心の結

田んぼにお水が入り、田植えの準備がはじまりました。周辺の田んぼは田植え機で行っていますが私たちのむかしの五穀田はすべて手植えで行います。同じ田んぼであっても、見た目が同じでも実は全く別のことを行っているということは多々あります。

これは暮らしも同様です。

私はすでに自然に遵って徳を磨く農の場づくりを東日本大震災以降から15年間取り組んできました。本来の人間性を磨き、徳を養う修養道場のような場づくりをしてきました。

田んぼの中でいのちが活き活きする場を観て、自立する元氣な稲と触れ、太陽や月や雨、風や光や音などが育つ場をつくることを学んできました。

いのちが育つ場とはどのような場なのか、それを只管に追及してきました。

その中で、自然のリズムを学び、仲間を学び、自分を学び、感謝を学び、見守ることを学び、一緒に生きることを学び、いのちの循環を学びました。

本来、人間性が甦生するための修養の場とはどのようなものでしょうか?

それは単に知識を増やすことではなく、技術を身につけることでもなく、むかしは自分の心身を整えることや、人格や徳を磨くこと、天地自然との調和を学ぶことだったのではないでしょうか?

そのような場づくりをしたいと、古民家和楽と田んぼの場で取り組んでいくのが暮らしフルネスの人づくりなのかもしれません。

暮らしフルネスの人づくりは、「人と自然と共同体を再び結び直し、人間の本来性を甦生させるための場づくり」でもあります。

これは英彦山で行っている日子山仙螺講などと同じで、「結」という日本人のもつ真心や思いやりの天分や天稟、徳が喜び合うような場にしていこうと実践実験していこうとする試みです。

一期一会の田植えには、一期一会の結があります。

心の結でつながることは、安心と人が育つ大切な土台や基礎を育みます。

私が一生で取り組んできた、いのちが見守り合う喜びもそこにあります。

ご縁とご参加を楽しみにしています。

 

 

丸ごと治す

今年、韓国の智異山に訪問している中で許浚(ホジュン)という人物のことを深めました。この方は朝鮮王朝中期の名医・王室医官で、韓医学の古典『東医宝鑑(とういほうかん)』を編纂した人物です。この『東医宝鑑』は1613年に刊行され、アジアをはじめ日本にも伝来し大きな影響を与えた書物の一つです。2009年にUNESCO「世界の記憶」に登録されました。

このホジュンは王を診た名医だっただけでなく、民衆のために医学知識を体系化し、薬草や治療法を使いやすくまとめたことで朝鮮の養生文化が醸成されました。一部の特権階級でしか受けられなかった医療や、専門書や中国にしかない薬草を身近な朝鮮の山野草に変換、翻訳され、また民間療法や未病につながる生活習慣の改善の仕組みまでも記されます。これにより韓国料理のナムルのように野草を日常から取り入れる習慣や微生物を活用した発酵食などにも大きな影響を与えたのではないかと私は思います。まさに医食同源の実践です。

ホジュンが編纂した『東医宝鑑』では「病気になってから治すのではなく、病気にならない生き方を大切にする」という思想が入っています。つまり人の健康は薬や治療だけでなく、食事、睡眠、呼吸、心の持ち方、人との関係など、日々の暮らしそのものによって育まれると考えられています。これは私の提唱する暮らしフルネスの実践とも一致しています。

畢竟、人間の暮らし方が変わらなければ本質的な病はなくなりません。いつまでも病気になるような生活を続けてその対処療法ばかりをしていても、根源的な人間性の甦生、つまり人が本来持っている力や幸福感が発揮される暮らしが調わなければ真の健康とはいえません。病を治すと同時に、どう人を治すか。教育とか医学とか、分類わけされていますが本来は「人間を自然に調える仕組み」のことです。

むかしから医者には「小医は病を治し、中医は人を治し、大医は国を治す」といいます。ホジュンという人物はまさに養生文化によって民衆の未病を促すまさに大医の実践をした方のように思います。大医は場を通して人間を丸ごと治していくのです。

人間の生き方や働き方を調えることは、まさに養生をすることです。保育の世界にも養護という言葉がありますが、これは養生から発生した言葉です。養生を守るということです。見守ることの大切な要素の一つです。

何かを足すのではなく、もともと具わっているものを甦生する。つまり徳や天分を引き出すような環境、場づくりをするということです。それによって自然に育つ力が発揮されるということです。

本来、人間に免疫力が具わっているように自然に人間性も回復していくものです。そしてそれは暮らしが土台になっているのは歴史が証明しています。真の豊かさは、養生からはじまるのでしょう。

自分を養生することは、周囲を養生することになります。場が調和していけば、自然に養生される人々が増えていきます。私の尊敬する二宮尊徳もまた大医の実践者でした。

時代や国を超えて、大医の実践から學ぶことばかりです。

天分天性を観る

徳を磨くことの一つに天分天性を観るというものがあります。この天分天性とは、産まれ盛った性質や能力のことです。その人に天が与えた徳とも言えます。もともと持っているもの、無理しなくても自然にそれができてしまうというのもその一つです。

例えば、人徳というものがあります。これも後天的に磨かれるものと先天的に持っているものがあります。後天的なものは、産まれたあとに身に着いたものに対して、先天的なものは産まれる前から具わっているものです。

この両方をよく観察してその人の今と傾向性、方向性や徳の本質を見つめます。

表面に見えるものと、その深奥にあるものは丸ごと観察すると天性や天稟を直観しやすいものです。

そもそもいのちというものは、それぞれに唯一無二の役割があります。その役割は産まれたもったものと産まれたあとで変化していきます。つまり役割はご縁やつながり、関係性の中で無数の組み合わせが存在していきます。

これは調理などと同じです。

それぞれの具材を組み合わせて、調和して一つの調理ができる。味わい深いその味には、それぞれの徳が見事に役割を発揮したものになっています。

調理といっても、加工して美味しくするものと、自然の味が引き出されるようにしていくものがあります。私は後者が好きで、炭火や湧水をつかい丁寧にそのものの味わいを楽しみます。つくりだすことができない、操作できない、そのものの味を引き出していくために時間と手間暇をかけていきます。

これは人間も同じです。

人間が育つのを待つのは、そのものの徳が引き出されるのを待つのに似ています。時間をかけて手間暇をかけてその人の徳がにじみ出るようにしていく。そして偉大な役割を持ち、天命を発揮していく。その美しさ味わいは格別であり、此の世に生を受けた喜びを感じます。

一人一人が誰もがそのように徳が発揮され調和する場を世の中につくっていくことは、私の天分天稟とも相性がよさそうです。

自分らしくや自分あるがままという人生は、徳を磨き天分を発揮して役割を全うしていく生き方のことです。

子どもたちが安心して育つ場が増えるように、天の道を学び続けていきたいと思います。

初心の文化論

子ども心というものがあります。これは遊び心や好奇心などともいわれますが、私は人間性の初心のように定義しています。子ども第一義というもの、元々具わっている子どもの人間性を忘れないという意味で使います。つまり人類の原初の思いやり、孟子でいう惻隠の情のことです。自然に湧き出てくる人間の真心ともいえます。

保育園で子どもたちの会話を聴いていたり、質問をするとまるで神がかかっているような言葉や行動をみることがあります。子どもは優しく思いやりがあり、刷り込みがありません。あるがままのこの世の中をあるがままに観て、自然体です。赤ちゃんが神々しく感じられるように、人間は本来は神々しく感じる存在です。

そのまま大人になった人物を仏陀ともいい、観音様などとも呼ばれています。

しかし人間は発達する過程で、その人間性や初心を忘れていきます。それは与えられた環境や欲望が心を曇らせていくからです。それをどう取り払い、本来の人間性を回復させていくか。それが私が暮らしの甦生に取り組む本意でした。

もしも仏陀や観音様が今、目の前にいてどのような暮らしをしているかを観れば人は何が人間性であるかを思い出すかもしれません。実際には、まったくそういう場がなく見ることもなければ気づくこともないでしょう。

だからこそ、時代を超えて人間性を磨き、初心を忘れない仕組みを暮らしを通して伝承する大切さを感じます。

子どもたちは本来、人間性や徳が溢れる存在です。その存在が、ずっと初心を守れるように見守ることが私が感じる保育の本質です。つまり子ども心とは人間性の初心であり、暮らしの甦生とは、その初心を忘れずに生きるための場と文化を未来へ伝承するということでしょう。

同じ言葉を使っても、その人の思想や人生観、そして生きざまや実践が言葉に宿ります。私が思う文化論をどのようにカタチにしていくか、まだまだ精進していきたいと思います。

地域の文化

地域の文化というものを観察すると、その地域に根付いてきた習慣や生き方、人々の暮らしがよく観えてきます。本来、地域で循環をしあらゆるものが地域の単位で調っていたころは地域文化はよく育ちました。そして地域文化が育っている場所では、よく人も育ちました。これは育つということの本質が、よい土壌が調っていることが前提になっているからです。

田んぼでも畑でも土壌がやせ細って硬く生き物もいないようなものになればよく育つことはありません。ではなぜそんなに土壌がやせ細り衰えているのか。これは畑や田んぼならすぐにわかります。目先の収穫をしようとして、農薬や化学肥料を大量に入れては効率優先に取り組むからです。すると、作物は一時的に大量に収穫できても土が弱ってくるから次第によい作物が育たなくなります。そのうち水耕栽培のように、土がなくても育つように遺伝子を組み替えたり色々とその場しのぎの技術で乗り切ります。そのうち何をしても効率がよくないとし、その場所を捨てて別のところに移動していきます。

地域の文化はこれと似ています。育つ環境が失われていくと似たように文化も荒廃していきます。

本来、経済というのは経世済民といい文化づくりの言葉です。文化づくりは地域の徳が循環する中で育つものです。つまりは土づくりは徳を積むことで醸成されていくということです。

これは太古のむかしから、山が平地を潤すように水が流れあらゆる生命を活性化するように徳が循環することで土地や地域は発展を継続してきて今もあります。そういうものを無視して、目先の損得や個々の欲望を最大化させれば土はやせ細り衰えてしまうのです。

ずっと住み続けたい町とは、文化や暮らしが甦生し続けて徳が循環するような場がある町ということだと私は感じます。

近代、時代背景を観るとほとんどこのようなことは言葉の定義も異なり、常識から外れ思想のように言われますがそのうち時間が経過すれば誰しもが現実に向き合う日はやってきます。

世界の潮流や競争、比較、分断などよりも足元の土をよく観てよく味わい直すところから文化づくりは続いていくように思います。引き続き、子孫や未来のためにも丁寧に暮らしを調えて実践を磨いていきたいと思います。

暮らしの夏至祭

一年で最も昼の長さが長くなる2026年6月21日、英彦山守静坊では暮らしの中の夏至祭を行います。夏至は太陽の恵みを最大限に享受する日として、世界各地で独自の祭りや儀式が行われています。例えば神道では半年間の穢れを祓う「夏越の禊」も、夏至の頃に行われる代表的な風習の一つです。太陽と地球の関係性のエネルギーがあり、そして中庸になる一期一会の光で人々は自然への感謝と無病息災を祈ります。

現在、お山の暮らしを甦生していますがお山との関係性を磨いていくとかつての日本人が忘れてはいけない大切な初心や生き方、そして場があることに氣づきます。

現代は、時間に追われ忙しさや無理をして頑張る生活の中で自然感覚が麻痺してしまう人も増えています。この自然感覚とは、暮らしの場が失われているということです。

今回の夏至祭では、自然感覚と仏道を修養された仙人も一緒に参加し、生き方や場づくりを共にしながら先祖供養の大切さや日々の自己内省や環境づくりなども学び合います。

また夏至は陽極陰性ともいいます。陽が極まり陰が産まれる、つまり一陰来復です。冬至が光がやってきて陽に転じるのに対して、夏至は光が陰になっていきます。しかしこれが自然の法理でり、陰もまた好循環の兆しなのです。盛者必衰であり、老化していくのはいのちの循環です。

その大切な節目に、よく内省し養生し今を受け容れて甦生することがいのちを逞しくし健康にしていきます。無病息災を祈り、長寿を祝い、ご先祖様に感謝する大切な暮らしの行事なのです。

日子山仙螺講の方々と、法螺貝を立て、法螺貝を磨き合います。お水と紙やすりで丁寧に手入れします。英彦山の倒木を片付け、場を清め調えて、甦生した石風呂サウナを実践しお山の霊水で禊をします。

また音のご奉納や神事後の直会なども予定しています。

私たちが大切にしているのは、「場づくり」です。人は個人で回復するよりも、場によって人間性は回復します。純度の高い場、そして純度が磨かれ続ける場は、人間の自然感覚を呼び覚まします。

環境や場は、人を見守り続けます。

成長と成熟~自我との折り合い~

人間は人格が磨かれないと自我との折り合いがつきません。自我とは調和であり、自然体の姿でもあります。これは一人の人格の中に二人の人がいるような感覚です。神経では、交感神経と副交感神経との関係に似ています。

通常、成長成熟は人間的にも才能的にも技術にも完璧になった人のように語られます。地位も名誉も人格も身に着いた人物のように言われます。

しかし実際には、良寛さんやあるいは名も知られずとも地位がなくても見事な生き方をした僧侶や医師がいたりします。最近では、ウルグアイのホセ・ヒムカ氏などもそうです。

艱難辛苦がその人の自我を調え、見事に調和した「一人」になっておられました。つまり自我が調い、真の人間性を生きることができたということです。

そこから逆説として、では何が成長成熟なのかということを洞察してみると人間はどのような状況でも自己を深く探求し学問を続けることができるということ。また人間の理解が深まり、何が未熟であるのかがわかるということ。そしてどのような状況かであってもどう生きるかという生き方を磨いていくということが真の人格、自我との調和には関係していることがわかります。

人生は一度切りですが、生き方はそれぞれが決めるものです。

そして真の資質とは、その人がどのような状況でも本質が保てるかということに他なりません。

本質を学び、本質のままでいることは人格を高めることです。同時に、本質を守る人の周りには同じく人格を磨きたい人が集まってくるものです。孔子の一生が十五にして学を志し、七十にして心の欲するところ矩をこえずといったのは、本質を学び続けて遂に自然体の一人になれたということでしょう。

本質を保とうとすれば必ず苦労は訪れます。

残りの人生も、意味を味わいながら自我の調和を暮らしの中で調えていきたいと思います。

お山の食文化

昨日は、守静坊で山椒の葉を収穫し山椒味噌を拵えました。もともと山の暮らしの中で山椒はとても大切な役目を果たして来たように思います。

この時季は新芽が出てきます。その木の芽は冬の間に溜め込んだ毒素を排出したり、不安定な氣脈を調え、身体を整え、感覚を開き、場を清めてきました。

特に山椒の葉に含まれる代表的な成分は、サンショオールやリモネン、シトロネラールなどの芳香成分が有名です。あの独特の痺れる刺激と、青く透き通るような香りをかげばすぐに誰でも山椒とわかります。食べると身体の内側に熱が巡るように感じるのは、そのためです。昔から山椒が、冷えや胃腸の弱りに良いとされてきたのも、この刺激作用によるところが大きいとされました。また香りそのものも自律神経を整え、気分を軽くし、心身の緊張をゆるめたといいます。

また山椒の葉には抗菌・防腐作用もあり精油成分には細菌やカビの増殖を抑える力もあります。よくお山の信仰が息づいている場所で今でも山椒味噌やちりめん山椒などが古くから作られてきた背景にはお山の保存食として山伏たちが大切にしてきたという歴史もあります。

山伏たちは山へ入り、滝に打たれ、断食し、自然の中で身体と精神を鍛えます。の修行を支えたのが、味噌や山椒、木の実、山菜などの山の食でした。冬から春といった季節の変化に対して、季節のリズムを取り入れるのに食はとても大切な役割を果たしてきました。

お山の暮らしを甦生するのに、この食文化の伝承は避けては通れません。なくなってからでも新たに場を清め調えて甦生すれば文化は再編集できるのです。英彦山に根付くお山の食を一つ一つお手入れし甦生していきたいと思います。

螺旋の道

明日は、英彦山守静坊で法螺貝を七神お渡しする儀式をします。誓願した法螺の五百羅漢を目指し、いま七十四羅漢になりました。ますます法螺を通した波動は揺れ螺旋の繋がりが広がりより中心への思いの結びつきは強くなります。

法螺の意味は、「螺旋の真理」という意味です。ではこの螺旋の真理とは何かということです。螺旋というものは、宇宙の姿であり、星々の姿であり、意識や生命の姿です。そして分子や量子の姿でもあります。波動は揺れていますが、それを纏めているのが螺旋です。

つまり波動がカタチになったものが螺旋ということです。

例えば、空気中の風は揺れています。しかしそれが纏まるとき、台風や竜巻になります。海や川などの水も同様です。流れがありそれが揺らぎ螺旋になることで調います。時が動けば波動、空間や場が螺旋です。

最近は、脳科学でも螺旋波というものが見つかり私たちの脳の認知や意識は螺旋上に信号を送ることで纏まるといわれます。心臓も単なるポンプをするのではなく、螺旋状に包まれた筋束が螺旋のように呼吸をして血液や酸素を全身に巡らせているというものです。つまり螺旋はマクロ宇宙からミクロ宇宙まで全て網羅しているあらゆる真理の姿です。

此の世の全ての神秘には、波動や螺旋が深く関わっています。古代より人々は螺旋の力を発見し、紋様をはじめあらゆる暮らしの中心に螺旋を取り入れてきました。ある部族は、蛇を象った螺旋の踊りをすることでいのちを蓄えました。またある宗教では螺旋はすべての神人合一の象徴としました。陰陽道やタオといった道もまた、波動と螺旋が顕現したものとされました。

法螺貝を持つということは、螺旋の道を実践するということでもあります。

人は日々の生活の中で様々な感情を持ち心を調えます。この瞬間瞬間の一期一会には、波動と螺旋が深く結びついています。微細な揺れから大きな揺れ、それを自己内省によって螺旋にして調えます。

私たちが「調っている」という状態は、螺旋になっているということです。そして調うとは、成長すること変化すること、シンプルに言えば「旅をする」ということです。宇宙を太陽系の星々と共に螺旋しながら旅をするように、私たちのいのちは螺旋の道と一緒に歩みます。

法螺貝を吹くとき、私たちは螺旋になります。

螺旋になるということは、あらゆるものを一円和合して成長して真に自己に氣づくことを繰り返すということです。

何度も何度も繰り返し同じことをしても、必ず前と同じ円ではなく螺旋となるという法則。そこに絶対的安心を直観するから今でも法螺貝は人々と共に旅を導く存在として大切に守られ人類のお導きの存在、宝ものになっているのでしょう。

宇宙自然、全体調和、波動の中で旅をし、螺旋の道を究めていきたいと思います。

お水は薬

薬のことを深めているとお水に辿り着きます。万物全ての薬の根源はお水ということです。そもそもお水は私たちのいのちの源です。お水がなければ私たちはこの生命を維持することもできません。だからこそ、お水が薬となります。そしてお水は単一の存在ではなく、お水は千差万別にあらゆる姿にカタチを変えてその時々のいのちの一部となって私たちの生命を巡ります。

結局、どの薬草もまたお水が土と和合して生成したものであり、その薬草もまた人体に取り込む時にはあらゆるお水と和合して溶け合うものです。お水こそ、私たちの根源ということです。

今年は私の一文字は「水」としていますが、お水の持つ力には驚嘆するばかりです。深めても深めてもその奥が底知れず、好奇心は尽きません。

もともと私はお水を薬として認識したのは、若い時に体調を崩した経験からです。その時は、何も食べれなくなりお水も飲めなくなりました。その時にせっかくだからと日本中のお水を取り寄せ飲み比べていたら飲めるお水があったのです。その時に、お水は一つではなく唯一無二であることを学びました。その時々の体調や心境、精神状態でも和合できるものとできないものがあると。そこからお水にこだわる人生になりました。今でも、料理別にお水も変えますし炭も変えます。お鍋に向くもの、お蕎麦に向くもの、蕎麦湯一つでも飲んだ後の身体の変化はまったくお水で異なるのです。

李氏朝鮮時代の医師、許浚が記した東医宝鑑にお水を分類わけしたものがあります。具具体的には、「井華水(せいかすい)、寒泉水(かんせんすい)、菊花水(きくかすい)、臘雪水(ろうせつすい)、春雨水(しゅんうすい)、秋露水(しゅうろすい)、冬霜(とうそう)、雹(ひょう)、夏氷(かひょう)、方諸水(ほうしょすい)、梅雨水(ばいうすい)、半天河水(はんてんがすい)、屋霤水(おくりゅうすい)、茅屋漏水(ぼうおくろうすい)、玉井水(ぎょくせいすい)、碧海水(へきかいすい)、千里水(せんりすい)、甘爛水(かんらんすい)、逆流水(げきりゅうすい)、順流水(じゅんりゅうすい)、急流水(きゅうりゅうすい)、溫泉(おんせん)、冷泉(れいせん)、漿水(しょうすい)、地漿(ちしょう)、潦水(ろうすい)、生熟湯(せいじゅくとう)、熱湯(ねっとう)、麻沸湯(まふつとう)、繰絲湯(そうしとう)、甑氣水(そうきすい)、銅器上汗(どうきじょうかん)、炊湯(すいとう)」です。

この分類は、お水そのものの化学的違いではなく「どこから来たか」「どのように存在しているか」「どのように変化したか」という観点で水を捉えています。

まずはじめにお水は「天から来るもの」と「地から来るもの」に分けられます。そして春雨水や秋露水、臘雪水などは天からもたらされる水であり、季節や気候の影響を強く受けた「天の気」を帯びるとされました。また井華水や泉水、海水などは地に由来する水でありその土地の性質や環境の影響を受けた「地の気」を持つとされます。お水は天地の間にありますが、そのどこで採取するかで性質が全く異なるとするのです。

そしてお水は「動き」で分けます。順流・逆流・急流といった流水の違いは、水の中に宿る気の巡りや勢いを表し体内の気の流れと対応づけて考えられました。流れるお水がどこを通ってきたかということも大切で、屋根を伝った水や木の中に溜まった水などは、その経路にある物質や環境の影響を受けて性質が変わってしまうとしたのです。

次に甘爛水や生熟湯のように意図的に人が攪拌したり混合したりして作られる水は、すでに「薬」として治療目的に応じて性質が調整されたものとあります。他にも蒸気が凝結した水や器物に付着した水滴、あるいは穀物や土などから生じた水などもあり、お水は他の物質との関係や変化の過程でも変わるとするのです。

お水の変化を的確にとらえ、そのタイミングで性質が変化する。それを薬として用いるとするのです。

お水のことを深く理解することが、薬道の第一義です。私はお水とのご縁が深いので、性質をさらに学び直していきたいと思います。