めてはならないのです。学ぶというのはそういうことなのです。

そして学問においてどちらが上とか下とか、偉いとか偉くないとか、地位、名誉、権力があるかないかに関わらず、私たち人間は皆平等に日々に新たに学び続けていかなければならないのです。その学ぶ姿勢こそが、本来の人間の価値や人格、人徳を高めていくのです。

今回のドイツの学びでも、子どもたちが置かれている社會環境が急速に変化することによって教育に関わる人たちがさまざまな新たな取り組みや挑戦する姿を拝見することができました。また子ども観においては、そもそも子どもも大人もなく、子どもは何も持っていない存在ではなく、「すべてをもって生まれてくる」という当たり前の世界の基本理念も再確認することもできました。

現代の子どもと大人を分けた歪んだ人間観や、子どもは何もできない存在だという偏った子ども観を持ったならば人は平等や権利や自由などの本当の意味をはき違えてしまうものです。本来の人間の姿がどうであるのかを私たちは教科書から学ぶのではなく、刷り込まれていない純粋な人間の魂、子どもたちの姿から社會を見つめ直していく必要があると感じます。

本来の道徳とは、教えて備わるものではなく人間は本来それはもともと備わっているということを自覚することは何よりも環境の変化の中でも人間の尊厳を守っていくものです。思いやりや優しさ、助け合いや分かち合いなどはすべての人間、いやいのちに備わった天からの恩寵や恩徳そのものということでしょう。それをどう引き出していくかが、歴史を継承し先を生きたものたちの具体的な使命なのでしょう。

人間観を学び直し、これからの世界の平和のためにも不易と流行を実践し、今できることに挑戦し続けていきたいと思います。

子どもの権利とは

先日、あるニュースで安楽死についての記事を読んだことがありました。日本では、あまり注目されませんでしたが世界ではそのいのちの尊厳について議論されていました。この安楽死はカリフォルニア州やオレゴン州など一部のアメリカ以外に、ヨーロッパではスイスが1942年と古く、続いてオランダ、ベルギー、ルクセンブルグで合法となっています。

この時、印象に残ったのは「人間は死を選ぶ権利がある」と言っていた言葉です。

この選ぶ「権利」があるというのは、人間の尊重や尊厳についてのことが語られているからです。この権利というのは、日本では自分に与えられた当然の既得権益のように権利が語られますがこの権利の定義がはっきりと理解していないと意味を取り違えてしまうようにも思います。

例えば法律上においての権利は、法によって保護された利益に関し個人または団体に対して認められる活動の範囲(客観説)と自己の意思の優越を主張できる状態(意思説)である言われたりもします。この時の法と権利は表裏一体であり、権利は法の主観的側面であり、フランス語のdroit(subjectif)、ドイツ語の(subjektives) Rechtなど、ヨーロッパの言語では、法と権利は同じ言葉として表現されています。つまりは法は権利であり、権利が法なのです。

そしてこの「法」(英: law)とは何かということですが、これは人間社會における社会規範のことを指します。 一般的に世間でイメージされる法は、一定の行為を命令・禁止・授権することや違反したときに強制的な制裁(刑罰、損害賠償など)が課せられたり、裁判で適用される規範として機能することなどを想像しますが法や権利の本来の意味は社會の平和のためにも人間の「道徳」や「社會規範」のことを指していたのです。それをみんなで守ろうということなのです。

人間は一人以上の社會の中で集団で生きていく以上、人間としてやってはならないと思われることや周りに対してこれは犯してはならない道徳、社会規範があります。例えば、「人を殺してはならない」、「人の物を奪ってはならない」などのようにこのようなものを「法」にして人類が共存共栄するために用いられているものが権利だと私は思うのです。つまりは、人間の間で定めたルール、原理原則、道徳などのことを権利というのです。子どもの権利というのは、子どもの道徳であり、人間の原理原則であり、子どもからあるいのちの尊重のことでもあります。

この権利の意味を、正しく理解しなければ子どもの権利に関する教育の方法の理解なども疎くなるように思います。人類で子どもたちの人権を保障するというのは、先ほどの法や社会規範、道徳によってどうあるべきかを、自ずから幼い頃の集団生活によってそれぞれが学び、それを社會の成熟のために訓練を続けていくのです。

教育者はすべて社會を見守る規範者でもあります。むかしは村の長老や、もっとも徳の高い人物がそれを示したのかもしれません。今の時代、何のために教育を変えているのか、なぜ変えないといけないのか、人類が何処に向かっているのかを有志たちによって受け継がれ伝承されていきます。

引き続き、なぜ権利条約があるのか、権利のはじまりとは何かを深めてみようと思います。

子ども観のはじまり

改めてドイツに来て学校を視察していると、ヨーロッパの子ども観というものを確認することができます。私たちは表面上に現れている今の結果を洞察するにおいて、その根がどのような観念によって支えられているのかを洞察することでその事実を察知することができるように思います。例えば、いくら表面上が似ていてもその根元にある歴史や価値観が異なるのであれば似て非なるものになるからです。

ヨーロッパには、子ども観において日本とは異なる文化を持っており幼児教育や子どもの人権などが用いられて今の姿になっているのも近代に入ってからです。十五世紀頃までの中世ヨーロッパではどこの家でも7歳前後くらいには徒弟や家庭奉公として他人の家にいき、また他人の子供たちを自分のところで受け入れて教育していたといいます。一部の教会や修道院などで教育が行われたのはほんの一部のエリート層だけであり、ほとんどがどこかの家庭に入るか、職人の徒弟になり見習いをしながら生活を成り立たせていたのです。中世までは子どもも大人も関係なく、一緒に生きていくために生活に具体的に参加しなければ生きていくことができなかったのです。

そこから近代に入り西洋の子ども観が変化します。それまでは生活生産の担い手として小さな大人として見ていた子どもの存在が、大人たちによって保護され、愛され、教育する対象の子ども観が出てきます。ここから大人と子どもとの分別がはっきりと切り分けられ子どもは生活の担い手というよりは、子どもは大人とは別で教育をする義務がある存在となっていきます。

確かにむかしの西洋の時代ものの映画を観たりすると、子どもが中心ではなくあくまで「大人たちの生活の中に付属して子どもが労働を通して生活の一部を担っている」シーンを沢山みます。日本においても、むかしは家の中で子どもが一緒に暮らしを担い、様々なお手伝いをしました。同様に子ども観は、生きていく協同体としての小さな大人であったというのは理解できます。

ではなぜ近代に入り子ども観が変化したのか。そこには近代国家における産業革命や、子どもが国家を繁栄させる存在として新たな子ども観の価値観を定義する必要があったからではないかと私は思います。この辺は長くなりますが、現代の国家形成における教育を俯瞰してみると何のために教育があるかを深めれば自明するものです。

本来、人類の原始に戻れば大人も子どももなく男も女もない、すべては一つのいのちとしてお互いを尊重していたという歴史のはじまりが存在します。そこから文明の発展ともに社會が分化していく中で、より自分たちに都合がよい解釈をもって集団の価値観を操作し、整合性を保つためにあらゆるものを分けて整理していくようになりました。

この世界の「子ども観」においても、同様に国家における「子ども像」と、本来の子ども像の間には様々な乖離があります。子どもの仕合せとは何か、子どもの人権とは何か、ヤヌス・コルチャックが子どもの権利条約の中で記した文章には、本来の生命の尊厳と人類の平和のことが記されている気がします。そこには「子どもはだんだんと人間になるのではなく、すでに人間である」と説きます。

子ども観というものを入れ替えられたことなど、今の私たちには気づくことはありません。しかしこの西洋の子ども観が日本に入ってきて、日本の子ども観はどのように挿げ替えられてきたか、そのことを私たちはもう一度、学び直す必要を感じます。

歴史を学ぶということは、どのように価値観が変わってきたかも学ぶことであり、社會を知るというのは、どのように社會を変化させてきたかを学び直すことです。

引き続き、自分の中にある価値観を疑いつつ、改めて原点回帰や初心を振り返って確かな判断基準をもってこれから先の道を修正していきたいと思います。