吉田松陰先生

一昨日、今年も無事に萩の松陰神社に参拝することができた。

もう参拝も十数年になるけれど、松下村塾を訪れるたびに新しい学びをいただいている。そのものの奥深さというのは、意味やその人の遺訓や遺志を感じ尽くすほどの透徹した繰り返しと行動によって得られるのだと思う。

ただ一度きりで、出会うものもあれば、長年、先人の志に根ざした軌跡と言動を共に歩みながら噛み締め出逢うものもある。

私は吉田松陰先生と出会ってから、ずっと立志ということの意味、そして至誠という行動がどのようなことなのかを知りたい一心で突き動かされているように思う。

学問を正しくして、自らを修め、志に生き、忠孝を尽くす。

スローガンではなく、実践をした人生を歩んだ方だったからこそ、師と仰ぐに相応しい方だと常に実感する。

明治の維新の原動力になった、松陰先生の立志実践の塊、松下村塾。

その学びの中心には、士規七則がある。
その最後の七則目と、その戒めに記したものに本質が観える。

『一、死して後已むの四字は言簡にして義該し、
賢忍果決、確固として抜くべからざるものは、これを舎きて術なきなり。

 士規七則約して三端と為す。

曰く

「志を立てて以って万事の源となす。交を択びて以って仁義の行を輔く。
書を読みて以って聖賢の訓をかんがふ」

 と、士まことにここに得ることあらば、亦以て成人と為すべし。

                        二十一回猛士手録  』

私の自釈であるけれど七則目については、「学びは死ぬまで続くものだから、わかりやすい言葉すらもよく慎み意味を広め、深め、我慢強く不動の境地を築く以外に方法はないのである。」とした。

そして、松陰先生が仰ったのは「全ての行動は立志に根ざしたものを原点とし、自らを律して交わりを正しく選ぶことで仁や義に行じる生き方は無限に支えられ、聖賢の歩んだ遺訓を真っ直ぐに学び自らそれを全うすることを人生の糧とし生死の本懐とする。」とした。

この教育方針を中心に塾生には、この三端、「立志、択交、読書」を説いた。

戦後に感情論で刷り込まれた一部の人たちの都合で誤解されているけれど、これは生きる上ではもっとも正しい人間の「学問の定義」なのではないかと私は思う。

私も20代の頃、立志を定め、交友を選び、只管に聖賢の実践を学ぶと決意した。

そうしていることで、振り返ると随分色々なものに助けてもらった。

挫けそうなとき、負けそうなとき、その「学問」こそが自らを支えてくれた。

師にこのような大切な学びの定義を教わった松陰門下の生徒は本当に幸せだっただろうと思う。短期間の教育でも、これだけ日本を支える志士の原動力を生み出したのはこの先生の生き様と師道によるものであったのだと私は思う。

私は同じ時代ではないのだけれど私の周囲にいる素晴らしい師の背中と邂逅によって、この学問の意味を少しは理解できるようになってきた。

これも吉田松陰先生との出会いが端を発したと思うと本当に有難いことだと思う。

最後に、松陰先生の師道がその言葉によって示されたものがある。(維新の先達 吉田松陰 田中俊資著)

「理由なくして人の師となるな。又、考えもなく人を師とするな。人に師たるの力があって師となり、師と仰ぐ価値のある人を師とせよ。師と言い弟子と言うも、昔の偉い人から見れば、皆その門人である。同じ門人でありながら、師と言い弟子と言うことは遠慮すべきでなかろうか」

松陰先生は、本質に師弟というものなく、常にその方向が同じであることを言っているのだと私は思う。こうやって実践を通じて弟子とともに学び続けるということを第一義になさっていた。

師も弟子も深いところでは志の中で常に平等であり、同志というものなのだと自らの実践を以て語っているように思えた。

そして、師弟としての感慨として私が松陰門下でとても共感を抱いている弟子だった品川弥二郎が松下村塾に通う心境に際しこんな言葉を遺している。

「自分は朝起きてから夜寝るまで、一所懸命に読んだり抜き書きしたりして、或いは感じて泣き、或いは喜んでおどり、勉強をやめることができない。」

貧しい家柄に生まれながらも、松陰先生に出会い、本当の学問の素晴らしさに打たれた感動がヒシヒシとその言葉から伝わってくる。

私自身、カグヤという会社を通して、松陰先生の軌跡を歩むような学問の実践ができているのかどうかを顧みると本当に反省することが多い。至誠とは、同志とともに歩む中に見出す境地なのかもしれない。来るものは拒まず去る者は追わずとは本質は、人間観を明らかに徳を積むことにあるのかもしれないとつくづく思う。

これからも深い邂逅を学び合いで得たいと願う。

そしてやはり私は今の子どもたちのことを思い、未来の子どもたちのことを憂う、そして世界の平和を祈る。。

子どもたちが生きる力を存分に発揮できる本当の学問に触れ、立志し、死ぬまで自分にしかできないことで自らの人間を創っていけるような社会環境を創造できるよう社業を通して、弛まずに至誠を貫いていきたいと改めて誓う。

自立して働くということ

人間が生み出す社会というのはお互いを尊重し合い助け合い成り立ってきた。
今までもそうだし、これからも助け合い生きていくのが社会だと思う。

しかし物質的にも環境的にもあまり満たされ続けていると傲慢になることがある。

人が人に助けられている、自分だけで生きているのではないということを日々の小さな喧噪や日常の中で忘れて自分のことばかりを思い煩うようになっていくとそういう感覚がマヒしていくのだと思う。

人は助けたいと思える自分、思われる自分、誰かの何かの役に立ちたいというようなことのために力を発揮するようにできている。なぜなら本質的に自分のためにというのは周囲がいるから考えられることだし、周囲もなく本当に世界で一人で生きているのならば自分のためとは言わないはずだ。

どんなに忘れてもこの世に生まれてくるためには、先祖の恩恵、父母の愛、周囲の見守り、奇跡的な関係の中で自分が生まれはぐくまれてきた。

その色々なものの中間にあって生きているのが人間だということだと思う。

そしてだからこその「自立」ということ。
教育が自立に深く関係し、人間力を養うのに大事なことだと本当に思う。

論語にある、

子曰、
吾十有五而志于学、三十而立。
四十而不惑、五十而知天命。
六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩。

孔子が言われる、十五にして学に志す、そして三十にして立つ。
四十にして惑わず、五十して天命を知る。
六十にして素直に耳従い、七十にしてあるがままでも構わなくなる。

人間のあるべきようを示している素晴らしい遺訓だと思う。

そして、この三十にして立つの本質は、私は自立のことだと信じている。

みんなのお役に立てるように、皆の中での本当の一人になるためにも、自らの社会へ依存する甘えを捨て去り、共生を目指し、その仁と礼の実践に生きるということを決心したのではないかと私は思う。

色々な学びがある中で、自立というテーマに三十代で向き合えることは素晴らしいことだと思う。

働き盛りのこの時期、本当に働くということが何なのかを正視して誠を貫く実践を強めていきたい。

子どもたちにも仕事ということ、働けるということが、自分をこの世に活かす理由になり、幸せということが、いったいどのようなものなのかの本質を自らの社業を通じて伝えていければと思う。

とても幼い子どもたちがいる職場に縁があることに感謝し、自立した会社になるように改善と努力を続けていこうと誓う。

大欲と大志

一期一会を常に鑑みながらご縁をいただいていると、色々な方に出会う。

先日も関西にある保育園にお伺いすることができた。

長い時間をかけて正しいことを行おうと、自分の分限を守り、周囲にの流されずに古典にあるような正しい実践を継続して積んできていると徳が備わりできることが次第にたくさん増えてくる。

そしてその増えてきた中から、正しいことの延長に観えてくるものは、大欲だったりする。

たとえば、何よりも世の中を平和にしたい、子どもたちに美しい未来を残したい、多くの人たちの心の救済をしたい、など、どれも高い志に転換され深く根ざした理想の実現と追求に行動が変わってくるのは本当に不思議なことだと思う。

世間の肩書きに左右されない自然に陶冶されてくる人間の素晴らしさというのは正しい実践と教えにより誰しも立派に自立していくのだと思うと、自ら主体性を持って生きるということが心の荒蕪を救っていくのにどれだけ大事なことなのだと心底実感することができる。

私の尊敬する師、二宮尊徳翁の夜話にある。

「世人皆、聖人は無欲と思へども然ず。其の実は大欲にして、その大は正大なり。聖人之に次ぎ、君子之に次ぐ。凡夫の如きは、小欲の尤も小なる物なり。それ学問は此の小欲を正大に導く術を言う。」(夜話217より)

常に、志を高くし、身を恭しく慎み、謙虚に正しい実践を積んでいく人は、一見、自分に厳しく無欲に見えるけれど、その内面では、自分の命を超えた大きな使命と天命によって聖人の如く歩んでいるのだとも思える。

そしてそこには、目に見えない大いなる気のようなものが働いているように思う。宗教でもなく、哲学思想などでもない、この「気」というもの。

天地自然の間にあって眼には観えないものがこの「気」なのだと思う。

先日、仕事を通じて私が兼ねてより深いご縁を感じていた鞍馬山とのご縁があり訪問することができた。

私の名前は、同じく天狗を祀ってある九州英彦山の霊泉寺の高僧にいただいたものだったのでその天狗大僧正を祀っている鞍馬山に人生の一期一会の機に必ず触れてみたいと思っていた。

やはりその地に踏み込むととても不思議な場所で、文献にあるように太陽、月、大地からなる山となっていて宇宙を尊天として、その広大無辺な調和による霊亀を感じれる場となっている。

本殿への道のりの中にとても私にとっては素晴らしい邂逅となる言葉に出会うことになった。

そこにはこう書いてある。

      『天を仰いで
        悠久なる理想を懐き
         高山によじて
         広大なる気宇を養う
       これ人界のみ許されたる秘境なり』 (鞍馬寺より)

この言葉に出会い、すぐに書き取り、今も何度も読み返しても、心胆に沁み渡り勇気が込み上げ湧いてくる。

どんな出来事にも深い意味があり、通すべきものは通し、通すべきではないものは絶対に通さない。

秘境の人界。

だからこそ生まれてきた以上、自分にしかできないことで天地自然の中で悠久なる大欲をもって自らを修め養う。

子どもたちにも、そういう自分にしかできないことで志を持てるような共に思いやりを持って認めあえる素晴らしい自然なる社会が実現できるようにその人の命が持つ素晴らしいものを引き出すような環境を創造し、広大な気を以て感化していけるように謹厳に日々の脚下に正しく努めていきたいと改めて心に刻む。

この出会いと邂逅に再び心からの感謝。

確かな意味

日々、意味を感じながら生きていると色々なことに出会う。

二度と同じ事は起きないし、ひょっとしたら二度と会えない人もいるのだから常に人生は一期一会に満ちていると思う。

子どもたちとの出会い、お客様との出会い、朋との出会い、その出会いに確かな意味は在る。

先日、ある園の経営会議に参加してきたのだが、意味があるものをどのように意味があるのかを決めるのは、妥協ではなく受け容れることだと話した。

どんな出来事も、どのように開き直ってすべてを前向きに受け容れるかでその意味が異なってくる。

過去の出来事は、今の自分を形成するのに必要なことであったし、過去の出来事を肯定しているから今はそれが愛おしく思え、受け容れることができる。

肯定するためには、味わうことが大事だと思う。

それは後悔ではなく、反省することだ。

意味のある反省とは、「ああ、一度きりのこの人生、本気でやったのだから仕方がない」というように自分の今のすべてを一度受け容れ、その上で次はもっと学ばせてもらおう、次はもっと大切にしようというような心構えに変換していくことだとも思う。

結果だけでは分からないものが世の中にはたくさんある。

そして周囲が意味付けした仮初の真実もたくさんある。

しかし、本当に大事なのは、自分の生き方や信念、志に対してどれだけ正対したかがその人にとっての確かな意味になるのだろうと思う。

いつの日か、その日は来る。

一日一日を噛み締めて、そして味わって、今を生き切るほどの確かな意味をもって歩みを強めいきたいと思う。

子どもたちには、自分の人生は自分が主人公になるということ。

そしてその絵は、自分にしかできないもので自分自身が描いてほしいと心から願う。