自然の法理 ~生長の本質 じっと待つ~

植物や木々、身近な小さな虫たちから驚き、学ぶことが沢山あります。なぜだろうと観察を続けていると、いつまでも学ぶことがあります。子ども心はいつも不思議さと好奇な学びを自分に与えてくれます。

大人になると知識で分かった気になり頭でっかちになって何でも知っている人が増えていますが、本当は頭でっかちというのは日々を新しくしていくよりも過去のことを組み合わせてやりくりしやり過ごすことになるのかもしれません。昔どうであったかよりも、勇気を出して今、どうであるかの方が人生は豊かで楽しく感動で変化を味わい過ごしていけるように思います。

例えば、植物たちは時機というものに適応していつまでも準備しています。このいつまでも準備というものは、一見、あまり動きがなく、何もしていないように見えますがその実、如何なる時も着実に力を蓄えてそのタイミングを待つのです。

庭のベランダの植物や野菜たちも、誰が教えなくてもそのタイミングを知っていてじっと養分を蓄え今という時に合せて自然に伸びていきます。それは実をつけるときも、種になるときもじっと待ち続けていることは共通しています。

そしてこのじっと待つというのは何もしていないわけではありません。
一瞬一瞬の今を全身全霊で代謝しているのです。

人間は止まっているときは休んでいると思ってしまう刷り込みを持っていますが、植物には止まっていることなどはありません。常に止まっていると思っている冬枯れの時でも、根しか残っておらず土の中にいるときでも、そして種となって春を待つときでも、命懸けで生きて、捨て身の覚悟でいのちを放ち、そして全身全霊全て出し切って日々を新たに今を生き切るのです。

人間は強欲ですからじっとするということが分からなくなったのかもしれません。植物たちのようにあるがままでいれば何もしていないように外から見えたとしても、その実、どれだけ真剣に今を生き切るかということでそれは時機を待つという考えもあるように思います。

人生を自然で捉えるならば、種から芽が出て、花が咲き、実をつけ、そして他の養分になりまた次世代の種になる。その生きるプロセスそのものにいのちの循環を怠るという意味が分からないほどにどの瞬間もじっと行い尽くし精一杯遂げるのです。

どんな花をつけようとするかを想うことも大事なことですが、今がどれだけ全身全霊でいるのかということが自然なのでしょう。自分がどんな種で生まれてきたのか、それはいのちが知っているのだから天に委ねて真摯に生き切ることで自分がどのような花になり実をつけるかもどうせ次第に明らかになってきます。育てる楽しみもまたそこにあり、自分もどんな花が咲くのか、そして実になるのかをワクワクドキドキしながら今を遣り切っていくのが自分らしく生きることでしょう。

誰かの花を求めたって誰かの実のようになりたいと思っていたって、それはそうなるわけではないのです。松の木は梅の木にはなれないように、自分の持って生まれた天命はどのようなものであるのかは今を生き切る先に存在しているからです。論語の五十にして天命を知るとあるようなものも植物の一生と照らして考えれば自明の理が存在します。

つまりじっと根気を据えて今を全身全霊で遣り切るというのは、どの瞬間を切り取っても全身全霊であることを自分が自分で尽くしている状態です。言い換えれば、「日々を新たに自己を改善し、今までの刷り込みを取り払うために実践をし、誠実に真心を籠めて周囲に尽くし、感謝で自分を生き切る」ようなものがじっと待つです。

いつも感動するのは植物たちは、それを自然にできています。

一見、変わらないと思ってしまうのは何か焦ってしまう気持ちがあり種なのに種の時に種をせず、早く早くと花を求めてしまう刷り込みが自分の中に存在するからかもしれません。自分を含めた誰かの評価が気になるのは、こうなってほしいといった欲望に自分の志や芯が揺らいだからかもしれません。

じっと待つ植物たちの生きる姿勢に、自分自身が恥ずかしい思いがします。早くそのものをそうしようと思う自分の焦りは、無理を通すばかりで子どもたちに不安を与えて生長を抑制してしまうように思います。どんな時でも子どもを見守る真心に曇りを持ちたくないと改めて自分を厳しく戒めたいと思います。

生長していくことの本質は、時機に備えて素直に謙虚であることなのは自然が教えてくださいます。植物たちとともに、同じ太陽の下、素直に明るく清々しく今を大切に日々を新たに生きていきたいと思います。

 

清々しく弘める

先日、ある取引先の先生から貧者の一灯のお話を拝聴してきました。富者の万灯よりも貧者の一灯という仏陀の話ですが、真心を籠めた一灯は大変尊いというお話でした。

もともと数が問題ではなく、一つ一つの行為に誠の心を籠めたものであったかという例えです。この話は、よく富者か貧者かというところをフォーカスされて使われたりしますが、そもそもその考え方自体が刷り込みによるものです。

他にも、清貧といって物質的なものよりもそれ以上の価値で簡素に生きていくという言葉もありますがこれも富むか貧しいかというところが比較されて使われるのも同じです。

そもそも貧者の一灯の場合は、富むか貧しいかが問題ではなく「真心」かどうかを語っていますし、後者の清貧か富豪かではなく「清らか」であるかを語るのです。

何でもそうですが、今の時代は競争か共生かとか、画一か個々かとか、何でも比較して語られますが本来のそれは言葉を脳で仕分けただけでそこに確かな心の生き方がどうかが語られなければ本質的な話ではないのです。

本来、私は競争は悪いとも思っていませんし比較も悪いとも思っていません。他にも画一が悪いとか、大人目線が悪いとか、贅沢が悪いとか、その反対に玄米食しかダメとか、お酒も醸造アルコールはダメとか色々とダメなことばかりを言うのでもありません。

そこにこだわりがあるのは、あり方の方で、私はそこに清らかであるか、真心かといったものがないのはどうかと思っているのです。

例えば、競争も清らかに真心を籠めればその競争はとても美しいものになります。お互いを高め合い認め合い、尊敬しあい、思いやりに満ちた素晴らしい体験になるでしょう。他にも比較も、互いの長所を褒め、互いの美点を尊び、その比較が全て善転するようにするならばそれもまた存在に感謝しあうでしょう。大人目線といっても、真に思いやりのある大人として目線を確かめたなら真実に触れ人は自律し磨き合い高め合うでしょう。

このように本来の心の定めた在り方次第で、いくらでも物事は本質のままであるのです。

人が本質から外れるのは、そういう在り方よりも表面上の脳で裁いた右か左かという発想が本質を歪めてしまうように私は思います。

今の時代は、物が溢れたからこそ物を否定せず、物をもっと大切に感謝して豊かさを清々しくしていく必要があるように私には思えます。それはまるで清貧思想でも清富思想でもなく、清く豊かな思想です。

これは感謝の時代、それだけ感謝をたくさん豊かにしていく時代のように思えるのです。貧しい時代が善かったとか、今は物が溢れすぎて心が貧しいとか色々と言われますが、もっと有難うということを豊かに感じる感性を磨けばいいようにも思います。

どうしても恵まれすぎると、色々なことが目に入らなくなり与えられている幸せを直視できないで感謝を忘れてしまうことがあります。特に豊かである人ほど感謝を亡くすのです。しかしそんな時は、恵まれすぎたものをどれだけ自分が多くの人へと還元するか、精進してそれをもっと豊かで幸せな社会のために真心で全てを活かそうかといった感謝の発掘発展と心のおもてなしに使えばいいように思います。

思いやりや真心、そして清らかである方を選ぶ生き方そのものが貧富の差なども取り払ってしまいます。大切な生き方が観える生き方かどうかは、生き方を実践しているかどうかで決まります。自分の生き方がそうだから、他人の生き方が観えるということは、自分も同じ生き方をしようと決めた人にだけ与えられる世界があるのかもしれません。

環境がどうであれ、日々の「生き方の実践」を怠らないのであれば人の住む世界はいくらでもその人の生き方次第で観え方が変化してしまうのです。そしてそれが道そのものとしてひらかれていくのでしょう。

今のような時代を全て受け容れ、清豊主義で与えられたものを最大限伸ばして真心を籠めて感謝でき、それを分け与え清々しく弘めるような生き方をこのまま優先していきたいと思います。

道心を弘めるのも私の使命ですから、脚を止めずにこのまま歩んで往こうと思います。

勇気

人は何かをしたことを満足したくなるものです。

例えば、これをやったのだから凄いとか、これをしていないからダメだとか、結果だけをみて判断してしまうものです。しかし本来、物事というものはそこに世間からの評価や評判などの基準で良いか悪いかを判断しているのは、自分がそう思われたいから求めることが多いのです。

世間の評判を気にして何かをすることは自我が求めているだけで、本来の自分の魂が望むものではありません。

自分の魂が望むものとは、全てにおいて日々にどうありたいかということでありそれは自分の生き方を換えることによって得られるように思うからです。しかしこれも大変難しいことで、生き方を換えるには勇気が必要になります。その勇気は、今までの自分の思考のパターンを変換して同じ状況を転じて福にして善いことへとしていく実行力が必要だからです。

同じことが起きるのが人生で、マンネリ化してしまうのも人生ですが、同じパターンをやめたいと強く念じるならば今までとは異なる乗り越え方をしていく必要があるのです。それはまるで、自分の内面の扉を開けて道をひらいていくような感覚なのです。

これを言い換えれば「受け容れる勇気」というものかもしれません。そもそも勇気の本質とは、どれだけのことを逃げずに真っ直ぐに受け容れるか、つまりは自分が与えられたものを受け止め心から信じるかということですが、そこに疑いがあることは受け容れたことではありません。

どんな環境や境遇であっても、今与えられたものには何か大切なことが潜んでいるということ、それを真摯に学ぼうとすることができてはじめてそこに感謝も真の歓びも幸せも楽しみもあるように思います。

自分の思い通りにいかないことは楽しくないものです。それは脳が楽しくないと思っているからです。それを邪魔するのは自分の身がかわいいからです。しかし心は生き方ですから、それとは反して覚悟を決めて今を遣り切っていくと一瞬一瞬が幸せであるように感じられるものです。そしてここに転じるのも勇気の一歩が必要なのです。

楽よりも楽しい方を選ぼうとするとき、そこに勇気がいるのです。何が起きるから分からないけれどそれも全て天に委ねようとする勇気、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という捨て身の覚悟というものが求められるのです。

この捨て身の覚悟が私の思う覚悟力の本質で、その時こそ人は勇気をもって変われるのかもしれません。どれだけかわいい自分自身を捨てられるか、そうすることで身がから離れ本来の魂といった生き方や死に方が心に顕われるように思います。これは身近な人の闘病を見守りながら、何を捨てて何が捨てられなかったのかを見つめることができたことで気づくことができました。

本来の死生観とは、そういう身をどこか他のところに置いてでもという境地が必要なのかもしれません。ただ、それも極端な観念論ですから、日々の取り組みは真心をどれだけ籠めて遣い切ったかでもいいように思います。

自分のことを思い煩うよりも、人のために自分の真心を今日も遣い切るという方が私にはどうも合っているように思います。他人のためになる仕事、つまり自分を役立てるというのは、もっとも身近な家族を大切にしていくことからもすぐにできることだからです。理念を真心で遣り切ることも偉大な勇気の一端であろうと私には思えます。

最後にマザーテレサの言葉に励まされます。

「どんなに小さいことであっても、大いなる愛を込めて行うことは、人に喜びを与えます。そして、人の心に平和をもたらします。何をするかが問題ではなく、どれほどの愛をそこへ注ぎ込むことができるのか、それが重要なのです。」

どれほどの愛を注ぎ込むか、そこに生き方を教えてくださっているように思います。
今日も楽しく豊かになる一日を与えてくださって本当に有難うございます。

魂のうずき

色々なことが分からなくなると、師から教わった言葉などを整理してその意味をもう一度深め直します。師弟の学びの豊かさというものは、先覚者たちの学んだものを共に学んでいこうとする師弟一体のところで生きるときに感じるからです。

自問自答していくというのは、自明していくのを待つということですがこれは師から学んだもので成熟するということは魂が求めたものが研ぎ澄まされるということだということです。つまり自明というものは来たものをじっくりと待ち、取捨選択していく力ということです。

何が必要で何か不必要か、その優先順位は来たものを待たなければなりません。焦り驕り高ぶることは魂のうずきではなく、それは単に自分を信じられないだけで本来魂をやっているということであるならば自分を信じて来たものは全て今の自分に必要なことだと謙虚に素直でいることが成熟していく魂を育てていくことであろうとも思います。

この「待つ」というのは今を生き、今を信じるということとイコールですが、大変難しいことです。人はつい過去の栄光に縋ったり、未来の希望に託そうとします。しかし本来、魂を磨こうと心が定めた決心があれば後はそれが必ず天が環境を用意してくださっているのだからそれを素直に受け容れ選ばずに全部を意味があると受け取り、それを真摯に学んでいけば夢は必ず実現するとも言えるのです。

特に大きな夢であれば一代だけでは叶わずとも、必ず世代を超えてその夢は受け継がれていくようにも思うのです。

魂がうずくというものも自明ありきであり、これは来たものを観てそして今に全身全霊で実践するとき、「ああ、これは二度とない自分にとって掛け替えのない大変尊い体験をさせてもらっている」と心から感謝に昇華したときうずきは修まるのです。言い換えれば、その連続で魂の目標というものは次第に明らかになってくるものです。

人が一般的にうずいているという感覚のものは、実は古傷が痛むということかもしれません。人は誰しも過去に色々な古傷があり、それは癒えないのですから信じることを阻害する要因と常に向き合っているものです。その時は、生き方を変えよという本当の意味での魂のうずきを蔭で戴いていることに気づかないだけかもしれません。

これは今までの生き方のままでは夢は難しい、だからこそ刷り込みを取り除き新しい自分とし生まれ変わるような生き方をせよと言われているのかもしれません。それは例えば、私ならもっと多くの感謝をして生きなさい、謙虚に自分の間違いを正していきなさいとずっと魂からの声が入っているように思います。

魂のうずきとは、その実、この「転じるうずき」のことで矛盾のうずきですがそれが成長そのもののノックが入るうずきです。そして魂の成長、つまりは魂が成熟するのをじっくり待てるのは魂の矛盾を抱え込む真の胆力が、つまりは今を生き切る必要があるかもしれません。

今できることの最大限を実践していくことで、次第に顕われる今を大切に味わっていきたいと思います。魂は心と体とのバランスの穏やかな時にヒラメキもまた訪れます。

ノックが入る時は発想の転換のチャンス、堅苦しく真面目に考え過ぎず傾き、遊び心で楽しみたいと思います。

実体験の価値

人が生きていくのに実体験というものが生き甲斐や遣り甲斐を生み出していくものです。その実体験とは何かといえば、自分でやっているという実感のことです。

これは自分で決めたことを自分で遣り抜く時、もしくは自分の人生を信じて今、与えられている環境に感謝するときに実感できるように思います。不平不満を言っては、遣らない理由を探すのは言い訳で、言い訳をするとまた実体験から遠ざかってしまうのです。

実体験とは、酸いも甘いも全てを味わおうとする境地で、自分が心で定めた志を頼りに後は眼前の今に全身全霊で特化していくというものです。それは例えるなら、世界の問題を自分の中に容れながらも粛々と目の前のことから学んでいくのに似ています。

禍福一円ではないですが、今、学んでいることは将来どこかでその能力が必要になるのです。ないものねだりをする前に、自分に何の力を欠けているかを教えてくださっているのが今という見方が素直で謙虚な姿勢です。

また自分の欠点を知ることは、自分の美点を知る事でもあり、人は同時に両面を受け容れなければ本当の自分を世の中へ役立てていく方法へ辿りつきません。

そして欠点だからそのままでいいかというとそうではなく、欠点もまた美点になるように精進していく必要があると思うのです。それはバランスのことで、美点は欠点があるから引き立たされるものだし、欠点は美点をさらに引き出していくからです。

例えば、何かができなくて大変だからこそそれをできる人の美点を見つけることができる。そしてその美点を活かしつつ自分の美点で協力していくこともできる。欠点は補い合い、美点は尊ぶということが、自他を活かすことのようにも思うのです。

人はどこか自分に似ているところがあるから惹きあうともいえます。しかし同時に似ていないところがあるから求めあうこともできるのです。

だからこそ欠点もまた美点になるように、互いを尊重し認めていくのは視野を広げ、遠い先のことを慮り、いつの日か必ず力をつけてお役に立とうと今を遣り切っていくのが自分を活かすということかもしれません。

目標も夢も、本当に遣りたいことは実は日々の体験の中で得られるようにできているのが人生です。生きること、生きていることそのものが夢の中にいるからです。そして分かるように言い換えるならそれは大前提として、「現実の中にこそ真理がある」と信じている事です。

最後に森信三先生の言葉です。

「いったん決心したことは、必ずやりぬく人間になることです」

やりぬく人間になること、これがイコールで実体験する人生であるということかもしれません。
人間は頭で生きるのではなく、全身全霊で生きるもの。人間ですから弱る時もあるかもしれません、しかしだからなんだというのもあります。

志とは実はそういう時にこそ、盤石に発育していくからです。

実体験を尊び、試行錯誤しながらも前へ前へとその舵をきっていこうと思います。

かんながらの道中

よく人生とは登山のようなものだと喩えられます。

低い山を登るのなら、山頂はすぐに捉えられるものですぐに登れる達成感も得られるものです。しかしもしも誰も登ったこともないような山に登るのなら、山頂は雲の上にあり果たしていつ登頂できるかも分からないものです。

長い期間を懸けて準備をし、コツコツと足を前へと踏み出していくしかありません。飽きるような道を歩んでいると時折、あの近くに見える低い山の方が善いような気もすれば、周りの山々を登る人を観ては羨ましいなどと思えることもあります。

なぜなら、山登りにおいて森へ入れば周りは観えずいつ抜けるのかも分からないままにこの道で善いと強く信じて戸惑いながらも怖いながらもまだ見ぬ栄光の瞬間を目指して忍耐していくものだからです。そんな時は、松下幸之助さんの遺した「道をひらく」の言葉にいつも励まされるものです。素直に謙虚にと思っていても、なかなか自分も善いお手本にならず天を仰いで自分を遣り尽くしていくしかないと心を定めているものです。

人は、本物を追及するのにいつも一人自分と対話し真理と向き合っていく必要があります。それが魂を磨いて掛け替えのない自分を尽くしていくことになるからです。そして同時に一人では生きられないのだから周りの人たちへ心を開き助け合って生きていく必要があります。それが心を清らかにしていくからです。

その時の判断基準は、根本は何か、何のためにやるのかということと、もう一つは自分の判断が皆を幸せにするものかどうかを中心にしているかどうかというものです。

まず本質は何かと考え抜けば、根本のところが観えてくるものです。根本が観えなければ、それは単に目先の現状に流されて魂が望んでいることとは違うことに惑うからです。これでは、自分は何のために生きるのか、働くのか、そして死ぬのかが観えなくなり不安は増大する一方です。本来の挑戦とは、常に本質的であるかの方が人生の根本と向き合っていることになるからです。

また協働というものは、自律や自立との向き合いによるものです。一人ではないということは、自我を優先して自分のことばかりを貫けば次第に周りに迷惑をかけてしまいます。だからこそ、周りに迷惑をかけないように自律していく必要があります。それは自分と他人を主人公にしていくように、常に自分と周りの夢を実現するために自分を使っていくということに他なりません。他と共生していくことを自然から学び直すといつも同じことを諭されます。

つまり自然というものは、常に共生と貢献の中に存在していて共に自己実現を成し遂げています。お互いに一つの太陽の元に生きるものとして、互いを思いやり、労り、慈しみ、そして共に夢を実現していくために協働していくのです。

ここに自然か不自然かという最も大切な生命の道理が働くのです。そうして生きる時、人は穏やかになり心が洗われ澄んでいくように思います。

どんな日々があったにせよ、日々は魂を磨き心を清めるチャンスに満ちています。
文章にすることは道から外れていると思われるかもしれません。

しかし道を励ますことは、自分が励まされたようにそれ自体が尊いと感じるから已むに已まれず此処に、いのちの足跡に信じて書き記したいのです。

他人からどんなに思われようと、子どもたちとともに一心直向にかんながらの道を歩んでいきます。

自然法則の発見

自然農に取り組む中で、ある不思議な法則を発見しました。

もともと自然はそのままにするのですが、人が蒔いたものや人に触れたもの、人が必要としたものにはその人の絶えない関心と応援が必要となるということです。

自然界に育つ作物は、人との関わりがあろうがなかろうが自由に野生化した中で生きています。野生化した中でそのまま育っているものは人間が関わらなくても自然の愛を享受し生きているのです。

しかし人間がひとたび関わってしまうと、そこに本来のそのもののいのちの循環の中に人間が入り込んでしまうのです。もともと人間との関わりがなかったものが、人間と関われば、人間との関わりを通して強くも、また弱くもなってしまうのです。

例えば、野生の花を切り、生けたとしてもそこには小まめな水替えや関心がなければあっという間に腐ってしまいます。また、作物も蒔いたり植えたりしたとしてもそこに見に行き負けないように支えなければ同じく天候や虫、雑草に負けて枯れてしまいます。また、野生の子猫を拾ってきても、人とのつながりができたらいつも気にかけ育てていかないと弱って病気になってしまいます。

このように人間と関わるということは、人間との関係が必要になるということです。

つまり関係を結びということは愛を結びことであり、ひとたび愛を結んでしまえばそのものはその愛の影響をとても大きく受けてしまうということです。

この時の愛の定義とは、関係のことであり、ひとたび関係を持てばその関係の中で愛が強くもなり弱くもなるということです。愛が弱くなればそのものの生きる力も弱くなり、愛が強くなればそのものの生きる力も強くなるのです。揺るがないほどになれば、そこに愛を疑わない境地に入るのかもしれません。

そのために絶えず見守るということは、常にそのものの持つ完全体を信じることと同時にそのものを丸ごと自分を捧げて応援するという関係を結ぶのです。

言い換えれば、愛を循環させていかなければ育ち合えないのです。

気づきませんでしたが、全ての関わりあうものたちはお互いを常に見続けると同時に応援し合っていたのです。それが関係を結ぶということであることに、人生ではじめてはっきりと気づくことができました。

ただ分かったからといってここから技術に昇華したわけではありません。
揺るがない愛とはどういうものは、身近な自然から学び直したいと思います。

性格学

せっかちという意味を調べてみる。

すると語源由来に、「急ぎ勝ち」というところから来ている。急くという字と、勝ちという言葉の組み合わせで、どちらかというと急ぐ方が多いという意味になる。似た言葉に、気早、おっちょこちょい、生き急ぐ、先走る、性急などがある。

対義語は、のんきといい、当て字に暢気や呑気を使いますが本来は中国の暖気から来ているようで性格がのんびりしていて、無頓着、気楽で気が長いなどという意味になります。

もともとせっかちな性格というのは、言い換えれば行動力があり思い立ったらすぐに実行せずにおられない性分だということです。またのんびりというのは、事がなるまでじっくりと待ち冷静に楽観的に信じるという性分だともいうことです。

それぞれが善く出ているときは長所であり、それが状況に反して悪く出ているときを欠点だと呼ばれるものです。どうしても自分の時に合わせようと相手に求めてしまいますが、御互いが御互いを認め合うとき、その両方がはじめて活かされて調和していくように思います。

また一人の人間としてもその両方を状況にあわせて生涯にかけて活かしていく必要があります。そういうものも周りから学び、自分の性格を活かしていくことができるからです。しかしそんなに簡単器用にはいかないもので、だからこそ多様な人たちの中で一生をかけてその両方を得ていくようにも思うのです。

例えば、せっかちの人は歳とともに、次第に落ち着いていくものです。これはせっかちの善し悪しを学び、どの状況の時にどうあればいいかを気づき身についてくるからです。そしてのんびりの人は同じく歳とともに、どのときは直観に従い行動すべきか、危機感をどう持てばいいかというのを学び身についてくるのです。

そう考えてみると、人は一人ではなく大勢の中で様々な性格の人が集まっていることがもっとも現在に対応し対処できるように思います。自分だけの判断では、そのような自分の性格がぴったりと当てはまる事柄と、そうではない事柄の時があるからです。

もちろん、人間として完全になっていくのに色々な性格が次第に陶冶されて円みを帯びていくことに人間の学びの意味があるように思います。

同時に、自分以外の性格の人達いてその人たちの御蔭で物事が正しく乗り越えていけるという実感と歓び、そして多様であることへの共生や貢献、感謝などを学ぶこともまた大きな意義があるのです。

自分がどのような性格かを知ること、同時に周りの性格がどうかを知ることは、御互いの持ち味を活かすためにとても大切なように思います。そのままでいいけれど、こうありたいよねと本音で言い合えることもまた仲間も定義であろうと思います。

色々と自分もせっかちな性格を直そうと苦心してきましたが、どうせどうにもならないことに当たれば道草を楽しもうという境地にいくしかなく、やはり天はうまく調整してくださっていると思います。

諦めるところから、認めることから、自他の性を、人間を深く学んでいきたいと思います。

自然の叡智

今年は自然農の畑を改善して、新しい工夫を凝らしています。

最初から大した知識もなく、直観をベースに取り組んでいると御蔭で色々なことが観えてきます。自然というものの偉大さというものは、誰かから教え込まれた知識ではなく、もともと最初から備わっていた知識で理解するときにこそ認識できるものだからです。

教えてもらわなければできないのではなく、自分からやってみようと信じてみなければできることもできないのです。

自然とは、誰が教えなくてもそこに生きる智慧を享受されています。

植物たちが自ら伸びる時機を知っているように、親鳥が雛を孵し育て始めるように、誰が教えていなくてもそのものはそのものの命に従って一番大切なことを忘れることはできません。

後の知識でいくら刷り込んだにせよ、そのものの本性や本命というものは無自覚無意識に誰にも拒むことはできないのです。

自然というものを観察するに、人の中の自然というものがどういうものであるかの認識が必要です。

春の種蒔きの重要性を実感し、そこで種蒔きが成功しなければ秋には物乞いをするようなことになりかねません。人生というものも、如何に種を蒔くサイクルにあわせて行動するかということが問われるのです。

自然には全てに時機というものがあります。

その時機時期を逃さずに怠惰や安逸を戒め、如何に自律するかというのはそのものがそのものの時機通りに働いたという生きた証に他なりません。

自然というものは、そこに怠け心はなく全ての愛情を注ぎこむ自然界に倣い、その愛情に真摯に応えていこうとする愛の循環があるのです。

見守るの見るというのを学ぶに、この自然農はとても大きな役割を果たせるように思います。何もしないのではなく見るという偉大な行為。そしてそのもののもともと備わっているものを信じるという守るという偉大な行為。

自然から学ぶことは教科書から学ぶことよりも偉大な生命の叡智を思い出させてくれるものです。

飽きたらず、観察し、そして怠らず、実践し、教えないものを覚りたいと思います。

生死の行方

人は生き方が選べるように死に方も選べるように思います。

例え人生が今までどのような習慣を持ち生きてきたといっても、最期の瞬間に自分の求めた真の生き方に気づけたなら死に方もまたその瞬間に変わるように思います。自分がどのように死ぬのか、それを正面から向き合えば今、自分がどのように生きるのかが問われます。

これは今の自分の生き方そのものが死に方そのものになるからです。

生き方とは、簡単に言えば今この瞬間にもどのような選択をしたかの集積です。人は日々に大小さまざまな選択をして生きています。

人によっては、思いやりや優しさ、善や真心で幸せの種を蒔いていくような生き方を選ぶ人もいますし、また逆に利己的で自分のことばかりを優先し、奪うことや独占することばかりで不幸の種を蒔いていく生き方を選ぶ人もいます。

人はそれも自分で自由に選択することができ、どんな境遇であっても誰かの御役に立ちたいと願ったり、幸せを噛み締めてその幸せを周りへと広げたいという人になりたいと思うのです。

しかし世の中を直視してみれば如何に思い込むことで生きてしまっている人があまりにも多いのではないかと思うのです。人生が寂しいものになり、孤独になるのもその思い込みから抜け出せずに自分の自我に引き籠ってしまうからのように思うのです。これは自分で思う以前の問題で、そうならざるを得ないような生き方を選択した過去が存在しているのです。

人の思い込みというものは、過去に何かの出来事がありそのことの不幸を転じることができずに引き籠ったことで発生したままその記憶から抜け出せなくなることに似ています。そうして抜け出せないだけではなく、いつまでも同じことの繰り返しをしそれが次第に生き方に反映されてしまうのです。

過去の出来事がいつまでも尾を引くことで、その思い込みから抜け出すことができないのです。

思い込みはいつまでも自分の外側の世界に心を開かず本来の人間の美しい姿や愛情、自然の真心などが歪んで観えません。

本来、この世界はとても豊かで美しく、感謝と愛と真心、偉大な思いやりの中で私たちを活かしてくれていてそこに気づくことで心を幸せにし、その心の余裕こそが人々の中の平和を生み出していくように思うのです。

それを奪うのは全てにおいて過去の思い込みといった刷り込みによるものです。

これを取り除くには、覚悟が必要でその覚悟とは今の心が決めたということがいります。つまりは過去の自分と決別し、新たに今に約束した新たな自分の生き方を徹底して習慣にまで昇華させて未来を変えるのです。

人は小さなことでも、心で決めたことを遣り抜けばそのうち世界が自分が引き籠ったものから解放されていくのです。それもまたご縁と道との出会いが必用でまるで「啐啄同時」のように生死の境目にある絶妙なタイミングがあるのです。

この「啐啄同時」は禅語ですが、卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「啐」といい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」といいます。雛鳥が内側からつつく「啐」と親鳥が外側からつつく「啄」とによって殻が破れて中から雛鳥が出てくるのです。

両方が一致して雛が生まれる「機を得て両者相応じる得難い好機」のことを「啐啄同時」というのです。親鳥の啄が一瞬でもあやまると、中のヒナ鳥の命があぶない、早くてもいけない、遅くてもいけない、いのちを分ける大事で危険な一瞬だからこそ啐啄は同時でなくてはならないのです。

この人が変わるという瞬間、その生死の行方の境目というものは、運命の大きな掌の中にあるように思います。

コンサルティングをしていると、いつもこの機縁は透徹された絆を結び、仁義の通じ合った絶妙たる絶体絶命の時にこそ訪れることが多いからです。人の生き方や死に方というものを左右する、刷り込みの消去はひょっとすると生死の間にこそあるのかもしれません。

変わりたいという心の叫びが助けを求めているのかもしれません。

刷り込みを取ろうなどと、また世界を変えたいと真摯に願うのはひょっとすると狂人のような世界かもしれません。先日の死から再び学んだものは、生き方を変えたいと願う人たちの救いを求める心の叫びと許しの中にある愛の囁きでした。

生きていれば色々と向き合いたくない過去の自分も、今も変われない自分とも出会うものです。しかし未来を変えたいと願うなら、勇気を出して挑戦し、最期まで希望を失わないで遣り切ることができれば後は全てを天に委ねる。

それが生死の行方を決めるのです。

これからどうするか、、もう一段、自分は変化成長しなければなりません。
今は何を学ぶべきか、その道筋が少しだけ観えてきた気がするのです。

生死の行方は、私にも訪れています。