水は命の源

聴福庵の井戸を掘り進めていますが、ポンプで調査すると毎分200リットル以上の水が湧きあがって来るようになりました。膨大な量の水が流れ、まるで滝つぼから水が吹きあがってくるような井戸の様子に龍神様や水神様の気配を感じます。

昔から水は命の源といわれます。私たちの体の80%は水でできていますし、水を飲まなければ生きていくこともできません。動植物、ありとあらゆる地球上の生き物たちのいのちを見守っているのは水です。

この水は、単なるウォーターではなく日本ではお水といって「水」に「お」がつきます。これは「お湯」などもそうですが「お」がつくのはそこに精霊や何かの存在があると感じるからです。

朝一番に、もっとも清らかな一番水としてのお水を神饌として神棚にお供えし奉げるのもまたもっとも澄んだいのちの水の存在に「命の源」を感じるからです。

私たちが暮らしている地球の水のうち海水は、97.5パーセントあるといわれます。その中でも私たちが飲料水として使えるのはたったの2.5パーセントだということになります。しかも地下水であれば、井戸が必要ですしそれが飲料水に適していない水もあります。そう考えると飲料水として使える水は2.5パーセントよりかなり少ないことが分かります。人口が80億人を突破しそうな現代において、飲み水の不足というのは深刻な問題なのです。

今の時代は当たり前に水道水を捻れば水が出ると思われていますが、近い将来、必ず私たちは飲み水不足の課題に直面することになります。如何に水が命の源だったかを思い出したとしてもその時では遅いのです。私たちの先祖はその有難さを自分たちの体験をもって子孫へ伝えようとしてくださいました。それが水神様であり、龍神様なのです。

日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたカミとして 『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)と記されています。

水の神様として有名なのは全国に約450社ある貴船神社の総本社で旧官幣中社です。本宮の神が高龗神(たかおかみのかみ)で、奥宮が闇龗神(くらおかみのかみ)とされていますが、闇龗神と高龗神は同一の神、または、対の神とされ、その総称が龗神(おかみのかみ)であるとされています。

この「オカミノカミ」は『古事記』では淤加美神と記し、『日本書紀』では龗神と表記されます。「龗(おかみ)」は「龍」の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されてきました。また「ミヅハノメノカミ」とは『古事記』では弥都波能売神、『日本書紀』には罔象女神、水波能売命などとも表記され、灌漑用の水の神、井戸の神としても信仰され、祈雨、止雨のご神徳があると信じられ祀られてきたといいます。

命の源になっている水の存在は私たちにとっては神様そのものです。私たちが生きていける源が水ですからそれが穢れないように汚れないようにいつも澄ませていただきますという敬虔で謙虚な心が子孫が繁栄し悠久の年月安心して暮らしていける基本になっていたのでしょう。

今のように空気が汚れ、川や海が汚染され、いよいよ私たちは地球に住みにくくなってきました。消費経済、貨幣経済ばかりを追い求めているうちに命の源の存在も忘れそれすらもお金のために利用しようとする始末。果たして子孫のことを思うとき、今の世代の私たちのことをどのように思うのでしょうか。

子どものためにも、いのちの水を学び直し、井戸の甦生を通して暮らしと信仰を見つめ直してみたいと思います。

水神様

昨日は聴福庵の井戸堀りを一緒に手伝ってくださっている井戸掘り職人さんと井戸に入り手掘りで掘りこみました。もう井戸は約6メートル来ましたが、残り30センチで仕上げをするために手掘りを続けています。

ポンプで水をあげながら掘り進めるのですが井戸穴がかなり狭くほんの小さな隙間から砂利を上げていきます。井戸の水量が大変多いためポンプの容量がいっぱいでも水位があまり下がらず太腿まで水が浸かる中で掘るために全身びしょぬれになります。

また現在の砂利は赤っぽく、今までに見たことがないような色合いのものですが井戸職人さんにお話をお聴きするとこれは川砂利といって川の底にある砂利が出てきているそうです。もう相当な昔にあった川砂利が、地下水脈で浄化され綺麗に光っている様子に心が洗われる思いがしました。キラキラと輝く石たちは、地下に綺麗な水が流れ続けていることを証明しています。

この地下水脈の水は、自然の水ですから渇水時期には水位は下がり、水が豊富な時期には水位が上がります。なのでその上がり下がりがあっても水が溜まっているように渇水時期に合わせて掘り進めなければなりません。

自然や地球環境は、私たちが思っていないところで大きく地下でも変動しています。そう思えば、地球環境は上空や地上だけではなく常に密接に地下ともつながっていて自然の生物たちはその変化の中で順応して生きているとも言えます。

昔の人たちは、この地下水の存在を知っており、ここに冷たくきれいな水があることを知っていました。井戸から湧き出てくる水は、滾々と湧きあがり心身を澄ませてくれます。

人生の中で、水のカミに出会う機会は美しい滝や湧水、清流などで感じたことがありましたがこの地下から湧き出してくる水のカミとの出会いは人生ではじめての体験になりました。

太古の昔から、人々が地下の水神様とお祀りする意味が、今回の手掘りの井戸掘りではじめて理解することができました。

竈で火そのものを崇めるように、井戸で水そのものを崇め奉るということ。その火、水そのものの精霊の御蔭様で私たちは生かされていることを忘れないという感謝の心です。

地下水脈に流れる水によって禊をし、龍神様を感じて生きていくというのは私たちの先祖が代々大切にしてきた農的な暮らし方です。自然農の時も、一人で野に立ち最初の一鍬からはじまりましたが、今回の井戸も一人で水中に立ち最初の一掘りからはじまります。

人々の心の荒蕪を心田を耕すように、水田も掘っていこうと思います。

引き続き、初心を忘れずにあらゆる存在に感謝しながら精進していきたいと思います。

 

和の環境

先日、私たちがいつもお世話になっている園長先生に聴福庵に来庵いただき泊まっていただく機会がありました。その方々はとても感受性が豊かで、懐かしいものを愛し、子どもたちの心のふるさとにしたいとそれぞれの園を真心で運営なさっておられます。私も何回も訪問させていただきましたが、子どもたちの姿が落ち着いており職場の雰囲気も明るく楽しい安らぎの和の環境が醸成されていました。

日本という国は、そもそも「和」というものを尊んできた歴史があります。それぞれの持ち味を尊重し協力して共に暮らしていこうとする生き方です。その持ち味を尊重するには、同じ方向を向いている必要があります。向かう方向がバラバラであれば、それでは持ち味は出てきませんし活かせません。

この持ち味というものは、前提として和の環境があり、全体丸ごとの状態の中で個のそれぞれの持ち味が発揮して出てくるものですから個になったり自分勝手にやっては決して持ち味にはなりません。

だからこそそれぞれがどこを向いて生きているか、何を大切にして生きていくかはとても重要なことになってきます。このどこを向いて生きているか、それはつまり言い換えれば「信仰のかたち」とも言えます。この信仰というのは現代では宗教の専売特許のように扱われていることが多いそうですが、これは本来生き方のことを示す言葉です。

その人が何を信じて生きていくかが信仰の原点であり、どういう生き方をしていくかが信仰の実践です。そしてこの信仰が長い年月をかけ、様々な人々の間を伝承され暮らしの中に息づいていきます。それが私たちの生活文化であり、暮らしの実践ということになります。

先日、私たちが実践した天神祭もまた暮らしの実践の一つです。菅原道真公をお祀りし、自分たちがどのような生き方を実践していくか、そして何を大切に生きていくかを学び直しそれが暮らしの中の一つの行事として遺って子孫へと譲られていきます。

まさにこれも行事を通して信仰が暮らしと同化して私たちの生活に活かされていきます。これらの信仰が方向性であり、私たちは暮らしを通して方向性が定まっていたからこそ和の精神が醸成されたように思うのです。

和の心や和の精神とは、私たち日本人の先祖が長い時間をかけて大切にしてきた生き方そのものであり、その和に向かっていくからこそ持ち味も活かされ平和を創りだすことができたのです。

そしてこれは決して古くはなく、新しいのです。温故知新はまさに企業や組織の運営にも役立て、これからの時代の新しい和の経営すぐに活かされるものです。私の本業もまたこの和が基本です。

引き続き、子どもたちのためにも暮らしの実践を通して和の甦生に取り組んでいきたいと思います。

品を磨く

懐かしい道具には懐かしい品があります。この品は、そのものがどのように出来上がってきたものか、またどのように使われてきたか、そして長い年月を経てどのように変化してきたかというものが顕れてきます。

大量生産大量消費するものには品があまり感じられないのは、質が異なるからです。よく品質の良し悪しを観て品質を見定めるというものがありますが、質とは品であり、品が質のことですが品質とはつまりそのものが持っている本物の姿であるということです。

品という字は、そもそも品格や上品、気品といって最上のものを語られる言葉で使われます。つまりは品とは、そのものの価値であり、そのものの本質、そのものが顕現していることを品といいます。

これを人で例えば、その人がどのような心や精神の人物か、またどのような生き方をしてきたか、どのような信条を持っているか、どのような存在価値を持っているか、そこに品が顕現します。

古い道具は品があるのは、それは作り手や使い手が長い年月正直に磨き上げ、そして育て、さらには真心が伝承されてきているからに他なりません。人の心が入らず、工場で不自然に簡単便利に加工されたものはどうしても品が失われるのは道具本来の本質の価値が磨かれていないからです。

品を磨くというのは、ただ道具を磨けばいいのではなくその道具によって磨かれるということです。切磋琢磨とも言いますが、自分自身のガサツな性格を磨き直し、心を丁寧に入れて丹誠を籠めるような生き方を変えていけば品もまた備わっていきます。

品質や品格といったものは、大切に育てたいのちの醸し出す薫りのようなものですがその薫りが周囲を穏やかにし懐かしい気持ちにさせてくれます。

生き方の学び直しは本物の道具に触れることからです。

引き続き、本物にこだわり品質を高め恥ずかしくない品格を道具から学び直していきたいと思います。

人類の光

昨日は、ギビングツリーが主催するドイツ研修に参加した過去の方々が福岡に集まり大同窓会が開催されました。約16年間、延べ320名の方々がこの研修に参加し、主催の藤森代表は16年間毎年訪問し続けたことになります。

ドイツからもいつもお世話になっている現地の通訳の方や、現地で学校を手配してくださるミュンヘン市職員の方も参加され味わい深い同窓会を過ごすことができました。

藤森代表からもドイツに行く理由は、ドイツにこの通訳の方と現地の手配をしてくださっているお二人がいてくれたこと、また一つの国での変化を見続けることで自国の課題をも乗り越えるヒントになったこと、それが長く続いたことではないかともありました。

私にしてみれば、これだけ長く続けられるということはお互いに切磋琢磨しながら学びを深めているからのように思います。お互いの善いところを学びそれを日ごろの学問に活かすという姿勢があるからこれだけ長い時間をかけて取り組んでこれたようにも感じます。

今では海外旅行などは単に珍しいところを見に行ったり、体験したがないことを楽しんだり、娯楽を中心に面白いものを観たりすることがほとんどになっています。しかし本来の観光の意味は中国『易経』の「国の光を観る、もって王に賓たるに利し」という一節に由来しており「国の威光を観察する」という意味になります。

私が体験したこのドイツ研修はまさにこの古来からの意味である観光であり、それはその国の文化の美点や精神を学び、観察するということに他なりません。私がこのドイツ研修から学んだのは、日本の文化の素晴らしさでした。それはドイツと比較して競ったりするようなものではなく、ドイツを観察することで美しい文化に触れ、同時に自国にも同様に美しい文化があることに気づき直したのです。

改めてドイツ人の精神性や心を学ぶことで、私は日本人の精神性や心を学び直しました。お互いに美点や善いところを活かしあえば世界はお互いを伸ばし活かす磨き合う美しい関係が持てるように思います。

日本の文化が深まっていけばいくほどに、他国の文化の理解も深まっていきます。

子どもたちや人類のためにこれから世界に出ていき発信し道を伝えていく使命をいただく中で、私が今学ばせていただいているものは無二の文化、人類の光です。

引き続き保育は生き方だと肝に銘じ、本質を学び続けていきたいと思います。

 

和合

昨日は無事に聴福庵での天神祭の実施と勉強会を実践することができました。菅原道真公をお祀りし、場を整え、寺小屋にし学問とは何かについて話を深めていくことができました。

改めてご縁というものの不思議さ、そして初心の大切さを感じる機会になりました。

裏方では、みんなで力を合わせてお祭りの準備を行いました。最初はお祭りのおもてなしとはどのようなものをすればいいのかと悩みましたが、結局はご縁がつながって生まれた物語を辿っていただけでした。

例えば、地域の氏神様が天満神社だったから最初の勉強会と実践が菅原道真公の天神祭になったこと。そして菅原道真公といえば梅を愛したことで有名だったので、梅に纏わる道具や梅料理を用意することになったこと。その梅も太宰府天満宮に信心深い方からの紹介で素晴らしい梅をいただいたこと。その梅を、梅干しや梅酒にしたこと。さらに80年前の梅干しと出会い、その梅干しのみで炊き込みご飯を備長炭を用い竈で炊いたこと。その炊き込みご飯のお皿は神社でお社にかかっている竹を刈りその竹を割って削り創り、室礼もまた境内の参道にかかる紅葉などを用いて飾ることになったこと。ウェルカムドリンクもある染の老舗の方からお譲りいただいた年代ものの梅ジュースを出せたこと。お味噌汁は、地域の方々と一緒に創って発酵した味噌を使い、かつお節も物語ばかりでしたが、その本節を削り出汁を取ったこと。さらには恩師が別の講演会でタイミングよく福岡にお越しになっていたことなど、他にもご縁を辿ればキリがありませんが様々な組み合わせと物語によって出来上がったのです。

これらの偶然が重なりあって、奇跡のような天神祭を執り行うことができました。これらの御蔭様を思うとき、私たちは本当にありがたい貴重な体験をさせいただいたことに気づきます。

当日のお祭りの裏方は何をするのだろうかとわかりませんでしたが実施してみると、みんなで協力して助け合い、まるで昔の日本の寺小屋のように学び合い、ご飯を共に作り合い、食べ合い、片付け合い、手伝い合い、まさに「和合」した姿が随所に垣間見ることができました。

和合という言葉も、ようやく私の心にストンと落ち着いてこの体験が和合であったのかと日本文化の持つ、一緒に働くことの仕合せを懐かしく感じました。

恩師からは「自分の人生のゲストではなく、スタッフで生きていく」ということの大切さをも教えていただきました。これは単に主人公であることを言うだけではなく、みんなで能動的に和合する生き方、つまりは共生と貢献、利他に生きつつみんなで一緒に働きを活かし合って協力して生きていこうとする人類存続の智慧の言葉です。

この天神祭の体験から私は子どもたちに遺し譲りたいもの、人類の理想の形を発見することができました。この奇跡のようなご縁を活かし、世界に大切なことを伝えられるように実践と精進を重ねていきたいと思います。

誠の道

昨日から恩師に郷里の聴福庵に来ていただきご案内しながらおもてなしをさせていただき御蔭様でとても味わい深い一日を過ごすことができました。思い返せば、人生の出会いの中でも自分を変える大きな転換期に恩師とご縁をいただき導いていただいた御蔭様で今があります。

人間は誰もが平等ですがもっとも運を育てるのは、尊いご縁に気付けるかどうかでその人生の選択を左右していくものです。それは自分がどのような志で生きていくか、何を求めているかで自分に与えられた天与の道が開いていくのも同じです。そしてその道によって自分の求めているものが明らかになって意味づいていくことで仕合せが訪れます。

人々は恩師からは天与の道をどのように歩めばいいか、それを目的地よりも大切な生き方を教わります。それが師の存在の有難さです。その師恩は遠大であり、返そうとしてもそう簡単に返せるものではありません。だからこそ次の世代に自分と同様に、道を求めるもののために次の道を繋いでいくことが誠の道であり、また恩師への大切なご恩返しになると私は思います。

今日は此処で第一回の天神祭の勉強会を実施しますが、菅原道真公からいただいた学問の恩恵、和魂円満を恩師と共にお祀りできることに無二の仕合せを感じます。

時代が変わっても恩義に報いていくという生き方は、誠の道として遺ります。

引き続き、子どもたちのためにも大切な清らかに澄んだ心で丹誠を籠めて楽しく豊かに道を歩んでいきたいと思います。

壁と共に生き続けるもの

昨日は、聴福庵のおくどさんのある厨房の壁の漆喰塗りを会社のクルーたちと一緒に行いました。左官職人の方のご指導のもと、みんなで鏝を持ち塗っていきましたが慣れない作業の中でも笑顔で楽しく味わい深い時間を過ごすことができました。

漆喰風のものが出回っている中で、材料を調合する過程からすべて見せていただき安心してこれが漆喰本来の姿であることを教えていただきさらに壁に愛着が湧きました。

かねてからみんなで一緒に塗った壁を眺めたいと念じていましたが、今朝がた早起きして陰翳の中で豊かに映りだされた模様や、個性があって味わいがある壁にうっとりとしました。

自然物の美しさというのは、マニュアルような技術でできるものではなく生きものそのもののいのちを扱いますから一つとして同じものはありません。画一化されて工業化してマニュアル化された近代においては、いつでもどこでも同じものができることを最良であるという価値観になっていますが、昔ながらの懐かしいプロセスの中には、お互いの信頼や尊重、そして一つ一つに刻まれたその瞬間の思い出や意味が籠められていきます。

こんなに豊かで楽しい時間を過ごしていたのかと、左官職人さんの感じている豊かさや仲間と一緒に生きていく歓びを改めて感じます。

また土をみんなで塗っていると、ある人から子どもが遊んでいるみたいと言われましたが本当に子ども心が湧いてきて夢中でみんなで塗ったのであっという間でした。終わった後の充実感も一入で、子どもはこうやって自然物を触り水と土といった融和したものを人生に取り込んでいたのかと大切なことを学び直した気がします。

みんなで一緒に楽しく塗った思い出は、壁と共に生き続けていきます。きっと京都や古民家で観てきた漆喰の壁も、その時代時代の左官たちがみんなで和気藹々と誇りと志を持って塗り込んだ壁だったのでしょう。だからこそ壁を眺めていると心が感応しいつまでも魂に響いていました。

今、ここで子どもたちのためにとクルーたちと一緒に志で取り組んだ壁もまたいつまでもこれからの世代の心に響くものになってほしいと願います。生き方の甦生は、日本人の大和魂の甦生です。

明日、いよいよ節目となる第一回目の天神祭の勉強会の実施です。

一つ一つをみんなと一緒に空間に宿し遺しながら、初志貫徹の第一歩を踏み出していこうと思います。

伝来の宝

いにしえより伝来したものに触れていると仕合せな心地がします。特に経年変化によって木が飴色になったものや、古鉄を磨いたときに出てくる深い黒色、それに土壁の中からにじみ出てくる錆び色、反物がしっとりと濃い蒼色になっている姿が美しく、心が落ち着いてきます。

色が変わっていくというのは、単に明暗が出たり強弱がついているのではなく暮らしそのものが出ているのです。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」と松尾芭蕉はおくの細道で詠みましたが、まさにその境地を感じます。伝来ものというものは、まるで旅人のようにこの永遠の月日の中を彷徨いながら旅をします。そしてその時々にその時代の伴と出会い、一緒に過ごしながらまた色を深くしていきます。

薄明りの中で、しっとりと反射して映ろう古い伴は心の安息を与えてくれます。

私たちは本来、伝えるということと承るということを通してかつての親祖や先祖たちに出会い続けていきます。根からつながっていると実感することは、今の自分があることの仕合せを感じるものであり、そういうものと触れていたらいつも心が穏やかです。

わびさびは、その旅人の境地でありその旅を住処として永遠を漂うことは不幸ではなく無尽の幸福でもあります。

古いかつての仲間たちに囲まれながら、未来の子どもたちを見守り続けるというのは自分自身の心にも感応するものがあり、決して本質を見誤るなよ、決して安易に流されるなよとつかず離れずに見守ってくださっているかのようです。

懐かしいと感じる心は、日本人の心のことです。

この懐かしさこそ、伝来の宝であり私たちはその宝を子どもたちに譲っていく責任があると私は思います。引き続き、日本人としての生き方の甦生を実践しつつ脚下の実践を仲間たちと一期一会に味わい楽しんでいきたいと思います。

日本人の心と言葉

日本語には、深い意味があるものがたくさんあります。そのいくつは、外国語にも訳せないもので「モッタイナイ(MOTTAINAI)」とそのままの音で世界では認知されています。他にも「オモテナシ」や「ムスビ」、そして私たちが取り組んでいる「ミマモル」もまた古来からある外国語にそのまま訳すことができない素晴らしい日本語の一つです。

先ほどの「MOTTAINAI」は、日本では当たり前に「もったいない」と使われますがこれをアフリカで初のノーベル賞受賞者のワンガリー・マータイさんが日本に来た時に出会って感動しそのままの言葉で世界共通語としたのです。

具体的には『3R+R=MOTTAINAI』と表現され、意味は〇Reduce(ゴミ削減): Produce less waste.〇Reuse(再利用) : Use things over and over for a long time.〇Recycle(再資源化): Spread things around so they can be used repeatedly.の頭文字の3R。それと+して〇Respect(尊敬): Respect people who value the MOTTAINAI concept.が入っていると説明されます。

具体的には、農家さんがつくってくださったものに感謝し、お米一粒でも無駄にしないようにという心や、今まで助けてお世話になった古いパートナーだからこそその御恩を忘れずに粗末にしないようにしようといった日本人の元来持っている大切な感性のことを「尊敬」という言い方で整理したように思います。

日本語にはどれも、御蔭様や感謝の念が入ってその言葉が素晴らしい響きを持ちます。

現在ではこの素晴らしい日本語が消失してきています。日本人が日本語が分からないというのは、日本人が日本人の心が分からなくなっているということです。日本人の心を失った人たちが増えれば、それまでにあった日本人が使っていた古来からの素晴らしい言葉もまた同時に失われます。

日本人の心が美しい日本語を産出し、その美しい日本語が使える日本人が美しい心を持ったまま暮らしていたのでしょう。私の祖父母の時代は、その美しい言葉をたくさん会話の中で用いていた記憶があります。

それが失われてきている今だからこそ、敢えて古来からの日本の言葉にこだわる必要を私は感じます。「MIMAMORU」もまた、「信じきる」といった日本人の心が入っている言葉です。この言葉が世界共通になるとき、世界は今よりももっと子どもたちが創り出す未来に安心できるように思います。

引き続き子どもたちのために古民家甦生もそうですが言葉の甦生、日本の大和心、大和言葉の甦生にも取り組んでみたいと思います。