FBA

昨日は、FBA設立して初のブロックチェーンイベントが飯塚市でありました。各地から70名以上の方々が集まり大変な盛り上がりでした。熱量というのは、参加者たちが上げていくのですが志ある人たちも多く刺激が多い一日でした。

現在web3などの動きが注目されていますが、実際には物質文明で栄えたテクノロジーとこれからそれを超越したテクノロジーが発生するのではないかというように仮想空間の醍醐味も感じました。

時代として物質文明に偏りすぎたことで発生した歪をどのように埋めていくのか。そこにこのブロックチェーンという技術は大きく貢献するのではないかと感じる一日になりました。

私はもともと場を創る人間です。場から考え、場をどう調和させていくのかに取り組んでいます。場と対話をし、場が有機的に結び合う環境を通してブロックチェーンの意識する世界観を表現することができます。

もともと自律分散という概念も日本では古来から和の精神のなかでいくつもの事例が受け継がれています。世界の最先端のさらに先をゆく日本の思想や技術は、新しい時代、そして世界を変える可能性を最も発揮できる環境があるように私は思います。

特に日本の伝統的な暮らしをはじめ、多く伝承された道具たちは今でもそれを扱ってきた人間の人格や人徳の薫りを宿しています。私はその頃の人たちから思想や生き方や生きる道を学び、それを現代のブロックチェーンに投影させているのです。

子どもたちや子孫たちも今の私たちと同じように、新たな時代の思想や哲学や技術を先人の智慧から参考にしていくのは間違いありません。だからこそ、自分の世代のためにではなく次の世代のために今、できることを真摯に取り組むことが未来の国づくりや人づくり、そして場づくりになっていくと私は信じています。

飯塚市か福岡県か日本ではなく、地球に存在するこの場において新たな時代のモデルを示していきたいと思います。

発明のこと

私たちはあらゆる便利な発明によって文明を開化させていきました。最初に数字や文字を発明してからまた戦争を繰り返す中で武器を増やしていきました。人類の発展というのは、地球の循環とは別のところで発生していきます。この発明という技術によって発生した新たな技術がそれまでの人類の方向性をまるで変えてしまうということがあるように思います。

例えば、世界には小さな少数民族をはじめ今でも布切れ一枚で森の中で生活しているような部族がたくさんあります。それぞれに小さな国を実現し、その国にはその国の常識があります。

今ではお金があるというのは当たり前のことですが、その場所ではお金もない場所もあります。お金がない国があるということです。そういうところはどのようにして国を運営しているのか。ほとんどがみんなで分け合い、助け合い大きな家族として見守りながら暮らします。これはよく観ると、動植物や昆虫なども同じような暮らしです。

文明をもったという人類だけがお金を持ち、文字も数字も技術も持つ。その道具を用いてさらに宇宙開発に進出していくというのが現代の様相です。今では、遺伝子を操作しあらゆる人体の状態を管理し、人工知能によって人間の頭脳の一部を完全にアウトソージングできるようにしていきます。未来には、映画や漫画であるような技術が発明されさらに文明が発展するということを目指していきます。

しかし、その文明を発展させるために資源を使い続けます。結局はこの数百年、産業革命以降の人類の様相を観察すると資源を搾取するための技術ばかりを追い求めてきました。世界中から資源を探してはそれを搾取する、そうして富を独占する。そのための技術革新ともいっても過言ではありません。本来、石油一つであってもこのままでは枯渇し、地球の大気を著しく汚すとわかっていても利権があるためにその欲望に支配された技術革新のみが技術の発展となっていきます。ややもすると、技術者はマッドサイエンティストのように悪に手を染めて悪の手先のように人類が貧しくなるお手伝いをすることにもなります。良心的な技術者であれば、発明をやめてしまい農家になって静かにその時代をやり過ごす人もたくさんいたのではないかと思います。

これはいい発明、これはよくない発明というのを人類が決めるのだから人類自体が人格が磨かれ徳がなければ真にいい発明は訪れないということでしょう。そもそもいい発明とは、自然界がすでにほぼすべて発明しきっています。自然のやっていることをなぞることができても、自然が発明したようには私たちにはできません。

この身体が見事に調和循環して生命を維持するようになど、人類の科学ではまだできません。つまり人類は、余計なことをしているうちに自然から離れては自然の偉大さを知るということを繰り返しているだけともいえます。

話を戻せば、文明がこの先も発展していくとしたら人々が真の豊かさとは何かに気づき、欲望の果てにあるものを諦めて手放し、心身ともに徳に目覚めて成熟していくことではないかと私は思います。そしてこれは時代からの要請が必要になるものです。時代が先に気づき、時代がそういう流れを人類に創るということです。そのためにも、小さなところから真にいい発明に目覚め、それを具現化する小さな自律分散で互譲互助のような講、あるいは徳を循環させていくようなコミュニティが増えていくことだと私は感じます。

時代の先をいくというのは、太古から普遍的な道を今も実践するということです。子どもたちや子孫のために真の豊かさを、人の生きる道を紡いでいきたいと思います。

お金のこと

お金というのは、色々な役目を果たすものです。ある時は、人々を豊かにし助けますがある時はその逆に犯罪の原因になります。結局は、お金が問題ではなく人間が問題ということに気づきます。これは環境問題も同じことです。環境を何とかする前に、如何に人間がどうするかということに尽きます。その理由は、その環境問題も実際には人間が問題を起こしているからです。自然に置き換えても、自然は太古のむかしから一切変わっていません。変わったのは人間ということで問題が発生してきたということでしょう。

環境の場合は、人間が本当の意味で生産するのをやめてしまい消費ばかりを優先するようになったことでそれまでの環境が壊されていきました。何が壊れたかというと循環が壊れたということです。有機的に結ばれ一体化している存在が、分断され途切れたということです。これによって一部の場所や一部の人だけが、メリットを享受できるようになりましたが全体最適は消え、それを騙しだましで誤魔化してきましたが限界が近づいてきて今の環境問題になったともいいます。小さなゴミもあまりにも増えて捨てるところがないほどになると、人間は問題だといいはじめます。

この構図と構造と、お金はとても似ています。

お金の場合も同じく、消費することばかりに躍起になり一部の人間が富をストックするなかで全体に巡らなくなりました。循環をやめてしまい、実体のないお金が蔓延していきました。現在の世界中のお金は、17京以上、(1600兆ドル以上)あるといいます。もはや増えすぎて実際の量などはわかりません。それでもまだ増やし続けていき、それを保つために消費を続けます。資源が枯渇してもなお、私たちは消費をやめることができません。それは、お金がその重要な役割を担っているからです。

本来、お金とは何でしょうか。現代では、お金が人間を支配しているかのようにみんなお金のために生きています。お金がなければ生きられないと信じ切っています。まさにお金はいのちであり神様のような状態です。たくさんお金があれば富豪と呼ばれ、権威も権力も持っています。

しかしひとたび、人類が滅ぶほどの天変地異や大災害、不測の事態があるとお金があっても生きてはいけません。その時、必要なのはお金ではないものです。自然界の生き物たちはお金を持っていなくても自然と共に生きています。お金があっても、動植物たちは生きていけません。人間は本来、お金がなくても生きていた存在です。このお金というものが発明されてから、私たち人間はお金のために生きるようになったということでしょう。

よくよく観察していると、なぜ今私たちは生きているのか、活かされているのか。それはお金によってではありません。それは先人たちの徳によってです。先人たちが子孫たちのためにと遺して譲ってきてくださったあらゆるものによって今の私たちはでき、そして今暮らしていくことができます。これは真実であり、揺るがないもので自然界では当然としてその恩徳によって存在しているのはすぐにわかります。

だとしたら、お金はその徳にとって循環するもののときはじめて本来のお金としての大切な役割を果たしていくのではないかと私は思うのです。お金は、元々信頼や信用、そして絆や繋がりなど、嘘偽りのない真心を証明するものでした。正直に生きる世の中においては、お金は御守りのようにお互いを助ける力になりました。

現代は、その見たこともない数字のお金をまるでゲーム感覚で世界を巻き込んで混乱させていきます。これはまるで人間の際限のない欲望そのものです。歴史は、過去に何度も似たようなお金を軸に起きた様々な悲惨な事件を後世に伝えてきました。今一度、私たちは歴史に学び直してお金と人間という問題に向き合っていく必要を感じています。

どのようなお金が循環することが、果たして人間をよくし、どのようなお金にしていくことが子孫たちの未来になっていくのか。この二日間も、それを真摯に考えていきたいと思います。

自律分散とは

自律分散という言葉があります。これはよく管理型に対して自律分散といわれることがあります。他には中央集権に対しての自律分散という言い方もします。そもそもこの自律分散というものは何なのか、それを少し深めてみようと思います。

この自律という言葉は、一般的には他の支配を受けずに自律的に規範を設け自分であることをいいます。哲学的に言えば自己の欲望や他者の命令に依存せず、自らの意志で客観的な道徳法則を立ててこれに従うことともあります。シンプルに言えば、自由と同じ定義です。

そして分散という言葉は、一般的には物事が一つの場所や状態に集中せずいくつかの部分に分かれて存在することをいいます。これは物や情報が均等に散らばっている状態です。しかし自律分散とするときの分散はこうではなく、有機的に結ばれて分散するという意味になります。分散だけだと単に散らばっていますが、ここに自律が加わると自由だけれどいつも全体最適になっているという状態になることです。

これは何が最もイメージが近いかというと、自然界です。

宇宙や地球、自然界はすべて自律分散をしています。それぞれの生き物たちが精いっぱいに自分の生を全うしながらも、お互いに律しあいながら和合して暮らしていきます。この時の分散は、バラバラにあるようで実は地球の偉大な循環の一部としてお互いに貢献しあいます。つまりここでの共生貢献は、自律分散そのものになっているのです。

私たちがこの自律分散を人間社会で例えるときは、道徳というものがもっとも近いように思います。自分を律しながら人の道をみんなで実現する。日々の暮らしを調えて、お互いに自己を養い自己を磨き、仕合せを追及していく人の道のことです。

つまり自律分散を目指すというのは、人の生きる道を目指すということです。

私がこの故郷でブロックチェーンに取り組むのも、その技術の理念や理想と現実を一致するためです。この願いの中心には、いのち全体の幸福や人類の真に豊かな未来へ向けての志があります。

実際には、現在の日本社会や消費経済の影響をうけなかなか理解されないものですがそんなに遠くない未来には当たり前に技術と人が調和し、誰にも支配されずに自律分散によってテクノロジーと生きる道が一致する日も来るように思います。

その日を夢見て、今は「徳積帳」からはじめていこうというのが私の実践です。もうすぐ3年目に入ります。色々なご縁が自律分散に磨かれていくのも仕合せです。ありがとうございます。

歴史の味

冬が近づいてくると、郷土の料理としてもつ鍋をよく作ります。この筑豊というエリアは、新鮮なホルモンが手に入る地域です。これはもともとこの地域が炭鉱によって栄え、先人たちがその食文化の中にホルモンを食べることからはじまったといわれます。

筑豊炭田では、たくさんの炭鉱夫が全国や海外からも集められました。一時期は、日本全国の半分以上のエネルギーをこの筑豊地域の炭鉱で賄っていたといいますから、人数をはじめ設備もそして食事の量も膨大だった時期があります。

このもつ鍋が発祥したのが筑豊地域だといわれる理由にはその当時、大陸から来て炭鉱で働いていた朝鮮半島の人たちが過酷な労働の後に活力源として食していたことが起源だといわれます。

このホルモンという名前の由来も色々とありますが、こちらの方言で「捨てるもの」のことを「放るもん」と私たちは呼びます。それがホルモンになっていったというのが故郷ではそれが理由だと言っています。なぜ捨てるかというと、それまでは動物の内臓であるもつは食材としては使えない部位だと信じられていました。正確にはもつとホルモンは部位が微妙に異なります。ホルモンは牛や豚の腸、もつは牛や豚、鶏などの内臓全般となります。

話をもつ鍋の歴史に戻すと、このもつ鍋が当時の庶民たちや炭鉱夫の間で朝鮮の人たちと一緒に食べているうちに気が付いたらこの地域の食文化として形成されていって今に至ります。

今ではもつ鍋といえばニラやキャベツがベースでスーパーでもどこでも簡単に手に入りますがその当時は季節もので手に入らないためノビルやセリなども使っていたといいます。

それにもつ鍋は薬膳料理でもあり、大量のニラやキャベツ、ニンニクやトウガラシ、玉ねぎなど色々と健康によいお野菜をたくさん食べることができます。このお野菜やもつには胃腸を保護する成分が多く含まれ、そしてビタミン、ミネラルが豊富に含まれており体の抵抗力増加、風邪の予防などにもとても効果があるといわれます。

よく風邪をひかないからといって、私たちの故郷でも食べています。季節の変わり目には、なぜかもつ鍋が食べたくなるのはかつてこの地で共に炭鉱で働きあい助け合って育ててきた食文化に助けられた記憶があるからかもしれません。

それぞれの地域にはそれぞれの食文化があります。その食文化を大切にしながら、歴史の味を伝承していきたいと思います。

韋駄天の心

食事の前にいただきます、ご馳走様があります。いただきますの方は、なんとなくすべてのいのちに感謝していただいているということを感覚的に理解している人が多くあります。しかしご馳走様というのは何かということをあまり考えることはありません。これはどういうことか少し深めてみます。

もともと、今のように豊富に食材があるような現代と違ってむかしは食事の材料を集めるだけでも大変な苦労がありました。特に季節的にできるもの、できないもの、あるいは遠方にしかないもの、高い木の上や深い谷、あるいは野生動物の多い危険な場所にあるものもありました。そういうものを走り回って集めるために「馳せると走る」が入ります。そして仏教では、韋駄天がこの修行中の僧侶や人々のために食べ物を走ってかき集めていたとし韋駄天は食卓の神様として慕われるようになっていったといいます。

私のいる場でも、親友の禅僧が泊まると必ず朝から水屋や台所周辺でお祀りしている神様に韋駄天の真言「オンイダテイタモコテイタソワカ」を唱えて祈祷してくださいます。

この韋駄天という神様は、元々はヒンドゥー教の神、スカンダが仏教と混淆して仏法を守る護法神になったといいます。実際にはスカンダ(Skanda) を音写して塞建陀天または私建陀天と漢訳されたのが建駄天とも略記するようになり、『金光明経』「鬼神品」第十三中の誤写によって建駄天が違駄天となり、最後は道教の韋将軍信仰と集合して韋駄天と称されるようになったということです。結局、呼び名は変わっても色々な神様が混淆して取り込まれてお互いの神様としてお祀りしていこうというのは和合の思いやりがあり私にはしっくりきます。

この韋駄天の遺徳が、ご馳走様という言葉になっていったのですがこれはみんなや誰かのために利他を盡し、真心を盡し、おもてなしをする姿に感謝するものです。つまりは、この今日の食事をご用意していただいている方の苦労を惜しまず韋駄天のように働いてくださったことへの感謝の言葉ということになります。

勝手に過去の時代に思いを馳せると、仏陀のためにまた生き方を貫く僧侶たちのために何かできることはないかと、食材を駆け回り走り回り布施や喜捨を集めていく姿が想像できます。

今もむかしも、縁の下の力持ちの存在に光は支えられていると実感します。そういう存在をいつまでも忘れず、そういう存在あってこそ今があることを決して驕らず謙虚に生きていきたいという恩徳に報いていく象徴こそこの韋駄天さまかもしれません。

私も、いつまでも韋駄天の心で生きていきたいと思います。

一念

その道を究めるというのは、その道のイメージの先を創造するということです。言い換えれば未来を創造する力があるということでしょう。そもそも信じるというのは、何を信じているのか、それは今の世界を丸ごと信じているということです。本来は、こうあるものという強い思いこそが今に宿りそれを未来にします。そう考えてみると、未来を観ているというのは今を盡しているともいえます。

私が一昨年より深めた三浦梅園先生をはじめ二宮尊徳など、常に遠くをはかり今を生き切っておられました。つまり、遠くが観えるというのは未来を観ているということです。その時の未来は、過去か未来かの二元論の未来ではなくまさに今此処のこの瞬間にあるすべての未来をみつめているように思うのです。

今の心、今を信じる心、それを念じるとも書きますが念じ続けているように道を歩んでいるのです。これは専門家や学者が言葉遊びをするような単なる文字や物質としての言語ではなくまさに次元も超えて宇宙そのものと一体になっているような「一念」のことです。

この「一念」とは、先に一念がありそのあとに未来が着いてくるというものです。つまりそういう未来を信じるということを決心覚悟するということが一念発起ということでしょう。

常に一念を持っている人は、生き方に出てきます。一念を生きるように、そういう人生を歩んでいくのです。そういう未来を信じる人たちが集まり、その未来を具現化するのです。人には、同じように色々な一念があります。それも異なります。ある人の信じるがあれば、別のある人の信じるがあります。しかしその信じるものがこの世を創っていきましたから、こうありたいと願ったことや祈ったことは代々長時間をかけて醸成され今に生きているものです。

例えば、ある先祖が悲惨な戦争を体験し一念を定めて生きたとします。寿命が尽きてこの世に肉体は残らなかったにしてもその一念はいつまでも生き続けて、その一念を信じる人たちが後を継承していくのです。

いつの日か、必ず実現したいと思う未来へと一念を抱いて取り組んでいくのです。一念は、数珠繋ぎのように一念の連鎖をしていきます。それを永遠に永続することが念仏ということかもしれません。私たちは本来の人になること、一人になること、一念をもつことを生涯をかけて道を歩み学び続けていきます。

どうやったら人になるのか、歴史を鑑みるとそこに挑んだ先達たちの後姿がたくさん遺っています。そういう余韻や残り香を感じながら、念をまた一つ強くし磨いていくのも仕合せなことです。

私の未来が八百万のいのちの喜びになるかは、この先のかんながらの道が定めていくでしょう。真摯に豊かに一期一会の今を磨いていきたいと思います。

えにし

昨日は、カグヤの恩人の一人であり今も私たちの心の中で共に歩むメンターの方のご自宅にお伺いしてきました。今年の7月に天命を全うし天に還られましたが今でも目を閉じ耳を澄ませばいつでも生前の声が聴こえてきます。それくらい、長い時間をかけていつも深く気にかけてくださり、まるで自分が代わりに実践されているように私以上に自分事としてご指導やアドバイス、たくさんの示唆をいただきました。

人生に真剣な方で、今此処を生きておられました。気づいたことや必要なことがあれば、深夜であろうが早朝であろうがいつでもお電話いただけます。しかも電話登録などもしておらず、番号で覚えておられました。また、必要な言葉があったりそれを伝える本があればすぐに郵送してくださったりファックスをいただきました。

脳梗塞で倒れ、半身不随で車いすの生活をしながらもその障碍をものともせずに誰よりも真摯に即断即決の行動力でできることはすべて行っていました。

誰よりも未来の先を見据え、本来の世の中、これからの世の中がどうなるのかをよく見極め、それを誰よりも諦めず、また小さな力でも信じる力があれば必ず世の中は変わると誰よりも信じていました。

昨日は奥様と私たちの会社の役員たちとで生前のお話をたくさん共有しました。思い返せば、どれもその方らしい思い出ばかりでこんなにもありのままの純真な自分のままで生きて、そしてあるがままに正直に接してこられた方だったと実感しさらに尊敬の気持ちがこみあげてきました。

自分もありのままであるがままで人を愛し、愛されるような純真な生き方がしたいと改めて気づき直すことができました。

御霊前でその人の面影を語り、泣き微笑み、天然な奥様とみんなで時には大きな声で笑い合いながらたくさんお話しました。今でも身近にいて、いつも離れずに一緒に見守っているという感じがここまでするのははじめての体験です。生きていた時からずっと魂を結び寄せてくださったからだと思います。

このようなご縁をいただけたこと、その「えにし」に深い感謝しかありません。そして「えにし」は終わってはいません。これからこの「えにし」をどう活かしていくかが、人生の道と旅の醍醐味です。そして旅は進み、道はまたここから一緒に創造していきます。

こうやって魂の荷物を預かってその先に届けていくように、前の人たちの志を共有して吸収して和合しながら人生は豊かに美しく広がります。

最後に、点塾で藤坂泰介さんと清水義晴さんの息遣いを感じる余韻の場で法螺貝を奉納してきました。あの響き合う音の仕合せをこれからも胸に秘め、子孫たちのために私の天命を盡していきたいとおもいます。

ありがとうございました、これからもよろしくお願いします。

 

小さなことこそ美しく、小さな力こそ偉大

私たちは小さいや大きいなどで規模を量ります。これは数字上の大小では特にはっきりと差が出ます。しかし同じ大小でも、生命というものであれば小さなものも大きなものも同じで差はほとんどありません。どちらも神秘的であり宇宙が創造した唯一無二のものです。

比べられる二元論で何でも分けているうちに、本来の真価が分からなくなるのは人間の性質でもあります。正義と悪、男と女、大と小と比較するうちにどちらが良いか良くないかと何でも比較するようになりました。

太陽と月と比較できるか、水と火は比較できるか、本来はそれらはどれも唯一無二で比較はありません。しかし特定の誰かや、あるいは大多数のその時代の価値観によって操作されていくものです。

私の尊敬する方は、小さなことこそ美しく、小さな力こそ偉大だということを仰っていました。これは今の時代が、大きなことが価値があり、偉大とは大きいことだと思い込む時代であるからです。本来は小さいか大きいかではなく、そのままあるがままが価値があるということですが今ではあるがままも小さければそれはダメかのように評価されます。

消費されることや、資本がたくさんあることが価値があり消費できないものや資本がないものは経済効果もないかのように言われます。この時の経済効果は、金銭的な数字上の差のことです。何でも物質的なものや数字に置き換えて考える世の中になっていますが、数字ではないものの効果はどうなっているのでしょうか。

本来は、二元論ではない永遠や無限、真心やご縁やいのちなど、比べることができないものの中にこそ本当の真価があるように私は思います。その境地に入る人は、その次元の言葉を使い、生き方を示します。

どんなに小さな実践であっても、それは実践そのものです。実践に大きいや小さいなどは本来はあまり関係がありません。大切なのは、どのような心で実践したか、どのような次元で取り組んだかということでしょう。

その真価を知っている人は、まるで川の水が流れ続けて已まないように静かに澄んで逝きます。魂の澄み切った人、魂のままであった人の純粋な美しさはまさに永遠の力であり、もっとも小さな力で偉大な美しさを顕現されます。

シンプルであること、正直であること、真心で生きること、これからも学び続けていきたいと思います。

美しい合理性

美しい合理性という言葉を、以前ある方に教えていただいたことがあります。合理というものは、理に適っているという意味や、目的に合っていて無駄のないという意味、つまりはシンプルであるともいいます。

シンプルなものは、そこに美しさがある。私たちはそれを美意識と感じることができるということでしょう。これは別のものでは、自然が同じものでしょう。自然はすべて道理に適っています。道理に合わないことはありません。自然は一切の無駄もなく、そこにゴミ一つ出ることはありません。逆に合理的ではないというのは、無駄もあって目的もズレ、道理に外れてゴミも出るということです。つまり何か循環しないものが発生しているということでしょう。

美しいものというのは、地球全体の姿でありそうではないものは地球から外れたことをいうのかもしれません。何が地球や宇宙の理に適っているのかを分かるというのは、地球と共生しその循環の一部としてのお役目を全てに全うしていることが合理ということになります。

また共生というのは、単に一緒に生きているだけではなくお互いの徳を存分に発揮してイキイキするということでもあります。人間であれば、互譲互助している姿に美しさを感じるものです。

この美しさというものの表現には、透明で澄み切ったものを感じる感性を感じます。簡素さや清浄さ、純粋さや真心に人が美しさを感じる理由はそれが合理性というものと結ばれているからでしょう。

まだまだ美については、深めていきたいことがたくさんあります。何が美で何が醜いのか、美醜の別を自然から学び直して美しい合理性を磨いていきたいと思います。