真の教え

毎年、萩にある松陰神社の松下村塾やその墓前に、その歳その年に起きたことから気づいたことを確認している。もうかなり前より、その志に共鳴してからなぜか自分でも不思議であるけれどずっと18年も続いているから何かあるのだろうと思っています。

私は本業が教育や保育に携り、私の理想としている教えが松下村塾にありました。

子どもの頃は、自分の体験したことばかりにすぐに感激し何度も何度も感激したことを思い出すとその時の思いで溢れていくという気持ちになっていました。しかし、それを体験してもいないのに机上の文章で学びだしてからは勉強が面白くなくなり、はみ出し者のようになってしまいました。

小さなころは野山を駆け、自然の中で起きる様々なことから学んでいました。そこでは不思議に怪我もあまりせず、また実体験からの怪我からも痛い思いもし、悔しい思いもしたけれど、実体験を積んでいくうちに好奇心はどんどん膨らみ、そのドキドキワクワク感がリードしていく中で自分の生き方を学んでいました。

真の教えとはいったいなんでしょうか?

私には尊敬する先生たちが沢山います。
その人たちはよくよく観察すれば、すべて実践家の方々です。
偉い人が先生ではなく、正直に心で大切だなぁと思ったことをやっている人ともいいます。

その実践家が自らで体験したことを心で学ぶことが真の教えを自覚することではないか私は思っています。しかし今の世間の教育のおかしなところは、体験してもいないのにさも体験したかのように文面で教えたり、また実践してもいないのに誰かに理屈だけを先に伝えたりするような風潮があります。

先日、子ども達と一緒に北海道にいるある夢を実現している方を訪ねました。

いくら予習しても、いくらその人のビデオを見せても、やっぱりその人に会ってその人の実践を一緒に体験しなければ本当の意味で伝授され学ぶことはできないのです。

実践を通して学んでいくのは、実践でしか学べないからなのです。
なぜなら、真の教えとは体験と体験の間に存在するからだと私は思います。

頭で分かった気になるというのは、そういう体験したことを聴いていないからなのです。
実体験はやっぱり自分の目と自分の耳、自分の心でしか感じることはできないのです。

吉田松陰の生き方は、常に体験したことを伝えることで真の教えと定義していました。
志士たちはそれをすることで「学ぶ事の真の歓びと意義」を共感したのだと私は感じます。
なぜなら私もそうだからです。

留魂録にその種があります。

「  一、今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ
蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス秋冬ニ至レハ
人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歓声アリ
未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ
吾行年三十一
事成ルコトナクシテ死シテ禾稼ノ未タ秀テス実ラサルニ似タルハ惜シムヘキニ似タリ
然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ是亦秀実ノ時ナリ何ソ必シモ哀マン
何トナレハ人事ハ定リナシ禾稼ノ必ス四時ヲ経ル如キニ非ス
十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ
十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ
百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ
斉シク命ニ達セストス義卿三十四時已備亦秀亦実其秕タルト其粟タルト吾カ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ
乃チ後来ノ種子未タ絶エス自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ
同志其是ヲ考思セヨ」

これだけの実体験をも私たちに遺していこうとするのは、循環の種です。今年は、この循環や種を極めつくしていくことから学び直し、子ども達のためにも、真の教えが伝授伝法していけるよう精進したいと思います。