本当の障害

昨日、障害児の保育に真摯に取り組んでいる保育園に伺った。

統合保育と別に逆統合保育という、世間で言う健常児と障害児とをしっかりと相互理解できるように独自のやり方を研究しながら職員皆で取り組んでいる。

この障害児保育には、関わる人たち全員の理解が必要で、誰か一人でも分かっていなければそれが発端になり様々な違う障害を起こしてしまう。

その障害は大体「大人」が一番問題になってくる。

ある話を聴いた。

ある自閉症等の障害を持つ子どもが、他の子どもに噛み付いて怪我を少しさせたそうだ。

そうすると、噛み付かれたその子どもの保護者と祖母が園にクレームを言ってきたそうだ。きっとその子をどうにかしろだの話しをしてくる感じだ。

その際、その事態の収拾をしてくれたのは噛まれた方の子どもだったそうだ。

噛まれた方の子どもは「○○ちゃんは、分からなくて噛み付くんだから良いんだよ。私がよけなかったのがいけなかっただけだから。」と必死に両親と祖母を説得してくれたそうだ。

園でよく見かける大人同士ではまったくかみ合わないドンパチも、子ども同士ではあっという間に解決してしまう。おかしな話だが本当のことだ。

それに似たことで続けてこんな話も聴いた。

その園では園庭にあるブランコを最近は取り除いたそうだ。

危機管理か何かの理由かなと伺ったら、保護者がブランコの順番待ちで喧嘩になるからだそうだ。なぜ保護者なのかと伺うと子どもの送迎時間に園庭で遊んで待っている際に子どもは他の子がブランコで遊んでいてもちゃんと並んで待つのもまったく平気なのに、大人が早くしろだの、どきなさいだのブランコを取り合いしたり横取りするので困ったことが起きたのだそうだ。

まったく、大人の方がよほどある意味でオトナになっていないものだなと観察しているとここでも現代社会の縮図がやはり園ではつぶさに観得る。

教育とは、いったい何のためにあるのかを分からないならやってはいけないのにマンネリ化して続けたからこんな感じになる。意味があるものを意味がなくすると常にしっぺ返しがやってくるものなのだ。

話を戻す。

子ども同士では、体がうまくいかない子ども、よく理解できずに困っている子ども、なかなか自然に集団に溶け込めない子ども、そういう子がいることはみんな自然にわかっている。

しかし、大人はそうはいかない。

世の中を知りすぎてしまい、大いなる刷り込みの渦中の中でそれがよほどイケナイことだと思い込み、自分の正しいという意識でその子にとっての幸せを勝手に決め付けていく。

そして、その決め付けが傲慢や驕りになりその連鎖が多くの大人たちに伝播して間違った社会の援助を行ってしまうことは往々にしてよくあることだ。

たとえば、世界では飢餓でたくさんの方々が亡くなっている。

そして、そういう世界を自然淘汰であり必要悪だと仰る方々もいる。

相手の立場でモノゴトを考えるのを止めた瞬間に人は恐ろしいほどに驕り、その中に自分勝手な正義を確立していく。

そしてそういう安易な考え方は、楽であるが故にどんどん集団や組織に伝播していきあっという間に刷り込み社会を形成する。

きっと裕福になり人間は富に満たされるとモノサシが自分中心にしていなければ、自分の中にある矛盾をどうしても受け容れることができないのだろうと思う。

子どもではできていたものも、与えすぎているとそういう「あるがまま」の気持ちがなくなってくることで「大人」になっていくのだから現実は本当に驚くばかりだ。

人間は、なぜだか分からない大いなる理不尽はきっと観たくないのだと思う。

『本当の障害とはいったい何のことだろうか?』

本当の障害とは、その人たちの意識ではないだろうか?
そして、そうしてしまいたい社会構造ではないだろうか?

「何も好きで障害を持っていたいという人はいない。」

みんなどんな生物も生きるという意味では平等であるのが当然だと思う。
それがどんな理由であれ、自分勝手に良し悪しを定めることはどうだろうかと思う。

できるならば、この幼児期の子ども達には大人の刷り込みはあまり与えたくないと願う。

子どもは、ちゃんと相手のことを思えるほど純粋にあるがままにこの世を観ている。そちらにもっとあわせてあげて、子ども達がこれから創ってく未来の世の中を楽しみにはぐくむ援助をしていければと心から願う。

解決の発掘

先日、ある園で理念形成のお手伝いをした。

その中でベテランの主任先生と色々な話をした。

経験があるというのは、解決方法をたくさん知っているということ。
そして、知っているとそれをすぐにでもやりたくなるもの。

よく話を伺っていると、才能が溢れている方や知識が豊富な方はすぐにそのやり方を指示し実行し物事をまたたくまに解決してしまう。

そういう方の持つバイタリティやエネルギーには驚くばかりだ。

営利企業ではそういう人が常に求められているし、そういう人はどこの世界でも評判が高いと思う。人材発掘の定義でも、そういう人は今のようなスピードが速く短い期間に成果を出すことを求める世の中では得てして人気が高い。どうも幼稚園や保育園でもそういう人は引っ張りだこで色々な現場に呼ばれることが多い。

そこでも力がある主任がヘッドハンティングされ、園を一気に改革しようとしていた。
異年齢や、コーナーなどもすぐに明日にでもやろうという意気込みだ。
きっと実行すれば、すぐに園の中はまたたくまに変わっていくだろう。

しかし、本当にそれが良いのだろうか?

私は経験ある方こそ問題はすぐに解決しない方も大切なのではないかと私は思う。

何でも人は、解決方法に向けて突っ走っていく。
もちろんそれは不安だからだ。

しかしゆっくりとじっくりと、その意味を観察するようなことが最近はあまり評価されないためか何か齷齪と「不安を抱えることがイケナイこと」だと何かについで急ぎ足で傾倒していく。

不安とは、安心の反対にあり常に不安がなくならないのが人間なのだ。
だとしたら、不安についても安心についてもなく常に中心軸は「意味を感じる」ことに観点は置くのがいいのではないかと私は思う。

その園では、主任と一緒にもう一度問題を観察しているうちにその根幹がもっと深いところにあることに気づいていただいた。それをもとに大変ですがじっくりとゆっくりと今年は一年間、すぐにでも解決できると思うものを三歩下がって『観察』しようとお互いが共通理解した。

どうせ力があってすぐに解決できるならば、もう少しだけちゃんと観察しようという定義だ。

どんなモノゴト、問題の中にはよく観察することで原因の大元の答えが横たわっていてその「意味」を発掘することで本来の歪みを見通すことができるのだと思う。

しかし、人間はその歪みを早く直したいあまり急いで事に当たろうとする。
そうしているうちに、同じようなことを何度もやっているだけで意外とほとんど前に進んでいないことが多い。

その場限りとは、問題から逃げたいだけで問題を受け容れているわけではないのだ。

では、「子どもが育つ」ではどうだろうか?

子どもという観点でモノゴトを観るとき、その子の人生を考え見通してみるとその子にとっての問題とはすぐに解決するよりももっと大事なものが其処にあることに気づく。

たとえば、何か子ども同士の関係に問題が起きたとする。

その際に、もちろん心身にとても危険なことがあるようならその見通しを持って止めるのだがそうでなければその問題は自分達で解決するように「観察」することが大事だと思う。

観察していると、なぜこれが起こったか?これが一体どこから来ているのか?この意味はどこにあるのか?などが次第に見通すことができるようになる。

そして、それを見守っていると余計なことはせずに「ほんの少し」の歪みを直せば周りは正常に循環をはじめる。

長いスパンでじっくりとゆっくりと焦らずモノゴトを観察することは、魂の力が必要なのだと私は思う。

子ども自身が抱えるその時々の問題をすぐに解決することがその子の将来にとってどれだけの機会損失になるのかを思うと心が戒められる。

私もせっかちな方で何でもすぐに解決したがる傾向があるが、最近は子どもを大事に思うように接していこうと戒めている。

『そこに「確かな意味」がその人にあるからその問題は発生した。
 それは、その人にとってもっともふさわしい問題だった。』

取り除くよりも問題と相手をそう尊び、敬い、寛く受け容れるようにしています。

今のスピード感ある時代の子ども達には、問題があったときにその問題を味わうだけの意味を感じる力や発掘していく喜びを持ってもらいたいと思う。

そのためにもまずは、自分自身辛いと思える様々な問題をよく咀嚼し、天が私に与えてくれている有難い試練として受け容れ、自分の自己研鑽の糧にしながらしっかりと、そしてじっくりと問題とともに一生豊かに歩んで生きたいと思う。

保育学ではなく保育道

昨日、事務局をしている保育環境研究所ギビングツリーのホームページをリニューアルした。

5年前に立ち上がったこの会が今では国を動かすほどの影響を与えている。

藤森代表がまったくブレずに小さなことの積み重ねを大事にすることで、これだけ大きな原動力を引き起こしている。

傍らで観ているとやはり藤森代表の実践哲学には、嘘や偽りが一片もない。
どんな時も、まずは自分がそれをやってみせるという凄みがある。

本物と仕事ができるというのは本当に幸せなことだと心から感謝に満ちる。

そして、そういう人と志を同じくギビングツリーとともにある方々も本当に素晴らしい。

それぞれが大変ながらも真摯に子どもを見ようとしている。カタチではなく、本質を観て子どものために何を自分がすることが一番良いのかを諦めずに悩み続けて実践を続けている。

その言葉の中には、常にどこか心の豊かさや自分の使命の重要さに気づいているようにも見える。

きっと心豊かに生きるとは、子どもの未来を創るとは、人が生きるということに真摯に向き合っている人にしかできないのだろうなとつくづく思う。

このサイトの中で以前よりずっと私がやりたかったことがある。

それは藤森平司先生との出会いからまったく変わらずそこにある理念の体現。

 『保育は、学ぶのではなく実践することです。実践とは子どもを見ることです、そしてその子どもを守ることです。』

と仰ったあの「見守る」の意味に出会った時の感動。

 『そして、実践することは保育学ではなくそれは『保育道』なのです。』

これをとにかくカタチにして大勢の方々に伝えられないか?

それをこの情報化社会のツールを駆使して、ブックレットにすることや場所を問わない会員間の交流、そして気づきの反復行動により実現できると感じているのです。

今、世の中はすぐ近くのことやその時々の瞬間だけを切り取って善悪を決めたり白黒を決めたりする。

それでは、取ってつけたような学問を尊ぶことになり、やってもいないことまでやっているような欺瞞や偽装がはびこるだけだと私は思う。

それで子どもが世界が本当によくなるのだろうかと思うと、やはり今こそ揺るがない理念を時代に立ち上げなければといけないと真摯に思う。

右か左か、上か下かなどを安易に決めたがる民衆というのは世界というモノサシでみたときどれだけ民度というものが備わっているのかと思うと本当に疑問に感じる。

だからこそ、ここでこそ、私たちの魂の起源、東洋文明の根底にある「道」(タオイズム)が私たち日本人には必要なのではと思う。

大和魂とは言わない、しかし、「中道や中庸など、どこにも決めずに真実に対して道を究める魂の練磨」はその人の生きる実践の中でしか身に着かないのではと本当に思う。

これからも私は、子ども達に対して分かったような知識や取ってつけたような真理は一切語らず、師匠と同じくただただ自らの実践のみの道を本懐としその中での後姿や歩む道筋だけを遺していけるように努めて生きたい。

そして一人でも多くの世界の発展と子どもの未来のために自分にしか歩けない道を歩んでいる方々と邂逅し、その方々と一緒に誰も通っていない道に一歩でも足跡を遺していければいいなと心から願う。

感謝

時と節

子どもを育てている保育や教育現場を見ていると社会や未来の様子が観得て来る。

そこに社会がミニチュアに凝縮して今の子ども達にまで影響を与えているからだ。
保護者の要求が、その時々の対処を求めるものばかりで長い目線ではないことも当然今の世の中を反映しているひとつだと思う。

今の社会は、長い目線でモノゴトを対応し難い世の中だと感じることがある。
マスコミが面白がって煽り立てている情報に対して大勢の国民がそれを正しく取捨選択する力もなく、有名人や芸能人の意見をそのまま考えずに鵜呑みにしてそれによって言い知れない不安ばかりを募らせて誰か一部の人たちにそのストレスや怒りを吐き出す。

ニュースを見ているとそんなにすぐに解決しないと気がすまないのかとも思ってしまう。
もちろん倫理道徳として集団社会のルールは絶対に守るべきは守る。当然だ!
理解していないで失敗したのならば、理解してそれを改善していけばいい。

それが育つということだ。
失敗があるから人は育つ、反省するから人はより立派に大きくなっていく。

未来のためにも「本物を育てる」という気をもっていくのが本当の社会のあるべきようではないかと思う。

なんだかガチガチにして失敗を許さない社会にして偽られ苦しんでいるのは自分たち自身も原因ではないのかと思うと本当に人間というのは学び方一つでどうにでもなってしまう生き物なのだなと私は思う。

そして私が伺っている幼児教育やまだほんの小さな子どものいる現場でもそういうことが日々の悩みの根幹になっているのだから、だからこそこの時代は私を含め、先生や園長が率先してその方面の情報リテラシー能力を新しく学び続けないと大変だなと改めて思う。

一方的に一斉に教えるという時代の考え方とは正反対なので、私たちの現場研修やコンサルティングの中でもこれから特に力を入れていきたいなと思っている項目の一つだ。

先日、ある園の経営会議に参加した中での話しだが、今、保育士や教諭が託児やサービスをする人のように定義されて保護者からの信頼が希薄になってしまっていてそれを何とかしていこうと相談された。

もちろん、そのためには新しい先生像を自園が定義するのが先決なのだがそれをやることと同時に職場環境も改善していかないとそれができるはずがない。

事実、現在保育に携わる人たちの職場環境は決して良いといえない。

社会で幅広いことを学ぶ機会も少なく、自分で体験して気づいたことで話し合ったり見通すために反省したりというゆったりとした時間も取れず、学校で教わったことがスキル方面の入り口だけ学んでプロとしての責任感だけを頼りに何とか狭い世界で今を忙しく乗り切っている日々を送っているようにも見える。また、積もり積もった仕事の量の整理、勤務時間や役割分担、職場体制の問題等々一つひとつ全てクリアにしていかないといけない。

それなのに今までの制度や過去の仕組みなどの刷り込みの方を今まで通りに優先していたらこの先もっと大変なことになるのではと本当に心配している。

また、定義といえば、保育の中での様々な定義も見直す必要性も感じる。

たとえば、ベテランという定義も長いからや行事やスキルが高いというだけになっているところも多く、今どうなのかというすぐに対処することには正しいという答えを持っている人はたくさんいるけれど数十年後の社会のことを鑑みて今、この子にいったいどうするのが適切なのかという答えを持っている人はほとんど居ないというのはどうしたものかと思う。

ベテランとはどうあるのがもっともその子その園によって一番良いのかをよく考え直さないといけない。

そして問題の解決についても同じように考えないといけない。

たとえば、園での出来事の中であるベテランのジャッジで先生や大人がその場をうまく解決したってそれに一体何の意味があるのかということもだ。

私はその時大人が先に早く解決することが、本当にその子にとってそれが本質的な解決というものに繋がらないと思っている。

問題とは、早く解決することよりも、その中に大切なことがたくさん篭っていることを知り、早く到達するよりもその中に大切なことがたくさん籠もっているのということを重視している。

それは見守る保育で学んだ発達との向き合い方とまったく同じことだ。

私は、カグヤのクルーにも同じように失敗に意味を持たせている。
自分らしく失敗したのならば、それでいいと思っているからだ。

私が思う本質的な解決とは「問題をその人がどう自分らしく乗り越えたか」ということに定義することにしている。つまり問題を自ら発見し、自ら自分らしく解決する意味の中にこそ人間としての本当の価値があるのではないかと感じているからだ。

その場しのぎで外圧が怖いからと安易に乗り切れば、必ずそのツケは後々大きくなってその人自身にも周囲にも巡り廻って来る。

だからこそ今、やらないといけないのだ。

定義もだが、まず本当に子ども達のことを思えばこれからは専門性として「時節の見通し」は何よりもこれからは重要な要素ではないかと話をした。

なぜなら子たちの生きる場所は、これからの未来の世界であり、常に変わり続ける社会の中にある。そしてそれは、どの時期、どの時点をその子にとっての本当の成功と大人や先生がみなすかで今の環境と教育や保育の処し方が変わってくることも鑑みれるからだ。

これからの先生の育成は子どもと同じで、たくさんのことを学び、社会の多くのことに正しい興味を持ち、刷り込みを取り除き、幅広い人間の器を広げた中で「あらゆる時節を見通す力」を身に着けることができれば良いのではと私は思う。

だからこそ、今の時代は環境を工夫するためにトップが最前線の現場に於いて立場の上下の刷り込みをおごらず謙虚に捨て去り、園長本人が正しい代表者(代わってその本質を表す者)として真摯に学び、現場と一緒になって自分が変わり続け正しくモノゴトを見通していくことが必要なのだと私は思う。

どの時点を成功とみなすというのは、代表者自身がどう考えているかで先生の現場での研修の時間や数、ゆとりの持ち方、休みの取り方、子ども達、保護者とのかかわり方、施設整備のタイミング、園長としての真心を持った現場の援助の仕方等々、そのすべてに大きな影響を与えてしまう。

だからこそ、常に代表者は『昔どうであったかをよく反省し、今が本当にこれで良かったのかと内省し、将来のために今自分が果たしてどうあるべきかを猛省する。』こと。

どんな仕事であれ、これが代表者、責任者というものの必須の心得ではないかと自分にも戒めにしている。

本気で思えば、人間は何でもできないことは決してない。
それが「想念実現」の理。
そして、人間社会に教育が在る本質ではないかと思う。

私は今まで生きてきてよく感じるのだが「生きる」というは、厳しいルールばかりでなかなかどうにもならないようなようで、その実、自分の在り方次第にどうにでもなるようなものだということを様々な体験で気づくことができた。

私がよく研修で使う「想念実現」とは私心を捨て去り善を以て絶対的に自分の信じる道を信じつくすという、他人はどうあれ自分へ向けた矢印がどこまで本物かどうかが常に試されるという意味になっている。

そして一度それを思い続ける決心をしたらその通りに如何に創意工夫を怠らず、真心と愛情を持って自らの行動と実践によって継続していくかが大事なのだと思う。

最後に、

どの時点を成功とみなすか?

そしてその子にとっての時節をどう見通すのか?

ここに普遍性があるから、人々はその人の理念に着いて行くのだと思う。

私自身、もっと世界観や死生観、歴史観や共生観、そして人間観に自然観など学び尽くすことをこれ以上これ以下なく持ち続けながら子ども達を導けるような仕事をしていきたいと思う。

そして自分自身が至誠を以てそれを多くのクルーや園長、先生や保護者と一緒に学び続ける実践し続けると心から誓う。

有隣

今年も無事に山口県萩市にある松蔭神社へ参拝することができた。

昔、松蔭先生はここから歩いて日本全国に有志を求めて、そして師を訪ねて徒歩で旅をしていたのだから本当に凄いことだと思う。

本気でなければ覚悟がなければ、きっと一歩も動けないのが人間だと思う。

どんなことも、常に自分がどれだけの思いで行動するかでその先の未来が変わる。ここに来るとなんだか分からないけれどとても安息な心持になる。

毎年、ここに来るのに松蔭先生の遺した新たな言葉をいつも発見できる。
同じものを観ていても自分の成長次第で、受け取れる言葉が変わってくる。

亡くなっても、亡くならない人がいる。
魂が生き続ける人がいるのは、本当に子孫にとっては心強いと思う。

もうここに居ない人でも、こうやって毎年邂逅があるのだから本当に人と人との出会いは素晴らしいことだと思う。

今回、松下村塾に来て遺品などがある資料館を拝観しているうちに気づいたのだがこの塾は今のカグヤのやっていることにとても似ているので驚いた。

少し紹介するとこの松下村塾では、身分は問わず誰でも学ぶことができた。

松蔭先生の理念や方針は、学問とは立身出世のためにするものではなく、時代を知り、国のために役立つ力を養うためにするものとした。

だから単に知識として学ぶのではなく、社会のために「行動する」ことに結びつかなければ意味がないと常に塾生に説いた。

これが松陰先生の教育の基本だったそうだ。

塾生たちはいつも一方的にただ松蔭先生の話を聞くのではなくその問題意識と危機感に対して「あなたはどう思うか?」「あなたならどうするか?」といった質問をなげかけられ一緒に考えた。

塾には決まった時間割りもなく、一日のうちでいつ来てもいいし昼間に仕事のある塾生は夜にやってくることもあったそうだ。遠くから通いでくる塾生もたくさんいた。

教科書は決まったものがなく、「その塾生の希望や適性を考えて、一人一人最も適当だと思われるもの」を与えていた。

そして塾生が広く社会を見聞することを説き、旅先で教えを受けようとする有識者に対しては、丁寧な紹介状をいくつも書いたそうだ。

そんな松蔭が旅先で志高く行動する塾生たちとたくさんの手紙をやり取りしたことが残っている。読んでいるとまるで自分のことのようにとても心に沁みる。

 「久坂くん、身近な人で、あなたにしたがって死んでくれる人は何人いますか。大事なのは議論ではありません。実行です。あなたの手紙には、一つとして実行したことから書かれたものがなく、みな空論。自分とかかわりのないことを論じるのは、誰でもできること」

 「金子くん、学問は、出世や金のためにするものではない。聖賢を学び、聖賢に一歩でも近づき、自分自身を完成させるためのもの。死をまえにした今こそ、損得からはなれた本物の学問ができるのです」

まだまだたくさんの手紙や言葉を塾生に遺したのだろうがそのどれを読んでいても心を打たれる。自分に反省をしながら、まだまだと塾生に自分の不甲斐なさを自分に矢印を向けて語っているものもたくさんある。

本当に学問を実践なさっていたということがよく分かる。
こういう立派な「人物」の周りにはたくさんの良い人財が集まってくるのだろう。

そしてその人物はその縁があった人の持つ個性を見抜き最大限活かしてあげて、その人にしかできない使命に気づかせその人の人生を立派に遂げさせ自立させていくことができるのだろう。

そんな人と一生のうち出会うかどうかでその人の人生がまるで違ってくるとしたら、人と人との出会いというのは奇蹟のような確率なのではないかと改めて思う。

私自身、ここ数年師匠を傍らで観ていてもよく思うことがある。

大衆化した世間の交流やフツウの人が好きな夜遅いお酒の付き合いなども一切せず、キチンと自らの内省の時間を取り一日一日の思いを大切にしながら丁寧に静かに自分を修め過ごしている。

純一高潔な人や謹厳実直な人はとかく近寄りがたく敬遠されがちなこともある。

しかし師匠の周りには、常に素晴らしい人たちに求められ囲まれている。
その人たちにいつも誠心誠意関わり、天命を尽くしている。

これは如何に峻厳、高潔で近寄りがたいと言っても真に「徳」さえあれば必ず人はそれを理解し、その徳を慕い教えを請う道人や支持するよき隣人たちが集まって来るという真理に繋がっているのだと思う。

論語にある

 『徳不孤、必有隣』

本当に徳のある人は孤立したり、孤独であるということは無い。

私自身も、まだまだしっかりと自己を修めていく努力に向き合い商売の品質が突き抜けるほどのサービスに向き合い、努力精進して子ども達にとっての立派な大人の模範になるような人物になることを誓い粛々と勇気を持って正道を歩んでいこうと思う。

初心と宣言2008

今年は元旦に専務の子どもが生まれた。

なんとした目出度いスタートだ!と心から感動するとともにその赤ちゃんの神々しさを見ていたら人間本当に素晴らしいと感じるのはこの瞬間ではないかと改めて思った。

「人間は、その全てを持って生まれてくる」という言葉を聴いたことがある。

正に、これ以上これ以下ない、無限の宇宙のような状態が赤ちゃんには完全無欠に備わっているように感じる。

言葉にすると、生まれながらに生きようと、自分で自立するんだと、何よりも本気で生きているその様、その姿がその一挙一動その全てが神々しく美しい。

大人になって何のために生きるなどと日ごろから自分を鑑みているけれど、赤ちゃんを観ているとそんな私の感情もどこぞの風のようにどこかへ吹っ飛んでしまう。

やはり「在るがまま」の自然のものには天の全てもかなわないんだなと改めて心から感動した。

今年は、この出会いから始る素晴らしい一年の幕開けになった。
この出会いと邂逅に心の底から感謝です。

・・・

昨年も本当に色々なことがあった。

人生触れ幅の大きさで度量が試されると言うけれど、なかなかその触れ幅の激動にあり、日々の平常の中にてその心の動静を正しく保っていくのは実践してみると本当に難しい。

様々な見聞からくる感情と、本能的な無数の煩悩から距離をただ於くのではなく相在する中にその本質を見出し、それを維持し静かに己を保つというのは困難を極める。習慣と鍛錬を続けさらなる不動の精神がこれからもいっそう私には必要で常に修己自己していく必要があるなと痛感した一年でもあった。

子ども第一にでき、次世代への推譲を第一義とする豊かで美しい社会の創造のためにもこの今を憾まず、この今のせいにはせず、この今の全てを受け容れてまだまだ力をつけなければと真摯に思う。

大志貫徹するためにも、昨年以上に念を強くして想念実現していきたい。

しかし昨年は、なんとか初心と宣言をやり遂げたこともいくつかある。

毎朝の論語の素読にはじまり、二宮尊徳の探求、致知を使った社内研修、日々の祈念、他人に対しての寛容な心の保持努力と傾聴、など今までできなかったことをなんとかいくつかを工夫できたような気もする。

しかしそれも人生一生涯懸けて行うことだと決めているのだからこの一年とわざわざ振り返ったっていまさらなと思うけれど、やり遂げたい自分のたった一度の人生に於いてこのような学びの出会いに触れたことに本当に感謝に満ちる一年でもあったなと厳かながら黎明のひと時に心から静かに感動する。

またここで再び初心に戻ろうと思う。

今年のテーマは、昨年から引き続き学び続けるものとともに昨年末に新しく師匠に戴いた『テーマに対して、スタンスをカタチで決めない。根本的な方にあわせていく』という本質に向き合い軸を決めないという心の弱い驕りと向き合うことに挑戦することになる。

どうしても心が何かを決めて膠着すると広い視野がなくなり素直でなくなり、心がどよめき次第に驕ってしまうことがある。

つまり心の状態が常に何事にも囚われない空のような境地を目指していくのもその一つなのだろうな。

また以上のこと以外に今年は、下記の言葉が私と関わるテーマになるだろう。

「本気 仁 世界観 寛容 公正な決断 六然 分度 本質 自立 自修 」

暦で振り返ると、今までの人生私の今の年齢はちょうど1万日程度生きてきたことになる。

それに今年もまた365日を付け足される。

この365日も、そしてこの今も、一瞬一瞬を深く噛み締めながら歩んで生きたいと心から願う。

私が関わる人たちが活かされ、自分が違うように他人も違うことを認められるような清らかな尊い社会を目指し、これからも自分にしかできないことで自献自靖の心を持って道を歩んで生きたいと願う。

どんな境遇であっても、将としての心構えを大事にしながら自分の社会での役目役割に真摯に正対しすると心から誓う。

今年も自分に矢印実践主義で挑み続けます。
宜しくお願いします。