半生

本日、37歳の誕生日を迎えました。

先日、中年宣言をし人生の折り返し地点であることを自覚しました。今までの半生を振り返ってみると、色々な場面で様々な方々とご縁が結ばれ本当に沢山の大切なことを教えていただいて育てていただいたことに気づきます。

今の自分があるのは、皆様の御蔭であると感謝を思い心に沁みます。

そして人生とは選択であったと実感します。

自分が日々、その都度にどのような選択をしてきたのか。
その人生の選択こそが今までの半生であったと自覚するのです。

そう考えて観たら、これからの人生はどう生きるのか、どのような選択をして生きるのか、その選択の根本を自らが決心することで残りの半生をどのようにするのか運命を決めるのです。

そして半生が感謝そのものであることを自覚するからこそ、その御恩返しをしていくのが残りの半生であることにも静かに気づくことができるのです。

誕生日とは生まれ変わる日ではないかと思います。

人間は何度も何度も今をどのように選択し決心して覚悟をしたかで、その瞬間から生まれ変わるように思います。そうして自分の人生を体験し、それを誰かのために御役に立てていくことで互いに生死の意味の中で学び合っていくことで真の幸せを実感するように思います。

心身共に幸せであるとは、いつも笑顔が絶えない日々を送るということです。

そしてそれはどんな苦しみや歓びの中でも正直に生きていくことかもしれません。
その幸せが福を呼び込み、真の平和への目覚めを呼び起こすかもしれません。

これから世界はますます一つになっていきます。
それはもう違いを越えてお互いが人類であることを自覚する時代になるということです。

すると国境を超えて、互いに地球の中で偉大な一家を形成していくように思います。

家という思想は、何よりもこれからの時代に必要になるようにインスピレーションします。

残りの半生、御恩返しとしたらこの人類、地球の家のために尽くすことかもしれません。お借りしてきたものをすべてお返しする日が来るその日まで、自分の天命を捧げていけるよう生き方を決めました。

ご縁の方々、未熟な私を導いてくださって本当に有難うございます。
私はいつも偉大な奇跡という贈り物を神様に戴いています。

いのちを懸けて心から御恩に報いていきたいと思います。

感謝三拝

 

意味づけの本質

物事というのはそこに必ず何かの意味が存在します。

その意味はその人の人生にとって必ず何らかの価値があるからです。なぜなら人生とは、自分で意味を紡いでいくものであり、他と比較してたとえそれがどんなに些細なことだったとしてもそれは当人にとってはとても重要なことであるからです。

例えば、目の前の出来事を素通りするようなことがあったとします。本人にとっては、特に影響がないような他人のことでもそれが目に入るということは何か自分に関係していることが起きているということになるのです。

この世の中の全てはつながっているところに存在しているという考え方を基点にすれば、関係しあうのだから関係ないということにはならないのです。そもそも関係しあって学びあい発達するのが人間ですから、意味がないということは存在しない中に私は居るのです。

そして関係があるからこそ、関心を持つということが意味を実感することだと思います。

昨日であれば、あの出来事は一体何につながっているののか、なぜ自分はあれを観たのか、なぜこれを行っているのか、あの言葉は何か、あの気づきの本質は何か、そうやってひとつひとつを慎独しつつ内省していけば次第にその意味が時間の経過とともに理解されていくのです。

関心の反対は、無関心といいますがこれは関係しあっていないと思っている考え方のことです。これでは、関係し合おうとしないのだから日々に流されているうちにあっという間に人生の時間が過ぎ去ってしまうものです。

人の出逢いもそして別れも、そこにはすべて関係しあっている深いご縁が存在します。一度心で結ばれたのなら、それはまた将来に新しいご縁を紡ぎ学び合う準備に入ったとも言えるのではないかと私には思えるのです。

特にご縁に感謝していけば、必ず何らかの成長のために互いに関係していることに気づけるからです。与えられた場所で人事を尽くしていくしかないのですが、それがまた天の恩恵であり、有難い邂逅ではないかとも私は思います。

つまりこの意味づけしていく日々というのは、関係しあっている日々であるということ、そして本質は常に自らの心のあるがままに根本に関わり続けていくということに他なりません。

今日、また起きる出来事が一体何とつながっているのかと日々に事件が起きることに関心を持つのは、私が意味づけする人生に価値を置いているからかもしれません。

ひとつひとつのご縁を噛み締めながらそして意味づけながら、感謝に換えて唯一無二の日々を大切に過ごしていきたいと思います。

有難うございます。

 

心と感情の調和~大学の道~

四書の大学の冒頭にはこうあります。「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民に親しむに在り、至善に止まるに在り。」この至善とは、一に止まるという意味であると言われます。

この一とは、何のためにやるのかという初心のままでいることを言うように思います。

しかしこれは本当に難しいことだと痛感します。人間には、感情がありどうしても感情が邪魔をして本来の心というものがなかなか表面まで出てきません。本来の心にはいつも誠があるのですが、それがどうしても相手と感情がぶつかり、また自分の感情に先に呑みこまれて本来の心のままで感情と調和していくことができません。

日々に何のためにやるのかといくら考えていても、そこに感情があるからどうしてもどうするのかになってしまい流されそうになるものです。先日も、todoではなくtobeだと、どうするのかではなくどうあるかだといくら認識してみても、よく自重し自反自省してみると日々は一進一退を繰り返しているだけでいつまでも悩みや苦しみは続きます。

この感情との調和は、常に日々に真心を籠める修行をすることではじめて成り立つように思います。悔しい思いをしながらも、苦しい気持ちを維持しながらも、それでも自分の心を大切にしようと、思いやりに生きようと決めたなら、御役に立てるように精進するしかないようにも思います。

人生は一度きりですから、色々な事件は学びになりますから当然あった方がいいと思います。しかしそうはいっても、感情が日々に波打てば眠れない日々は続きますし、調子がどこか悪いと思っている日々もまた続きます。

感情というものは、そうやって現実の世界と心の理想の世界とのバランスを維持する大切なお役目を持っているとも感じるのです。自然体になるには、まだまだ日頃からの実践を積み上げていくしかなく、道に終わりはありません。

大学の道は、自分の心の中にある素直な心を明らかにし、自分から周りに親身親切に真心を尽くし、そして初心を常に忘れない実践する自分でいるということで続く道ということかもしれません。

道に居る有難さに感謝しつつ、また今日も心と感情を澄ませて皆さんの幸せのために自分を取り組んでいきたいと思います。

修行の要

人は様々なことを経験することで色々なことを感得していくことができます。だから経験するということが気づくことであり、学ぶことは体験するということに他なりません。

しかしよく周りを見渡して話を聴いてみると、経験もしたことをないことをさもわかった気になって話をしていることばかりで徒手空論ばかりを繰り返しているように思います。今のように物質的に大変恵まれた世の中に生きているということで、情報もすぐに手に入りますし、その他のものもまるで自由気ままに手に入るのだと勘違いしているかのようです。

本来の自由というのは、そういう物質的に溢れた生活に浸って生きることではなく、どんな境遇であっても己の精神や自律した厳しい日々の修行によってあらゆるものから執らわれなくなることが真の自由であろうと思います。

現代人の自由の浅はかさというのは、自分にとって怠慢であればあるほどに自由だと勘違いされています。自由には自分自身の生き方の責任が伴うということを知らないままに、物質的なものばかり与えられた中で過ごしているから次第に思い違いをしてしまったのかもしれません。

本来、精神や心というものはどんな状況であっても自由であるということができるものです。

それは真の自由は物質的なことではないからであり、自分の在り方や生き方は何ものにも執らわれないことが可能であるからです。日々に修養するのも、修行をするのも皆その自由の境地に到達したいがためであろうとも思います。

そのためには、何かのメソッドで事足りようと目先のことばかりを追うのではなく、じっくりと腰を据えて正しく実践をし、経験という修行を積むことで学び修養していくことしかないように思います。

たくさんの経験をしようと思うことこそが、素直に愚直に成長意欲を持つことなのかもしれません。物が溢れかえった時代に生きる私たちはよくよく考え直さないといけないのがこの修行という意味なのでしょう。

しっかりと経験を昇華し、精進していこうと思います。

自他一体の境地~共感~

御互いを深く共感し理解し合うのに実践を共にするということがあります。そしてこの共感というものは、実践を通じて同じ感覚を互いに持ち合っているという意味でもあろうと思います。

何かの出来事があるたびに、痛い思いをしたり感動したりし、心と感情が揺さぶられたあと人は反省し素直になって心を決めます。その決めた心を忘れないようにと気づき・言葉・行動・心を合せて新たな実践を増やしていくものです。

そうしていると、周囲には同じような課題に取り組んでいる仲間たちやそれを共にする機会に恵まれるように思います。実践する輪が広がっていくのも、互いに共感し合うものがあるからであろうと思います。

人物の理解というものは、表面上の言葉や姿だけでは本当のその人の苦しみや悩み、歓びや幸せは理解はできず、人生の同体験をし共に実践を行う時にはじめてその人の生き方や考え方、理念などを確認し新たに理解できるように思います。

そうやって人は生き死にの中で共に同体験を通じて語り合ったり、同感するものを分かち合ったりしていく中で言葉にならない感覚を共にしていくのです。これが共感です。

そして人が本当に自分のことを分かってくれていると実感できるのもこの共感するものがあるなと思うときであり、それは自分のために相手が同じ実践をしてくださっていると実感するときが多いようにも思うのです。

いくら何度も言葉で説明しても、共に実践してみないと本当に伝えたいことは伝わりません。だからこそ自分がどうしても相手を思いやり伝えたいことは共に実践してもらうしかないのです。それは自分のためにやってもらうのではなく、共に実践していこうという自他一体の思いやりの中ではじめて共感できるものではないかと思います。

人間は同じ苦しみを共にします。

だからこそ自分の体験が必ず誰かの御役に立てると信じる事から実践を取り組もうという志が芽生えていくのではないかとも思うのです。その同じ苦しみを持つ誰かを自分だと思えるか、自分のことのように感じることができるか、これも共感の芽生えであろうと思うのです。

人生には無駄がないというのは、自分の生きたことが必ず意味が存在すると実感するからであろうと思います。人間は、誰しもこの世にいるだけで必ず何かの御役に立っている、それが自然です。だからこそ、共に実践をして反省をし、さらに改善を続けていくことで共感を高めていくのが人間の育成であり成長し続けているということになるのでしょう。

つながりが観える自他一体の境地で居続けるためにも、御役に立てるところで働き、自らの共感を高めて日々の実践を改善し正していきたいと思います。

 

少しだけ手伝う~自然~

昨年は、自然を学び直しつつさらに深く自然農に取り組みました。その中で自家採取した原種の種を、またこれからの新たな季節に蒔いていのちのめぐりのお手伝いの準備をします。

そもそも自然の恵みの中で、様々な木々や植物は育ちます。それは自然の働きでそれぞれが生かされているからです。人間も等しく、心臓が止まらないのも呼吸をやめないのも、知らずしらずに髪の毛や爪などが伸びるのもすべては自然の働きを享受しているからです。

農夫や私たちが何かをして育てたと思っているものは、その実、そのものが自然に育ったのであって正確には私たちが育てたのではありません。私たちはその自然に育つのを少しだけ手伝っただけにすぎないということです。

これは大前提が自然というものの一部として私たちが存在するということであって、今の時代のように自然に逆らい切り離して考えていないことではじめて覚醒する境地です。

私たちの今の時代は、自然に合わせないことで人間の都合の善いようにと発展させてきました。夜の電気も、暗いと都合が悪いので世界中に明々とネオンの光に満ちています。世間の消費で発生するゴミというものも、人間にとって要るか要らないかで取捨選択されます。

自然では、夜は夜に必要なことがあるから夜であり、全てのものには一切の無駄がなく循環しているものです。そういうものを手伝う側として自然と共生するか、自然に逆らい孤立するかはそれぞれの生き方が決めることであろうと思います。

そうはいっても、私たちは太陽の光を浴びなければ生きてはいけません。それに水の潤い、風の揺らぎ、季節のめぐり、土の香り、それらのすべてを実感するとき、とても清々しい気持ちになり私たちがこの世に生きることの素晴らしさを味わっているはずなのです。

どんなに都市化された便利な世の中にいても、人間は自然の美しさに癒されているのです。

本来の科学技術とは、自然を少しだけ手伝うものであろうと私は思います。人間の叡智は、自然を深く理解し、それを現在の生活に反映させることで発展を約束してきたもののように思います。経済原理を推し進め、人間の浅はかな自然を悪用するような技術でお金が増えてもそれは世界や人類の永続的な発展を約束するものではないように私は思います。

本来の自然から学び直し、本来の宇宙の持つ自然発展のサイクルに入っていくこと。

これらの永続していくエネルギーを利用することこそが、私たちの生き方のお手本であろうと思います。また春になり、新たなめぐりの中に身を置いて次の季節も自然に感謝して実践を楽しんでいきたいと思います。

自他全体の四季

ベランダガーデニングをしていると、様々な花の姿に驚くことばかりです。

冬から春にかけ、春から夏にかけ植物たちは様々なめぐりを行います。そのめぐりには、花を咲かせるもの、枯れるもの、種になるものとめぐりは自分の生きる季節に合わせます。

そう考えてみたら、それぞれの生きものには、それぞれに持って生まれた自分の季節がありその季節と自然の季節に寄り添いながら自らの生を全うしているともいえます。

これは大なり小なりすべてが等しく、例えば同じ人間であってもその人固有の季節があるといったようにその人の成長や人生に四季があるのです。春だからといって、春爛漫に咲き誇るような花もあれば、冬にこそ冬爛漫に咲き誇る花もまたあるからです。

自分の季節を感じることは、自分も自然にあわせて自分らしく変化していくことに迷わないようになることかもしれません。人生の四季があることが、私たちを安心させるとしたらその四季を味わっていきていくことで自分が全うしたいと思えるものに出逢い感得するものかもしれません。

毎年、毎年、一年をふり返ってみると自分にとってどのような季節なのかを実感できます。そして周囲を観ていると、自分とは異なる季節の人達が共に道を歩んでいく姿もまた拝見していくことができます。

季節の恵みに私たちは見守られ、成長をしていくのでしょう。

その人の生涯も、死んでから活きるものもあることを想えば決して寿命だけが四季ではなくその存在に四季があるということに不思議な安堵を憶えます。

存在の四季を実感しながら、自他全体の四季を味わっていきたいと思います。

めでたい~御祝~

先日、「めでたい」ということについて触れる機会がありました。昔から、何かの御祝があるたびに私たちは「めでたい」という言葉を使います。

御祝の「祝」は祈る、祭る、祟るといった意味も篭めてあり全ての出来事を福にするという意味もあるように思います。全ての有難いご縁を心が感じて神様から最幸の賛美を贈られていることに感謝しているときがこの「めでたい」というものであろうと思います。

人はそれぞれに様々なご縁のつながりの中で生きています。

その人生の中では、現実的には出逢い別れと、前に進むためにご縁は常に円満に廻り巡ります。しかし人間には感情がありますから、時折理不尽だと悲しくなったり辛い思いもします。また逆に嬉しいことや喜ばしい思いもします。そういう出来事そのものを、「丸ごと」めでたいことだと実感するときはじめて私たちは前進していく魂の幸せを噛み締めることができるのかもしれません。

そう考えてみると、「おめでとう」という言葉も沢山いただいて今日まで生きてきました。

誕生日おめでとう、卒業おめでとう、入学おめでとう、、、様々な場面でおめでとうと出会いここまで来ました。沢山の方々におめでとうという言葉を戴いて育ってきたように思います。人生には無駄がないからこそ、おめでとうという言葉が最も私たちの生活に深く根付いているのかもしれません。

毎日が、素晴らしい日々であることを祈るように生きていく。
全ての出来事は、出来事そのものが有難いご縁で起きている。
そしてそのご縁そのものが幸福なのだと賞賛していこうという思想。

私たちの大和魂、随神の道にはこの「めでたい」という生活習慣があることを学び直しました。

これからも時あるごとに、事あるごとに、「めでたい」という気持ちを忘れないでいたいと思います。言霊を大切にこれからもかんながらの道を祝っていきたいと思います。

有難いご縁に、邂逅に、めでたし、めでたし。

奇跡~結ぶ~

一期一会のご縁を実感すると人生というものを歩んでいく尊さに実感することがあります。

生まれてきてから死ぬまで、何人の人達とご縁をいただきこの世を歩むのか。
その人生の旅の中で出逢った人たちもまた絶えず歩み続けています。

途中で亡くなる人、途中で居なくなる人、途中で離れていく人、たくさんいます。

しかし決して同じ場所や同じ空間、同じ時間だけが共にいることではないように思います。一緒にいるというのは、離れていても、空間が異なっても、時間がズレても共に歩んでいるのだと実感していくことなのかもしれません。

それはこの世のすべては繋がっていないところはないという意識です。

もちろん、現実の身近な世界では共にする仲間が一同に帰すところには、もちろん出会いの歓び、そして別れの悲しみもあります。時折、縁が切れるなどという言い方をする人もいます。しかし本当にそうなのでしょうか。

繫がりの中にある、本来はそれ自体がとても尊いことであるだけで、その人の今のご縁の中に魂の契や結びがあり永遠に繰り返される絆の邂逅でいのちの水鏡に思い出に映しだされているように直観するからです。

つながりの結びの中にいる私たちは毎日が奇跡だといえます。

自分がつながりの中でいつも偉大な結びと出逢い続けていると実感することが奇跡です。

魂や心が繋がっているのだから、永遠に共に歩んでいることには変わりありません。

目には見えなくなっても構いません。
その声が耳に入ってこなくても、匂いがかげなくても、触れなくてもいいのです。

心が結びを確かめたとき、私たちは見守りあいながら前進するのみです。

強く、優しい真心の足取りは次の出逢いを予感します。

日々の奇跡に心を躍らせ、今この瞬間の出逢いに感謝し続けたいと思います。

もう外は春の景色、桜も満開です。
新しい季節がはじまります。

感謝の心

人はその生き方を決めるとき、何を第一にするかというのは大切なことです。

例えば、自分のやりたいようにならないと気が済まない人がいるとします。それは本来、最終的にやりたいことをやるためのプロセスであることを忘れて自分のやりたいようにやろうとするのは単なる我儘になります。

自分の思い通りという欲は、誰しも持っています。しかしそれは本来は思い通りにいったのではなく、自分が人事を十分尽くしたからそうなっただけで決して思い通りにしたのではありません。

何でも自分の思い通りというのは、そうでないと気がすまないということで単なる自己満足のために取り組んでしまうともいえます。自己満足というものは、自利のことで本来は利他といった自分の思い通りにならなくても大切なもののために自己を捧げようという生き方のことです。

今の時代は、何でもうまくやれば自分の思い通りだと勘違いしてしまうことがあります。本来は人事を尽くして天命を待つという生き方をする人は、思った以上のことにいつもめぐり逢い、最終的には感謝の心を忘れません。

感謝の心を忘れない人というのは、我儘でもなく自己満足ではなくいつも誰かのために自分を使い切ろう、出し切ろうといった人に与える方を優先して生きるという自分でいることです。

人には誰かからいつも奪っている人と、誰かにいつも与えている人がいます。もともと全てを持っていると思っている人ほど本当は豊かではなく貧しいものです。

しかし自分の持っているものを常に与えようと精進する人は無一物中無尽蔵ではないですが自分の中にあるあらゆるものを人に与えていくことができるように思います。

与えていく人生であるというのは、つまりは捧げていく人生のことでそれは自分のために自分のいのちを使わないでいるということに他なりません。

自分が本来あるのは、何の御蔭か、誰の御蔭か、そういうものを忘れないでいることこそが自分を世の中への貢献へと駆り立てていくもののように思います。感謝でいるということは、行動で示していくことで与える歓びに生を活かすのかもしれません。

自分の殻を破っていくのは、より大きなものに自分を活かしたいからです。
感謝の心を育てていきたいと思います。