初心伝承の人生

誕生日を迎え、多くの友人たちからお祝いのメッセージをいただきました。思い返せば、あっという間にこの歳まで過ごしてきました。日にちでいえば、赤ちゃんとして外の世界に出てきてから17194日目になります。また今日もその日に一日を積み重ねていきます。あと何日、この世で体験できるのか。そう思うと、貴重な日々を過ごしていることを思い大切にしたいと願うようになります。

誕生日というのは、そういう日々を過ごす原点を思い出しこれまでの日々に感謝する日かもしれません。どの一日も、よく考えてみたら当たり前の一日ではなく尊い日々です。

その時々の人と出会い、語り、何かを共にする。いのちを使い、いのちを守るために、他のいのちをいただいて暮らしを紡いでいく。どの日々もつながっていないものはなく、どの日々も結ばれていないものはない。

一日一日をリセットしているようで、それはリセットではなく新たな一日をさらに新しく体験させていただいているということになります。そして身体も衰え、次第に死に向かっていきます。死を想う時、この今が如何にかけがえのない一日かは誰でもわかります。

一日を何に使って生きるのか、自分のすべての日にちをどんなことに懸けて生きるのか。

有難い一日にかけがえのない喜びを感じているとき、人は仕合せに回帰します。どのような一日であったとしても、その一日は二度と戻ってこない一日。一期一会だからこそ、生き方を見つめ、生き方からいのちを発して光を放っていきたいと思います。

我が初心伝承の人生。

残りの日数で、できる限り真心で尽力していく覚悟です。

人間らしさ

人間らしさとは何か、それは感性を磨くことで顕れるように思います。もともとの姿が最初にあって、それが次第にわからなくなってくる。その分からなくなってきたものを思い出すためにも私たちは原点を学びます。その原点の中に、真の人間らしさがあるように思います。

例えば、私たちの五感や六感という感覚があります。この感覚は、頭ではわからず体験を通して実感するものです。体験というのは、全身全霊で感じるということです。それをしているうちに、自分がどういうものであるのか感じているさなかに驚きと共に実感できるものです。そこには心がありいのちがあり、繋がりなどもあります。

言語化するというのは、ある意味この体験を形式知にして分類分けするものです。そうなると体験そのもののままでないため、人間らしさというものから遠ざかっていきます。

私たちの身体的感覚というのはとても正直で他の動植物や昆虫のように本能のままに存在します。私たちは手を使いますが、この手もまたなぜこのように動くのか、そしてその手をどのようなことに使うのかでその人の人間性をはじめ人間らしさとなるのです。

自分の根源的なもの、その原点のようなものを人間が感じられるときにこそ人間らしさが出てくるということでしょう。

最近は、あまり感覚を使うことがなくなりそれを機械や便利な道具にさせることによって余計に人間らしさが失われてきているように思います。感覚が失われた世界が、新しい世界だとすると人間らしさはますます消失していくように思います。

AIや道具ができないこと、それは人間らしさでしょう。人間も自然の一部ですから、自然から離れずに人間の感覚を大切にして進化発展していきたいと感じます。

子どもたちにもこの体験というものを通して、人間性や人間力、人間らしさが磨けるように場をととのえていきたいと思います。

不思議さ

一昨日から長いお付き合いのあるメンターの方が場の道場に来られています。御年85歳ですが、まったく年齢を感じさせず目もキラキラとまるで10代のようです。一期一会の哲学を教えていただいてからメンターとして尊敬して、何度か生き方をみせていただきました。その御蔭で、私も将来、どのように生きていけばいいかの指針をいただきました。

メンター自身も親の介護があり、またコロナもあったのでほとんど移動もせずに生活していたこともお聴きしました。しかし、相変わらずの好奇心であらゆる体験を大切に学び、体験から得られた驚きをたくさん私にしていただきました。

この体験からの驚き、まさに好奇心ですが英語ではセンスオブワンダーともいわれます。この解釈は色々とありますが、神秘的な体験としてもいいし、五感をフル稼働して直観的に得られる体験でもいいですがそのどれもが不思議だという驚きと共にあるものです。

私たちは生きていく中で、不思議だと思う感覚や驚くことが減ってくるものです。知識が増えれば増えるほどに、経験をすればするほどに驚きは減っていきます。

私もよく文章や言葉で伝えることも多いのですが、不思議さが観えない人たちはよくだいたい分かったという言い方をします。何がだいたい分かったのかもよくわかりませんが、そのだいたい分かったという言葉が不思議な言葉だなと感じることもあります。

そもそも不思議なことを不思議なままに理解するというのは、純粋な心が必要です。まるで子どもが最初にこの世の自然の道理や現象に触れた時のように驚きの連続です。

冷たいものを触って冷たいと感じる、誰かに声をかけられて耳に音が入ってくる、そして目に映像がうつってくる、そんな驚き、不思議さに触れた感動です。

そういう感動をいつまでも忘れないことは、私たちがいつまでも瑞々しい感性で神秘や不思議を追い求める子どものような心を持っているということでもあります。

私は子ども第一義を理念に、子どもに遺したい憧れた生き方や働き方、あるいは子孫への徳を伝承したいと思っていますからこのメンターの実践は尊敬し私もそうありたいと思うものです。

一期一会に生きるというのは、不思議さや神秘性、そしてご縁を結んでいく生き方です。いつも有難い邂逅とご縁に感謝しています。これからも驚きを味わい、豊かで仕合せなご縁を結んでいきたいと思います。

供養の心

昨日は、郷里の落雁を製造する友人のところで落雁づくりをみんなで体験してきました。米粉に砂糖、あとは水を混ぜ合わせ、菓子型にいれて固めてから取り出し乾燥させるというシンプルな手仕事です。

しかしシンプルな手仕事はとても奥が深く、味わいがあるものでした。落雁のことはこのブログでも以前書きましたが、日本古来からある伝統の和菓子です。お寺にはきってもきれない関係があり今も大切にされています。

現代は、見た目が落雁である落雁風のものも増えています。本来は、砂糖がなかった古代において甘いものというのは大変貴重で高価なものです。それをまず仏様にお供えするという心が落雁には宿っています。

このお供えというのは、感謝の気持ちそのものを伝えるものです。今の自分があるのは、その前の有難い何かをいただいたことからはじまっている。そのものに深く感謝をする気持ちがお供えをする心でもあります。

亡くなった人や、もう随分前にお世話になった人にはそこでお会いすることも直接感謝することも物理的にはできません。だからこそ、心を伝え、心で接するようになるのだと思います。

心で接する時、心は体と一体ですから心を籠めて手仕事をすればそのものに心が宿るのです。心は宿ったものをお供えすればその心は、感謝というものに転換され届けることができるのです。

お供えものをお供えする側の心の中に、相手の心もあります。心というのは通じ合うことで伝わりますから、自分の心が通じ合うように調えることはとても大切なことだと私は思います。

宿坊で、供養の心を伝えていこうと考えていましたが落雁はとてもいい体験になるように思います。子どもたちに、先人たちの心、そして今を生きる私たちが大切にしていきたい心を伝えていきたいと思います。

生き方の病気

人は知らず知らずに病気になります。その病気は、肉体だけでなく人生の生き方の病気というものもあります。この生き方の病気というのは、魔が差すような甘い汁を吸ってしまうことが当たり前になってしまったり、肉体であれば便利すぎる環境で生活習慣病で自堕落したりするものもあります。常に心身を身ぎれいにし、日々に調えていくことは、本来の健康とは何かを磨き続けることです。

つい自分の都合で周りがやっているから自分も大丈夫だろうとしたり、誰かのせいにしてその仕返しにと勝手な正義を振りかざしてしまうと何が真に正しく、何が本質なのかもわからなくなってしまうものです。うまく見せようとしたり、周囲への見せ方がうまくなってくると嘘で塗り固めているうちに嘘が本当のように勘違いしてしまうものです。

生きていれば必ず周囲の影響を受けてしまいます。それくらい今の時代は、純粋性を保つことが難しい時代ともいえます。例えば、食べ方一つ、お金の稼ぎ方一つ、日々の過ごし方、人への接し方、暮らし方などはすべて生き方から出てくるものです。自分の生き方が、歪まないようにするには自分の初心を確かめたり、周囲に耳を傾ける謙虚さがあったり、間違っていないかと畏れたりと、平常心を意識して反省し改善を続ける必要があります。それでも必ず知らず知らずに無意識に歪むものです。人間はそういうものです。すると何かしらの出来事があって、半強制的に反省させられるものです。そしてその時に反省して悔い改めても、それがきちんとすぐに実行、改善され続けられなければまた同じことが別のカタチになって繰り返されるのです。

王陽明にこういう言葉があります。

『反省は病を治す薬だが、大事なのは過ちを改めるということだ。もし悔いにとらわれているだけなら、その薬が元で別の病がおこる。』

薬だけで治るのではなく、本当に自分が治すのだと決意して生活習慣病や生き方の方を改善しなければ必ずまた同じことが別のことで発生するということです。周りに流されたり周りのせいにする前に、自分自身が自分自身を正し続けるという修養に集中するしかありません。

ある意味、人は誰でも失敗や後悔を通して人は生き方を見つめ直す機会を神様や天に戴きます。それはとても恵まれていることで、いつも見守られているともいえます。その時に、本当に素直な人は気づいてすぐに反省し変わります。人は変わる生き物ですから、その時々に変わったものが真の価値なのです。

失敗や後悔をして別の方法を探す前に、「もう二度とこの生き方はしない」と心に決めて後は行動、実践していけば改善が福になり運も善くなります。運が善くなるというのは、自然の運行、天地の道理にかなってくるということです。

自分が真に自分らしく自分の道を歩んでいくためにも、反省させていただけることに感謝して謙虚に素直に改善していきたいと思います。

ありがとうございます。

子孫のために今できること

ものづくりをするとき、捨てることを考えてものづくりするよりも売れるものを考えてものづくりを優先するところがほとんどです。その結果、大量のゴミが発生します。しかも、そのゴミの中には分解できないようなものもあります。それはそのまま土に埋めたりしていますが、何万年も何十万年も土の中で分解されずに循環しない環境にしてしまう有害なものが多くあります。

みんながそんなことをしていたら、この地球には循環しない場所がたくさんうまれその後処理に子孫たちが大変な思いをするということが予想されます。

私は空き家のことや古民家甦生を通して、それを実感してきました。本来は、子孫のためにと先人たちが知恵を結晶して建てたものが今では負の遺産となり破壊され続けています。そしてその逆に、環境を汚し後片付けもできないような建物ばかりを建てています。

自分の子ども、そしてその先のずっと子ども、孫たちや子孫たちがどんな思いをするのか、想像力が欠落してしまっている現代ではまるで空気のように当たり前になってしまい解決しようとすることもありません。

それくらい今は、消費経済、資本主義の流れを換えることができません。自転車操業をして今の体制で走り続けなければこけてしまうからです。一度、コロナで立ち止まってもまた周囲の流れに乗っかってしまい元の木阿弥です。

では孫たちのために、子孫たちのためにどうすればいいのか。

それは私は徳積循環経済を創るしかないと思っています。今の循環を換えるのです。ちゃんといのちや、純粋な子どもの心のような思いが循環していく世のなかにしていくのです。そのためには、どうにかしてでも別の流れを仲間を集めみんなで創っていくのです。

それが私の考える結づくりの意味です。

本当は、そうやって先祖代々、先人たちは孫や子孫のために本当の経世済民に尽力してきました。石田梅岩が倹約を中心にしたのも、二宮尊徳が報徳を中心にしたのも、三浦梅園が正徳といったのも、渋沢栄一が道徳経済合一としたのもすべては子孫のためです。

今の自分のことだけ、自分の世代だけのために経済をやるというのはあまりにも寂しいことだと思います。そしていつまでもそれをやっていたら、冒頭で話したようにいつの日か子孫たちに大きなツケをまわしてしまいます。それは先人たちも先祖も望んでいないことは簡単に想像できます。

だからこそ、私たちは今こそその本質に気づき徳積循環経済に舵を切る必要があると思います。これは、誰にでもできることですしすぐにでも実践できるものです。しかし一人では流れを換えるまではかなりの時間がかかります。だからこそ、みんなで結づくりをしてその勢いを強くする必要があると私は思います。

この場所で、まずはその徳積循環経済をつくる体験と結に参加してほしいと思います。子どもたちの未来のために、今しかやれないこと、自分にしかできないことをご一緒していきたいと思います。

貝に導かれる人生

昨日から私が尊敬する友人が来庵しています。この方は、真言宗の僧侶で法螺貝を愛する人物ですが生き方が共感することが多く話をお聴きして学ぶことや気づきをたくさんいただけます。

もともと法螺貝の音色もとても情熱的でまっすぐで、その振動は全身から汗がでてくるように水を揺らします。夜中まで法螺貝談義で盛り上がりましたが、その中でも特に貝に導かれる人生についてのところは有難い気持ちになりました。

私の貝との最初の出会いは、宮崎の日南海岸です。出張で、車で海岸沿いを走っていたら海の中に光る不思議なものを発見し、スーツでしたがズボンをまくり上げて数十メートルの浅瀬を歩いていき手を伸ばした先に小さな巻貝がありました。

その体験の時の出会いが忘れられず、終生お守りとして大事に保管しています。その後の留学や海外での仕事、東京での一人暮らしのときもこの巻貝をいつも持って一緒に暮らしてきました。眠れないときは、耳に当て海を感じ、一期一会を思い出すときは手にとってお手入れをしていました。

そこからは千葉で貝磨きの方と出会い、貝を磨くことで光ることを学び、素晴らしい貝に出会うと磨き上げていました。そして、気が付けば法螺貝に出会い、法螺貝を磨き吹くことで多くの人たちとの出会いがはじまりました。

尊敬する友人も、法螺貝に導かれる人生を送られていました。幼いころにお父さんが吹いていた法螺貝に憧れ、そこから法螺貝に魅了され修行を積まれます。今では、貝がどのようにしてほしいかを直感し、貝の手入れをされ指導や修繕などを手掛けられます。

あくまで法螺貝を優先するので、法螺貝を売るのではなく法螺貝の声を届けるという生き方です。

私も古民家甦生をはじめ、あらゆるものの古いもの、懐かしいものの声を届けることを実践しています。それは同じ感覚で、古民家を売り買いしたいのではなく家がどうしたら喜ぶか、そしてこのいのちがどうやったら甦生するかということしか興味もなく、行動もしません。

たまにこれを仕事にすれば儲かるなどという人もいますが、そもそも動機や目的が子ども第一義からきているものですから、生き方が純粋でなければ、そして本志本業が一致していなければ生きている意味がありません。

生き方というものは、昔の人たちはとても大切にしていました。自分を守るために、切腹するほどに大切な生き方を優先していました。自分を守るということは、自分の純真や純粋性を守るということにほかなりません。

私の周囲には、そういう方がたくさんおられます。私自身も刺激され、生き方を磨く環境をたくさんいただけています。今回も、貝がつないでくれたご縁です。ありがたく、貝の声を聴き届けていきたいと思っています。

法螺貝に感謝して、法螺貝とともにこれからも歩んでいきたいと思います。

時間と観察

人は時間をかけて観察していくと、本当のことは次第に浮かび上がってきます。短期でその時だけをみるとわからないものが、時間をじっくりかけるとその人の目指す方向性が出てくるものです。

方向性が同じであればいいのですが、時間をかけて方向性がズレていくとそのうち完全にズレてしまうこともあります。お互いに折り合いをつけながら取り組む中で、明らかに逆の方向に向かっているものはなかなか一緒になることはできません。その方が遠くに飛ぶというような弓のようなしなやかなものであれば別かもしれません。

しかし一般的に進む方向が同じなら情熱が分かち合えますが、別だとエネルギーが纏まりません。もともとエネルギーというのは、それぞれのエネルギーの集合体であるからです。同じ目的や方向に対して、全力で自分のエネルギーに集中することしか、エネルギーを合わせることはできません。誰かに依存したり期待しすぎることはそもそもエネルギーが纏まらなくなるようにも思います。そこには、お互いへの信頼や信用、そして夢の共有などがあります。

その目的を忘れずに自分自身に集中することで、またエネルギーは蓄積されていきます。誰かに無理に合わせるということや、誰かに我慢して委ねるというのはタイプにもよりますがそれでは難しいように思います。

どちらにしても、時間をかけて観察することで本当のことが浮かび上がってきます。そのうえで、内省をし、冷静に素直に改善をすることで最後まであきらめない忍耐力が出てきます。

忙しかったり余裕がない時こそ、視野が狭くなりますからそんな時こそよく自己を見つめ直して静かな心でよく観察することが善いように思います。

改善というものは時間が必要です、まさに時間こそ貴重な投資であり人生の醍醐味を磨き上げる妙法です。

色々とこの一年を振り返りつつ、新たな春を迎え、自分自身の生き方を見つめ直していきたいと思います。

徳積帳とご縁

私は結というものを通して様々なことを結びなおそうとしています。生きている間は、さまざまつながりがありその結び目に気付きます。それを丁寧にほどいてまた新たに結んでいくこと。ほどくことも結ぶことも生きていることの醍醐味であり、人生の妙味はそのご縁の最中にこそあるように思います。

振り返ってみると、産まれる前からいただいてきたご縁によって導かれ今があります。それをほどきながら新たな結びをつなげます。それを生きているときにまたほどければいいのですが、ほどけないものは次への持越しになります。次の持越したときに、あまりにも結び目がきつすぎたりすればほどけません。それに絡まり合っていたらそれも時期が来なければほどけません。

不思議なことですが一つほどけ、二つほどけ、周囲が、あるいは誰かが、もしくは何かが偶然におこり奇跡によってほどけるものがあります。ほどけたとき、みんながまたそこから結びなおして調えていく。美しい結び目ができれば喜び、複雑に絡み合えばまた執着する。人間というものは、こうやって何度も心の循環を繰り返していくように思います。

自然界というものも結んでいます。そして生死を繰り返してほどけていきます。連綿と網羅し繋がっているこの宇宙で私たちは何度も結んではほどいてそのいのちを循環させていくのです。

新たな結をつくるのに大切なことは、あまり強い結び目にならないことです。すぐにほどけるようなゆるいつながり、そして何かあればすぐに結べるような柔らかで寛容な結び目を繋がり続けること。

徳積帳でこれから行っていこうとしている、私の結の本質はこのほどくことと結ぶことの中の場にこそあります。ご縁に導かれるように、ご縁を味わい、ご縁とともにいのちのつながりを子どもたちに結びなおしていきたいと思います。

野性と呼吸

先日、呼吸法を体験する機会がありました。私たちは酸素を取り込んで呼吸していますが、取り込んでいるものは酸素だけではないことが体験するとわかります。身体の隅々まで、呼吸を行き渡させると全身の感覚が研ぎ澄まされていきます。

日頃は使うところを中心に呼吸は使われますが、改めてじっくりと意識して呼吸をするとそれがありとあらゆる感覚に用いられていることがわかります。特に毛細血管をはじめ全神経を活性化させていきます。

もともと私たちの人間は野生の知性を持っていました。今のように暖房設備や洋服がなくてもほとんど裸に近い状態で山野を駆け巡っていました。今の野生動物たちのように、自然に適応していく強靭な身体と精神力があったともいえます。

それが長い時間をかけて減退し、気が付くと心身をはじめ精神も軟弱になってきました。そのストレスから、様々なことを怖がり傷みに対する考え方も過敏になってきたようにも思います。

私達の祖父母、その先の明治のころの人たちの生き様や生き方、心身の強さをみたら驚くことがあります。すべてに対して今の平均的な元氣さよりも数段元気さを感じるからです。

産まれ育った環境が厳しいと、その分、生きる力や免疫力は研ぎ澄まされています。コンピューターや科学が発展していくなかで、突然大きな災害が発生してもしも電気が止まるのをはじめ水道やガソリン、ガスなど生命のパイプラインが使えないとなったらどうするのか。その時はあるもので生き延びていくしかありません。その時のあるものというのは、自分の肉体であることは大前提です。

自分の身体が強く、心も精神も鍛えているのなら多少の災害でも乗り越えていけます。それだけの日々の鍛錬をしていくことは今の時代は、なかなか現実的ではありません。しかし歴史を省みると、如何に平常時にもリスクに備えるか、それが先人の語る生きる知恵そのものでした。

自分の感覚が野生から離れないよう、私も色々と暮らしを試みていますがこの呼吸法もその一つにしていきたいと思います。子どもたちに安心して生き延びていける世の中にするためにも、リスクに備えていきたいと思います。