刻の記憶

昨日は、聴福庵の銅雨樋の設置を無事に終えることができました。壊れていたところからの水漏れや水はねが激しく、家が傷んでしまいそうだったのでなんとかこの梅雨の合間の晴れ間の時に交換ができて一安心です。

本来は、古い雨樋を修理して復古創新して甦生させたかったのですがどうしてもむかしの銅の雨樋が探し出せず現在の壊れた雨樋を新しいものへと交換するしかありませんでした。

今は、まだ古民家に銅雨樋が馴染まず光沢が出てピカピカに輝いていて違和感がありますが経年変化をして赤褐色、褐色、暗褐色、黒褐色、そして緑青色に変わっていく様子を年々楽しめる豊かさがあります。この変化の過程は数か月で赤褐色、数年で褐色、その後は数十年が暗、黒褐色、そして竟には緑青色になるという具合です。あと何年、生きられるかわかりませんが自分の次の代になるまで楽しめる銅の変化を継承し体験できることは有難いことです。

むかしから銅は永久と呼ばれるくらい耐久力が高く、日本では重宝されてきた素材です。屋根や雨樋に使われる理由は、銅の表面にできる保護被膜が腐食の進行を防ぐことによります。次第に酸化してできた緑青は雨水や酸素が触れる面にしか発生しないので、銅の内部まで錆びることはほぼありません。これが永久と呼ばれる理由です。またこの緑青はかつては猛毒などという誤認も昭和59年に厚労省が勘違いであることがはっきりしています。

銅のはじまりは銅は青銅器時代(紀元前3,500~1,200年)からで、日本では安土桃山や江戸時代によく用いられるようになりました。今では、家の内外だけではなく銅は電気製品など含めあらゆるところで活躍しています。リサイクルもしやすく、加工もしやすく、貴重な素材としてあらゆるところに重宝されています。

今では暮らしのあちこちに銅は使われ、経年変化した銅を観ているとどれもうっとりします。特に調理器具周りの銅製品は、木や竹の道具と相極まって調和して日本の価値観を醸し出します。経年変化とは、長い年月の付き合いによって深い味わいを出していくのです。この深い味わいが出てくるのを楽しめるのが心の余裕であり、その変化の中に刻の記憶がしっかりと詰まっているからこそそのものに深い味が顕現するのです。

時の変化は、単に過ぎているわけではなくどのようにその時を過ごしたかという時の味わいがあります。時の味わいを楽しめるのは、いのちの存在を身近に感じるからです。

変化を楽しみながら、変化をつくり出しながら、変化を味わい、かけがえのない刻の記憶を生きていきたいと思います。

 

  1. コメント

    銅で一番身近に感じるのは10円玉です。ピカピカの10円玉が巡ってくると、その輝きは一際目立ちます。硬貨に製造年が刻まれていますが、古い10円玉はやはり、経年変化によっての味わいがあり、雨樋もいつかああいった色になるのかなと思うと、その変化がこれから楽しみでもあります。10円玉に平等院鳳凰堂が描かれるのも永年の平和の象徴としてのことではないかと想像が膨らみます。今ばかりを見がちですが経年変化という刻の変化を大切にしていきたいと思います。

  2. コメント

    私たちは、変化を「その時どき」「その瞬間の姿」で「差」としてとらえがちですが、変化したものには、「その時間」が刻まれています。その変化に「早い遅い」はあっても、すべてのものは「無常」ですから、着実に変わっていっています。歳をとるのを単に恐れるのではなく、味わえるように、「壊れた」とか「使えない」という視点ではなく、その生き続けた時間を愛おしみたいものです。

  3. コメント

    ピカピカに輝く銅、子どもの頃ピカールで銅板を磨いたことを思い出します。最初はそのようなピカピカの違和感ある状態から始まるのだということもまた面白味を感じます。銅と言えば、金メダル・銀メダル・銅メダルとメダルの色を連想しますが、この3位に銅をあてがっているのもまた変化の余白を残している銅ならではの意味があるのかもしれません。その時の美しさだけでなく、経年変化の美しさそして強さを感じていきたいと思います。

  4. コメント

    我が家にも銅のお鍋があります。数年が経って色も変化してきましたが、とても味わいがあり食卓が豊かになることを感じます。和食のプロの方々も、なぜ銅の調理器具を使うのだろうと築地で以前聴いてみると、それはやはり、素材のあじをおいしく引き出せるからと教えてくださいました。今の時代はテフロン加工や様々な便利な材質のものがありますが、素材の味を引き出せたり、使い手の力を引き出したり、使い手を育てたりする「モノ」というものは何なのか。それを子どもたちにも残していきたいと思います。

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