偽楽と真楽

楽には二つの理解があると私は思う。

例えば、一つは安逸に安楽に目先の娯楽といった一瞬の快楽など、そういう欲にかられたものを「頭で考えている楽」であるとし、もう一つは、安住、安心といった全体を思いやり素直になっているとき心が命を全うして学び人生の充実さを味わっているような「心で感じている楽」であるとした。

先述した楽とは、如何に心を使わないでその楽がすぐに手に入るのかを考える事で必死になり努力した風の自分に酔っているだけで結局は何もしていないことが多く、単に一番やらないといけないことから怠けることばかりを考えて偽楽に負けてしまっている場合がある。

しかし、後述した楽では如何に頭で考えずに真心を使って行動するかを実践し、日々に気づき精進することで丹誠籠めた日常から自律・自戒しつつ人生の妙味を味わっているのだから楽に勝っている真楽ということになる。

偽楽と真楽ではないけれど、偽楽はすぐに消えてしまうような目先の一瞬の快楽に身をいつもおくのだからいつまでも身辺から不安が消えず情緒不安定になるのであろうと思います。しかし真楽は本心から自分が本来の天から命じられた特性を活かしているのだからどんな境遇や状況にあっても心は融通無碍に自由に安心しているのであろうと思います。

この身体を目先の安逸な日常に置いてしまうことは偽楽を選択したことでありそれでは学を楽しむことなどできないのであろうと思います。それとは異なり、この身体を丸ごと真心で日常に置くときこそ真楽を選択し学は自然に楽しみに変わっていくのであろうとも思います。

単に知識を得るようなものをいくら積んでも、心は安んじることはないのは平常心がどうなっているかを自問自答すれば理解していくことができます。

一つ一つの体験の意味を深く掴み取りその気づきを積み上げていくことではじめて心は安住の場で全てを受容することができ、竟には穏やかにいることができるのだろうと思います。

自らの立ち位置が楽に克って楽に住むではないですが同じ楽でもどこに住むのかで人生の道程は大きく変わっていくのだと思います。

子ども達の道のためにも、人生を、日々の出来事を、そして心の実践を楽しみたいと思います。