共生

カグヤは、定期的に今風で言えば「ロハス体験」をするようにしている。
これは都市化した人間だけの社会の中でもちゃんと自分軸を戻すために、定期的に自然から色々なものを学んでいこうというイベントだ。

頭でっかちに科学や理論を徹底して追及しても自然には太刀打ちできないのが人間だと思う。科学なんて自然に触っているだけで本質的には自然を管理なんて人間のエゴ以外何者でもないと思う。死を生と正対しないからそんなことばかりに心を奪われるのだろうな・・・不自然極まりないなとよく思う。

視野を広げ、物事を正しく洞察するにも「ロハス」というのは今の時代にはとてもあっているなとよく思う。

本当は月に一度どころか毎日、自然を見れればいいのだが今の時代の周囲の環境がそうではないので環境の工夫をしているカグヤ空間イベントのひとつだ。

今回は、栃木の青空農園へ訪問して農業体験や自然を満喫してきた。

この青空農園は、カグヤが提携している完全自然食(肥料もなにも使わないまったくの素の環境と食材のみで作る料理)をしているお店と提携しカグヤのために毎日弁当を作ってもらっている店長のオーナー(お母さん)の農園だ。

ちなみにこの弁当には、常に季節の旬のもの、そしてその農園で取れたてのものだけを産地直送で日本料理を修行した店長が自ら調理している。

主食も玄米が中心で、余計なものを足さない素材を活かした料理に舌鼓の日々。弁当を毎日お店まで交代で取りに行くのが大変だけどそれ以上の感動や喜びが得られる。

こうやって子どもたちにも「食育」の本質を伝えていければいいなと思う。

カグヤで働く人たちの健康をしっかりと支えてくれているこの大切な食事。
生きる素晴らしさなんて、どんなことからも得られるのだなと改めて思う。
そしてここでも運命的な出会いに本当に有難いなと改めて深い感謝。

そして今回訪問したオーナーがやっている農園はとても素晴らしかった。

私も祖父母から幼い頃から農業の手伝いをして育ったことと、今でも菜園を持って趣味程度でさわっているので農業は多少の見識があった「つもり」だったのだが今回は完全にガツンとカルチャーショックを受けた。

そこの農園では、今までの既成概念でいう畑などが存在しない。
自然に、野草やシイタケ類、野菜や花、果樹など、すき放題に生えている。
まるで雑記林だった。

たとえば、同じゾーンに、アマランサスやオクラ、そしてさやえんどうやアスパラガス、近くには菜種や杏子などまるで無造作に生えている。

でもなっている実や野菜は近くの農家よりもたくさん実るし、寿命も長いそうだ。

何が一番カルチャーショックだったといえば、そこには余計なものが何一つなかった。

言い方を変えれば、まったくの無駄がなかったのだ。
そしてそのオーナーのお祖母さんが話す言葉にもまったく無駄がない。
生活ひとつ、思想にも生き様にもそう。
必要な無駄のことを便利という言葉で表現していた。
この使っている「便利」という言葉も、現代人が用いる場所とはまったく違うのだ。

そこでは完全に自給自足して自然と一体となった生活をしていた。
以前、有名なりんご農園の人の話の記事を読んだことがあった。
そこでもりんごの木の生きる力を伸ばせばいいだけと何も手を入れず雑記林のようになっていた。

私たちが学んでいる、新宿せいが保育園の藤森平司先生の「せいがプラン」を見たような気がした。子どもの生きる力を信じて子ども同士の関係において余計なことはせずに人・物・環境で見守る。

この畑でも、それぞれが生きる力を発揮できるように環境を工夫し余計なことはせずに見守るようなことをやっていた。

本当の専門性とはそれぞれの「生きる力」を正しく観ることができ、そして何よりも深い愛情を持って自他を信じ活かしあう共生の理念なのだろうと私は思った。

やはりどこでも真理真実というのは足元に普遍性を帯びているものなのだろう。

原種のネギにもとても驚いた。

原種は人間とともに活かしあってきたやさしさの共生が無数にあった。
きっと悠久の年月、お互いにとても大事にしてきたのだろうな・・・

そして如何に今の種や苗が不自然に大量生産するために人間が意図的に加工していじっているかなども分かった。

今の世の中とまったく同じことがこの場所で縮図のように見えた。

悲しいけど、人は自分だけが良くなりたいと思って欲に負けてしまうのだろう。感動しては、または義憤があったり、そして無情を感じたり、感謝をしたりと、、考えると眠ることができなかった。

でもそこにも確かな「安らぎ」を見つけた。

悲しみばかりの中にも無数の喜びがあるように、悪い人の中にも必ず良い人たちがいること。つまり全員が同じではなく人はそれぞれで大事なものを持っているということ。

その同じ価値観を持つ人たちがいることが世界の可能性を広げているのだ。

最後に、小寺とき様の作ってくれた手作りの野菜スープの味が忘れられないです。
今でもこの舌にその確かな味が残っているようです。
こんなにも素材を活かすということで幸せを感じることができるとは思いませんでした。

素直にこの環境や食への感動は一生涯忘れない記憶になります。
本当にありがとうございました。

いつか私達のパートナーである保育園や幼稚園が、この青空農園のような理念を持ってほしいと思いました。

まだまだ学び、時代というITを学び世にあわせ、普遍的な本質を掴みそれを社会へ還元していくために日々自省しパートナー達とともに社業へ邁進していきます。

人間学

カグヤでは毎月一度、関係者を集め全体ミッション会議を行っている。
今日は、その会議を早めに切り上げ社員全員で株式会社致知出版社を訪問した。

以前から私が購読をしている月刊誌「致知」の発行元になる。
この本は、今の若い世代が是非読んでほしい本だと思う。

この本には毎月、色々な人たちが登場する。

人生にはいろいろな艱難や困難があるけれど、いつも足元にはそれ相応の喜びも広がっている。五体満足で全てが足りているのに欲にかられ不平不満などが当たり前に多い「今」の大衆心理だからこそ、当たり前のことに悦びや感謝をして生き切る人の生き様はたった一つのそれぞれのより良い人生の指針に於いてとても重要だと思う。

他には「論語」「大学」などからの引用して実社会で生きる知恵や学びなどを人間の生き様を通じて表現している。

この会社の藤尾秀昭社長に教わったことなのだが人間が学ぶに於いて学ぶ『教育』というものの学びの本質は「2つ」あるそうだ。

ひとつは、技能や技術などを通した「時務学」というもの。これは今世間一般で学校や会社で教えてくれる知識の使い方やマナー、仕事の仕方など所謂スキル全般のことだ。

そしてもうひとつが、「人間学」というもの。これは人間が持つ徳性、いわゆる感謝や報恩、奉仕などの動物にはない人間にしかない部分を学び高めていくというものだ。

戦後からこの「人間学」がすっぽり抜け落ちてしまい、今の社会は子が親を殺傷したり、兄弟や親子で憎しみあったりと悲しい事件が起きていると考察されていた。

私もまったく同感した。

歴史に現れる我が国の先人たちは、ちゃんと人間としての知性や理性、つまりは生きていくのは共生という助け助け合いの「和魂」の精神をとても大事にしてきた。

それは別に意図的ではなく、自然とそれを歴史の失敗からの教訓であったり、自然と共に生きていく中で畏敬の念を持ってその学びを大事にしてきた。

しかし、今は大量生産市場拡大主義の過度情報化社会になり「目に映る物差し」だけが重要視され「目に見えにくい本質や真理」は特に重要視されなくなった。

そうやって現象にだけ囚われ、実体を持たず日々煩悩に苦悩している人たちの作りあげた社会という構図が現代社会の今の様相なのだと思う。

ここで私たちはもう一度、人間としての本当の生まれてきた意味。
そして、何かを遺して死んでいく意味を学びなおす時だと思う。

誰かが知らないうちに引いたボーダーは、気づいた人たちが変えるしかない。
その贖罪は未来の子どもたちへは引き渡してはいけない。

まずは常に自分へ矢印を向け、われわれ大人がそれを示さないといけない。
日々、徳を磨き、道を歩み、人間としての徳を切に求め大事にしていく。
自分以上に大事な愛する子どもたちのために、私たちはやるしかない。

そしてこの時代にも子どもたちにはその人間としての大事なものをたくさん持って、助け合いの自然の共生を得て、輝かしい未来を創っていけるように安心して育てる環境を社業を通して創造していくことを再び心へ深く刻む。

最後に、この月刊誌「致知」は会社で購入し全社員で購読することにした。少しずつでも、生きる喜びや先人たちの大切な思い、その在るべき様を影響を与えるカグヤに居る人たちから受け取っていってほしいと心から願う。

そして毎月、常に今の自分たちをいろいろな人たちの生き様から自省反省していくために「社内木鶏」というものを行うことにした。

これからが始まりだ。
常に、区切りとは始まりの連続なのだ。
途切れることのない発達のように、途切れないことに無常の安堵感がある。

このご縁をいただいた必然の出逢い、邂逅へ心から改めて深い感謝。

藤尾秀昭社長には執筆等で大変お忙しいのに、ご無理を言って大事なお時間を2時間も頂いた。何事にも代え難い我々の人生に於いても情熱溢れる貴重なお時間になりました。

教えていただいた「本命」と「末命」の意味を座右に置き、カグヤの社業を必然だと思い、子どもたちのためにいつの日か天命を全うすることができるように志高く、また日々新たに歩んでいきます。

本当にありがとうございました。

一つ

先日、代々木公園であった【Earth Day】(アースデイ)のイベントに参加してきた。

このイベントは、毎年同じ日に世界中の各地で「地球の日」を祝い、個人として地球に対するその姿勢を各々で表現する一大イベントだ。

当日の会場でも様々な世界における活動が各ブースで紹介されていた。

足を止めて話を伺うたびに、身近で起こっている日常では視得ない出来事の根源的で本質的な問題を垣間見ることができる。

何かを得るためには尊い犠牲がある。
その犠牲を感じることを已めたことがこのような取り返しのつかない自体を巻き起こした原因だろうと私は思う。

常にニンゲンが何かを得る場合は、覚悟がいるのだと思う。
昔はソレ相応の儀式などをもとに、その多大なる犠牲に対しどうあるべきかの姿勢を遺してきた。

ここでの「犠牲」とは、何かの出来事のために今までのものを変えるほどの大切な決断から生まれる歴史の選択のことだ。

どうやら一部の文明人は、その意味を忘れイマが全てが亡くなるまで続けるつもりのようだ。
歴史の本質は、決してそうはいかないのになと思う。

問題の先送りと過去の負債の返済は、常に「今」を生きる人たちにやってくる。我々は子どものためにも、その責任を「イマ」果たしていかないといけないということだろう。

世の中への活動は、具体的には直接的や間接的にもできる。

ボランティアなどを通した直接的な場合は、多くの犠牲に対し「有難く頂いている」という感謝の心を忘れたらもうそれは社会貢献というボランティアではない。

ビジネスを通した間接的な場合は、多くの犠牲に対し「モノゴトの判断の源流動機が常に正しいか」の心の姿勢という本質を忘れてしまったらもうそれは社会貢献というビジネスではない。

一歩間違えば、「エコ」ではなく「エゴ」になるから気をつけないといけない。

大切なのは、常にそのような問題意識や危機感を日常から持続する継続する意志が大切なのだろう。

弊社でも、社内の様々なものはロハスというか地球のことを意識するものを使っている。これからもそれをずっと永続していくことはカグヤスタッフみんなの共通理解だ。

意味がないものはない世の中だからこそ、意味を付ける力がなければそれは現象として実体がつかないと思うからだ。

昔は当たり前だったものが、当たり前でなくなっている今の世の中だからこそ当たり前である普遍的なものと変えていく勇気をちゃんと持っていこうとすることもボランティアとビジネスを一つに考えたシンプルな思想だと思う。

これからもその「一つ」は、永遠に持ち続けようと私は思う。

ニンゲンもだが生物は何か一つのことしかできないのだから、そのために「命」をどこに使うのかを決めるのが「性」なのだと思う。

なぜなら、「自分だけ」で生きていくことが生き物にはできないからだ。

自分だけのことだけで生きれることがあるなど思うのなら、それが大きな致命的な間違いであると世界へ気づかせないといけない。

「生きる」とは、主体的に他を生きることだと思うからだ。

関係がその都度で終わってしまえば本当にその時だけの自分との刹那的なものになってしまう。

すべての日々は多くの関係と接しながら生きていることを決して忘れてはいけない。

そしてその関係に於いて、目に見え、手に触れられ、耳に聞こえたりする全ての「存在」に生かされていることを教えてくれる。

そのために「五感」がちゃんとあるのだから。

子ども達には、子ども達のときから自然に身近にあるすべてのモノやコトに生かされていくことにちゃんと気づいていければいいと思う。

そして社会に出て都市に塗れ大人になってからも、多くの人たちに生かされることが生きることだと知っていければいいなと思う。

私自身もっと「生きる」ということに子どもと同じように気づいていきたい。

何気ない日々にこそ、何気ない関係にこそ生かされているという真実の実感を大切にしながら、ジブンの足元を深く噛み締め味わいながら揺るがない情熱と信念とともに歩んで生きたい。

情報リテラシー4

私たちは「保育環境の情報創造リテラシー企業」と自社のことを謳っている。
なんだか長いタイトルなのだが、どの単語も全部必要なので全部入れている。

どのようなことをやるのかというと、保育という普遍的な「人が生きる」という最初の場において、その環境の工夫にフォーカスし、情報の持つ今の時代のありようを問いながら子どもたちのための未来を創造していくために集まった事業ということだ。

そして最後の「リテラシー」というのは、膨大な情報の中から本質や軸を生み出し調和させていこうという思いが込められている。

今回のタイトルも、「情報リテラシー」。

インターネットが急速に普及し、情報格差のなくなった今の時代だからこそ、草の根である我々がちゃんと情報というものを理解しないといけないという「人間が生きていくために必要な力」の優先順位の高いもののひとつになった。

歴史を振り返ると昔は、情報は一部の権力者の特権だった時代があった。
今は、インターネットを使って自らの価値観を世の中へ自由に発信できる。
しかもそれを自由に受け取ったり、お互いが高めあったりとコミュニケーションはより垣根を越えて文化が創発されるようになった。

これはIT革命といって、文字通り革命的な出来事だと思う。
革命とは、常に権力者が引きずりおろされて血が流れるイメージがある。
別に安易にパソコンを覚えるのが苦手だからIT革命という意味ではない。

今のIT革命で、いったい誰がどのように権力から引きおろされるのか?情報を使って大衆を操作をしてきた何かがそこにあるとすればまずはそこからだろう。人間の良心を信じ、良い方向へ良い方向へと向かってくれることを祈ってやまない。

ではそんな時代、子どもたちの未来に関わる使命を帯びた我々は情報のリテラシーを学ぶに於いてまずはどこから取り組む必要があるのだろうか?

私はまず、既存の情報を疑い物事の本質から考えることをはじめることだと思う。

違う言い方をすれば刷り込みを取るとでもいうのだろうか?
分かった気にならないリテラシーとでも言うのだろうか?

私たちカグヤ社内には、「分かった気になるな貯金箱」というものがある。何かを分かったと思ったら、あっまだまだだと100円を入れるようにしている。

これは、「大切な気づきの100円」として貯まった人が自分を振り返ったり、また本当の価格を自らで決めたりとカグヤ社内ではとても重宝している。
そしてある程度貯まったら、カグヤのみんなで納得したボランティア団体やNPOへ寄付をするようにしている。

カグヤの活動でも私が特に本質だと思っている活動のひとつになっている。

私の経験でもあるのだが、「分かった」と思うとそこまでで限界が生まれそれ以上先へ深く物事を考察しなくなっていく。また脳がそれをインプットしたいがために都合の良い解釈をはじめ、どんどん真実を捻じ曲げていく。

そうなってしまったら、もう何もかもがマンネリ化して無関心になり何かキッカケがあっても現象だけに囚われ何もかもが無茶苦茶に捻じ曲げられていく。
それを元にもどそうとすれば、新しいものを生み出すしかない。
しかし、それでも決して元通りにはならないし多くの犠牲を生んでしまう。

常に先々を見通し、今の時代を洞察し本質を変えないように環境を工夫してリテラシーを創造する。忘れてはいけないことは、ちゃんと次世代へ引き継いでいくのも情報リテラシーの大事なスキルのひとつだ。

情報には、忘れてもいいものと忘れてはいけないものがあると私は思う。

たとえば、歴史書を見たって人類が長い年月で刻む意味があった出来事が何がしかの理由で年号になっている。別に学校のテストのように記憶をするために、また進学をするために作られたわけではない。

それを分かった気になって次へ進むからいけないのだろう。

どうせ正しく物事を洞察できないのならば、なぜ先生や教科書は言い切るのだろうかといつも思ってしまう。言い切らないといけない社会とはなんだかとてももの悲しい気がする。

話を戻すと、ここでの分かるとは単に記憶が分かったということではないのだ。
分かるということの本質は、分からないということなのだ。

つまりは、物事には人間ではどうしても理解できないし考え付かない何かしらの叡智というか偉大なるものが必ず身近に存在しててそれを見つめていこうというのが「道」であるのだと思う。知識の本質とはきっとそのようなものだろうと思う。分かってしまうことが知識のゴールだとしたらまるで無機質なロボットのようにつまらないことだなと思ってしまう。

仏陀や孔子のことは、まだ私自身まったく分かっていないがきっとそういうことを説いているのではないかと思う。

あまり身近にないけれど、この「情報リテラシー」を粗末にしてはいけない。

今のように情報が氾濫する世の中だからこそ、道を志す立派な理念に裏づけされた本来の「自分軸」をきちんと醸成していかないといけないのだ。
まだまだやることは本当にいっぱいある。

こんな時代だからこそ子どもたちには、幼い頃から「自分の目で、そして自分の耳で聞いて、自分で触って、自分で味わってみたもの以外は信じるな」と伝えていきたい。

そうやって情報リテラシーそのもの道を創っていきたいと切に願う。

hana花

春になると一斉に、美しく個性溢れる花々が命の限り咲き乱れる。
あたしい息吹が燦燦と輝く季節だと彼方からやってくる風の香りがそれを足元へ運んでくれる。

いつからが春だとか、どこからが夏だとか境界線をはっきりしないこの自然界の余韻が特に心地いい。

そうやって誰かが引いた境界線なんて関係ないように在るがままに変化というものを体現しやすいこの日本という島国は本当に「美しいクニ」なのだと心底思う。

国境もなく地球にいる一人のニンゲンとしてあるがままにある命の幸せは何ものにも代え難い至福の邂逅であると思えるからだ。

私は「美しさ」とは、「花」のようなものだと思う。

花はそれとして誰と比較するのではなく、ただ自分の命の花を必死に咲かせているからだ。

自然界の偉大なルールの中で、それぞれの個性豊かな花を咲かせている。
別に誰かに美しくされたのではなく、自らが命の限り自らを咲かせている。
そして、美しいと思われたいのではなく自然に命の花を咲かせている。

そこに、人間の心が美しいと感じるだけなのだと思う。

そしてその美しさは、周囲を様々に活かし活かされていることを含有する美しさでもある。

今、人間は多くを手に入れ多くを失ってしまっていると私は思う。

自然はコントロールするものではなく、その自然にどう自分があわせていくのかがニンゲンの与えられた叡智なのだと思う。

そしてその自然から多くのものを得ていき、だからこそ「ニンゲンらしく」あるのだと思う。

花は自らの命を精一杯咲かせるからこそ、他が活かされるのだと知っている。
ニンゲンはどうだろうか?

ニンゲンが自然界から学ぶことをやめたら、どうやってこの大自然の中の自由というルールの中で他を活かし、活かされるようになるのだろうか。

ある意味で間違えた、自分だけの命のためにだけにしてはいないか。
自分の種だけ生きればいいになってはいないか。

今はそれが不自然であるからこそ、地球の調和が乱れていくのだと思う。

万物の霊長として、もっと自覚を持って厳粛に自らの花の意味を知りそしてその花をキチンと咲かせないといけない。

もちろんこの美しい国を掲げる我々の国も子ども達には、国家は国家それとしての「子ども像」が必要だと思う。
しかし、その子ども像はみんな同じ姿という金太郎飴の意味によく間違えられているがそうではないと私は思う。

ここでの子ども像とは、それぞれの命を精一杯咲かせてあげるための「スガタ」のことだと思う。

だからこそ子どもがが思う存分命の花を咲かせるために、荒野を花園に還るために我々大人がどうすればいいかもう一度よく考えなければならないと私は思う。

なぜならニンゲンが咲かせた自らのhanaに、虫や鳥や動物などあらゆるものが活かされるのだから。

共生とは、それぞれの命の花をそれぞれにちゃんと咲かせる包容力なのだ。

勝手な人間のエゴでバランスを壊してはいけない。
バランスをとりたいのならば、命を咲かせる邪魔をしないだけでいい。

少し先の欲望をちゃんと我慢して、幾世代を超える未来の子々孫々へこの無限のぬくもりと平和を譲り遺してあげるために、すぐに現れる結果よりも足元を省みて満たされることを知り、改めて穏やかに静かに歩んでいきたいと思う。

子ども達には、そんな命の花をただただ咲かせようとする大人のスガタを「美しい国のオトナ像」としてまずは自らを正しその背中を見せていきたいと誓う。