場を極める

先日から英彦山とのご縁があり宿坊のことを深めていると、かつての聖地ということの意味を再確認することがあります。

もともとこの宿坊とは、主に仏教寺院や神社などで僧侶や氏子、講、参拝者のために作られた宿泊施設のことです。この英彦山では盛時には僧坊3800余が建ち並んで門前の集落をつくっていたともいいます。山の中を歩いていると、宿坊跡だったような場所がなんとなく棚田のように残っています。

厳しい山間での暮らしが観えて、この神域でみんなで助け合い学び合い生きていたことを感じます。明治29年には126戸を記録した坊舎も、現在は顕揚坊、楞厳坊、増了坊など10数軒を残すだけになっています。かつての坊舎は、それぞれに工夫された庭園がついていたといいますがその形跡もあちこちに残っています。その跡地からは、その澄み切った精神性を感じることができます。

本来、聖域とは何かと定義するとそこには聖なる場があったということです。そして聖なる場があるということは、その場を整えていた人があったということです。人は自然の中である一定の精神性を磨き極め高めるとそこに場を創ります。その場に入ると、心の安堵や平安が訪れまるで仏教でいうところの極楽浄土が現れます。

その極楽浄土とは、心の澄み切ったところです。

かつての宿坊は、その心の澄み切った場所であったと私は思います。その場所を守り続けるというのは、その場を清め続けるということです。何が荒廃してなくなったのかといえば、そこに人物がいなくなったことです。

人物と書いて、人と物ですがそれが磨き清められた空間には場が誕生します。私が場道家を名乗るのは、その「場」を極めようとしているからです。場を極めるのは、聖地を甦生させることです。

子どもたちに心の楽土を感じてもらい、魂のふるさとに原点回帰して本来の自分を取り戻していけるように丁寧に甦生を続けていきたいと思います。