いただく

日々に精進し、丹誠を籠めて生きている人に会うと本来のあるべき姿に安心することがある。

論語に、「子夏が曰わく、君子に三変あり。これを望めば儼然(げんぜん)たり、これに即(つ)けば温なり、其の言を聴けば厲(はげ)し。」がある。

これは(子夏が言った、「君子には三種の変化がある。離れて見るとおごそかで、そばによると穏やかで、その言葉を聞くと厳しい。」という意味だけれど、徳の高い人というのはこのように感じるものであろうとも思います。

自分の実体験から真心を尽くしてひとつひとつを丁寧に取り組み、結果を重んじるのではなく自らが誠心誠意思いやったかどうかを内省する。こういうことを日々に繰り返していく中で、丹田に信や誠が入ってくるのだと思います。

先日もそのような機会をいただき、如何に傲慢になっているか、自然から離れているかを実感することができました。私たちはもともとはすべて「いただく」ことが前提になっている。

「いただきます」というのも、もう一度深めてみると、人間側の都合でいただくのと、感謝そのものとしていただくのでは同じいただくでも使い方がまったく違うことに気づきます。

例えば、空気を吸うという行為も、自分が吸っていると思っていて吸わせていただくというのと、本来は空気があるから生きていることができ、だからこそその有難い恩恵をいただくのとでは同じ空気だとしてもこちら側の姿勢がまったく違うのです。

そもそも自分だけで生きていると思ったり、自分が生きていると思っているから、自分がそれをやっていると思っているけれど、実際は私たちは周囲の偉大な繫がりの中で生かされると覚えればそもそも「いただく」ことで成りなっているのです。

自分で生きているのではなく、自分が生かされているということ、それが「いただきます」であろうとも思います。

そういう気持ちでいるというは、ご飯を食べる時だけではなく常に日頃から周囲や身近な人たちや関係や繫がりに感謝を忘れていないといった自分の心の在り方が重要になっているのだと思います。

都市化された物質文明の中では、どうしても自分勝手に思い通りにいくことが当たり前になっているのでそのような原点や初心、その心の故郷を忘れてしまうのだと思います。

しかし今の自分の存在があるのは、今までの命のめぐりをいただいているからであると思えば何が間違いなのかはすぐに理解できるのです。そういう当たり前のことを忘れないためにも、常に自分にさせていただいているのだという気持ちを忘れないように、真心の実践を日々に積み上げていくことが大切であろうとも思います。

いつも仕事に援けられていることを実感します、そして皆様からの支えの上にあることを知れば、常に大切なことは何かを学び続けて実践を積んでいこうと思います。

信頼を縫う

人は損得抜きで困ったときはお互い様という関係を持てるかというのは大切なことのように思います。そしてそれは昔からあり、自分が困ったときに助けてもらったから同じように人を助けたいというものがあるのであろうとも思います。

素直に他人に困ったことを言える心も、素直に助けを求める心も、そこには確かな信頼関係というものがあるのだと思います。この人を信じるということは、人間関係において何よりも大切なものであろうとも思います。

一般的には人は相手を見ては、どこまで自分を出そうかと判断しているように思います。その人の立場や、その人の様相、その人の損得によって自分の立ち位置を決め振る舞っているともいえるのだと思います。 理由は様々ですが、怖さであったり不安であったり、傷つきたくないからなど、自衛や防衛からそうしてしまっているようにさえ思います。

しかし、その最初の行為に自分から信で接しようとしなければいつまでも誰かと信頼関係を持つことはできません。自分が相手を疑い信じることができるかどうかを先にする人は、親友や師弟、または心を開ける最良の同志などにも出会うことができないのです。

本当に困ったことに遭遇しても助けを求めなかったり、最高に感動したときも涙を流しながら喜びあえる戦友もいない、または後を託せるような関係でなかったりと、寂しいことになるのです。

人はその人を自分から先に信用し、信頼し、心を開き続けるというのは、天の下、自分というものを受け容れてくださっている自然に心身を委ねることと同じであるのです。

思い切って自分の心を打ち明け、丸ごと頼ることほど幸せなことはありません。
そういう関係がいるだけで、前に進む勇気が出てくるのです。

人は独り立つ必要はありますが、一人では生きてはいけないのです。
たくさんの困難がある御蔭で観えないものに助けられている日々を実感します。

遅遅とした歩みであろうが、本質に向かって心を信じ縫っていこうと思います。

閃きの扉

思っていることと行動に移すところの間には、そこに信じるかどうかというものがある。

一見、考えてから行動しているように感じていることも考えると同時に信じているか、そして信じているから行動しているかといえば、ここの一瞬の交錯の間には自分の判断への信頼や自分との心と感情の対話の調和なども関係しているように思う。

例えば、意志の力で何かを乗り越えるといっても正直な自分の心と、素直な感情が対話をしその上で本心と本音といった声をあわせて納得していなければ瞬間瞬間の行為にブレが生まれてしまうものです。

その一瞬のブレがタイミングを外してしまったり、後で悔いたりすることがあるのです。

人は思ったときにすぐ行動できるようになるには、自分の感情や脳が多少嫌がっていたとしても心の方が赴く方へと駒を進めるというオープンな自分というものを持っていることが大切であろうと思います。そういうものは、やっぱり何度も繰り返しチャレンジし、やっぱり遣って善かったと思える体験を沢山積み上げているからできるようになるのだと思います。

この判断や決断というのは、いつも真心で生きる実践ができていたり、いつも自分というものを自己管理できるようになっているからできるようになるのだと思います。

人は思っていても、考え過ぎてしまっているうちに最初の閃きを濁してしまうものです。
しかしこの閃きのままに信じるには、好奇心や遊び心が必要です。
そしてそれは周囲への信頼、または自分自身が素直であることが大前提であるのです。

不思議ですが、必要なことはその場にその身体を置いて心を澄ませば観えてきます。
そういう日々の閃きの扉を開く実践を楽しむことが人生の醍醐味であろうとも実感します。

よく分からないことをよく分からないままに過ごすのは矛盾だらけですが、微細なヒントを明日への希望へ換えて更なる一歩へと歩みを強く踏み締めていきたいと思います。

利の元は義

自分を含めた一人以上の組織というものは、社会に対して何かの責任を持っている。
自分自身が社会の何の役に立つのか、それを思わなければそこに大義は立つことはない。

そういうものを思わずに、目先の損得だけで判断するのは自利を追うからでもあります。
しかしこの自利と義理には大きな隔たりがありますが、当人は気づかないことが多いのです。

前者の自利は、全体が自分にとってどうかといった自分が世界の中心としての考え方であり、後者は自分の存在をが全体の一部として見た時に自分が何の役に立つかといった考え方であるのです。

日頃から、何でも自分の思い通りにしようと思っている、もしくは思い通りにならないことばかりを悩んでいる人は、全体の一部という客観的な自分を理解することができません。その思い通りにいかない執着に惑わされ、全体からの視点や、相手からの視点、自分の本来の使命や役割などといったことを思い出すこともないのです。

しかし、心に余裕やゆとりがあり日々に自分が誰かのお役に立とうや全体のために自分を活かしたいと生きている人は自利を貪らず義理を優先することができるのだと思います。

論語に、「子曰わく、君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る。」がありますが、これは本物は大義に生きて、偽物は利に生きるといった意味です。周りの環境に流されて自分が偽物にならないように常に本物の生き方として全体のお役に立とうといった自分への啓発精進が必須であろうとも思います。

そしてこのお役目を必ず果たすということを思うことが、責任というものであろうとも思います。
このお役目というものが、道理を踏み外さないことであろうとも思います。

人間は、つい自分のお役目を忘れて自分の都合よく解釈しようとするし、自分の責任を放棄して目先の損得で判断してしまうことがあります。しかしそもそも自分がなぜ働くのか、なぜ仕事をするのかの本質を思えば、即ちそれは何らかの社会に対する責任が生じることを理解するはずです。

自分の都合で働くのではなく、社会があるからその役目の一端を自分が担うからはじめてそこに大義が立って正しい利益を得ることができるのであろうとも思います。利の元は義ではないですが、道理に沿った正しいことをして、正しい利益を得ようとするのが道徳と経済の一致であるのです。

いくら儲かるからと道理を外せば、それは社会的な責任を放棄しているのだからそのような組織は必ず道理に反した結果が跳ね返ってくるのだと思います。常に、自らが全体を観て如何に社会的責任を果たすか、また自分の持っている仕事の責任を最期までちゃんと果たすかのみを思い、そのために利益というものを正しく得ていけばいいのだと思います。

これは理念を掲げている以上、まずはそれを実践することで大切な初心を失わず、いつも自分で責任を持って仕事や会社の役割を果たすという結果が本来の義と利の調和であろうとも思います。

子ども達のためにも、偏らないように気を付けていきたいと思います。

人生のテーマ

人生を学ぶというのは、自分と向き合うともいってもいい。

本来の自分の人生を本気で生きよう、生き方や働き方を本気で決めようと思えば思うほどに真剣に悩むことは増えていくのだと思います。本気で生きるからこそ、本気で悩むことになるのだと思います。悩みがないのは、本気で向き合おうとしないからというものもあります。もちろん、人生と向き合っているからこそ悩まないというのと、向き合わないから悩みがないのとではまったく生き方が異なることはすぐに分かります。

時の流れの中に生きている私たちだからこそ、本気で流れるのと、ただ流されているのとでは意味が違うのです。私は何歳になっても、どんな状況下にあっても、この自らの生き方というものをどれだけ真剣に向き合うかというのは人生のテーマそのものであるのだろうと思います。

論語に、「子日わく、憤せずんば啓せず、非せずんば発せず。一隅を挙げて、三隅を以て反らざれば、則ち復たせざるなり。」というものがあります。

ここから「啓発」という言葉が生まれました、あの橋本左内の啓発録の啓発も、同じくこの文字から取ったものです。意訳すれば、「師はこう仰いました、自噴してどうにかするぞと思い、何がなんでも自分が解明するのだと自発もしないようである人には何も教え導くことはできはしない。例えれば、四隅の一隅だけ教えたらあとの三隅は自分自身で掘り下げ学び掴み取るような人でなければ、結局は何一つものにしていくことなどできないからだ」と。

つまりは、全部教えてもらわないといけないような人では学ぶことはできていないし教えることなどそもそもできないのだということであろうとも思います。

今の時代は、学校でもそうですが全部教えてもらわないと意味を理解しない人が増えています。もちろん伝える側の問題もあるのだと思います、私も自分の言葉が本当に伝えるものになっているか真心で発しているか、相手を思いやったものになっているのかを省みると本当に未熟であることを恥じる事ばかりです。

しかし同時に、同じく師の言葉や誰かの意見に対してどれくらいその意味を自分で解決しようとしているかと思えば、まだまだ他人事のように聞いてしまっている自分もいるのです。

常にテーマを持って生きるには、問題意識や危機感を持って自分自身を育てていく必要があるように思います。それは、自己啓発していくということであり、この啓発とは何が何でも自分でどうにかするのだという潔く禊をし、自然の前に独りで立つような心構えが必要なのです。

すぐに誰かに頼ろうとするのは、まだまだ啓発が足りないともいえるのです。自分の中にそういう甘えを断つことができれば、それが皆で協力してチームでやっていくことになるのです。チームの中にそういう自己テーマを持たないで船旅に参加するというのはとても危険なことです。

子ども達が健やかで幸せな自己実現への道しるべになるように。それぞれの人生の大テーマや大ミッションなどと真摯に正対して人生のテーマを味わっていきたいと思います。

 

 

お手本

自然から離れて都会の人間が主になっている世界に住んでいると、自然から遠ざかる感覚がはっきりしてくる。

例えば、田舎の土や川、その他の山々にいれば獣の様子や植物の様子、またその周辺で自然と寄り添って生きている人々の息づかいを感じられ、そのことから春の気配や、気候など自然の流れや存在を身近に感じることができます。

しかし都会だと、そういうものはほとんどなく無機質に同じことを繰り返しながら周りの人を見ては日々の繰り返しの中であっという間に雑踏や喧騒にのまれてしまいます。

その自然と人間を行き来する中で、自然を感じながら人間の身近にいて、人間を感じながら自然の身近にいることはとてもこれから大切になっていくのだろうと思います。

私たちは錯覚しますが、何でも人間の都合よくいくことはないのです。
そしてもう一つ錯覚しているのは、何でも自然の通りでもないのです。

このバランスを如何に保ち、この世界に生きていくのかを思うとき、生きる力は一体何であるのかを思うのです。子ども達は、自由にこの世の中で生きていくのに何を先生にすればいいかをすべて知っているように私は思うのです。

例えば、親からは絶対的な愛を感じるように、自然からは絶対的な慈しみを感じます。
そしてまた親からは寛容ということを学び、自然からは受容というものを学びます。

常に私たちは、何をお手本にしているのかははっきりしているのです。

それを知識豊富な文明人は、さも科学的に証明されているかのようなねつ造された原理を真理に挿げ替えて本質でいることができないようにし、子ども達の本来の生きる力を奪っているようにも感じるのです。

子どもを自然にさせておくとは、決して放任することではありません。
子どもは自然に育つのです。

その自然と一体になっている人間が、正しく子ども達を見守る環境を用意してあげることができるかはこの先の子ども達の世界を譲っていくことになるのです。

今は私も都市化された中で、様々なものを学びながらかんながらといった自然を観ています。
今年も、自然に習い真心の種を蒔いていきたいと思います。

 

願を立てる

仁義礼智というものがあり、これを二宮尊徳は家を建てることで例えている。

「それ仁義礼智を家に譬ふれば、仁は棟(むなぎ)、義は梁(はり)也。礼は柱也、智は土台也。されば家の講釈をするには、棟、梁、柱、土台と云うもよし。家を作るには、先ず土台を据え柱を立て梁を組んで棟を上るが如く、講釈のみ為すには、仁義礼智と云うべし。之を行ふには、智礼義仁と次第して、先ず智を磨き礼を行ひ義を蹈み仁に進むべし。故に大学には、智を致すを初歩と為り」

これは仕事中居眠りをしてしまったりする他人に対して、まず願を立てることを説き、そのあとにどうすればそういう愚かなことをしなくてもすむのか、その方法について語ったものです。

意訳すれば、仁義礼智の順番でそれを身に着けるのではなく実際は智礼義仁の順番でそういう愚かなことをしなくなるのだと説いています。

家を建てるのを自分が自立することとかけています、その上でまず土台とは智慧を磨くこと、仕事で言えば細かいけれど必要な能力を身に着けること。書類作成から、確認、報連相、企画書、仕事のやり方などがそれになります。その次には、礼といいマナーや挨拶を含め、TPO含め、その口調や態度、そういうものを身に着けます。次には、義という理念や理想を実現するために正しいことがやれるよう本質を見抜く力などを身に着け、最後に思いやりや真心で日々を慎みながら実践していくということをやるといいといいます。

これは私はとても大切なことだと思います。

如何に、真心や大義を教えようとしてもその土台である智という仕事のやり方を身に着けていない人にいくらいってもすぐに愚かな失敗をして結果的には身に着けようとしなくなってしまいます。または、礼儀やマナーがなっていなければいくら真心や大義を語っていてもとても残念な姿をみせることで周囲を失望させてしまいます。

まず仕事の仕方ややり方ということがプロフェッショナルになってもいないのに、真心や大義などを教えてもそれを十分に理解することができないでいるのです。これは別に比較対象で言っている意味ではなく、そういう仁義礼智が丸ごと備わっていることが大切なのだということを言っているのだと思います。

すぐに人は、真心さえやっていればと仕事の仕方を磨くのを怠る人がいます。または大義さえあればとマナーに疎いひとがいます、もしくは仕事もマナーもある程度理解があるのに、心をこめることのない作業ばかりになっている人もいます。

このどれかが具わっていないから、愚かなことが起きてしまうとも言えるのです。まず自分を磨くということがどういうことかということを二宮尊徳は説いていて、そしてその手順としてはどこからやればいいかということを諭してくれています。

本質から考えれば、欲を立てるのではなく願を立てるのだからこそ上記に気づけるのであろうと思います。願を立てるとは、今の時代では目標を立てることなのかもしれません。まだまだ学び直していこうと思います。

偽楽と真楽

楽には二つの理解があると私は思う。

例えば、一つは安逸に安楽に目先の娯楽といった一瞬の快楽など、そういう欲にかられたものを「頭で考えている楽」であるとし、もう一つは、安住、安心といった全体を思いやり素直になっているとき心が命を全うして学び人生の充実さを味わっているような「心で感じている楽」であるとした。

先述した楽とは、如何に心を使わないでその楽がすぐに手に入るのかを考える事で必死になり努力した風の自分に酔っているだけで結局は何もしていないことが多く、単に一番やらないといけないことから怠けることばかりを考えて偽楽に負けてしまっている場合がある。

しかし、後述した楽では如何に頭で考えずに真心を使って行動するかを実践し、日々に気づき精進することで丹誠籠めた日常から自律・自戒しつつ人生の妙味を味わっているのだから楽に勝っている真楽ということになる。

偽楽と真楽ではないけれど、偽楽はすぐに消えてしまうような目先の一瞬の快楽に身をいつもおくのだからいつまでも身辺から不安が消えず情緒不安定になるのであろうと思います。しかし真楽は本心から自分が本来の天から命じられた特性を活かしているのだからどんな境遇や状況にあっても心は融通無碍に自由に安心しているのであろうと思います。

この身体を目先の安逸な日常に置いてしまうことは偽楽を選択したことでありそれでは学を楽しむことなどできないのであろうと思います。それとは異なり、この身体を丸ごと真心で日常に置くときこそ真楽を選択し学は自然に楽しみに変わっていくのであろうとも思います。

単に知識を得るようなものをいくら積んでも、心は安んじることはないのは平常心がどうなっているかを自問自答すれば理解していくことができます。

一つ一つの体験の意味を深く掴み取りその気づきを積み上げていくことではじめて心は安住の場で全てを受容することができ、竟には穏やかにいることができるのだろうと思います。

自らの立ち位置が楽に克って楽に住むではないですが同じ楽でもどこに住むのかで人生の道程は大きく変わっていくのだと思います。

子ども達の道のためにも、人生を、日々の出来事を、そして心の実践を楽しみたいと思います。

学問の本懐

日々の自修自謙は難しく、どうしても目先の問題に近視眼的になり右往左往してしまうものであろうとも思います。

特に理想を高く掲げて歩んでいても、その日々の小さな実践を怠るというのは単に目的を達したいだけで学問をしているわけではないと思えるからです。

学問というのは、本来は机上のもので読み書きするのではなく実体験から気づいたことを学び自らそれを徳化していくことのように思います。まず自ら日々の思いやりの実践を大切に、何事も手を抜かず丹誠を籠めて徳を積んでいくことのように思えます。

しかし実際はどうかといえば、外圧や刷り込み、世間の評価や自利の欲に押し込まれ本来の自分の実践が軽くなってしまうことがあったりするのです。それでも自分を正せるということが本来の自己管理であろうとも思います。

世間の波風がやや強いだけで遣ると決めたことをしないということは、最初から自分が決めたことにしないということになるのです。自分が決めたのだからを貫くというのは、誰のせいにもしないということでもあります。そしてそれこそが、論語にあるような学問を好む人であろうとも思います。

論語にこういうものがあります。

「君子は食飽くことを求るなく、居安きを求るなく、事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す。学を好むというべきのみ」『論語』学而篇

学を好む人ということは、自らの頭で考えて安楽に流されるようなことはしないで日々、自らを正しく修め実践を続けている人という意味であろうとも思います。

少しリズムを崩してもそういうことができなくなることを思えば、如何に日々のことに正直に誠心誠意で実践を続けていかなければならないかと反省します。またさらに、続けて孔子は言います。

それだけ真面目に実践をやっている人でも単に学問が好きなだけの人ですと、それでは学問をまだ楽しむ人ではないとも。これには、学問の本質とは何かを改めて気づかされるのです。一生懸命に一心に生き切り体験を学び楽しむことができれば本懐を遂げているともいえるのがこの命の姿ではないでしょうか。

学問を楽しむ人とは、それ自体を楽しめるくらいの人であるということだと思います。
今の時代は、特に流されやすくまた学問が誤解されている時代です。

維新の時のような大義が必要で、その大義を学び楽しむくらいでないとと感じます。
奇妙な狂った人物と言われるくらいが いいのかもしれません。

まだまだ自分のことを明瞭にして行動を敏にしていきたいと思います。

 

命と記憶と記録

出逢いというのはたくさんの記憶と記録を持つことだといってもいい。誰かと出逢い、昔を思い出し、その記憶が如何に美しくあったかを再び記録するのだろうと私は思う。

人の今は、膨大な記憶の彼方から訪れる時空の記録によって存在するようにも思う。
その一つひとつは、色あせることもなく私たちの心に永遠に刻まれているのだろうと思います。

自分の心は、その記憶と記録を辿ることで繋がりの中のご縁を得ているように思います。それはなぜ自分がそうしたいのか、なぜ自分がこう思うのか、その時々の邂逅による心の感動はいつも命の記憶と記録の中にあるのだと覚えます。

この自分の本心というような潜在意識というものは、それが表に出ているのなら自らが心から望んでいるものや過去に味わったその命の記憶や記録を傍受できるのだと思います。それはすべて人と人、人とモノ、人と環境との出逢いという邂逅によって得られ、それを生死を超えていつまでも忘れないために永遠に生死を繰り返して甦るようにも感じます。

頭で考えていることでは思い出せないことも、その心はそのシーンに出逢うことで回帰することができるのはとても素晴らしいことだと思います。私自身も子どもの頃から今まで生きてきて心が揺さぶられた感動の体験にはいつまでも出逢いを繰り返すことで回帰していけるのです。それを確かめるように様々なシーンが心に焼き付けられるのであろうとも思います。

私の仮説では、その人の命が何を忘れたくないのかを生まれる前からその人の命の役割として担ってきているようにも思います。つまり天から与えられた命とは、命の記憶と記録であろうとも感じています。 そう定義してみたら、この先の人生はまたどのようなことを思い出すのだろうか、そして何を忘れたくないのだろうかと命の繋がりの一期一会の邂逅にワクワクドキドキしてくるものです。

そう観照してみると命は一見、その人には一度しかないようですが、実際はその命は人を換えて永遠に円環し続いているとも感じるのです。

子ども達のためにも一瞬一瞬の邂逅を命の記憶と記録として大切に繋いでいこうと思います。出逢いを大切にするのはこの宇宙でその命の記憶と記録にアクセスすることだと思います。

まだまだ自分の本心の探究を感動とともに味わっていきたいと思います。