ご縁の節目

ドイツでご縁のあった方が昨日から来庵しています。人の成長はあっという間で、見違えるほどで顔も身長も変わっていてはじめてお会いしたような感じでした。その時は、私の息子も一緒にお伺いしたのですがお互いに成長していて驚いているようでした。

子どもの頃の5年や10年は、まるで見た目は別のように変わってしまいます。それが大人になって年齢を経ていくと、20年も合わなければ色々とまた変わっていきます。

例えば、30年ぶりなどの方にお会いするとお互いに何が変わって今どうなっているのかを確認しあうだけで話はつきません。

不思議なことですが、一緒に変わり続けていく家族や仲間もあれば遠く離れてしまった友人たちもあります。時には、最後の別れになったようなものもあります。人生のなかで、出会いというのは本当に一期一会を感じます。

昨日は、息子たちは一緒に近況を語り合っていましたが見た目は違っても興味や関心などはそんなに違いがありませんでした。学校の話や成績の話、または趣味やスポーツ、音楽、アニメのことなど盛り上がっていました。お互いの国の違いはあっても、共通する感覚は似たようなものです。

自分の留学のころを思い出すと、顔も目の色も肌の色も体系も文化も異なるのに同世代というのは同じようなものに興味を持っているものです。またそういう話では意気投合して盛り上がります。お国別の変なルールや仁義はありましたが、みんな社会で思いやり生きるためにそれぞれの配慮やマナー、また楽しみ方などを交換しました。

お互いの文化を尊重しあいながら、対話をしていくのは居心地もよく、有難いご縁であったなと過去のことを思い出しました。

みんな持ちつ持たれつ人は、お互いに支え合い暮らしているものです。

子どもたちの将来を楽しみにしながら、子どもたちが安心して暮らせる世の中になるように取り組んでいきたいと思います。

病気への対応

病は気からという言葉がります。これの由来を調べると、中国最古の医書「黄帝内経素問(こうていだいけいそもん)」紀元前四百五十年~二百二十一年頃に、百病は気に生ず(全ての病は気から生ずる)と記されていて、これが「病気」の語源となったとありました。

そもそもこの病気というのは、気に病むとも読みます。私の経験では、気にしすぎていると病気になるということがあります。思い込みの強さも病気と連携しているようにも思います。

また医者に診断されたり、自分がきっとこの病気だと思い込むとそういう病気を引き寄せていきます。不思議なことですが、人間の身体はこの思い込みというものに反応するということかもしれません。

以前、筋トレをする際もイメージしながらやるといいといわれたことがあります。その方が理想の筋肉がついてくるからだそうです。他にもスポーツでも、自分の思い込みを上手に使えばそれにあわせた身体能力が磨かれるといいます。また容姿なども、自信をもって自分の魅力がいいと思い込む人は周囲からそうみられるともいいます。

つまりは大半がこの思い込みによって反応するということになります。

身体はわかりやすく、痛みなどもより痛いところに意識は集中して他の小さな痛みは気にならなくなります。きつさなども、同様で一番きついところに意識がでてそれ以外のきついところは感じにくくなります。

私たちが痛みや辛さを感じるのは、この気の流れによるものかもしれません。よくストレスなども増えると免疫が下がることが証明されています。もともとの免疫がストレスによって疎外されるのです。ポジティブであったり、安心安定していると免疫が活性化するともいいます。

そう考えてみると、もっとも病気に対応できる方法は「気にしない」ことかもしれません。別の言い方をすると、気をそらすでもいいかもしれません。気がまぎれるや気持ちを切り替えるなどは、精神的なものだといわれますが実際にはそれが病気を減らす工夫だったのかもしれません。

とはいえ、治療が必要なものは避けては通れませんからお医者さんに頼り、未病や予防をいかに取り組むかということだとおもいます。

色々と学び直していきたいと思います。

長老の木

昨日、古民家和楽の銀杏の対応のためにシートなどを設置しました。毎年、1万粒くらいの銀杏が実をつけてくれます。その銀杏を拾って、炭火で食べるのが仕合せで毎年仲間やご縁のある方々を招待して楽しんでいます。

短い期間に大量に拾えますから、とても数人では食べきれません。むかしもきっと、近隣の方々や家族親族で分け合って食べていたのでしょう。一気にとると、下処理が大変で辟易としますが毎日、落ちてくる分をその都度下処理をするのなら特に大変には感じません。

むかしの暮らしの時間では、この9月の1か月は銀杏祭りで毎日が美味しい食卓の一つの旬として楽しく味わえたように思います。

この銀杏の木は、あの氷河期を乗り越えてきた貴重な木だといいます。ほとんどの植物が枯れても生きているという、まさに生きる化石だといわれます。また同時に火にも強く、寺や神社、都市でも防火で植えられています。荘厳で長寿、まさに長老のような佇まいの木です。

私は、この銀杏の木が好きでもう20年くらい育てているものもあります。特に葉っぱの形や色が綺麗でうっとりします。銀杏の木陰もまた心地よく、木漏れ日が優しく穏やかな気持ちになります。

黄色に染まった姿に光が当たれば、輝きが反射してとても幻想的です。冬も間も、強い風から守ってくれていますし春の新芽もかわいらしくて瑞々しい水気を周囲に放ってくれます。鳥たちの休憩所にもなり、一年を通してあらゆる鳥たちがこの木に集まってきます。

この木の一生は、節目節目に私たち生き物のいのちを潤します。まさにご神木ともいってよい、長老の木です。

いつまでもこういう長老の見守りのなかで子孫たちが暮らしていけることは平和で幸せなことです。世間では、簡単に伐採したり自然から離れてさらに人間中心の世の中になっていきますがそこにこの銀杏の豊かさは失われて寂しさを感じます。

子孫たちのためにも、身近なところから自然と共生し、未来世代への責任を果たしていきたいと思います。

自分のままでいられる場所

自分のあるがままを受け容れるということは大切なことです。それができないと苦しでいる人が多いといいます。では、なぜその自分のあるがままを受け容れることができないのか。言い換えれば、自分のままではいけないという他者や周囲からの影響を受けるからです。

例えば、全部がまっすぐに同じ大きさと長さ、形で同じスピードでと求められる植物があったとします。他はみんなそう育っているのに、自分だけ他と異なる状態になればこのままではいけないと焦るものです。しかしどうやって演じてもそうならない場合は、自分を責めてなぜこんなことになど悲嘆にくれます。あるいは、開き直って諦めてしまうこともあるでしょう。しかし、周囲と比べて奇怪な目で見られたり差別や排除されると苦しくなるのです。

本能的に私たちは社会をつくりますし、周囲と調和したいと思うものです。生き残るためには、周囲のお役に立ちたい、自分の存在が認められたいと思うものです。だからこそ、頑張って自分もそうなろうと思うのです。

しかしその自分が周囲から求められる姿が、あまりにも自分とは異なる歪なものであれば本人はとても苦しみます。鳥にカエルになれと言われても無理ですし、蛇にライオンになれというのも無理です。しかし、人間の可能性は無限で特に小さな子どもならほとんどどんなものにもなれるような気もするものです。

人間は、誰がどのように育てるかで変わります。動物に育てられれば、動物のようにもなります。そうやって、どのようなものにするのかというのが教育というものです。

自分らしくいられなくなるはじまりは、みんな同じように金太郎飴のようになる社会設計に組み込まれるときにはじまっています。

お互いを尊重しあう社会というのは、持ち味を発揮する社会です。持ち味が発揮されるというのは、その人がその人らしくいることができてそれをみんなもわかっているという社会です。みんなもそれをわかっているから、それをそのままに活かそうとします。自分がこれを役にたちたいと思っても、もっとお役に立てるものがあるとみんなが気づいてその人を尊重できるのです。

その人らしくいられる環境というのは、みんなが持ち味を活かせる場があるということです。こうならねばならないという、無理や頑張りは心を痛めていきます。

居心地のよい場所は、自分のままでいられる場所ということです。

子どもたちにも無理をしないでいいように、場の大切さを感じてもらいそれぞれの個性や持ち味、自分らしさをみんなで活かしあう豊かで平和な社会になるようにその実践事例やモデルケースを場でととのえていきたいと思います。

場の原点

昨日から久しぶりに鞍馬寺に来ています。コロナもありまた色々とあったのでじっくりとお山に来てお話をする機会もありませんでした。改めて、感じるのはお山の持つ場の素晴らしさです。

私は、今、英彦山をはじめ場づくりをしていますがその原点はこの鞍馬山です。鞍馬山で修養してきた十数年が今の私の血肉になりこの感覚を忘れずに実践しています。私たちはお山を大切にすることで、お山からたくさんの気づきをいただきます。その気づきをもってまたいつもの日常生活に活かしていくのです。

太古のむかしから、私たちは言葉ではなくても場によって多くのものを気づいてきました。不思議なことですが、ある場所にいくとそこには何かがあるという気づきがあります。その何かというものが、私たちが気づいていく本体であり正体です。

そしてその場を大切に磨きととのえていく人たちは、たとえ寿命が尽きていらっしゃらなくなったとしてもその場所の他のいのちと共に存在し続けていきます。

私たちは自分や個人といった、自他を分けてものごとを理解するようになってきました。この言葉や文字などもそうですが、分けることで理解する仕組みから世の中は分かれているものとして認識するようになっています。しかし、実際の現実のこの世は分かれているものなど一つもなく渾然一体になっているものです。

この渾然として一体になっているものに気づいているかというのが、先ほどのお山でいただく気づきと同化しているのです。

あらゆるいのちや物質も、分かれているものは一つとしてこの宇宙に存在しないという真実。わかれていないからこそ、場がそれを伝えていくことができるのです。そしてその場を伝える人々は、その場に渾然一体となって暮らしています。

何かを教えるのではなく、何かに気づいていくこと。

人は気づいたことでしか、変わりませんし、気づくだけで救われる境地もあるのです。むかしの先人たちは、なぜ山に入り山で修養してきたのか。そしてその山をお山として心や魂の故郷を実現させていったのか。

この感覚を忘れずに、丁寧に自分の今いる場を磨き上げていきたいと思います。

子どもから学ぶ

子どものことを思うと、主体性というものが如何に大切なことであるかがわかります。私の恩師も、先日のセミナーの中で見守る保育には、選択すること、参画すること、自由に遊ぶことの意義を伝えておられました。

そもそも、自分で自分の生き方を決めるというのは私たちがこの世に生まれてきて体験していく醍醐味でありそれを見守る社会というのはこの世の楽園にするための大切な要素だと私は思います。

一度きりの人生を、自分らしく生ききることができるときいのちは光り輝いていきます。それぞれの人には、それぞれの天命や役割がありそれを全うしていきます。そう生きられない、それはしてはいけないと、刷り込まれていくことは人間社会においての不自然さを感じます。子どもは、自然に未来を創造していきます。本来は、余計なことをしなければ自然に調和をし、世界をととのえていくものです。

そこに大人のあらゆる編重した教育や、歪んだ自由を与えられることで、思考停止して元氣が失われていくものです。

現代病の大きな一つは、その元氣さというものによります。こういう言い方をすると誤解されるかもしれませんが、目が輝き、元氣溌剌として魂を全快に愉快痛快に楽しんでいるのが子どもの姿でもありました。生まれてきて好奇心旺盛で、思考は自由自在にのびのびと働きます。

海外の保育を視察した時には、カンボジアをはじめ何か所かの国ではそういうところもありました。日本のむかしも、子どもたちは安心して育つ環境があったように思います。

本来、私たちは自然から自然を学ぶように子どもから本来の子どもを学ぶ必要を感じます。誰かが言ったからや、海外で評価されているからや、科学的だからというものもあるでしょう。しかし、子どもの本来のあるがままの姿をよく観察して学べば、子どもがどうありたいのか、子どもが何を求めているのかを見守ることで本来のいのちの姿を実感することができるように思います。

自然であれば、土や種、そしてどのような環境だと元氣になるのかを学び直します。同様に子どもも学び直せるものです。

時代が変わっても、普遍的な道は変わることはありません。子どもの姿は変わらないものがあるのです。そういうものをよくみんなで学び、保育をさらに磨いていく。私たちは保育の道を提案する会社でもありますから、引き続き真摯に学び続けていきたいと思います。

子どもを思う

問題の先送りというものがあります。これは問題の根本、根源的な理由を解決するのをやめて目先のことだけに対処していくということです。これは対処療法とも言います。確かに、すぐに対処しなければならない問題を対処するのはいいのですがそのうち対処療法だけしかなくなっていくでは問題の先送りになるのは自明の理です。

誰でも人は、大きな問題や時間がかかる問題はすぐに結果が出ないので目の前のわかりやすいことに取り組みます。あるいは、余裕もなくなってきますからとにかく今の目の前のことだけをやろうとしていくものです。

しかし気が付けば、目の前のことをやっているうちにみんながその目の前のことだけをやっていればいいとなってしまえば必ず未来に大きな禍根を残していきます。それが問題の先送りというものです。

今本当にしなければならないことをやるのはいいのですが、それよりも目先のことを解決するのが先とばかりにやっていたら時機を失してしまうということです。つまり対処療法というのは危険なことだと気づいているかということでもあります。

これは人間の身体も同じです。とりあえず今の痛みだけなくなればそれでいいとの考えでやっていたらやがて大きな病気を引き起こす原因になります。腫瘍や癌なども同じです。

つまり本当の病気というは、ここからとりあえず目先のことだけを乗り切るということであることがわかります。

しかし時代や周囲を観ては今はどうでしょうか。環境問題も人口減少も、資本主義も、国家間の争いも全部目先のことばかりをやってはいないでしょうか。行政も地域も、学校も病院も宗教も企業もみんなそうなっていないでしょうか。

では誰が根源的なものに向き合い、誰が長い目で観て根本的なことに取り組んでいくのか。誰かがしてくれるだろうか、そんな仕事の人たちがいるではないかとなるかもしれません。しかしおかしな話で、それを解決する人たちもそれが単なる分業された仕事になってしまってはそれは名前を換えた対症療法というだけではないでしょうか。

例えば、環境問題というのは人間の問題です。人間の問題を解決しなければならないのです。そして人間の問題は心の問題です。心の問題を解決しなければならないのです。心の問題は、生き方の問題です。みんなで生き方のことを見つめる必要があります。

私も徳や伝承、場づくりなどとやっていますがこれは目先の問題を解決するものではありません。時間をかけてじっくり醸成していくものです。しかし目先の問題とは異なりますから、それを今すぐにやろうとはならないものです。でもそれを誰かがやらなければ、誰かが挑戦しなければ子孫へ問題を先送りしてしまいます。

先送りしないという意志は、この問題を自分たちの世代で片づけるという強い思いが必要です。長くそして短い人生のなかで、後悔しないように生きていくためには今の自分が大変で、忙しく、厳しい環境に置かれていても愚直に遠くにある目的に向かって初心を忘れずに仲間たちと共に一歩一歩ゆっくり急ぐことだろうと私は思います。

善く見渡すと、そういう生き方を実践して精進している人たちはたくさんいるものです。私も子どもたちのためにも先送りしないという覚悟を定めて、引き続き精進していきたいと思います。

 

聴福人の実践

先日、あることで松下幸之助さんの生前の講演動画を拝見する機会がありました。そこでは、私心を消すことについて謙虚にお話をされておられ色々と省みる機会になりました。

そもそも私心というのは、小我やエゴなど自分がという己の存在を過少過大評価をしている状態のことです。何物もでもない、存在している自分をよほどの存在として独善的になっていくと私心に囚われた状態になります。

本当の自信を持つというのは、難しいことでそれだけ日々に自分というものと向き合い、自分の中の私心がどうなっているのかを見つめ続ける必要があるように思います。

松下幸之助さんも、自分の私心が毎日出てくるからそれを危険だと思って気を付けていると。賢い人こそ、危険であるから要注意であると。賢いからこそ会社をつぶすことがあると、使い方次第であると仰っていました。

確かに、今の能力も才能もそして自分というものもそれをどう使うかというのは心が決めるものです。それを世のため人のため、そして社会のため世界のためにと自分を天から預かりものとして使うときは私心はなくなっていきます。しかし、それを自分のものだからと勘違いして特別な存在だと勘違いしてしまうと私心にまみれて判断がすべて己の方に引き寄せようと欲望に吞まれます。

この世のすべてはみんな天が与えた存在であると自覚すれば、天命というものの声も聴けるように思います。しかし、天命がわからなくなるのは自分勝手、得手勝手に勘違いし視野が狭くなるからのようにも思います。

視野の広さとは、自分はとても小さな存在と思えるとき視野は広がります。永遠から結ばれている先祖からの自分を感じたり、この世のすべてのいのちは繋がっていると感じたり、宇宙や星々、光や道を感じるときもそう感じます。しかし便利さや自分の権利が当然のような環境の世の中では、そういう感覚は麻痺してみんな私心まみれ我欲まみれになりたいように思います。

夏目漱石が晩年の境地に「則天去私」(天に則り私を去る=てんにのっとりわたくしをさる)ということを語っておられます。天命に生きることの要諦で、亡くなるまでずっとその道に挑戦されたことを想像できます。

また松下幸之助さんを尊敬されておられた稲盛和夫さんもこう仰っています。

「私心を捨てて、世のため人のためによかれと思って行う行為は、誰も妨げることができず、逆に天が助けてくれる。」

動機善なりか、私心なかりしかと、自問自答を日々に繰り返されたいたそうです。毎日、私心はないかと自分に尋ねるというのは本当に大切なことだと反省するばかりです。

最後に、私が大好きな良寛さんの遺した言葉だそうです。

「おらがおらがの「が」を捨て、おかげおかげの「げ」で生きよ」

感謝や御蔭様というのは、私心を毎日お手入れすることに似ています。自己の徳を磨いていくのは、それが天命であることを忘れないようにしていくためかもしれません。

よくよく反省して、自ら勘違いしないように周囲の声に耳を澄ませ、聴福人の実践を真摯に取り組んでいきたいと思います。

お山を調える暮らし

英彦山の宿坊の周辺の石組みや水路の修繕をしています。実際には、ほとんど土木作業ですが今のように重機がなかった時代にどのように石組みをしていたのかがほとんどわかりません。なので、一つ一つの自然や石組みを観察しながら推察したり想像したりと、先人の足跡から学び直しています。

今でも守静坊の周辺は、立地的にも機械や重機は入れません。なので、テコの原理を使って石を動かしたり、人を集めてみんなで運ぶという具合でととのえています。しかし、あまりにも大きな石はどうしようもなく、そのままにしています。本当に、どうやったのだろうかとまるで古代の失われた技術にため息ばかりです。

エジプトのピラミッドもですが、どうやってというのは今も解明されていません。その時代に生きた人たちの知恵は子孫のためにも伝承していく大事さをひしひしと感じています。

むかしの水路には、水を抑制する技術に長けていることがわかります。ただ流すのではなく、水の力を敢えてそぎ落としたり、ところどころで土に浸透させてガス抜きのように溜め込ませたり、落として力を逃がしたり、曲げて速度を調整したりと工夫に満ちています。

標高の高い英彦山は、大雨が降ると一気に洪水のように水が下に流れていきます。先日の豪雨はまるで、石段が川のようになり段差が大滝のようでした。土砂が崩れるのではないかと心配になりました。しかし数百年の間、壊れていない場所に建っていますからある意味での安心感があります。

先人は、なぜその場所が壊れないと思ったのか、そしてなぜ今のような石組みにしたのか、考えさせられます。とはいえ、宿坊の周辺もところどころ石が崩れ、水路の流れを換えてしまっています。小さな水路の破壊が、その場所の破壊にもなり、手入れをし続けないと場も保てません。

今は宿坊跡になり、ほとんど空き地になり家も人もここにはいません。しかし、本来、標高1000メートル以上の山というのは水を貯水する天然の給水塔だといわれます。森が水を育むという言葉にあるように、この山が水を保水しているから平地の暮らしが保たれています。特に福岡県においてもっとも高い山であり、水を生み出す英彦山の御蔭で県内のすべての支流は確保されています。その山を守るためにも、むかしは山伏たちが山が清浄であるように健全であるように暮らしを保ち山をととのえたのです。

その調え方は、まずは自らの宿坊の周辺を丁寧に修繕し続けること。そして風通しや水の流れなどを澱まないようにしたこと。山に感謝して、自然のありがたさを感じることなどをやったように私は思います。

やることはいくらでもありますが、身体は一つしかなく時間をかけて少しずつ取り組んでいます。お山の知恵に学び、人類の行く末を祈り、子孫のためにも暮らしフルネスを味わっていきたいと思います。

本当の自分に近づく

人間は自分の力を過信するときに、同時に慢心が生まれます。この過信と慢心は別の意味のように語られます。つまり過信は自分の力を信じすぎる、慢心は自分を信じすぎておごり高ぶるという具合でしょうか。しかし、実際にこの過信も慢心も同じ意味です。

そうではない姿とは何か、それは謙虚です。

この謙虚さというのは、ある意味自分というものの理解を正しくしているものです。例えば、自分ではないと思えるということです。今の自分があるのは、ご縁、ご先祖様、お導き、仲間や家族、あるいは私であればお山やお家、風土や先人の遺徳、自然、太陽、お水、あらゆるものが自分ではないものになっていきます。

その時、私たちは御蔭様に気づき、有難いと自然に感謝ができます。そういう自分ではないものの存在に気づくとき、その中にあり「活かされている自分」というものに出会います。

自分で勝手に生きているのではないし、自分の力だけで生きてきたのではないという事実を知るのです。

その事実を知るとき、人は過信や慢心というものから遠ざかり現実を受け入れ真実を見つめることができます。

どうしても自分に意識が行き過ぎれば、人は過信となり、そして自分の力でのみ乗り越えられると思えば慢心となります。結局は、事実として人は誰かの助けによって共生の原理によって存在しますから現実に苦しめられるだけになります。

だからこそ現実を直視して、活かされている自分のままでいることに徹することで事は成就していくのでしょう。それが謙虚さであり、本当の自分を知るということになると思います。

色々と勘違いして、私もまだまだ迷い悩む日々ですが常に初心や原点を磨きながら、周囲の御蔭さまと有難さに感謝をして本当の自分に近づいていきたいと思います。