幸福の原点

昨日は、福岡にある自然農のむかしの田んぼで田植えを行いました。ここは無肥料無農薬で、山水をかけ流しているため沢蟹やエビなどの生き物たちがたくさんいます。

今回は神事も兼ねて田植えをしましたから早乙女の衣装も用意して田植え歌も流しつつ執り行いました。この早乙女というのは、世界大百科事典によればこうあります。

「田植に,苗を本田に植える仕事をする女性をいう。ウエメ(植女),ソウトメ,ショトメなどともいう。本来は,田植に際して田の神を祭る特定の女性を指したものと考えられる。かつては田主(たあるじ)の家族の若い女性を家早乙女,内早乙女などと呼びこれにあてたらしい。相互扶助を目的としたゆい組の女性だけを早乙女と呼ぶ例もある。いずれも敬称として用いられている。田植に女性の労働が重んじられたこともあり,しだいに田植に参加する女性すべてを早乙女と呼ぶようになったと思われる。」

また百科事典ペディアによればこうも書かれます。

「田植に従事する女性。古くは植女(うえめ)ともいい,田植女の総称ではなく,田の神に奉仕する特定の女性をさした。田の神を早男(そうとく)と呼ぶのがそれを暗示する。田植は,豊作を祈る祭の日でもあるので,早乙女の服装は地方によって異なるが,普通,紺の単(ひとえ)に赤だすき,白手ぬぐいをかぶって新しい菅笠(すげがさ)をつける。」

この早乙女は古来から里山の「結(ゆい)」の仕組みとセットで存在し、早乙女たちがそれぞれの田んぼに移動しながらみんなの田植えを手伝いながら神事をし田んぼの神様に喜んでいただきながら豊作を祈り、その場の人たちの仲間を集めながら相互扶助の精神を醸成する役割を果たしたようです。

家々の田んぼをみんなで手伝いながら田植えをするために、早乙女たちが家々の田んぼを巡りながらみんなで明るく楽しい時間を過ごしていたことが目に映ります。豊作を信じて、おめでとうございますという声掛けとともに田植え歌のリズムに乗せて手伝いに来た人たちといっしょに家々の田んぼの稲の苗を植えていく。

きっと、稲もみんなで育てる、田んぼもみんなで守るという意識をもって一緒にその場を磨いていたように思います。田植えをしてからは、草とりから畔の手入れ、そして収穫、はさかけ、籾摺り、脱穀、新嘗祭、しめ縄づくり、藁ぶき屋根の補修などさらに一緒に暮らしていく中での協働作業の機会が増えていきます。

お米という字は、八十八の手間暇がかかるという意味でできた漢字だといえますがその手間暇が協働で一緒に暮らすためのものであるのならこれこそが人類の真の豊かさであることがわかります。

物質的な豊かさや金銭的な豊かさとは別に、暮らしを共にして仲間と助け合い見守りあう豊かさは古今の普遍の幸福の原点です。

今年も稲の巡りとともにしながら暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。

ふるさとの甦生

私たちは自分たちの「いのち」をいつも見守ってくれている「ふるさと」のことを忘れると、当たり前ではない偉大な「御恩」に気づかなくなっていくものです。今の自分があるのは、御恩の集積の結果でありそれになんとかお返しをしたいと思う心の中にふるさとがあるからです。

今、ふるさとへの恩返しといえばふるさと納税のことなどが言われますが決してふるさとに納税したからといってご恩返しができたということではないと私は思います。一つの手段ですが、かえってそのふるさと納税の問題で村や町が資本主義の影響で荒れてしまいさらにふるさとが消滅していった事例も増えているように思います。

なんでもまず前提に「お金」のことを考える世の中になってから、都市を運営する方法で田舎もやろうとしだしてから田舎の魅力も同時に失われてきたように思います。

本来は、それぞれが個々人でふるさとのために何ができるかをよく考えて取り組んでいくことからはじめることだと私は思います。そのために資金も必要ですが、できるところからはじめていけば仲間が増えてそのうちふるさとが喜び、人も喜び、御恩も喜んでいくように思います。

そのふるさとへの御恩返しにおいて、もっとも大切なことは「魅力」を磨きなおすことです。これは、そこに住む人たちができることですし、ふるさとに戻ってきた人、もしくはそこを新たなふるさとにしようと移住する人たちでもできることです。

それは、その場所の単なる過去の栄光や遺跡を自慢することではありません。もしくは、なんとなく目新しいものや人気があるもの、流行のものを出すことが魅力ではありません。

魅力とは徳を磨いていくことで発揮されるものです。そもそもこの徳と魅力は似ているところがあります。そのままでは魅力は輝くことはありません、あくまで磨いていくことで魅力は高まって光っていきます。

「あなたは自分のふるさとの魅力を磨いていますか?」 そして、「あなたは自分自身の魅力を磨きましたか?」

この二つの問いだけで、私たちは徳というものの存在やふるさとへの御恩返しにつながっていくと私は感じているのです。その場所を、今までよりももっと素晴らしい場所にしていく。もしくは自分の徳を磨き、子孫たちにその徳をもっと素晴らしいものにして譲渡していく。

与えられたものに不満を言ったり、不足を嘆くのではなく磨くのです。それは足るを知り、あなたにしか与えられていないたった一つの天与の道を磨くのです。そうすることが、ふるさとへの御恩返しになるのです。

実際、毎日のように見学者が来て話を聴きにきて説明しますが私が取り組んでいることは実は誰にでもできることです。ふるさとのことを愛する心は、感謝に生きる心でもあります。その心をもっている人は豊かであり仕合せです。その仕合せが末永く継続できるように私たちはふるさとへ御恩返ししていく必要があります。それが子どもたちの仕合せな未来への約束でもあります。

仕事でやることではなく、心をもって魅力を磨くことは個々人でできるのです。

みんなでそうやってふるさとを磨いていけば、光り輝き出したふるさとを観て元氣になっていく人たちが増えていきます。ふるさとが甦生すれば、その土地だけではなく人々も元氣になっていくのです。

日本が元氣になれば世界も元氣になります。

元氣になれば、人間は足るを知り自然との共生のすばらしさ、平和の美しさ、本物や伝統文化の価値を実感しなおすことができます。

引き続き、この場からふるさとの甦生を楽しんでいきたいと思います。

 

捨てない教え

日本には持ち家信仰というものがあると、ある方からお伺いする機会がありました。確かにいろいろと調べていると、高度経済成長期に日本人は新築文化だといわれるほどに古い家は取り壊して新築を建て続けていきました。今の都市がそうなっているように、歪で景観などを無視したかつての新築が廃墟のようになっている光景をみると何をやってきたのかが推察できます。

特に今でも、持ち家信仰といわれるほどに家を持つことが何よりも価値があるように言われています。実際に、古民家甦生をしている関係でいろいろな相談を受けますが実際には負担になっている古い家や土地をなんとかできないかということばかりです。

活用できなくなった土地や家の問題が重くのしかかり、それが老後の大きな負担になっているのです。現在の空き家問題も、解決していないのに今でも新築を作り続けています。このままでは新築が多すぎて空き家になるという具合に、人口減少の問題だけではなく作りすぎによる無駄が発生して結局はゴミのように廃棄する運命になります。

現在の資本主義の構造は、生産をするためには消費し続けないといけませんから家に限らず作り続けるというモデルがなくならない限り、このゴミ問題はなくなることはありません。

本来、捨てなくてもいいものを捨てることを転換し長く使うことを大切にすることや、そもそもリサイクルとか廃棄とかの課題を考える前につくることを考え直すところからやり直す必要があるようにも思います。

ものをつくるときに、また生産する前にこれを最後はどうするのかまで考えてから取り組めば余計なものをつくらないと考えるはずです。むかしの先人たちは、子孫たちのことをよく考えてくれていてちゃんとつくる前によく吟味していたのが現在の建造物や文化財からもわかります。

今の自分の世代のことだけ、自分のことだけを考えるのではなく、子孫のこと、未来のこと、そして永続する人類のために今一度、どのように資源を大切にしてみんなで分け合っていくのかを考える時機が来ているように思います。

子どもたちのためにできるところから、自分の足元から変革をしていきたいと思います。

 

暮らしの習慣

一般的なスケジュール(予定)とは別にルーティン(習慣)というものがあります。スケジュールは、決められたものを計画通りに実行していくことをいいますが習慣は暮らしの中で取り組む繰り返しの実践のような位置づけで用いられます。

ルーティン(習慣)を持っている人は、そこに一つのリズムも持っています。毎日を整えていくための一つとしてこの習慣を大切にすることはとても重要なことだと思います。

例えば、私はこのブログを毎朝欠かさず書いています。前の日、もしくは直前までに振り返りをし日々を省みてそこから気づいたことや発見したことを深めたり実践を磨いています。日々に取り組むことで、毎日のリズムができ同時に意識を磨いていくことができています。

この意識には、変化というものを捉えるというものもあります。同じことを徹底的に磨き続けることで前のこととは異なっているものの発見がたくさんあります。同じことをしていても決して同じことは起きることはなく、必ず何らかの変化を感じ取ることができます。

このブログの場合は、以前と同じテーマで書いているのにも関わらず10年前の記事と今書く記事では内容が同じでも表現の仕方や理解の深さ、また言葉の磨き方が変わってしまっています。自分でそこではじめて、日々のルーティン(習慣)によって磨かれたということを実感するのです。

私たちはルーティンを通して自分を磨いていくことができます、別の言い方をすると暮らしの習慣によって自分を変えていくことができるということです。理想の自分、目指している姿に近づけていくためにどのようなルーティンを暮らしの中で実現するのかを決める必要があります。

ここでのどんな暮らしをしていくのかは、つまりどんな自分をつくっていくのかと同義語ということでしょう。

暮らしフルネス™は、この自分を磨いていくための実践をどう豊かなもので満たしていくかということでもあります。足るを知る暮らしのルーティン、自然と共生するルーティン、自分を整えていくためのルーティン、あらゆるルーティン(習慣)は私たちの人生を深く支えているのでしょう。

本物の変化は小さなルーティンの積み重ねと磨き合いによって起こります。これから新しくはじめる新たなルーティンが子どもたちの未来をより豊かにしていくように祈りつつ行動を開始していきたいと思います。

 

 

日本民家の甦生

伝統的な歴史的な家屋をよく観察しているとそれが暮らす人たちの健康を優先されて建築されていることがよくわかります。風水に照らし、間取りや配置、その風土に合致させてつくられています。

高温多湿の日本では湿気の問題は大きな影響を与えます。夏の蒸し暑さは激しいもので、それをどう乗り越えようかといろいろと工夫されています。

例えば、現在私が甦生させている町家や藁ぶきの農家古民家らは非常に風通しがよくこの時期はまだかなり家の中が寒いくらいです。この風通しがいいというのは、水が澱まずに乾燥しますから家の木材を守るためにもいいだけではなく衛生上、人間にとって害のあるカビや害虫などを寄せ付けません。世間一般ではこれらの古民家は夏向きに過ごしやすくつくられているという言い方をしますが、本来はそうではなく私は「病気にならないようにつくられている」という方が確かだと私は思うのです。

建築をするのに善い場所とは何か、今では国道からすぐとか、都市から離れていないとか、日当たりや眺めがいい、景観がいいなどというところを選ぶ人が増えていますが本来の大前提の絶対条件は「病気にならない場所」であったのです。その証拠に、まず飲み水がいいところか、風通しがいいか、土中環境が澱んでいないか、他にも清浄な空気が流れているところか、地盤がしっかりしていて自然災害が少ないかなどを優先しています。

今では、空いている土地ならどこでも環境を無視して建てようとしますが本来は一生家族が健康に過ごせるためにもっとも善い場所を選んでそこに相応しい建築を用意しようとしたのです。

つまり何が言いたいのかといえば、善い場所にある善い家とは「健康を守ることができるところ」ということです。現代では、特に都会では見た目の洗練さばかりを広告宣伝され世の中の人たちの価値観もそちらに流れています。

本来、どのような環境があることで人間が健康でいられるか。この当たり前のことをもう一度思い出し、なぜ暮らしの甦生、日本民家の甦生が必要なのかを考えてみる必要があると私は思います。

引き続き、何をもっとも先人たちが大切にし子孫に伝えようとしたのかを今、この場所から伝道していきたいと思います。

徳の循環

昨日、無事に徳積堂カフェのオープニングイベントを終えることができました。講師の福永晋三先生からは歴史のロマンをみんなでお聴きでき古代の徳を掘り起こすいい機会になりました。

みんなでその後、一人ずつ語り合った時間がとても上質でみんなで気づいたことを語り合う空間の中にまた徳を感じました。私たちは当たり前すぎて気づかなくなってしまったものが空気や水や太陽や月や徳です。

月の光のように暗闇の中で、明るく優しい様子に私たちは徳を思い出すものです。私は敢えて徳というものを可視化するような取り組みをするのは、この徳を思い出すことをみんなと分かち合いたいからでもあります。

本来、徳というものは目に見えるようにするものではありません。それに徳を積むということをわざわざ口に出すことでもありません。それを敢えて徳積みをするといい、徳を可視化までするという矛盾をしてまで行うのには理由があるのです。

老子や松下幸之助も徳は、道を真心をもって実践してはじめて真の徳であると定義しています。当然のことながら、徳を積んでいると思えないほどに至誠で純粋なものの中に真の徳はあります。無為自然であり、宇宙の偉大さと徳は同一です。

しかし私たち日本人の先祖は、感謝をはじめ「有難い存在」、つまり「ありがとう」と意識し口にすることによって当たり前ではない存在に気づき続けようと暮らしを整え続けてこれまで工夫してきました。傲慢になり我欲に負けて、当たり前ではない存在を当たり前だと思うようになり数々の失敗と反省を繰り返してきました。自分が特別な何か特別に選ばれたものであるかのように、思い通りにいく世界にいることで自然から離れて人間だけの世界を築いてきたのです。

その結果として謙虚さを失い、現在の環境破壊を続ける文明を野放しにするところにまで到達してきました。時代の転換期である今は、敢えて当たり前ではないことに気づきそれを可視化して暮らしをもう一度、みんなで整え治す実践が必要だと私は感じました。

そこで、暮らしフルネス™を提案し、徳を可視化して循環させるという敢えて徳積というものを磨くことお手入れすることや、またそのほかの循環や場を通してみんなで歴史をもう一度創りなおして真の豊かさを味わっていこうと声掛けをするのです。

私が決して徳が高い人で徳を積むことを上から教えるようなことは絶対にありません。むしろ、徳を積みたい、徳の循環と共生したいと強く願い実践を磨いていきたいと思うだけです。

最後に、老子の徳の解釈で締めくくります。

「上士は道を聞きては、勤めてこれを行なう。中士は道を聞きては、存(あ)るが若(ごと)く亡(な)きが若し。下士は道を聞きては、大いにこれを笑う。笑わざれば以(も)って道と為(な)すに足らず。故に建言(けんげん)にこれあり。明道は昧(くら)きが若く、進道は退くが若く、夷道(いどう)は纇(らい)なるが若し。上徳は谷の若く、広徳は足らざるが若く、建徳は偸(おこた)るが若し。質真(しつしん)は渝(かわ)るが若く、大白(たいはく)は辱(じょく)なるが若く、大方(たいほう)は隅(かど)無し。大器は晩成し、大音(たいおん)は希声、大象(たいしょう)は形無し。道は隠れて名なし。それただ道は、善く貸し且(か)つ善く成す。」

道徳こそ、循環のはじまりなのです。

子どもたちに徳の循環を結んでいきたいと思います。

 

ご縁に導かれるということ

人はご縁に導かれて人生を歩んでいくものです。しかし実際に日常を生きていると、そのつながりを感じる間もないほどに多くの出会いがあり別れがあり日々は前進していきますから感じにくいものです。

例えば、ある出会いがないと次の出会いにつながらないということはみんな体験しているものです。不思議なもので、出会った人が次の出会いと深い関係性を持っています。それと直観のいい人は、感覚的に察知してご縁を大切にしていくのです。すると、早ければすぐに、遅くても数年後には一緒にそのご縁を活かしあうような出来事や物語とつながっていきます。

私は直観が鋭い方かもしれませんが、気になるご縁を先に感知していきます。何かその人との未来が実感するものがあるのです。頭では考えられないかもしれませんが、心が感応して不思議なご縁を感じていきます。このご縁は別に自分に対してメリットとかデメリットがとかではなく「ご縁がある」と感じるものです。

そう考えてみると、ご縁があるとはご縁に導かれ続けることに委ね続けるということでしょう。ご縁があるのはその時、その場所、その組み合わせでなければならず、まさに絶妙に一期一会にご縁を結び合うのです。それがお互いのいのちや魂に深い影響を与えてさらにこの世で大切な役割を果たすための触媒になっていくのです。

仏教でいう山川草木悉皆成仏というのでしょうか。みんなが触媒となってお互いに深い関係を結んでいくという世界。これが私たちのいのちの仕組みということなのでしょう。だからこそ、ご縁というものを感じることが何よりも大切なのです。自分が知らず知らずのうちに与えたご縁がその人にとっての深いご縁になり世界がまた変わっていく。逆に、与えられたご縁によって自分の世界が変わり、そのことを触媒としてまた別の世界に導かれていく。

だからこそ私たちはご縁を大切に人生を生き切る必要があるのです。

私も、この数年で出会う人も語り合う話も、具体的な関わりも大きく変化してきました。ここからまた新たなご縁が深まり始めています。二度とないこのご縁を大切に導かれていきたいと思います。

徳を掘り起こす

明日は、いよいよ徳積堂がオープンする日です。この日を迎えるまでかなりの時間をかけて準備してきましたが、無事に始動できることが仕合せです。もともと徳の循環をはじめるための実験の場として醸成していきましたがこれからどのような変化をこの場が築いていくのか楽しみです。

今回のオープニングイベントは徳の掘り起こしをテーマに古代から今までの歴史を学び直す機会にしています。そもそも歴史とはそのまま真実であり、どのような経緯で今ここまできたのかを明確に顕すものです。

時としてその時代の権力者が歴史を私物化して、真実を歪めていることもありますが本来の歴史はいくら歪めても最後には必ず正体がはっきりするものです。それはそこに「場」が遺っているからであり、その場にアクセスする人たちによって本当のことが次第に明らかになっていくからです。

例えば、日本の歴史では菅原道真公のように如何に罪人であるかのように時の政権が歴史を抹殺して功績をなかったことにしたとしても、その後、ご縁のある人たちや遺跡や文化財などの掘り起こしによってその徳が顕彰されていくのです。

いくら歴史を誤魔化して私物化しても、いつかは明るみになり返ってそのことでさらに歴史の真実や徳は人々に語り継がれるようになるのです。

歴史というものは、今まで歩いてきた軌跡でありこれから何処に向かっていくのかの大切な方針や初心を示すものです。私たちは個人の人生を生きてはいますが、大きな意味としては歴史を生きているのです。この現代もまた、古代から続く歴史の連続の一部であり未来もまた歴史につながり顕現してきます。

今の自分の布置を理解することは、今の自分に譲られてきた徳を理解することでもあります。

私たちが歴史を掘り起こす必要があるのは、自分たちが今までどのように歴史を生き抜き暮らしてきたか。そして先人たちの数々の人生での思いや祈り、願いを歴史とともにどのように暮らし生きていくのか、その遺徳を感受しなおすことで私たちが何を徳としてきたかを甦生させる意味もあるのです。

徳の甦生は、徳の循環のはじまりになります。

子どもたちが、自分たちの歴史やルーツを知ることこそ根のある暮らしを実践することであり、栄養豊富な風土から養分を吸い上げて世界や未来で活躍するための場の醸成になっていきます。

まずはこの時、この徳積堂から子どもたちに確かな未来を譲っていきたいと思います。

徳循環の道理

私たちの身の回りには自然由来のものと、そうではない人工的なものが存在しています。例えば、建築でいえば土壁や柱などは自然由来です。それに対して、ビニールクロスやユニットバスなどは人工的なものです。

本来、自然界は自然が造形したもので仕上がっているものです。それは自然の篩にかけられるなかでも生き残る智慧で存在しているもので形成しています。石も土も木も、また火も水もすべて自然界を維持するための大切な要素を果たしあうことで存在を助け合い半永久的に循環しながら維持しています。

しかし人間が人工的につくるものは、自然に反して本来自然の中で存在しないものを産み出しますから循環することができません。循環しないものは、自然の篩にかけられてそのうち消滅していきます。

つまりこの世の道理としてシンプルなものは、循環しないものは消滅し循環するものだけは永続するということです。こういう真理や道理は、この世にいる限りは変えることはできません。どのような生物にも生死が存在するように、変えることができない事実が真理としてあります。

現代を観てみたらどうでしょうか。

人類はここ百年で循環しないものばかりを産み出してきました。それはゴミとしてこの世にとどまり、自然の消滅を待つまで循環せずにこの世に存在していきます。本来、循環とはお互いに存在そのものが互助と利他で巡っており、お互いの役割がお互いの社会に必要不可欠な共生関係を結んでいるものです。

自然との共生という言い方をしますが、これは自然由来の中に人間も入って一緒に循環の一助になることを言います。里山などはその典型で、自然の巡りを助けるように私たちは自然の資源を上手に活用し、取りすぎず余らなすぎずに適当に分けていただきながらその分、周囲の生き物たち全体を活かそうとしていきます。

私が取り組んでいるむかしの田んぼもまた、生き物たちがいっぱいになるような環境を用意しお米をつくっています。お米づくりは、実は微生物をはじめたくさんの生命たちが水田に溢れ自然の循環を活性化していきます。それにより、水も空気も浄化され、私たちの身体も食を通して循環して浄化されていくのです。

循環というものは、お互いを活かしあうことですがそれは決して人工的に行うものでは廻らず、必ず自然の巡りと調和して発生するのです。私は、これから徳積堂を始動させ循環についてここから発信していきますがそもそも循環が徳そのものであり、循環を促すことが徳を積むことになるのです。

現代では逆行しているかもしれませんが、そのうち何が本来の持続可能なのか。延命治療ではなく、根源治癒とはどういうことを言うのか。気づく人たちとともに人類の未来を切り拓いていきたいと思います。

人類の真の役割

思い出のある家や土地を手放していくというのは複雑な感情がこみ上げてくるものです。私も長年住み慣れた東京の部屋や、17年近くの青春を共にした社屋が変わるとき、また先祖の土地をお譲りするときなどその寂しさや切なさなども体験してきました。

しかしそのままで空き家になったり、放棄地になってしまったら荒れ放題になり負担がかかっていきます。思い出が豊かで仕合せだったからこそ手放すときに寂しいのであり、できれば思い出とともにいつまでも手元に保管しておきたいと思うものです。

私は古民家甦生などを通して前の家主さんの残置物の片づけやお祓いなどを通して家を建てたときからこれまでの時の流れを供養して新しい思い出をつくるお手伝いをする機会がたくさんあります。この寂しさと新たな希望は、卒業の感情に似ています。

よく考えてみるとこれまでつないできたものを引き継いでいく存在に次を譲っていくということは、この世で新しい物語を紡ぎ続けていくことです。どんな結果になろうとしても、そこには確かな物語が生き続けていてそれが消えることはありません。よく考えてみると、人間ははじめは一人からはじまりそれが二人になりと増えていき、今の人口になります。また家も最初は一つからはじまり、今では多くの家々が存在します。これを思えば、今の私という存在までの中に生きている物語でありそれは自分自身の中に生き続けています。

諸行無常のこの世界で、変化しないものは一切存在しません。変化していくことを悲しむよりも、そこに生きたという証は記憶の中に存在しています。その記憶もまた新たにしていくことで、生き続けていくことができます。

畢竟、運命に逆らずに素直に受け容れ大きな存在に今を委ねて生きていくときその物語がつながっていくことを実感します。残すべきは記憶であり、歴史であり、決して物ではないということ。連綿とつながってきた物語が遺ることこそが、私たち人類の真の役割と幸福でもあるのでしょう。

前の人の思い出の上に、新しい人の思い出があります。前の人の幸福な場所が、また新しい人の幸福の場所になっていく。そうやって、思いをつないでいけばいつまでもその場所には歴史が遺ります。

諸行無常の中にある、諸行永遠の真理を重ねて今に集中して子どもたちに未来をつないでいきたいと思います。