いのちのリレー~理念研修~

えにし屋の清水義晴さんの御蔭さまで福島県にある日本三大薄皮饅頭で有名な柏屋の五代目本名善兵衛さまとご縁をいただき、無事に理念研修を終えることができました。また本名さまからは、日本一の誉れのある旅館、八幡屋の7代目女将の渡邊和子さんと日本を最も代表する自然酒で有名な十八代蔵元の仁井田穏彦さまとのご縁をいただきました。どの方も、覚悟の定まった美しく清らかな生き方をされており志に共感することが多く、暖簾を同じくした親戚が増えたようなあたたかい気持ちになりました。

福島は東日本大震災の影響をうけ、そのままコロナに入り大変なことが続いた場所です。離れて報道などを拝見し、また人伝えにお話をお聴きすることが多くありずっと心配していました。今回、ご縁のいただいた方々のお話をお聴きしているとピンチをチャンスに乗り越えられさらに美しい場所や人として磨かれておられるのを実感しました。

自分たちの代だけのことではなく、託されてきた先人たちへの尊敬や感謝、そして子孫たちにどれだけの素晴らしい宝を遺しそしてバトンと渡せるかと皆さん今を磨いて真摯に精進されておられました。

私にとっても本来の日本的と何か、日本人とは何か、日本的経営の素晴らしさをさらに実感する出会いになりました。

私は理念研修をする際には、本来はどうであったかというルーツや本質を徹底的に追求します。今がある原因は、始まりの初心が時間を経て醸成されたものです。その初心が何かを知ることで、お互いが志した源を共感することができるからです。この志の源とは何か、これは自然界でいう水源であい水が湧き出るところのことです。

この湧き出てきたものが今の私たちの「場」を産んだのですから、その最初の純粋な水を確かめ合い分け合うことで今の自分に流れている存在を再確認し甦生させていくことができます。甦生すると、元氣が湧き、勇氣を分け合えます。

水はどんなに濁っていたり澱んでしまっても、禊ぎ、祓い、清めていくうちに真の水に回帰していきます。私たちの中に流れているその真水を忘れないことで水がいのちを吹き返していくように思います。

私たちは必ずこの肉体は滅びます。それは長くても100年くらい、短ければその半分くらいです。そんな短い間でできることは少なく、みんないのちのバトンをつなぎながら目的地まで流れていきます。大航海の中の一部の航海を、仲間たちと一緒に味わっていくのが人生でもあります。

その中で、後を託していくものがあります。これがいのちの本体でもあります。そのいのちを渡すことは、バトンを繋いでいくことです。自分はここまでとわかっているからこそ、次の方に渡していく。その渡していくものを受け取ってくださる存在があるから今の私たちは暮らしを営んでいくことができています。

自分はどんなバトンを受け取っている存在なのか、そしてこれからこのバトンをどのように繋いでいくのか。それは今よりももっと善いものを渡していこうとする思い、いただいた御恩に報いて恥じないようなものを磨いて渡していこうという思い、さらにはいつまでも仕合せが続いてほしといのるような思いがあります。

自分という存在の中には、こういうかけがえのないバトンがあることを忘れてはいけません。そしてそのバトンを繋いでいる間にどのような生き方をするのかも忘れてはいけません。そのバトンの重みとぬくもりを感じるからこそ、私たちは仕合せを感じることができるように思います。

一期一会の日々のなかで、こうやって理念を振り返る機会がもてることに本当に喜びと豊かさを感じます。このいただいたものを子どもたちに伝承していけるように、カグヤは引き続き子ども第一義を実践していきたいと思います。

ありがとうございました。

会社にとってもっとも大切なこと

本日からカグヤでは同じ初心や志を持つ会社に訪問する理念研修を行います。私たちの会社は元々、目的重視で働いていますから理念研修というのはよく行われています。現在では、ほぼ毎日がある意味で初心の振り返りと改善ばかりで生き方を見つめ、働き方を磨いている日々です。

一般的に会社は、目標ばかりが求められますが私たちは何のためにを大事にしています。「子ども第一義」という言葉をスローガンにしていますが、これは目的を見失わないためにみんなで確認し合っているものです。この第一義というのは、何よりも大切な中心としているものという意味です。この子どもというのは、子ども主体の子どもであり、童心の子どもでもあり、子どもが人類の最も尊い存在であるという意味です。

私たちは大人か子どもかで子どもを語ります。子どものためにといいながら実際には、大人の社会の都合がよい方へばかりの議論をします。本当に子どもが望んでいることは何か、それは一人一人の一家一家の暮らしの環境にこそ存在します。自分たちも本来は、子どもが大きくなっただけで子どもが何よりも尊重される世の中にしていけば自然界と同じく調和して仕合せを味わえる世の中にできるはずです。

当たり前のことに気づけなくなっている現代において、純粋にニュートラルに子どもの憧れる未来のために生き方と働き方を変えていこうと挑戦しているのがカグヤの本志、本業ということになります。

生き方というのは、どのような理念を抱いて取り組んでいるかということです。その生き方を確かめて、今日はどうであったかと振り返る。仕事や内容はその手段ですから、その手段のプロセスに目的を忘れずに誠実に実践してきたかというものが働き方になります。その働き方をみんなで分かち合い確かめる中に、みんなの生き様が出てきます。その生き様の集合体こそが、会社であり理念の体現した姿です。

社会というのは、自立し合うことで真に豊かになります。この自立とは、奴隷からの解放でもなく、お金や地位、名誉、成功者となることとは違います。本来の自立は、みんなが目的意識を持ち、協力し合い助け合い、お互いを尊重しながら生き方を磨いていくなかで醸成されていくものです。

自分らしく生きていくというのは、思いやりをもてる社会にしていくこととイコールです。自分も人も活かすというのは、お互いを違いや個性を喜びあい感謝していくということです。

子どもたちは、学校の勉強とは別に家庭や家族、身近な大人の生き方や生き様を模範にして学んでいきます。これは単なる教科ではなく、まさに生きていく力を養っていくのです。

だからこそお手本が必要ですし、場や環境があることが重要になります。育つ環境がなければ、いくら教えても真の意味で学ぶことができないからです。これは文化の伝承なども同様で、連綿と繋がっていく中で託していくものですから先人たちが先にお手本になりそれを子孫へと結ばれていくものです。

私たちの会社は決してユニコーン企業や大企業、テレビなどで有名なベンチャー企業などではありません。しかし、こういう私たちのような生き方や働き方を大切にする会社も社会には必要だと感じています。誰もいかない道だからこそ、私たちがその道を往く。子どもの1000年後のために必要なことだからこそ、誰もしないのなら我々がそれを遣るという覚悟をもって会社を運営しています。

そして同じようにそれぞれの道で自分らしく歩んでおられる方の生き方や働き方は私たちにとっても勇気や励みになり、また知恵を分かち合える同志にもなります。たとえ手段は異なっても、目指している夢や未来は似ているということに深い安心感を覚えます。

一期一会の日々に、どれだけ真心を籠めて生きていくか。

会社としてもっとも大切なことを忘れない日々を過ごしていきたいと思います。

 

ルーツから

私たちは知らず知らずのうちに自らの価値観の中に歴史の影響を受けています。産まれて育った風土は、原初からずっと今まで続いておりそこに人々が暮らしを営んできました。時間軸でも、100年前も1000年前も、また数千年前もここで誰か人々が生活を営んできたのです。そして今も自分も同じ場所で生活をしています。

もしも1万年間ずっとカメラがその暮らしを撮影していてそれを数倍速で見たとしたら今の自分がこの風土に大きな影響を受けていることに気づくはずです。例えば、外国人で肌の色が違かったり姿カタチが異なるのもまたその風土の影響があってのことです。それに価値観や文化、食べているものの違い、得意不得意なども育った場所、そして生活様式、それらの影響も風土が決めます。国民性の違い、国民の特徴などもまた歴史や風土です。

つまり私たちは、何かを学び始めるずっと前に本来の自分たちは一体何者で何処からきて何をして目的は何かなどはじまりやルーツを知る必要があると私は思います。日本であれば、神話がありそれが国家になっていく歴史の変遷もあります。あとは、この日本の風土でどのように生活をつむいでどのように助け合ってきたかという経過も大切です。

そういうものを学び、知ることではじめて自分のルーツを知り日本という姿、日本人であるということを自覚できます。世界との交流がますます進むこれからの未来において、特に大切なのはこの「自分を知る」という教育なのです。

しかし残念なことに、現在は机上の学問が優先され地域や郷土、風土から学ぶという実践体験も失われています。同時に、ルーツはほとんど知らされず途中からの年号の歴史を学びます。今もつながって存在しているという生きた歴史ではなく、ショーケースに入ったような歴史を暗記しては受験のために使います。

すべての学問の原点でありルーツである歴史を学ばないというのは、未来に大きな禍根を残していきます。

キャリア教育とかSTEMとか流行りもありますが本当は何のために学ぶのか、そして自分とは何かという普遍的なことをもっと大切にしてほしいと思います。そのための歴史であり、そのための故郷があるのです。

子どもたちのためにも、私のできるところで真摯に取り組んでいきたいと思います。

ハタラキ続ける存在

私には尊敬している人がいます。その人はすでにこの世にはおられませんが存在はいつまでも生きておられます。人は生死だけではない、存在というものを持っています。これはいのちという言い方もします。別の言い方ではハタラキと呼んでもいいかもしれません。

生前、死後の別なく、ハタラキ続けておられる存在。ハタラキが観えている人たちはそのハタラキそのものの存在に感謝をします。これは自然界も同じです。自然の生き物たちはいのちがあります。そのいのちのハタラキをしてくださっているから感謝しあうことができます。この世界、宇宙にはハタラキをしていないものなどは存在せず、常にハタラキ合うことで調和しています。

存在がハタラクからこそ、その感謝を忘れないというのは先祖が喜ぶ生き方です。なぜなら先祖もまた終わったものではなく、今でもハタラキ続けてくださっているからです。

私たちの物質的な見方では不思議に感じますが、無から突然有がでてきます。何もないところから出てくるからそんなはずはないと思うものです。それは意識が同様です。なぜこの意識が産まれてくるのか。そのはじまりは何か、誰がつくったのか、深めてみるとそこには偉大な存在があることに気づきます。

この時代、というよりも人類は目覚めというものを必要とします。常に気づいて目覚めることで今の場所をよりよい場所へ移動していくことができます。今居る場所はどのようなところか、この環境のなかで自分はどのようなことをしているのか。人間は環境の影響を受けて抗えないからこそ、様々な問題は環境に現れていきます。

私たちがもっとも平和で謙虚だった環境はどのようなものか。こういう時代だからこそ原点回帰する必要もあります。自分が産み出す環境がどのような環境であるのか。それぞれに環境を構成する一人として、みんながそれぞれに気づき目覚めていくしかありません。

自然に包まれているのを感じる感性、童心という好奇心、呼吸するたびに感じる感謝の心など、もともと在る存在に気づいてこそハタラキのなかで仕合せを味わうことができます。

尊敬している方がいつまでもハタラキを与えてくださっている感謝を忘れずに、私も子どもたち子孫のためにハタラキのままで今を磨いていきたいと思います。

自然とのかかわり方

自然とのかかわり方ということについて少し深めてみます。そもそも自然と人間というものを分けて考えるとき、人間は自然の一部ではなく別個の存在であるかのような認識をするものです。しかし、私たち人間の身体はすべて自然が形成したものでありこの身体こそまさに自然そのものの一つです。

別の言い方をすれば、自然との関わりとは自分自身の身体との関わりにも置き換えることができます。自分の身体の声を聴いて大切にしていけば自ずから自然の声もまた聴こえるというものです。

しかし現代社会をみると、身体にとってよくないことばかりが環境に発生しています。環境問題も突き詰めればこの身体との関わりと繋がっているのです。

例えば、合成甘味料や防腐剤を使った食材、簡単便利にレンジで食べられるレトルト食品、他にも栄養に偏ったサプリや薬、脳ばかりをつかって運動をしない生活習慣、自然のリズムを無視したスケジュール優先の心身の酷使、他にもあげればきりがないほどです。

若い時は、対応できても年齢を経ていけば身体はボロボロになってきます。これは現在の自然環境でも同じことが起きているのです。

もう早くから自然の声を聴こうという活動をしてきました。しかし、自然よりもお金儲けや権威権力権利の肥大化に力を注ぎ、比較競争、国家管理していくなかで自然の声よりも人間の周囲の声ばかりが入ってくるようになりました。

身体でも少し問題が起きると、周囲がああすればいいこうすればいいと処置や対応策ばかり出てきますが根源的な解決をするのではなくあくまで対処療法によってその場を乗り切るだけです。環境問題も似たようなもので、根源的なものはできないことになっていて新しいテクノジーや治療法に期待しては何も変えようとはしないものです。

人間は根源的であればあるほどに魅力を感じないようで他にすぐに目に見える解決法を躍起になって探してはそれをお金で買い上げていきます。結局は、人間の欲望が勝ってしまうということです。

健康というものも失ってみてはじめてその価値が分かったりします。健康のときは、欲望が勝りますが一度身体を壊すと健康の有難さが骨身に沁みて欲望が消失していきます。本来の仕合せや健康を取り戻す過程で、自然の有難さを痛感して反省するのです。

つまりは纏めると、環境問題の解決は一人一人の自分の問題を解決するということに尽きるということです。

自分一人がまず自分の身体とよく向き合って身体の声を聴いてととのえていくこと。身体はどのような暮らしを望んでいるのか、そして心身は何を求めているのか。その一つ一つと丁寧に毎日向き合って暮らしを改善していくことだと私は思うのです。

暮らしフルネスは、まず足るを知る暮らしからはじまります。欲に目を晦まされているものを少し離れ、落ち着いて今に集中します。土に触れ、風に揺れ、火に癒され、水に清められ、月に諭され、太陽に元氣を戴く。つまり「いのち」を喜ばせていきます。

地球というものは本来、いのちが喜び合う場所です。そして本来の人間は、いのちを輝かせる存在です。いのちが輝き合うような暮らしを実践することこそ、真に環境問題を解決する根本的な方法だと私は答が出ています。

議論をすることも大切かもしれませんが、議論よりも実践していく方が自他一体の仕合せに貢献できます。自他が喜び合うような暮らしをととのえていくこと。私は私の場所で、世界の環境問題を解決する答えを生きていきたいと思います。

結びの甦生

人はあらゆるつながりの中で生きているものです。そのつながりは網目のように広がり、それが結ばれています。蜘蛛の巣のように空中に網をはり、その中を揺らいでいるかのようです。

このつながりや結びつきというのは、点ではありません。つねに結ばれているからそれは全体を感じるときに結びつきを深めていくことができます。

現代は、分断の世の中で専門的に分化して理解していく手法が学問の中心になっています。何かを分けて考えているうちに網であることを忘れていくのです。循環もまた、途切れ途切れになっていて結ばれているようで分かれています。

その分かれているものを無理やり結ぼうとしても、分かれたあとは結び直すと歪になります。結び直すには、まず丁寧に解く必要があります。その解くというのは、なぜ絡まったのかということを一つ一つ見つめていくことです。

これは歴史を甦生することに似ています。本来、あったものが絡まっていくことを遡りそれを取り払い、綺麗に手直しし、元の状態に戻します。これは分断される前、つまりは分断されていなかったことに気づくプロセスのことです。

私たちは分化し分断したといくら思っていても、本当は分化して分断されていないことに気づきます。それは私たちの命も同じです。先祖代々、親祖にはじまり今まで途切れたことがなったからこそ今の私は生きています。

これは分断されず分化されていないことの証明でもあります。

本来、世界というものは元を辿れば一つです。人類も遺伝子が解明したように元々は同じ先祖を持ち、今も同じ命として結ばれています。肌の色も移動する中で変化しただけで、言葉も違いも文化の違いも風土に合わせて染まっただけです。元は同じ、一緒の存在で結ばれています。

戦争というのは一体何かと最近はよく考えます。

子どもたちの100年後、1000年後の未来に何を遺していけるのか。

本来の結びつきを甦生することではないかと、使命を感じています。引き続き、暮らしフルネスの実践とつながりを甦生して未来を易えていきたいと思います。

ご縁を活かす

人の出会いや繋がりには必然性があるものです。これはよく考えてみると、連続しているからにほかなりません。一つの出会いは途切れているのではなく、ずっと今もつながっています。それが節目節目に何かの形でご縁を実感できているということだけです。

つまりご縁というのはすべてご縁というものであることがわかります。天網恢恢疎にして漏らさずという言葉があります。この世は網の目のようになっていて、その網の目の中で私たちは結ばれて生きています。

これが一人一人の自意識が自我によって自分というものを分けて世界を認識していますが、実際には偉大な意識の中で常にご縁と共に存在しているということになります。

この存在という意味を深めてみると、すべてのこの世に目に見えるものは勿論のこと、目に見えないものにいたるものもご縁のむすびのなかにあります。誰かが作ったもの、もともとそこにあったもの、存在というのはまるごとあります。

その意味を深めて、そのご縁をどのように結びなおすのかというところにご縁を活かす妙味があるように私は思えるのです。

ご縁を活かすというのは、悠久の関わりや結びつきを時代時代にどのようにほどいて結びなおすかということです。それは着物の糸をほどいてもう一度反物をつくり別の着物にするように、私でいえば古民家や古材をどのようにいのちをつなぎあわせて甦生していくかに似ています。

別のものを組み合わせているのではなく、ご縁を活かすということです。

先祖のつながりなども、前世のつながりなども目には観えません。しかし、ご縁をよく味わっているとこれはきっと先祖から今までそしてこれからのためのご縁であることに気付きます。

全て繋がっていると思って生きている人は、どのようなご縁であってもこの先にどのように変化していくのかが直感します。どういうご縁であっても、自分自身がご縁を大切に生きていくことが大切であり一期一会であることに集中することがそのご縁を生きる実践になります。

子どもたちにも素晴らしいご縁が結ばれていくように一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

教育の醍醐味

昨日、かつてある高校で3年間一円対話を実践し指導してきた生徒に改めて一円対話の意味を説明する機会がありました。これは卒業論文の研究テーマを一円対話にしてくれたことからのキッカケです。関わったのは7年も前になりますが、それがいつまでも心に残りこのように自分が教員になっても大切にしたいと思ってくれていることに有難い想いになりました。

教育の面白さは、見返りのないこと、そして長い年月をかけて醸成されそれによって世の中がさらに善くなっていくことです。私も保育に深く関わってきましたが、創業して21年になりますから最初に関わってきた園児たちは間接的にももう20歳を過ぎています。

思い出すと、あの頃も今も変わらずに未来へ希望を持ち、子どもたちがこの先の人生を真に豊かに幸福になってほしいと祈りながら取り組んでいることは同じです。有難い人生を戴いたことに改めて深く感謝しています。

取材の方は、そもそもなぜ一円対話をはじめたのかというものでした。

改めて、ヤヌシュコルチャックのこと、二宮尊徳のこと、良寛さんや親鸞さん、吉田松陰や郷中教育など自分に影響を与えたことを整理して話をしていると私も初心を思い出すいい機会になりました。

世界が戦乱になってからの対処療法ではなく、未然に如何に防ぐのか。未病のうちにいかに健康を維持するのか、そのために教育が大切であることを改めて説きました。そして今のように伝統文化のこと、伝承のこと、知恵のこと。先人への感謝と供養、そして子孫たちへつないでいくことの本当の意味なども話をしました。

今の世界の社会が今のようになったのは、ここ数十年の教育がどうだったかを証明するものです。そして今さに今、よく洞察し反省したことを如何にこの先の数十年に活かしていくのか。悠久の歴史の中で、教育は循環し反省と改善を繰り返していきます。

人類は、何度も似たような歴史を体験し同じ状況に陥ります。現在のような人口が増えた時代はここ数千年でははじめてですし、現代文明の石油や金融をはじめとした科学技術も軍事技術も進んだのもはじめてです。

しかし人間の本質は変わったわけではありません。

この短い一生で果たして何ができるだろうか、それを思う時、私はやはり徳や教育の方に深い意味を見出していきます。今だけ、金だけ、自分だけというような歪んだ個人主義や権力権威主義といわれていますが人類は本当は今生きていられるのは、先人たちの苦労や努力、いのりがあってこそです。

大切なことを忘れず、常に初心をお手入れし日々の暮らしから改善していきたいと思います。

経営と実践

会社を経営していると、経営者とはこうあるべきという話をあちこちから聞くことがあります。それぞれに経営論はありますが、その一つがプレイヤーかマネージャーかというものがあります。管理するのが経営だから、実際に実行させるのは部下にさせればいいというものです。

私はむかしからいつまでも現場で実行する方が多かったのでこの辺はあらゆる人たちから経営者として他人にやらせた方がいいといわてきました。何でも自分でやるから育たないとか、自分がやるから全体がおろそかになるなどです。

しかし私はもともと初心というものを定め、理念を実践するということを優先した経営を志していますから実践というものをしないことの方が経営効率がいいかどうかよりも問題で決めたことを自分でやらなければ意味がないから実践にこだわっています。

こんなことをやって意味があるのかといわれても、他に大事なことがあるのではないかといわれても他に大事なものもあるけれど実践することがもっとも大事なことだと取り組んできたのです。その結果として、今があります。

例えば、いのりというものがあります。他人にいのってもらっていたらいいというものではありません。いのりは自分で実践してはじめていのりになります。他にも、日々の片づけや掃除、お手入れなども自分でやっていることに意味があります。もちろん、一人ではできないことや日々の仕事があるときなどはどうしても協力者のお手伝いが必要ですがそれもまた実践ですからみんなで一緒に実践して取り組むことに意味があります。

そもそもこの実践というものは、修行でもあり修養でもあり、志を実行するという行為です。それをせずに経営をするというのは、そもそもその志は何だったのかということが疑問になります。

志があるから、道を歩みます。その道を歩むというのは、自分で実践するということに他なりません。自分で実践することなしに道を自分で歩んでいるわけではありません。今は何でもお金で買えます、そして経営者ほどすぐにお金を買おうとします。お金で買って運んでもらおうとしますが、そんな便利な方法で果たして道が実践できるのかということです。

道の実践は、自分で歩んでこそです。

そのためにも、手間暇をかけ、丹精を籠め、面倒だと思うことでも自ら率先して取り組み、時間がかかっても、苦労をしても、自分で決めた志に忠実に誠実に取り組んでいくことが大切なことのように思います。

経営もまた実践の一つですから、自分で決めた道を丁寧に歩み取り組んでいきたいと思います。

便利さの副産物

消費文明の中では、使うことや捨てることがよいことをされています。特に利便性というのは、便利であること。便利は誰にとって都合がいいかということ。それは使う人にとってメリットがあるということです。しかしなんでもそうですが、誰かにとって都合のいいことは誰かにとって都合が悪いことがあります。それが自然でいえば、人間にとって都合のいいことは自然にとっては都合が悪いものです。しかし自然は文句を言いませんから、人間が好き勝手に便利に走っても誰からも非難されることはありません。

つまり非難されず文句を言えない相手なら便利であることは最善とも思うことがあるということです。子どもも同じく、大人の便利に左右されて色々なことに困っています。この逆に不便さというものは悪のようにいわれます。不便というのは、役に立たないことや都合よくないときに使われます。

世の中の不便を解消するためにビジネスを発展させるというのがこの前の時代の価値観でした。しかしよく眺めてみたら、これだけ便利になってもなおさらに便利になるように追及しています。これは確かに間違いとはいいませんが、その便利さによって発生する副産物によって私たちは大切なものを失います。

その一つは、時間というものです。時間を稼ぐためにスピードを上げる。そして便利なものを使う。しかしそれで時間が産まれるかというと消費されていきます。本来の時間はゆったりと充実して味わうものでかけがえのないものです。それは便利さと共に失われていくのです。

そして次に場です。便利であるがゆえに場がととのうことがありません。面倒なことを取り払い、場を磨き上げることを怠ることで自他がととのい、穏やかで豊かな関係が築けるご縁をも失います。

他にも健康というものがあります。便利になって健康が失われます。本来、不便というものは心身をバランスよく使い、丁寧に身体の声を聴きながら一つ一つの五感を活用して味わうものです。それを時間がないから、関係を重ねる暇もないからと便利に走っては健康まで失います。

もう少し不便を取り入れていこうとはなぜしないのか。

それは不便であることをよくないことだを刷り込まれているからです。私は暮らしフルネスの中で多くの不便を取り入れています。もちろん便利さも善いところもありますが同じくらい不便を取り入れます。それが喜びや豊かさ、古くて新しく、柔軟で謙虚でいられるからです。

時代は色々と問題をかかえているのはすぐにわかります。先ほどのことを大きくすれば、因果の法則で環境問題、自然災害。そして人災として戦争、飢饉。感染症や精神病もです。これは先ほどの便利さの副産物であるのです。

気づいた人から日々の暮らしを換えていくのが解決の近道です。次の時代の生き方、子どもが大切にされるような時代にしていきたいと思います。