脳を裏切る、行動が習慣を創る

人間は行動せずに脳だけで処理を行うと、あたかもそれをやっているかのように感じ始める生き物です。実践が実践ではなくなるのも、やっている気になるからであり、分かったことが分かった気になるのもそれは脳が関係しているのです。

事故で手足を失った人が高確率で、四肢があるかのような感覚を持ってしまうという話があります。これは脳が思い込んだものが現実にあると勘違いしているのです。また見た目が善い食べ物を食べてもいないのに美味しいと思い込むのも同じく脳が先に味をつくってしまうのです。

これと似たことを常に脳は行います。たとえば、日々にやっていないことでもちょっと習慣がついたと思えばそれをやっているように思いこむのです。言い換えれば脳が見せかけを用意し、その見せかけによってあたかもやっているかのような体験を仮想するのです。知識のみが豊富に偏れば偏るほどに脳は体験を仮想補填してしまいます。

私はよく脳を裏切るという言い方をしますが、脳が嫌がることを敢えて行うことで脳の思い込みに騙されないようにしていくのです。

これは習慣の持つ仕組みの一つで、脳が嫌がる行動をすれば脳が行動により思い込みを取り除くのです。思い込みが取り払われれば見せかけが消えますからはじめてそこに実相がありのままに顕れてきます。

そこで脳が思い込みを捨てる方を選べば、そこに心の力が動かされていくのです。心が強い人は脳に左右されませんし思い込みが少ないものです。

これは脳が嫌だと感じる前に、心が動き、行動がはじまりそのことで脳の思い込みを持たせる時間を与えないからです。これらの刷り込みは、教えられる弊害であり、このことより子どもの好奇心を失うことで病魔のように脳が仮想を次々に生み出すようになり不安からさらに目が曇り始めます。

実際の現場では起きてはいないようなことをまるで起きているかのように錯覚したり、実践をしていなくても悟ったかのように勘違いします。知識を得て、世界を仮想化するのはできても現実世界は思い込みで成り立っているだけで実際は自分をも変えることができなくなるのです。

自分を変えるには、まずこの脳の思い込みを捨てる努力が必要です。

そのために数々の習慣をものにして、脳が嫌がることを敢えて行う訓練をして自分自身のコントロールを正しくできなければなりません。現実は常に現実として目の前に顕れます、受け入れがたいこともあるでしょう、そんなときは変えるチャンスだと思います。

自分を変えたいと強く願うからこそ、実際の行動の方から自分の脳を裏切り、脳が嫌がることをたくさんしてでも信念や理念を貫いていくことで、自分の人生は刷り込まれない正直な場所でいられるのだと思います。

行動による疲れは、脳の仮想をつくらせる余地を与えません。心地よい疲れというものは、心が地についた疲れということです。変に考えすぎるよりも、心が思いやりを優先するほうに従って自らの習慣を育て上げれば立派に自分の人生の道を切り開く人になると思います。

常に自分の心をで信じた方を優先する生き方を示していきたいと思います。

自然と至善

自然農を実践し4年目になりますが、ようやく田畑が落ち着いてきたようにも思います。

もちろん、常に天候も変化し田畑の様子も変化し、その生態系の中にいる私を含めた生き物たちも変化しますから常に学びは尽きません。

人間というものは、脳の機能を使いある程度知識が入れば理解したものが記憶によって運用されていくものです。それがマンネリでもあり、変化を感じる力を落としてしまうようにも思います。好奇心や謙虚さがあれば学びは常に新しいものになりますが、常に学びたい、常に学ぼうと機会を逃さずに内省を続けて楽しんでいれば自ずからあるがままに今を生きることができるように思います。

自然の世界では、どの生き物も今に最善を尽くしていきます。後のことや先のことなどを思い煩うこともなく、今を一生懸命に生き切ります。生きるために、生き抜くために自分の与えられた場所で自分の与えられた生を本気で生き抜いています。

最善というものは、人生を遣りきるということです。遣りきるということは、丹誠と真心を籠めて自分にできうるすべてのことを出し惜しみなく正直に実践することです。

古語に人事を尽くして天命を待つという言葉があります。半分は自分の誠で、残りの半分は天の誠で万事それこそが善いことであるという意味だと私は解釈しています。

今の時代は、何でも満たされて安逸安全な中で暮らしていますから危機感というものを喪失し、本来の「生活」ということの本義も忘れてしまっているのかもしれません。遣りきるという言葉であっても、単にやったかやっていないか、やれたかやれていないかのレベルのことを思っている人も増えてきました。

遣りきるというのは、いのちの言葉ですからいのちを懸ける言葉です。

これはいのちを遣りきるということであり、いのちすべてを懸けましたかという自問自答を行うということです。眠いとかだるいとか、やりたくないとか、楽したいとか、明日にしようとか、めんどくさいとか、いろいろと理由をつけては自分に負けてはいのちを使い切ろうとはしません。

これでは今を生きることからも逃れて、結局は自分に甘えてしまっていることになります。

自分で決めたことを自分で実践するということは、人事を尽くすということです。そうして真摯に自分のいのちを懸けているから天がそれに感応して他力が入ってくるように思います。自信というものは、そういう自力を尽くしている中で他力が入ることを悟ることを言うのかもしれません。

最善と尽くすとは、至善のことであり、それが自然であるということです。

自然農には、半分は自力、半分は他力を学ぶ最幸の土壌現場があります。他人のことをとやかく言う前に自分は本当にいのちを懸けてそれに取り組んだか、常に内省と自問自答をもって一度しかない一期一会の人生を愉しんで駆け抜けていきたいと思います。

出会いに感謝しています、有難うございます。

文化と誇り

先日、ドイツと日本の比較の中で空調についてのことがテレビで放映されていました。日本ではほとんどが空調をつけて夏を対応しているのに対し、ドイツでは窓の内外のブラインドを効果的に使うのでほとんどの家屋で空調すら設置されておらず暑さをうまくしのいでいるという話でした。

そしてどちらが環境に優しいかということで比較されていて、日本の家屋はそういう意味でドイツには劣るというようなことを伝えていました。

そもそも不思議に思うのが、日本の家屋といっても今の日本の家屋は欧米から輸入されてきたものです。今はほとんどの住宅がアメリカ式に改造され、部屋のつくりも建て方も、そして内装や家具までほぼ欧米そのものです。

私たちは明治時代から、欧米の文化を取り入れかつての自分たちの文化を否定して近代化といった短期的パワフルで利便性の高いものを取り入れてきました。自然を相手に悠久を生きた時代とは異なり、植民地的に支配する人間を相手に自分たちを守るためにと戦ってきました。

しかし戦後に、戦争に負けてしまいほとんどがアメリカ文化によって日本の文化を改造され今では何がもともとの文化だったのかが分からないほどになってきています。それは食文化しかり、農文化しかり、生活文化しかり、働き方から生き方にいたるまで、欧米のものにとってかわられました。

先述したドイツと日本の家屋の違いについては、本来の日本家屋は和式であり、よく地下から地上へと自然の風が抜けるように建てられていました。そして夏は涼しく冬は暖かく自然物をうまく活用し、夏に至っては風鈴や打ち水、スイカなどあらゆる工夫で涼しくしていたのは私たちも同じです。

それを今では欧米と比較され、欧米の方が環境先進国だと謳われ、それを真似をするというのはどうしたものかと不思議に思います。以前、訪問したドイツやオランダは日本の文化を研究し上手に自国の文化に取り入れていました。

しかし私たちの方は、自国の文化が消失していますから取り入れることができず単なる真似だけになってしまうのです。これでは何が何だかも分からない人たちになるのだから単なる真似しかできないのです。

取り入れることができるというのは、自分があるということです。文化を吸収することができるというのは、自分の文化をちゃんと自覚習得できているということです。畢竟、多様性というものは代々受け継がれ継承してきたものの上に積み重ねて改新していくということなのでしょう。

だからこそその土地、その場所、その人にその文化があり世界がどのような気候変動や変化があっても智慧を重ね合わせて生き残ることができたのがいのちの理なのです。

人が自信を失う理由は、自分がないからです。自分があるというのは、本来の自分が何でできているか、本当の自分がどういう暮らしをしてきたか、歴史というよりも文化そのものである自分に誇りを持つことが風土を生き抜いてきたという自信になるのでしょう。

祖神たちの願いに思いを寄せれば、今の自分たちが何を残し何を譲らなければならないのかを自覚してきます。世界観というのは、すべて今を生きる私たちが担うものです。時代は急速に世界の距離を近づけているからこそ、もう一度日本とは何か、自然とは何か、自分とは何かを大事に学び直しを続けていきたいと思います。

自分自身との信頼関係~内省と対話~

人は自分を責めすぎて許せないとき、自分というものを見失うように思います。また自他の評価が気になり、自分自身の価値を正しく認めることができないときにも自分を見失うように思います。

この自分を見失うという心理は、自分のことが分からないということです。

人は自分が自分のままでいい、あるがままの自分がいいと自分を認めることができているときは心が穏やかで平安が訪れています。しかしひとたび、自分を否定し、自分を認めることができなくなると自分のことを許せずに自分との関係が崩れていきます。

これは別に自分自身だけのことを言うのではありません。たとえば、他人との人間関係であっても相手のせいだと相手に求めたり、自分のせいだと自分を責めすぎればその人との人間関係に亀裂が生じるのです。

自分のせいだと責めすぎるのも、相手のせいだと責めすぎるのも、どちらもバランスが崩れて信頼関係が壊れてしまうのです。

これは外側だけで起きるのではなく、内側でも起きるものです。自分の内側で先に自分自身との関係が崩れれば、そのまま外側の人間関係も崩れていきます。

人間は人間関係がほとんどの苦しみである以上、如何に自分自身との信頼関係が大切かということなのです。

たとえば、自分自身が厳しすぎる場合、相手を甘やかしすぎることがあります。逆に他人に厳しすぎる場合は自分が甘えている場合もあります。これも自分自身との関係が周囲に及ぼすのです。

他にも、自分が嫌いになれば、どうしても相手を好きになることができません。自分自身のことを褒めるから他人を褒めることができるのです。自分自身のことが自他一体のことでもあり、如何に自分自身との関係を築けるかが人間事においては大切なのです。

感情の波が時折、揺れ動く中で如何にそれを受け容れるか、許してあげられるかは、その人の過去の体験から乗り越えたことによって癒せるのかもしれません。無理に直そうとするよりも、如何に自分を許すことで癒すかということが心の労いになるのです。

自分は本当によくやっている、自分はよくついてきてくれる、ありがとうという気持ちがあればそれが周囲に及ぼし同じ気持ちになるのです。どうしても頑張りすぎてしまうのは、責任感があるからですし使命感があるからでもあります。頑張ればうまくいくと考えてしまうのは、真面目過ぎる証拠なのです。

真面目過ぎるからこそ、そこに大切な愉しむという遊びの心を添えてあげることで自分を見失なわずにいられます。人生は自分自身との付き合いで、どんな境遇やどんな状況になっても一人ではないと実感でき孤独にならなくなります。自分を大切にすることができれば人を思いやれる自分でいることができますし、その思いやりが自分をより大切にしていきます。

一番身近な自分との対話を大事にする時間、それを内省といいます。内省をすることで、はじめてもっとも身近な自分自身との対話を通して心の平安を得られるのです。そしてそれを他人と行うことで心は対話し合い、お互いを許しあい認め合うことができるのです。

そうして自分自身との付き合いが様々なところで折り合いをつけることができ、認め合い信じ合うことができればその信頼関係が自信になり、多くの同じように悩み苦しむ人たちの救いになるように思います。

私の信じる心を救済する志というのは、自分の体験をそのままに他人様の御役に立たせていただけることで実行になります。人々がみんな同じような苦しみから解き放たれるよう、さらなる自分自身との信頼を築きあげていきたいと思います。

自分自身になる~揺るがない自信~

人間はお互いの信頼関係を築くのに自分との信頼関係を先に築く必要があるように思います。信頼関係の本質は、他人の評価から測るのではなく自らの自信によって育まれるものだからです。

信頼というのは、自分自身のありのままを受け容れることのように思います。それは認めるということです。自分という存在がどういう存在であるのか、現実を含めてすべて丸ごと受け容れます。そしてそのような自分を受け容れてくださっている周囲のことを丸ごと受け容れます。そうすることで次第に今の自分を認めることができていきます。

自分はこれでいい、自分はこのままでいいのだと自分自身を認めつつ、自分が信頼できる自分になろうと自分の甘えに打ち克ち続けていくことで自分自身との絆も深まり、同時に周りからも信頼されるようになるのです。

自分が決めたことや自分がやろうとしたことは自身で実践していくしかありません。それを観て周りもその人は信頼できる人かどうかを判断しているのです。いくらその人の見ている前だけや表面上だけを取り繕ってみても、自分自身が決心したことはその人にしかわからないものです。

自分が決めたことができない人を周りが励ますのは、その人が自分=自身になってほしいと応援しているのです。あるがままのその人になるとき、人は美しく個性豊かに主体性が発揮されていきます。その人がその人らしくいるとき、自分自身を見出し、その自分自身が社會の一員になるとき、世の中は平和で楽しい未来を創造していくことができるからです。

お互いに信頼し合うというのは、常に自分自身が自分で決めたことができるように頼れ信じることができる関係がその人自身にあるということです。

よく考えてみると、信じるというものは常に自己内省が必要です。自分が自分(己)を振り返ることで、信じた自分をやれたかどうか、信じたように取り組めたかどうかを自分自身で確かめるのです。

そしてそれができていなければ自分が改善し、自分が修正し、自らを助けていくのです。自分を認めることができてはじめて人は責任が持てる人になります。それは自分自身を信じることができるようになるからです。言い換えればそれを「自信」というのです。

いつも自分のことをもっとも身近で助けてくださっているのは誰でもない自分自身です。

そのことを忘れず、自分を認め、自分に感謝するとき、人は自分を信じはじめるのでしょう。自分を好きになるということは、自分を大切にするということです。

自信がある人は、信頼されます。信頼される人は、自信に裏付けされた自分自身が自立しているのです。なにが自分にできて何が自身にできないかを正しく認識することができることではじめて頼ることの素晴らしさ、仲間の存在の価値に気づくように思います。

自分自身と仲よくすることで仲間はできます、その仲間を大切にすることで周りの仲間が増えてチームはできます。お互いがお互いを信頼し合い仲間になっていく中で、自分自身というものにも出会います。みんな自分自身との関係づくりのなかで苦労したからこそ人に共感でき、その人を応援して励ましたくなるのです。

一期一会のご縁がある人たちと一緒だからこそ、絆は結ばれてかけがえないのない信じる仲間がある世界に生きることができるように思います。

ひとりひとりの存在価値が光り輝く昴のような集団を目指していきたいと思います。

 

遊び心~画一ではなく個性尊重を大事にするということ~

今の日本社会や組織の問題を見つめていると、画一化という教育とは何かというのが観えてきました。ほとんどの場所では、同じことを周りと同じように平均的に行うことが良いと教えられ、それを目標に刷り込まれてしまうと他とは異なるということをあまり良いことだと思わなくなります。

周りと同じであるかというのが平均ということで、その反対が独創というものです。

人と異なることを行うにはユーモアが必要です。これを日本語では遊び心というように思います。そしてユニークな個性が必要です。これを日本語では自分らしさというように思います。

日本人はもともと独創性をあまり重視せず真面目に周りと合わせていく中で困難を乗り越えようとしてしまいます。これがマジメすぎてアソビを失う原因ではないかと最近感じるのです。

以前、オランダに訪問した際、ある子ども主体の教育のコンサルティング会社の代表者より私が大変ユニークだと褒めてもらったことがあります。人と異なることを行い、それを愉しんでいるからという理由だったのかもしれません。そしてそれが我々が目指す子ども像だとも付け加えられました。

人と異なることをしないというのは画一化ということです。それはみんなを正解に従ってその答えになるようにコピーしていくということでもあります。そうやってコピーされていたら、マジメにやれるようにはなってもふざけたことはしなくなってしまいます。

特にふざけたことをすれば常識外れだと罵られたり、変人だと蔑まれたりしていればそのうち誰もそういうことをしない方がいいと思うようになっていきます。

しかし本来、一人一人の人生は別物であり同じことはありません。他人の人生は参考になったとしても同じ人生など歩めることもありません。だからこそ自分は自分なりに独創性をもって事に挑み、新たな道を常に切り開き続けていかなければなりません。

その時の正念場は、周りと同じことをしないということです。

そのためには、きっとこれで合っているといった固定概念に縛られないことだと思います。常に新しい発見と発明を繰り返しては、それを試行錯誤する。その中でユニークさもユーモアも磨かれていくように思います。

硬直した組織は必ず遊び心を失っていますし、硬化した人間関係も同様に遊び心が亡くなっています。

世紀の大発見も、時代を揺るがす大発明もすべては遊び心から産まれるものです。それはもっとも自分らしい姿から誘発されるものです。マジメでもフマジメでもなく、遊び心満載のふざけた生き方が硬直硬化した自分自身を解放してくれると思います。マジメそうにしてサボっていることの方がフマジメだと思いますから、いい加減にみえても本気であることの方が自分らしいと私は思います。

大人になるというのはサボらないこと、そして周りをコピーすることだというのはあまりにも虚しいものです。いつまでも子ども心を大切に一度きりの人生なのだからもっと遊んで愉快に道楽を歩んでほしいと思います。子どもたちにはいつもいつまでも愉快痛快に個性尊重し生きる自分の背中をみせていきたいと思います。

自然の評価

人は自己肯定観が低いと、どうしても他人の価値観や評価に合わせてしまいます。言い換えればあるがままの自分でいることよりも、周りの人たちの評価に合わせた自分を演じてしまうのです。言い換えれば自分の求めている評価が周りから手に入らないという執着の一つです。

これはありのままの自分というものよりも、皆に合わせている自分でいることを優先するときに本当の自分が分からなくなり苦しくなるのです。幼少期の体験が影響をしているとも言いますがそれは切っ掛けにすぎず、みんな自分が役に立っているかどうかを判断するのに周りの他者評価を確認するのです。

実際には、自分が相手を思うように相手は自分を思っていると実感することかもしれませんが自他一体に必要としあっているという感覚を持つには、お互いにありのままの自分で精いっぱいに生き切ることしかないようにも思います。

そもそも自分の存在や能力というものは、自分のものではありません。これは天や神仏、先祖から分けてもらった力であり存在です。それは何かに必要だからそのようになったともいえます。

たとえば、植物や樹木の世界でも多様性があり、時代に合わせて寒い時期に強いもの、温かい時期に強いもの、虫に強いものや、病気に強いものまでありとあらゆることに対応できるように微妙に分かれながら変化していきます。同時に強さというのは弱さが生まれますから、弱いものにも分かれていきます。

平均的にみんなと同じことができるから能力が高いのではなく、それぞれに与えられた能力や存在そのものが価値があるともいえるのです。

つまりそう考えれば、誰一人何一つ無駄なものはない。すべては必要であるということを意味するのです。しかしそれを自分が必要かどうかを周りにあわせて判断していれば、そのままの存在価値よりも相手が求めたことに応えられれば必要となってしまうのです。

もちろん役に立ちたいですが、立てないこともあります。その場合は意気消沈してしまいますが、その時同時に自分の存在はほかの誰かの役に立っていることが多いのです。

例えばある植物が花を咲かせてほかが咲かせないとします。ミツバチや蝶々には役に立てなくても、そのほかの虫たちや後からやってくる生き物たちには役に立ちます。自分がそう思っていなくても、自然界では自分らしく一生懸命に生きるのなら天がそれを調和してくださるともいえるのです。

つまり人事を尽くしていけば天命が下るように、自分自分を精いっぱいに生きていれば何かの一つの評価基準に囚われなくても必ず世界や歴史、自然の御役に立っているのです。もちろんお役に立ちたいと願うことは大切ですが、無理にお役に立つためにその人のための仕事を創っていたら周りのみんなも合わせるために大変になります。

自分の存在は天が与えてくださったものだから、一生懸命に楽しもう、一生懸命に生き切ろうと真摯に自らの道を歩むときに自己肯定ができると思います。つまり自己肯定とは、「これでいいのだ」と自分のすべてをあるがままに受け容れることです。

もしも自分が居なくてもいい存在なら、神様もつくっていないと思います。自分が気づかないだけで必ず自分は何かの役に立っているのです。自分が役に立たないと真面目に思うのは、人間の評価に縛られているからです。自然の評価に合わせていけば、雑草であろうが害虫であろうが、病原菌であろうが、すべて必要不可欠な存在なのです。

世の中にこうでなければならないという頑固さは、同時に他を排するといったマジメさを蔓延させてしまっているように思います。余裕をもって豊かに生きられるようもっとゆっくり、もっとじっくり、今の自分が存在させていただけることを味わいながら自分の存在のままで真心でつとめていきたいと思います。

自然の評価は、かつての祖神から受け継がれてきた古道、かんながらの道にあるような八百万の神々です。すべての生き物は宇宙地球の分霊であり、そのままに神々なのだから自分を認め大切にする真心をもって周りの神々を認め大切にしていきたいと思います。

御蔭様の本体

御蔭様という言葉があります。

簡単に言えば人はひとりでに生きてきたのではなく、多くの人たちの支えによって生きてこれたということです。ひとりの人間が生きて死ぬまでにどれだけ多くの人たちや神仏の支えがあっているのか、それを思うときに御蔭様を感じるものです。

たとえば、赤ちゃんの頃からお母さんのお腹の中で大切な栄養を分けてもらい、そして産まれてからも母乳をはじめ、大人になるまで食べ物を食べさせてもらって身体はできています。この身体も食べたものでできていますから食べてこれたということは、そこには確かな御蔭様が存在しています。親の存在を思うとき、御蔭様で生きることができる自分がいるのを実感し自然に感謝の気持ちに包まれます。

人はすぐに誰かと比較したり何かと比較して羨んだり嫉妬したりするものですが、実際はみんな誰しも生きているのなら御蔭様をいただいているのです。それを感じる力が下がっているだけで、御蔭様を思えばいつも見守ってくださる有難さに気づくのです。

人生とは全て丸ごと広大無辺の御蔭様で成り立っているものです。平等などという言葉は御蔭様を分からなくしていくだけかもしれません。太陽のように見返りを求めずに分け隔てなく選ばずに光を与えてくれるのが天の助けです。嬉しいなぁ、愉しいなぁと伸び伸びするのもその御蔭様を感じている心があるからです。

今の時代は、歪んだ個人主義が蔓延しお金さえあれば、能力さえあれば一人で生きていけると錯覚してしまいます。一人暮らしといっても実際は誰ひとり、ひとりで暮らしているわけではありません。

その周囲には、それぞれの生業の中でその御力をお借りしてはじめて生活はできているからです。食べ物を食べているのなら、間違いなくその食べ物の御蔭には他力の助けがあるのです。

つい不平不満やないものねだりをしてしまうときは、この御蔭様を忘れているのかもしれません。御蔭様の反対には当たり前があるのかもしれません、権利や義務を主張するとき、その御蔭様を忘れてしまってはいないか、其処に本当の貧しさがあるのです。

心豊かに生きていくというのは、足るを知り、もったいないと思うからこそ御蔭様での真心で感謝を実践していくことのように思います。

人間は常に御蔭様でと感じているときにだけ、有難うございますという心が現れてきます。何かをしてもらっているから有難うではなく、いつも見守って助けてくださっているから有難うなのです。つまり御蔭様でと感謝するとき、人間は助けてもらった御恩を思い出しその御恩に報いたいと心の本体の存在つながっているのかもしれません。

見返りを求めずに助けてくださる偉大な恩徳、その御蔭様ということでしょう。

私たちの心も魂もそして身体まで、地球や宇宙の霊魂を分けていただき存在するといいます。大地から分けてもらった身体、精霊から分けてもらった神体、先祖から分けてもらった心体、そんな大切なものを分けてくださっているからこそ御蔭様で今、生きています。

当たり前ではないことに感謝してはじめて御蔭様の本体を知るのかもしれません。
「ありがとう」の日々に見守られているからこそ「おかげさま」を実践し続けたいと思います。

草木咸能言語~心の共鳴~

人は対話を言語によって行う生き物です。自分とのかかわりやつながりができてくることで人は人と仲良くなります。仲良くなるというのは、お互いに関係しあっていくということです。

その関係の中で使われる言語について少し深めてみます。

そもそも私たちの意識というものは、関係性によってつながり合います。自分が何に関心を持つか、関心を持とうとするかで人間関係をはじめそれ以外との関係もまたできてきます。自分が何に関心を持っているかというのは、具体的には何とつながっているかということです。

それが家族であったり、友人であったり、お客様であったり、つながりはお互いの仲の間に存在します。これは私は人間だけに限らず、動物や植物、その他のすべてにおいてその人が仲善くしたいと思っているものとの関係性が対話となっていくのです。

関心というものも同じく、自分の心が関わり合っていくことでそのものとの良好な関係を築いていくことができます。相手がいるから私がいて、私がいるのは相手の御蔭様と、お互いに必要としあい思いやることでつながりが結ばれより絆が強くなっていくのです。

日本書紀にはこういう言葉が遺っています。

「草木咸能言語」(そうもくみなよくものをいう)

これは、草木には精霊が宿り、その精霊は言葉をよく喋るという意味です。そしてこれは草木だけに限らず、音を出す動物たちやあの昆虫や石や大地にいたるまでありとあらゆるものは言霊を発しているという意味でしょう。

これは関わり方によって異なっているのです。たとえそのものに目や耳や口がついていなくてもいいのです。また人間は目に見えないものを観ようとすれば観えるものですし、耳に聞こえないものも聴こうとすれば聴こえます。これはすべて心を用いて行うものですが、関心というものはその心の関わりによっていくらでも観えて聴こえることができるのです。

それは距離を超え、空間を超え、あらゆる垣根を超えて「言語(ものをいう)」によって語り合います。

心は無限、心は宇宙と同じように強い結びつきによってお互いを活かしあっていくのです。だからこそ自分からつながっていきたい、自分からかかわっていきたい、自分から好きになりたい、自分から大事にしていきたいと、自分から仲間づくりをしていくことで心もまた生長していきます。

相手に求めても相手は自分に語り掛けてはくれません。自分から相手とつながりたい、仲間になりたい、近づきたいと心を寄せてはじめて関係は強く結ばれお互いに善く「ものをいう」ことができるようになるのです。

つまり言語の本質とは、言葉の違いではなく、お互いの心の共鳴なのです。心が共鳴し合うからこそはじめて言語を語ります。言語とは自分の心を相手に寄せて相手の心を自分が感応することで共鳴しあう言霊ということです。

そしてそれはお互いが精霊であるということを証明しているのですから、大前提として対話とは心から言葉を用いて行うものであることを忘れないことです。

言葉が単なる道具やものになってしまえば、つながりも絆も遮断されてしまうかもしれません。言葉は何のためにあるのかもう一度善く考え直していきたいと思います。

心を傾けるというのは、自分の心が何を伝えるのか、そして相手の心から何を感じる取るのか、それは「思いやり」の心を通じ合わせていくということです。

必ずつながりは鏡のようにお互いを映し出すものです。そしてそれがご縁というものです。ご縁があるのは精霊が引き合うからかもしれません。祖神たちのように、あらゆる精霊と語り合っていた真心を、無垢で無邪気に言語を発していた好奇心を、大切に守り育てていきたいと思います。

当たり前の仕切り直し

日々に生活をしていると様々なご縁に出会います。

そのご縁は、不思議なもので人に出会うことで人は刺激され成長しあっていくのです。そういう一つ一つに導かれるご縁によって今の自分は存在しているともいえます。

あの時、あの出会いと別れがあったからこそ今の自分があるのです。そう思うとき、私たちの仕合せとは一体何のことだろうかと考えるのです。

人は当たり前であることの奇跡が当たり前になっていくことで当たり前が分からなくなっていくものです。よく考えてみると、太陽があり、四季があり、水があり、空気があり、食べ物があり、体があり、さらにはもっと目を凝らせば健康があり、家族があり、仲間があり、機会があり、仕事がありとありとあらゆるものに恵まれて自分があることに気づきます。

人は半分の幸せと半分の不幸があればどうしても不幸の方ばかりに目を向けます。もしくは半分の不足と半分の足があれば不足の方ばかりに愚痴をこぼしてしまうものです。しかしないものよりもあるものの中に当たり前ではない奇跡があるように思うのです。

失ったものを思うよりもそのことから得たものを、ないもの得ようと焦るよりも今あるものを探すことを見つめてみると如何に自分が偉大ないただきものとご縁に導かれて存在させていただいているのかを実感するのです。

人は当たり前ではなかったなと反省し感謝するとき、より当たり前ではないものに目が向くのかもしれません。ないものばかりを嘆くより、あるものを大切にしていく生き方が当たり前にせずに仕合せに暮らしていく働き方なのかもしれません。

「餡を増やそう」と私利私欲を優先しないとやっていますが、色々なことが起き、もっと優しい心や配慮をかけてあげられなかったかと反省すると私自身この当たり前の仕切り直しをしたい気持ちです。

どんな体験も当たり前ではない一期一会のご縁なのですから、すべては有難きと丸ごと受けさせていただき、そこで失ったものよりもそのことでいただいたことの方へと心を転じていつもご縁の素晴らしさに感謝していけるよう「日々の自己一心」の研鑽と訓練を続けていきたいと思います。

心はご縁により無限無垢に生長し広がりつづけます。

自分の体験は必ず誰かの役に立つのだから、精いっぱいに道を歩み無邪気な子どもが自然にあらゆることができるようになるように自分もまたそうありたいと思います。