磨く②~特技と自信~

昨日から磨くについて書きましたが、なぜ磨く必要があるかといえば自分の徳を引き出すためです。人間には一人ひとりの個性があります、特技とも言ってもいいし、特性とも言ってもいいと思います。天がその人にだけ与えた自分らしさとも言えます。

その個性や特技は、人間力に左右されます。人間力を伴わない個性や特性は世の中に活かせるものになりにくいからです。それを上手に扱える人がいればいいのですが、本来はその実力は自分で磨く必要があるのです。

日本には武士道があり、侍には刀があります。

刀は磨きに磨いても鞘から抜くことがありません。そんな毎回、何かがあるたびに刀を抜いていたら磨いている価値もまた失われてしまいます。その侍の価値は磨き貫かれた人間と刀に観照してその生き方を示していたのでしょう。

人間力も同じく、磨かれていない特技と磨かれていない人間性であればもともと天から頂いた力を世の中に活かすことができません。荒削りな特技では、先ほどの刀でいえば迷惑千万、むやみに周りを傷つけたり、怪我をしたり、すぐに破壊したりするからです。

もともと持っている特性や徳を引き出し、活かすには自信が必要です。それは真摯な場数によって失敗を繰り返し改善を続け、自己練磨、自己修養によって得られます。自信とは、自分に打ち克った数ではじめて自得できるからです。困難や試練は自分の魂を磨いてくれる試金石です、その苦労を自らかって出るような生き方や勇気こそが自信につながるのです。

知性ばかりを褒められる人は人の評価を気にして失敗を恐れては場数を避けようとしますが、それでは真の自信はつきません。自信は文字通り自分を信じることですから、本質に生き失敗を恐れずに苦しい方を選択しその苦労をじっくりと味わって楽しみに換えていくような努力が要ります。

最後に、磨くということについてある空手家の名言があったので紹介します。

「特技を磨くとは、自分を磨くことだ。自分を磨くとは、自信を磨くことだ。」(大山倍達)

そして自分の特技は、大義に生きた人にもっとも与えられるものです。そして大義を貫くからこそ自分が磨かれていくのでしょう。何よりもまず「初志」があって「貫徹」することではじめて磨かれるのが魂です。

そしてもう一つ、共感する言葉がありました。

「何のために強くなるか?それは自分に打ち勝つためであり、義を通すためであり、人を導くためである。」(大山倍達)

真の漢には、強く優しくなりたい理由があるのです。

そのためには常に自分と正対し、怠惰な自分に喝を入れては日々に自分に打ち克つ努力と精進が要ります。それが磨きの本質ということでしょう。気づき打ち克つ、つまり研磨するということはそういう今一瞬を生き続ける覚悟です。

まだまだ自分は本物の特性については分かっていません。自然の道具、本物の道具を学び、そこから特性を身に着けていきたいと思います。来年は、「磨く」ことをテーマに様々な実践を高める一年にしていきたいと思います。

 

 

磨く①~磨徳道楽~

今年は貝磨きの体験から磨くそのものの価値について再認識することができました。気づくことはできていましたが、気づきに気づくということには到達していなかったように思います。ここで磨くということをもう一度、整理して深めてみたいと思います。

磨くという字で思い浮かべる四字熟語には、「切磋琢磨」や「磨斧作針」があります。

「切磋琢磨」は中国の「詩経」の中で 「切」は骨や象牙を切ることで「磋」はそれらを研ぐことだとし、細工師の技工や完成した細工品に喩えて切磋琢磨は学問や精神・人格を磨き向上することを言いました。

そして「磨斧作針」の方は、学問に挫折した若い頃の李白が帰郷するか悩んでいるとき老女に出会い、鉄の斧を磨いて針を作っていた老女の行動から努力、根気の強さに反省し李白は学問に励むようになったことから、惜しまずに努力し続ければ、困難なことでも必ず成就することを言いました。

どちらにしてもここでの「磨く」というのは、忍耐と根気によって継続して実践を続けて已まないことを例えています。

磨くというのは、単に摩擦していることではないことがここでわかります。一見、無理で難しいと分かっていることであっても諦めずに励むことでどんな石でも磨けば光る玉になることを示しています。つまりは、そのものの対象に問題があるのではなく磨く本人にこそ問題があることに気づけるのです。

例えば、気付くという一つの実践があります。継続して実践していける人というのは、関心を失うことがありません。あのエジソンが何千回、何万回の実験と努力を通して新たな発見・発明を産み出したように根気強く丁寧に気付きを内省する人は同じ実践をしていても必ず確かに磨かれていきます。

それは本人が気づこうとするかどうかに由るからです。

単に同じことをしているから磨かれるのではなく、もっと改善していこう、そこから大切なことを気づいていこう、心を澄まして感応していこう、気付いたことを次に活かそう、「発見=気づき(徳)=発明」と精進するものではじめて磨くことができるからです。

「玉磨かざれば光なし」という故事があります。

この「玉」は丸い形の宝石のことで、 宝石が原石のまま磨かれなければ美しい光を放たないのと同じように、人もどんなに才能があっても、学問や修業を怠れば立派な人間にはなれないということ。これは 『礼記・学記』に「玉琢かざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず」という言葉よりの引用です。

人が道を歩むということは、日々に気づくということです。そして日々に気づく人は次第に徳が引き出されその器が出来上がってくるということでしょう。

磨く楽しみというのは道を歩んでいる愉しみであり、玉を磨くというのは徳を引き出していく歓びなのでしょう。

産まれてきては生きる意味を味わいたいのが人生です。その一度きりの人生がどのような自分を与えられたにしても、その人生をより善くしていきたいと誰もが願うものです。

生きている間、磨ける仕合せを味わいつつ実践を盡していきたいと思います。

同道志の御魂

今年も有難いことに無事に松陰神社に参拝することができました。また神社の近くの吉田松陰の墓地には、美しい花々が活けられ丁寧に手入れをされていました。

吉田松陰はその当時は処刑された罪人ですが危険を省みず17名の志士たちがその名を刻んだ水盤や花立、灯籠が供えられています。純然たる魂が感応し、その真心と意志を受け継ぐ者たちとして不退転の初心を決心したものだったのだろうと私には感じました。

志士たちというのは、我が身よりも大切なもののために生き切ろうとします。魂を優先して大義を盡す真心の生き方を師弟一体に学んだんではないかと静かに目を閉じ共感すると心に観えてきます。

そして吉田家の墓の中に吉田松陰を見守るように正面から見てすぐ右上に高杉晋作の墓もあります。

一緒に至誠の道を歩んで共に真心を盡した生涯の同志だったのでしょう。それは師弟というよりは、まるで同じ人物が容を変えて顕れているようにも感じます。魂というものは研ぎ澄まされ磨かれるほどに同一化していくのでしょう。

この同志の間には、道があることを実感する関係を吉田松陰と高杉晋作は築き上げました。今ならはっきりと自明するのですが、吉田松陰の「至誠」に対して、高杉晋作の「面白く」は同一のものです。

言葉の解釈というものは、その人の感じ方に由るものですが真心を盡すにはふざけなければならないのです。それだけ世の中というものが、本質的ではなくなっているからです。あの当時の吉田松陰は狂人や狂気だと周りに評されましたが、今の時代でも本質を維持しようとしたら変人やキチガイだと嫌われるものです。魂を優先するというのは、他人の評価など気にせずに信念を持ち、本質を最期まで貫くということですから他人ごとのような生半可な生き様では決して到達することもできません。

高杉晋作と吉田松陰の獄中からの手紙のやり取りの中に下記の文があります。

「世に身生きて 心死する者あり 身亡びて魂存する者あり 心死すれば生くるも益なし 魂存すれば亡ぶも損なきなり」

世の中に迎合し、知識ばかりを詰め込まれ刷り込みと妄想の中で生き流されるだけで死ぬなら心は失われてしまいます。如何に魂を優先するかは、初心の実践と本質の練磨によるものです。それを自分が先に生き切って省み発見したことを弟子に伝える「命懸けで生き方を教えている」松陰の真心の後ろ姿を感じます。

私にしてみれば真心を盡すというのは、面白きことのなきこの世を面白くすることです。与えられた天命に感謝し、真心こそ自然一体の御魂であると心に刻み、今を愉快痛快に遣り切って古来からの至誠の道を受け継いでいきたいと思います。

魂の指南書~循環する魂~

17歳の頃から数えて21年間、毎年、この時期に山口県の萩市にある松陰神社に参拝にきています。ここには青年期より憧れた吉田松陰の魂が息づいていて、自分の生き方と照らし合わせては四季を振り返っています。

魂の先輩に触れることで、どれだけ魂を磨いてきたか、体験を気づきに換えて如何に学問を深めたかを確認するのです。松陰神社の中にある、ある一角に心が穏やかに澄む場所があります。

同じように思想を遊ばせるとき、死生を超えたところで魂が触れ合うのかもしれません。ご縁は本当に不思議で、現実にはいない人であっても心中にはいつも生き続けている人がいます。自分もそういう生き方をし、子どもたちに永遠永劫の勇気を与えられるような大和の風土になりたいと願っています。

吉田松陰に留魂禄があります。これは死の直前に書かれたもので、いわば遺書のようなものです。この世と別れる最後の最期に記した思想は、魂の指南書とも言えます。命懸けで学び、命懸けで弟子たちに教えたものは何だったか、そこに全て籠められています。

「今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ 蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス秋冬ニ至レハ 人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歓声アリ 未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ 吾行年三十一 事成ルコトナクシテ死シテ禾稼ノ未タ秀テス実ラサルニ似タルハ惜シムヘキニ似タリ 然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ是亦秀実ノ時ナリ何ソ必シモ哀マン 何トナレハ人事ハ定リナシ禾稼ノ必ス四時ヲ経ル如キニ非ス 十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ 二十ハ自ラ二十ノ四時アリ 三十ハ自ラ三十ノ四時アリ 五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ 十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ 百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ 斉シク命ニ達セストス義卿三十四時已備亦秀亦実其秕タルト其粟タルト吾カ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ 乃チ後来ノ種子未タ絶エス自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ 同志其是ヲ考思セヨ」

果たして今の私は吉田松陰のような循環を、今を本気で生き切っているか、自分の生が後の世の子どもたちの教えになるような生き様であるか、ここに来るといつも未熟な自分を恥じ入るばかりです。

いのちを懸けて教えてくださったその魂の生き方を、守り通したいと思う同志は今でも産まれ続けています。私のようなわかりづらい人間に着いてきてくださる方々、支えてくださる方々がいてくれるのも、どこかに吉田松陰の見守りがあってかもしれません。

人生とは「四時ノ順環」である。

魂も自然の循環であることをしかと肝に命じ、何事も至誠と真心、正直に素直にかんながらの道の実践を盡していきたいと思います。

 

 

 

昴年会~忘れるものと忘れないもの~

昨日、大掃除が終わった後、社内にゴザやちゃぶ台を出し古民家調にアレンジして忘年会を行いました。今年は魚醬を用いた出汁に、昔ながらの手作りで作られた練物を入れて美味しいおでんを皆で食べました。

また夕方からは、福岡の自然農園の田んぼではじめて無肥料無農薬で収穫した御米の籾摺りを手作業で行い、その玄米を伊賀焼の土鍋で炊いて一緒に食べました。それに自然発酵のマッコリや、ドイツの白ビール、自然酒やなつめやしの焼酎など、本物に囲まれた贅沢な素食を味わうことができました。

里山でもなく田舎でもなく古民家でもなく、都庁の隣の新宿のオフィスの中でも創意工夫すればいくらでも生き方も働き方も直すことができます。

また忘年会ということもあり、苦労は労いゆるしては、楽しいことはより楽しくなるように一年の思い出を深くじっくりと味わいます。なんだか忘年会というと、世間では大酒を飲み大騒ぎをして嫌なことを忘れてしまおうという勢いですが、私たちの場合は実践できたこと、またその仕合せ、御縁を味わい引き続き理念を大切にしようといったまるで同志と楽問をしているようで有難い時間になりました。

本能は本物を尊びます。それは本物を本能は感知することができるからです。私たちは古代から今まで、どのように暮らしてきたか、そこにはご縁を大切にし感謝をおもてなしに換え、心の穢れを祓い清めて魂を磨いていくようなことをしてきたのではないかと感じます。

冬至を過ぎ、新しい太陽が昇るとき祖神達は心を澄ませたのでしょう。

色々なことがあっても、一円観、全部善いことに転じていくのは「子ども第一主義」があるからです。理念に助けられ、初心に救けられ、道を歩んでいけます。忘年会を通して、忘れるものと忘れないものをまた再確認できました。

最後に、「昴」という星があります。

昴は一つの星ではなく、その星の周りに在る星々の星団のことを言います。一年一年、一人ひとりが時を経ることで内省により魂が磨かれ光輝きまるで一つの大きな星の光のように煌いていく・・・一人、深夜に公園を歩いて帰りながらそんな「昴年会」であったと感慨深い時間を過ごしていました。

来年もまた昨日のような光煌く昴年会になるように日々に信を入れ、素直に内省を深めて精進していきたいと思います。

夢を与える~生き方~

先日、メンターから興味深い話をお聴ききすることができました。

それは小学校の道徳の授業で、講評で呼ばれた時のお話です。

その授業は、イチロー選手が努力して夢をかなえたというような話だったそうですが、先生が「イチロー選手がなんで夢がかなったと思いますか?」という質問に子どもが「努力したから叶いました」と答えました。それに対して先生もまたおおむね同じように努力したら夢がかなうのですよと言ったそうです。

それに対してメンターは講評を求められ、こういったそうです。

「イチロー選手は努力したから夢がかなったのでしょうか、そうではなく夢があったから努力できたのではないですか」と。世間では努力を優先して夢を持たせようとしますが、本来は夢が先で夢があるから努力もできるのではないかというお話でした。

これをお聴きしながら感じたのは今の時代は会社でも学校でも国家でも、頑張れば夢がかなうとか、一生懸命であれば救われるとか、真面目にやっていればいつかはよくなるとか、そういう理由で夢を諦めるなという励まし方が多いように思います。

よく見れば結果的に努力することばかりを強要しているような指導や教育ばかりです。本来、人は理念や目的があってそれに向かって努力する生き物です。あの進化論のダーウィンも、根気強く研究して発見をするのも夢があったからじっくりと待つことができたのです。

夢があるというのは、きっとこんな未来が来ると信じて待てるということです。そしてその夢がかなうと信じ切っているから努力することを厭わないのです。

努力する力ばかりを先に持たせようとすることも確かに善き習慣を身に着ける上においては大切かもしれませんが、人生において生きて観て実感するのは夢を持つことの方がもっと大切であることに気づけます。

その夢とは、企業が自社をアピールするために広告しているような願望ではなく、そもそもの本質である初心(理念)です。

人は「何のために」を自覚することで安心して夢を追いかけることができます。それがなくなってしまえば、夢から自分が逃げてしまうことになるのです。一体、何のために努力するのか、そこには自分を大切なもののために使って生きたいという人類の根底にある共通する夢があるからのように思います。

子どもたちが夢を観るのは、大人たちが夢中でいるからです。その夢中とは妄想ではなく、理念を真摯に実践しているという意味でしょう。

人生において子どもたちの身近にいる大人が苦しくても愉しそうに働くのは何よりの夢を与えるように思います。夢を創り与えるということは、生き方を示し生き方を与えるということです。

これからも理念を大切に日々に何のためにかということを忘れずに丹精を籠めて取り組んでいきたいと思います。

譲り合い~興譲と推譲~

上杉鷹山は学問を広めるために藩校を創設しました。その名前は「興譲館(こうじょうかん)」といいますが細井平洲が名付けたものです。「興譲」とは細井平洲の教えの根幹にあり、「譲(ゆずる)を興(おこ)す」と書いたものです。

 細井平洲も上杉鷹山も、学問を興すことで一体何を実現したかったのか、この二人が一緒に目指した社會が一体何によって実現すると信じたか、そこは「譲るを興す」のであると述べているのです。

細井平洲は人間にとって最も大切なことは「譲る」、つまり「相手を思いやる」ことであり反対に「思い上がり」、「相手のことを考えない自分中心の行い」が最も人の道に外れていると説いています。この「 思い上がり」とは、自分中心で「自分ほど物知りな者はいないなどと誇り、他人を見下す行い」のことで「人と人との交わりにあっては、この思い上がりの気持ちをなくして譲り合う気持ちをもてば、お互いの心が通じ合い、物事もうまく運ぶ」からであるといいます。

 二宮尊徳は「奪うに益無く、譲るに益あり」と言い切ります。

 相手を思いやらない心に「奪う」があります。人間がみんな自分ばかりを意識し、自分のことばかりを考えていては周囲の人たちからあらゆるものを奪っていきます。本人が気づいていないだけで、生き方が奪うになっていると社會は殺伐としたものになります。もしも生き方が謙虚で譲る実践をするのならば社會は次第に穏かで和やかに平和になっていくのです。

 この「譲る」という本質は、謙譲ともいいますが感謝を忘れていない生き方をしているかということでもあります。

 結局は自分が在るのは何の御蔭様であるか、自分が居るのは何の御蔭様であるか、自分というものが大いなるものにいつも譲られていることに気づける精神を持っているということです。

 そう考えてみると、自分の身体一つも両親をはじめ沢山の先祖の方々の譲りによっていただきました。また今の自分の大切な人たちのご縁も沢山の方々のつながりと譲り合いによっていただきました。他にも食べ物からお金から、時間から機会からすべては譲っていただいたものばかりなのに気づくのです。

 譲り合いが大切なのは、自分がいつも譲られていることに気づけるからです。いただいたものをまた譲っていく、その譲り合いの社會こと思いやりの社會そのものです。

 それがなくなるから自分の代だけですべてを搾取したり、自分たちの時代で奪い尽くそうとそれぞれが思い違いをするのです。人間の欲望は奪うにあり、欲望を超えるのは譲るにあるのです。

 人が人である以上、もっとも優先するのは「思いやり」であると孔子も説きます。

 人間愛とは思いやりのことですから、社會がどうやったら次第にそうなるのかを環境を通して子どもたちを見守るのが私たち大人の責任であり実践しモデルを示す義務なのでしょう。今こそ上杉鷹山と細井平洲に習い、「譲る」ということをもっと一人一人が日々の生活実践に於いて具体的な事例で学び直していく必要性を痛感します。

社業を通して、しかと足元を踏み固めて実践の質を高めていきたいと思います。

親祖の実践

昨日は今上天皇の81歳の誕生日でした。

日本国民の親祖であり、いついかなる時も家族同様に私たちの生活を日々に祈り大切に見守ってくださっている存在です。私たちは歴史を学ばなくなり、天皇陛下のことを誤解している人も増えてきました。

あまり身近に語られることもなく、むしろマスコミやニュースからは差しさわりのない内容やもしくは他国の権威を比較されて紹介されたりと自分たちの歴史を学んでいないからその価値を正しく認識することができなくなっています。

日本には神話があり、神話こそその国のはじまりを示すものです。その神話に触れる機会もなくなっているのだから、一体何を子どもに教育しているのだろうかと疑問に思う事ばかりです。親を慕うのは子にとって当たり前のことですが、その親を慕うと周りが過剰反応をして避けられたりします。もっと自分の国のことを自分自身で考えなければなりません、そのための責任なのです。

本来、民族というものはその創始理念を確認することで何を「一」に由るのかということを自分以上の存在を持つことで忘れないで自分の使命に気づき全うすることができるものです。それを気づかないように刷り込めば、自分への誇りや自信も生まれてきません。民族を怠惰に堕落するのは、その志や使命を持たないようにしていくことですから何よりも優先してきたものを証明する天皇陛下の存在は本当に有難いことと思います。

私たちに先祖から今の親がいるように、その祖先からのいのちや生き方が今の私たちに受け継がれ連綿と続いて残ってることを誠に有難いと思うように、天皇陛下が存在してくださることは何よりも有難いことだと思います。親がいるという安心感は何物にも代えがたいものです。

その天皇陛下の誕生日のお言葉にまた感じ入ることがあり、改めてかんながらの道を学び直した気持ちです。

「先の戦争では300万を超す多くの人が亡くなりました。その人々の死を無にすることがないよう、常によりよい日本をつくる努力を続けることが、残された私どもに課された義務であり、のちに来る時代への責任であると思います。そして、これからの日本のつつがない発展を求めていくときに、日本が世界の中で安定した平和で健全な国として、近隣諸国はもとより、できるだけ多くの世界の国々と共に支え合って歩んでいけるよう、せつに願っています。」

のちに来る時代への責任という強い言葉に気持ちが引き締まります。その上で、昭和天皇から学んだお話もありました。

「人のことを常に考えることと、人に言われたからするのではなく、自分で責任を持って事に当たるということは、昭和天皇の御言動から学んだ大きなことであったのではないかと思っています。」

義務と責任とは、自分で決心し責任を持つということで誰かのせいにはしないという覚悟のようなものです。一人一人の生き方として、自分の周りのところで義務を甘受し責任を果たしなさいというメッセージを受け取りました。

言葉や表情は本当に和やかで優しく徳に溢れた姿ですが、その真心はとても透徹なものを感じます。何よりも実践のモデルを示してくださる祖神様と照らし合わせ日々の実践を高めていきたいと思います。

御健康で長生きしてくださることだけをお祈りして、見守りに深く感謝いたします。

 

 

 

メンターとメンティ③~仲間の絆~

メンターとメンティという相互の関係についてもう少し深めてみます。

映画の三銃士を会社で見る機会がありました。先日からメンターとメンティの在り方を深めているのにちょうどよく、仲間を通してどのように人物が関わり合っているかを関係性の中から再認識することができました。

三銃士で有名な言葉は、「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために」があります。映画ではこれを「一心同体」と訳していました。

アトス、ボルトス、アラミスという国王直属の精鋭部隊で近衛兵でもある銃士隊で名を馳せる人物が三銃士です。そこにダルタニアンといった銃士を夢見る新人が入ってくるという話です。

これは会社でも同じく、生き方や哲学、そして実践をしている先輩に対して後輩が入ってくるのに似ている関係です。三銃士は絶妙な見守りを通して、仲間との信頼、結束の強さ、守るものの価値、自立しているモデルを自分たちのありのままの生き様を通して見せてはやらせてみて志に信を入れていきます。

もっと簡単に言えば自分のありのままの生き様を見せて本人に考えさせ、そして本人なりにやることを認めて覚束ないところはフォローしてあげるというように寄り添い大切に見守っていきます。

何かこの通りやれと指示命令をしてやったことだけを評価するのではなく、自分たちの生き方や生き様で手本を見せてはやってみろと挑戦を促し、その上でできないところはいつでもフォローするという安心感を与えます。そのフォローは出来事だけに限らず、ダルタニアンの向こう見ずで気が強い性格の弱点なども見抜き、三銃士は陰ながらフォローしていきます。

その中でダルタニアンは次第に助け合いを学び、成長し、立派に銃士として自立していくのです。

そもそもメンターとメンティとは、互いに信頼し合っているから絆が結べます。それは言い換えれば「一心同体」の関係です。それを仲間とも言います。この三銃士の話が美しいのは、本質的な仲間意識を観るからです。それは単に強い集団といるから安心というわけではなく、「一心同体」だからこそ安心だということです。

家族や真の仲間といった心の絆の清らかさと美しさを大切にしている安心です。

メンターとメンティとは生き方を通して、同じ生き方に共感し、その生き方をできるように見守り合い育ち合う存在ではないかと私は感じます。この関係は志と共にする生涯の「友情」と呼んでもいいのかもしれないし、同じ理念を掲げて命を懸けて共に戦う「戦友」と呼んでもいいのかもしれません。

そういう「真の仲間」に自分自身の心が絆を結べ、廻り合えることは何よりも仕合せなことだと思います。孔子や仏陀、キリスト、吉田松陰、同じ師を持つ弟子たちもまた、メンターとメンティだったのでしょう。

最後に、ダルタニアンは国王や王妃を助けた褒美として銃士隊になることを認められます。その信条は、国王を守るということの本質として真実、勇気など大切な生き方を貫くように約束します。

そしてダルタニアンがつい昔の癖で一人で何かを遣ろうとするときに、三銃士はその若者を引き留めこういいます。「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために(私たちは一心同体だ)」と、いつも仲間と一緒に闘うようにと促すのです。

三銃士はとても興味深い映画で、ここでは本当の強さというものは自分のみの力を頼り一人でやることではないと教えが入ります。真の強さとやさしさは、仲間の絆であるというストーリーです。

今の時代、なんでも一人でやることばかりを教育され刷り込まれてきましたが一人ひとりの真の自立において「仲間の絆」というものが如何に大切か、改めてメンターとメンティとの関係から観直してみたいと思います。

 

 

貝の年輪

昨日、久しぶりに貝磨きを体験してきました。

貝には不思議な魅力があり、貝のことを調べていたら樹木に共通するものがあります。一見、じっと動いていない静かな存在ですが杜と海の共通点も実感することができました。

ちょうど、7年前に「アイスランドガイ」(学名:Arctica islandica)という史上最長寿の動物が発見されました。なんとその寿命は400歳を超えるそうです。なぜ400歳まで生きられたのかは、いまだに謎のようで極寒の大西洋の厳しい環境の中で生きぬいてきた貝です。

その中身のいのちを守るのだから当然、貝殻もそれを守るのに相応しいものだったのでしょう。貝殻を観ていると年輪のようなものがあるのが分かります。これは樹木と同じく年輪をみて年齢を測定するのです。

昨日は、6000年前の地層から流れ出てくる貝殻を浜辺で拾い集めました。ちょうど前日が嵐だった御蔭で沢山の貝殻が浜辺に打ち上げられていました。その貝を拾ううちに、その貝の持つ歴史を感じたのです。

石でも樹木でも貝でも、一見死んでいるように見えるものですが実際は生きています。動物学的には死んでいても、時を刻むという観点からは死ぬことはありません。

これは心の世界の話になるかもしれませんが、生き死にとは単に活動しているかどうかだけではありません。歴史のように長い年月、悠久の時間をイキテイルという考え方があるように私には思うのです。

それは年輪に観てわかるように、太古の化石に触れると感じるように「重み」というものがあります。

この重みを味わうとき、そこにいつまでもなくならない存在に出会います。それが「時間」という存在です。時間という存在は、私たち個体が実感するような小さなものではなく丸ごと一体になっている偉大なものです。

その中の一部として存在し続けていること自体が「偉大な意志」ではないかと思えます。その偉大な意志が小さないのちを守っているのです。私たちも地球に守られるように、その大きな存在によって見守られています。

その見守られている存在に気づけるかどうかが、人生においてとても大切なことのように思うのです。貝磨きを通して、魂を如何に磨いていくか、なぜ磨くのかを考えるきっかけになりました。

改めてなぜ磨くのかについて年末年始の内省に深めてみたいと思います。