ゼロベース

人は話を素直に聴くことができれば物事の実相が観えるものです。しかし素直に聴けないのはそこに自分の先入観や価値観、知識が邪魔をして聴く前に決めつけてしまったり、もしくは自分が知っているところまでで聴くのをやめてしまうことで素直さが出てこなくなるように思います。

この素直さというのは、物事をゼロベースで感じることができるということです。ゼロベースになるというのは、例えば自然を観るとき自然のままで観る人と知識で自然を分別する人がいます。前者はゼロベースですが、後者はもうゼロではありません。このゼロで観るというのは、素直になるうえで私は何よりも大切だと思うのです。

人は自分の生きてきた経験で、きっとこうだろうと判別します。そうやって決めつけて思い込んだ方が相手を知らずに相手を知った気になれるので楽なのです。多くの人たちと人間関係をつくるうえでいちいち一人ひとりに共感して心を通じ合わせていくよりも、安易に知った気になって分別していく方が楽だということもあるのでしょう。

しかし実際は、人間という複雑なものをそんな簡単に判別し分別できるようなものはなく御互いに関わり合い心を通じ合わせて対話をしていくことでようやくその人のことが直観できるのです。これらの対人関係というのは、知識や頭でできるものではなく本来はゼロベースで御互いに素直に聴き合うことで御互いのことを深く理解していくことがあってはじめて人間関係が築かれていくように思います。

きっとこうだろうといった先入観がある故に、思い込まれて苦しんでいる人、思い込まされる人、思い違いをしている人、世の中にはそんなことばかりです。本心や本音が話せる社會というのは、そういう思い込みや知識で分別される社會ではなく御互いにゼロベースで関わり合える温かい社會です。

そのためには、自分が思い込まないという工夫が必要です。それが素直に聴いてみることであり、ゼロベースで観ることのように思います。分別知で物事を分かることはゼロベースで観ることと関係がありません。まずゼロベースで感覚を使い、その上で知識を活かすのはいいのですが感覚を使わずに決めつけてしまったら本質が遠ざかってしまうばかりです。

まず御互いに素直になるには、素直になる風土や素直になる環境が必要です。それは言い換えれば、御互いに分からないことを何でも訊き合える関係を築くことのように思います。常に御互いがゼロベースでいる工夫をしていくことで、刷り込みが入りにくくなっていきます。私たちの仕事はその先入観を取り除くことがとても大切な要素になっています。

引き続き子どもが安心して様々なことを体験して学びを活かしていけるよう、子どものゼロベースの姿から学び直し、子どもの素直に聴く力、そのゼロベースの引き出しをより環境を育て見守っていきたいと思います。

偏りは持ち味

私たちの会社で取り扱っている商品にミマモリングプラスというものがあります。これは気になる子と呼ばれる一般的には軽度発達障害という偏った子どもをどのように見守るかということで開発されたものです。

そもそも軽度発達障害というのは、アスペルガー症候群や高機能自閉症、ADHDなどアメリカで名づけられた障碍の一つです。アメリカではラーニング・ディスアビリティ(learning disability通称LD)と呼び、日本ではそれを学習障害(LD)といいます。このディスアビリティという言葉は海をわたって日本に来ると障害になります。海外では個性というのは当たりに尊重していますが、どこか私たち多くの日本人の一般常識の中には個性が受け容れてられておらず何か悪いことのような響きでイメージする人も多く、障害というとよくないから隠そうとさえします。

本来、私としてはディスアビリティとは単なる「偏り」のことでそれは一つの個性という認識です。障害は個性ですと言い直してみてもピンと来ていない人が多い様に思います。みんなと違うことは駄目で間違っているという刷り込みや思い込みが邪魔しているのかもしれません。それに障害は「害」の字が入っているからと今では障「碍」にしていますが言葉の響きが「ショウガイ」ではなく、個性の偏りとしそれは一つのその人の大切な「持ち味」と思っている人は少ないように思います。

皆と違うことがダメだという刷り込みで、みんな誰しもが自分が普通であるということを気にします。言い換えれば自分はフツウの人であるとし周りと同じであることをアピールします。先日もある人から「自分はもっともフツウであって周りが変だ」と言われましたが人間は何も偏りがない方がよっぽど変ですからそもそもおかしなことを言っていることに気づきます。この偏りというのは個性です。個性を排除するような一斉画一の金太郎飴のような育て方をされてきたから偏りもまた良くないことだと思い込んでいるのかもしれません。

昨日の遠山啓氏の言葉で、

「偏るのがなぜ悪いのでしょう。過去において「何か」をやった人はたいてい何かひとつの事で優れて偏った人です」

があります。そもそも偏るというのは、その力でお役に立ちたいと自分が選んで来たチカラのことです。人は赤ちゃんのときから、無限の力を持っています。それを周囲を見ながら何を削ろうか、何を残しておこうかと選択していきます。そして残してきた力を将来社會に出た時に役に立てようとします。それは社會の中で必要とされるために役割を持とうとするのが人の幸せだからです。

偏りがあるというのは、それだけ社会で御役に立ちたいと信じてその力を遺した人です。そういう力を発揮してもらってこそ人類の発展があり、そういうチカラによって私たちは進化成長してきたとも言えます。皆が個性を認めて持ち味だと認識すれば誰も偏ることは怖いことや悪いことではないと思えるようになります。

今のようにみんな同じものにしようというのはどこか大量生産大量消費の思想に似ている気がしてなりません。序列主義に置いても同じく、便利な機械のように同じロボットを増やしておいて誰かの利益のために役に立たせようとする便利主義も見え隠れします。

しかし実際に私たちの先祖や人類はどのように生きてきたかの歴史をみればすぐに持ち味を組み合わせ協力・協働してきたのが分かります。それぞれが異なる個性があるからこそ、それぞれにその時々にお役に立つことが出来る。ある人はそれを「皆働社會」とも呼びました、一つのムダもない社會のことです。ある特定の人間の基準でこれは役に立つや立たないという分別や差別で人を裁く社会ではなく、誰一人役に立たない人はいないという社會が本来は存在しているのです。後者の社会は、産まれてきているだけで幸福な自然の世界です。

偏りを悪いと思っている刷り込みは、保育の書類や様々な仕組みの中に随所に入り込んでいます。その刷り込みを一つ一つ取り払い、本来の姿に戻すことが出来るならその組織や社會も肯定に満ち、その場においてみんなが持ち味を活かす最幸の現場が出てきます。

引き続き、みんなが倖せになる職場や現場、子ども達が安心して愉しく豊かに過ごせる場をつくるため一つでも多くの園にミマモリングプラスの仕組みを広げていきたいと思います。

 

まちがった教育~刷り込みからの脱却~

熊本県下益城郡出身の日本の数学者に遠山啓氏がいます。この遠山啓氏の競争原理を超えるという理念を支柱にできたのが埼玉にある自由の森学園です。ここの子ども達の活動を見ていると随所にその理念が浸透し反映されている部分を知り、その根底には私にも同じ気持ちがあるのを実感します。

そもそも日本の教育は、だいぶ昔から変わっておらず時代の変化があっていてもまるでどこふく風のように「学校」という形にこだわっています。外から学校に入り不思議に思うのは学び方が知識偏重型の詰め込み教育スタイルをいつまでも維持していることです。

世界をはじめ、IT化が進み情報などはもう学校以外でほとんど入手する時代です。何のために学校にいくのかを再定義しなければそもそも子ども達も学校にいく意味を感じなくなるのは自明の理です。特に本質的であればあるほどに子どもたちは直感で学校学ぶことの価値に「?」を持つことだと思います。

この遠山啓氏は、だいぶ前にこのことを言及している言葉があります。

「学校教育そのものが、いま、絶対視されていて、唯一の教育機関みたいになっているけれども、客観的にみても、情報社会になってきて、学校以外からえられる情報がかくだんに多くなっている。だから学校の相対的な価値はもっとさがるべきではないでしょうか。」

私も同感で、学校だけが教育する場所ではなく人は学校以外のところで学ぶために学校があると私は思います。あくまで学校は、「場」を超えないのであってその場をどう活かすかは子どもたち自身だからです。世界では様々な新しい学校が産まれています、以前見学したシンガポールの学校やインドネシアのグリーンスクールなどもそうです。何のために学ぶのかという原点をはっきりしている学校が、新しい場を創造していくのです。

遠山氏はこう言います。

「創造ということは、がんらい、なみたいていのことではない。そのためには絶対に必要な条件がある。それは自由ということである。」(子どもの側にたつ)より

ここでの自由というものは、今の時代では多様性と言い換えてもいいかもしれません。つまり多様性を持つものだけが自由を手にしますから、自由を手にするためにも自分自身が主体的に世界を知り、歴史を知り、自然を学び、原点を掴み、いのちを生き切ることを遣り切る必要があるのです。自由というのは自然あるがまま(由)の合体した言葉です。如何に自然であるか、自然の中には無があり無の中には無限の創造性があります。そういうものを引き出すためにも自然一体の境地を学問によって学んでいく、その場を提供するのが学校本来の役割ではないかと私は思います。

それを壊すのにもっとも大きな影響を与えるのは「刷り込み」です。私たちは競争原理や序列主義の中で、差別され様々な自由を奪われてきたとも言えます。本来、いのちに序列や差別はありませんがそれをされることで深く心が傷ついてきたのです。すぐに他人のことを馬鹿にしたり出し抜いたり、それを見ているととても心が痛みます。かつての教育によって傷んだ気持ちをどう開放するか、私たちの取り組んでいる本業もその辺が深く関わっています。

そして遠山氏はこう言います。

「序列主義で骨がらみとなった教師は、いきづまると、いわゆる能力別指導に救いを求める。つまり、それは劣等生が優等生の邪魔をする、という考えになってくる」

能力主義というのは、序列主義から発生してくるものです。人を分別し、知識の有無と正確さで優劣をつける。しかしこれでは上下の縦の関係が強くなるばかりでいよいよ横同士の関係のない堅苦しい集団になります。今の時代はかつての上からの一方的な価値観では乗り越えられない時代です。多様な価値観が存在する社會があるのですから、そこは御互いに協力し合って衆知を集めて乗り越える時代です。しかしそれを超える方法も遠山氏は示しています。

「いまの教育というのは、テストの点数で子どもを優劣の順に序列化して一列縦隊になってしまっている。その序列の向きを90度変えれば、一列横隊になる」

如何に発想を転換するか、そこに自由の森の子ども達の活動の妙味があるように思います。子ども達の姿をみていたら、私が今、取り組んでいる子ども第一義の理念と同一であることに気づきます。如何に協働し、如何に自由であるか、その中には個々の尊重と持ち味を活かす仲間づくりをしていく場、衆智の活かし合いを重んじている感じがします。個々の自立は、仲間があってはじめて成り立つものですからその仲間づくりをどう体験するか、そこに自由を学ぶ意味があるように私は思います。

最後に、この遠山氏のこの言葉に私はとても共感します。

「おとなにはあまり期待がかけられない。まちがった教育でだめにされてしまっているからだ。しかし子どもにはまだ希望がつなげる。そのためには、いまのまちがった教育を変えて行かなければならない」

私はこの「まちがった教育」のことを「刷り込み」からの脱却であると定義しています。今まで教えられてきたことを一度疑ってみる、今まで常識だと思っていたことをいちど見直してみる、そういう中に刷り込みの脱却があります。

教育がまちがうというのは、本来の学びの価値が失われていくことです。自分で考えて自分で学ぶ、ゼロベースで考えることが出来る人こそが本物の教育者であると私は思います。

引き続き、御縁をいただける学びをすべて子どもたちのために活かし切っていけるよう精進して全てものから学びきっていきたいと思います。

自然美と恩顧知新

民藝という言葉を育て民藝運動の父と呼ばれた人物に柳宗悦がいます。先祖たちの暮らしの中に美を発見しそれを民藝という表現を通して人々に暮らしの美しさや豊かさを再認識させたとも言えます。

「工芸の美は健康の美である」、「用と美が結ばれるものが工芸である」、「器に見られる美は無心の美である」、「工芸の美は伝統の美である」という理論も立て、暮らしの美というものが何かを多方面から表現されていました。

柳宗悦は「正常の美」という言葉を使います。そこでは「この世にどんな美があろうとも、結局「正常の美」が最後の美であることを知らねばなりません」といいます。この正常の美とは何か、私の解釈では自然美のことです。自然美とは、真善美の美のことで本質本物そのものということです。

柳宗悦はこう言います。

「『正常』というと何か平凡なことのように取られるかもしれませんが、実はこれより深く高い境地はないのであります。ありがたいことには、健康な性質の品物は、自ずから単純な形を取ることであります」

そして「単純を離れて正しき美はない」とも言います。これは横文字にすると、シンプルイズベストであるということです。単純というものは、余計なものがない美のことです。今の時代のデザインはどこか余計なものをわざわざ装飾してさも新しく見せようとします。しかし私はそういうものはどこか暮らしから外れている感覚があり、できる限り余計なことをしない中に本物の美があるように思います。そしてそういう美を表現できる人はみんな謙虚であり素直な人がほとんどです。

柳宗悦はこうも言います。

「自然さとか謙虚とか質素とか単純とかいうことが、美を育てる根本的な要件であるということです。」

真善美どれにいたるのも真理に入る道の入口ですが、その大前提として以上の根本的な要素や要件を満たしていなければたどり着けることはない様に思います。実際は、徳を如何に高め修めるかで用の美もまた顕現するということでしょう。

自然美というものは、何もしない美のことです。自然が自然のままに美しい様に、その美しいものを美しいままに用いる感性のことです。自然美を離れ、人工的な美しさの中に暮らしはありません。その暮らしをどのように取り戻していくかは、如何に自然と一緒一体になって謙虚に生き方を観直していくかということによります。今の都会では気づきにくいことでしょうが、敢えて都会でも生き方は継続できることを私たちは子ども達のためにも証明していきたいと思います。

最後に、柳宗悦にこうあります。

「近代風な大都市から遠く離れた地方に、日本独特なものが多く残っているのを見出します。ある人はそういうものは時代に後れたもので、単に昔の名残に過ぎなく、未来の日本を切り開いてゆくには役に立たないと考えるかも知れません。しかしそれらのものは皆それぞれに伝統を有つものでありますから、もしそれらのものを失ったら、日本は日本の特色を持たなくなるでありましょう。」

日本の特色がなくなるというのは、日本人がいなくなるということです。この言葉は今の時代を生きる私たちにとって何よりも大切な訓戒です。未来の日本の子ども達のためにも以上のことを肝に命じ、先祖たちの真心を忘れないように恩顧知新を続けていきたいと思います。

道と家と暮らし

家のことを深めていると、家には暮らしがあってはじめて家であることが分かります。以前、ホームレスとハウスレスということをブログで書いたことがあったと思います。現在は都会で野宿していても愉しそうに集まって賑やかに生活している人もいれば、高級マンションに住んでいても孤独に一人ぼっちで仲間がいない人もいます。家がないはホームレスの人ではなくハウスレスであるということ、ホームというのは単なる建築物ではなくそこには温もりのある家族や仲間があって家があるのです。

そしてこの家というものは、自分が暮らしてはじめて家になります。一家の一員としてどのように生活をするのか、家族や仲間を大切に思いやり温かい関係を築いていく中で家は次第に住み心地がよくなり居心地が善い安心基地になっていきます。それをホームだと思っている人は多いと思います。

スイス生まれの建築家ル・コルビュジェの言葉に「家は生活の宝箱でなくてはならない」という言葉があります。言い換えるのなら、生活が宝だから家が輝くとも言えます。つまりそこでの美しい楽しい味わい深い一家の家族や仲間との暮らしが宝と感じられることこそが家の定義であるのです。その宝を日々に発見していく場が家ですから、その家の雰囲気や風格、家風といってもいいかもしれませんがそれが暮らしを彩っていくのです。

一家があれば野宿であってもそれは単なるハウスレスなだけで其処にホームはあります。いくら家が豪華絢爛で豪邸であったとしてもそこに家族がなければ単なるそれは建築物です。家は家族や仲間があってこそ家になりますから、家を与えられたことが嬉しいのではなく家に一緒に暮らす仲間があることが何よりも嬉しく有り難いのです。

古民家の再生というものは、建物の再生と暮らしの再生があります。私がやりたいのは建物の再生ではなく、暮らしの再生なのです。暮らしこそが仕合わせで、暮らしの中の美しさも豊かさもまた歓びもある。そういうものを子ども達に伝承していくために家が必要なのです。一家の伝承をするにおいて当主として何をなすべきか、それを辿っていると自ずから自分の役割と環境に感謝の気持ちが湧いてきます。古民家再生をするという意味を正しく伝承していきたいと切に思うばかりです。

最後に、もう一人、日本を代表する建築家、安藤忠雄さんの言葉です。

「環境とは、与え、与えられるものではない、育ち、育てるものである。」

これは家人としての心得だと私は思います。家を建てる人だからこそ家の本質を語っている言葉です。つまり環境は自ら創造するものであって、与えられたからそれでいいわけではない。それは自ずから育つことと自らが感化して育てていくことなのです。自らが主体的に暮らしてこそ家ができ、その家を大切に守るからこそ暮らしは継承されていくのです。そしてこれが家なのです。

世阿弥が、「家、家にあらず。継ぐをもて家とす。人、人にあらず。知るをもって人とす。」と言いました。つまり「道の家とは、血筋で繋がるものではない、その道を伝えてこそ家といえるものである。その家に生まれただけでは、道を継ぐ者とはいえない。道を知ってこそ、その道を継ぐ資格がある人ということである。」という意味です。

神家本家のカグヤ道は、道を実践することで「暮らす家」にすることなのです。今の時代に、先人たちの生き方や先祖たちが大切に譲っていただいたことを遺し譲ることこそが子ども達のためにその真心を勿体なくしていくことです。引き続き、種徳を立て、眼花の花にならないように子ども第一義の理念を優先していきたいと思います。

 

 

 

 

当主と家と暮らし

昔の古民家との対話について書きましたが、当主ということの意味やなぜ一家があるのかについても同時に深まってきています。そもそもその代の当主、特に初代当主ということが何を意味するか、それは家との対話を通してはじめて感じるものです。

家にはその家の持つ家風というものがあります。それは当主が何を大切にしてきたか、当主がどんな初心を持ったか、古民家の一つ一つをとって対話し深めていてもその家の主(あるじ)がどのような生き方をして何を大切にしてきたか、その生き様があちこちに遺っています。家との対話はその家の主との対話でもあります。その主がどのような人物であったか、その主が何を実践してきたか、それが家でもあります。それを代々守ることが当主の役割であり、代を重ねれば重ねるほどにその家の歴史が積み重ねられていきます。

そしてその当主と同じくする家人は、その当主の思想や生き様、生き方を通して自分たちも一家の一員としてそれぞれに大切に守るものを持ったり、それぞれに理念を優先してその家の歴史を清め、家格を盛り上げてきたとも言えます。その家の持つ風格や品格というものはその家に住む人たちが大切にしてきた思いの集積でもあるのです。そしてよく言われる「一家の恥」というのは、その当主や家人が代々大切にしてきた生き方や生き様、その連綿と続いてきた家人に対して恥ずかしいことをしたということです。それは道義に反した、言い換えれば「暮らしを壊した」ということです。老舗がなぜ老舗として何百年も続くのか、そこには暮らしが密接に関わっているのです。

当然その家に住ませていただけるというのは、感謝のままにその家の生き方を実践するということです。それをもって家の人になり、その家に住まうというのはその家を通して自分の人生を彩る場を得たとも言えます。そこで暮らす人々のことを家族といい、その家族の道が続いてきたことを家系とも言います。

一家の一員であるというのは、常にその家の主としてどう暮らすのかを示すことです。暮らし方が家の生き方ですから、日々の生活においてどのように暮らしたかを実践することが家人としての最大の務めでもあります。

カグヤではもっとも日本人らしい生き方、大和魂を実践しながら子ども達のために温故知新した新しい生き方と働き方を一致させようと試行錯誤しています。そのために一家にし、一家の主として当主となりました。しかしこの当主の重みは、ここで古民家を再生する中ではじめて深く感じ入っています。

「暮らし亡くして家はなく、家を亡くして暮らしもない。」そしてこの暮らしと家がないのに主があるわけがありません。当主というものはいかなる暮らしをする家を立てるか、その一点に全てが集中しその思想を宿していくのが最大の使命です。

家との対話は、暮らし方との対話、新宿でやっているこのカグヤの暮らしが何を意味しているか、改めて今回の機縁を通して見直していきたいと思います。

 

歴史を学ぶとは何か

昨日、福岡県八女市で有名な町家再生の設計士の方とお会いしてお話をお伺いするご縁を頂きました。その方は、もうすでに八十以上の古民家の再生を手がけており町並み保存や文化財の調査、人財育成等々にいたるまでありとあらゆる活動を志で取り組まれている方です。

古民家の修景ではなく修理をすることを本筋とし、如何に後世に「本物を遺すか」ということを重んじられていました。現在は、ほとんどが予算の関係から町の景観だけをよくするために外見の見た目はそれ風にしますが本質的に古いものを修理修繕するわけではありません。そうではなく、丸ごと直すという観点で人、場、ものにいたるまでに全てに総合的に修理を手掛けておられました。

昨日は福岡の聴福庵を見ていただき、傾きをどのように修理すればいいかだけではなくまたこの古民家がかつてどのように使われていたか、そしてどのような修理を今まで行ってきたか、その歴史について色々と教えていただきました。

お話の中でもっとも印象に残ったのは、阪神淡路震災の御話でした。実際に文化財や古民家など震災後に壊れてしまい実際に調査をしたそうです。すると9割が壊されいたそうです。その実態を調べると、古いものには価値がないと業者が新築を勧めて壊していったものがほとんどだったそうです。古いものの修理修繕は無理だからと、文化財や古民家への理解がない人たちがそれまで大切にされてきた歴史を考えずに安易に取り壊してなくなってしまったそうです。

その方の『これは古いものを単に捨てて新しいものにしたのではなく、それは歴史を捨てたのだということに気づいていない』という言葉がとても深く心に印象に残りました。

よくよく考えてみると、家が何百年も続くというのはそれまでの先祖たちの暮らしや生き方、生き様、そういうもの遺っているということです。家では柱の傷などもそうですが、かつて子ども達がせいくらべした傷や落書きの傷、その他大切されてきたさまざまなものが「思い出」として間に宿っています。そういう観点で見れば文化財とは何か、それは歴史の宝そのものなのです。

そういう歴史を安易に捨てるということは、思い出を安易に捨てるということです。本来人は何のためにこの世に生まれてきたか、それは思い出を残すためではないかと私は思います。生き様を遺すと言い換えてもいかもしれません。一生一度、一期一会にこの地上の楽園に生まれ出てきたいのちに神様が平等に与えてくださっているものは「思い出」をつくれるということです。

このことから洞察すると今の時代は決して新しいものばかりが価値があると人々が信じている時代というわけではなく、歴史を大切にしなくなった人々が増えている時代に入っているということです。歴史というのは、先祖との対話です。先祖の生き方との対話を歴史を通して学ぶのです。古民家を通してその方がじっくりと先祖と対話しているのをみて、私は魂が揺さぶられました。

私自身、もっと先祖たちを尊敬し先祖たちの偉業と真摯に対話ができるよう歴史と正対していこうと改めて決心する有り難い機会になりました。新しい御縁はすべて学び直し、生き直しの大切な時機、このまま古民家から色々と教えていただけることに感謝して自他一体の自己修理を進めていきたいと思います。

自然の学問~大局観~

現在、知識という便利なものを使ってから体験をすることよりも知識を持つことが価値があるかのような世の中になっています。大学をはじめ研究というものも本来は実践があっての研究であるのに、研究のために実践になっているのなら何の意味もありません。

本来は研究すること目的ではなく、現場が困っているから具体的な解決方法を研究する必要があるのです。そして本来の研究とは、実践ののちの研究のことであり体験したことが何だったか、そこから何に気づき直していけばいいかの改善の集積なのです。

そしてこの改善には、知識ではなく「感覚」を用います。感覚というものを身に着けるには失敗が要ります、失敗を通して様々なものを学び感覚を研ぎ澄ませていくのです。知識が多い人は失敗を過度に怖がります、それは知識は失敗では研ぎ澄ませず修正するだけだからです。習得するのなら、本来の学び方である失敗を通して感覚を身に着ける、古来の言い方では「コツを掴む」ことで学習は成立していきます。

民藝という言葉を起こした思想家に、柳宗悦がいます。その遺した有名な言葉に『見て知りそ 知りてな見そ』があります。これは「なんでも見てから知れ、知ってから見るんじゃない。」ということです。

言い換えれば知識から入ってものを知ってはならぬ、分かった気になってはならぬ、まずは見てから、やってみてからのちに知ればいいし分かればいいと言うことでしょう。

知識を持ったからといってその本質が理解できるわけではありません、具体的な実践を通して本質を知り本物になります。つまり体験の質量こそが、その人の感覚を研ぎ澄まし本来のその人の持つ全身全霊の力を引き出していくということなのです。

現在はすぐに何かをやろうとすると知識から入るものです。私の場合は知識がないけれど好奇心があるからすぐにそのものに触れます。自然農をすればすぐに虫刺されや怪我をします、古民家を再生しようとすればすぐに弱いものを毀してしまいます。痛い思いをして失敗ばかりをしては、なぜこうなったのだろうと反省内省してそこからもう一度すぐにやり直してみます。

その繰り返しを何度も何度もしているうちに、自分のカラダの中にある「感覚」が呼応してきます。そうしているうちに身に着けたのは「大局観」です。つまり事物の大局を理解するチカラ、そのものに触れるチカラ、邂逅の力のことです。

人は触れていくことで次第にそのものが”自分に馴染んで”きます。この馴染んでくるというのは場数とフィードバックが欠かせません。そうやって何度も失敗して経験して学び直していくことが成長することであり、成功よりも大切な学問の醍醐味、そして連綿と続いてから太古からの道と大義が感じられるものです。

どんなことも「見て知りそ、知りてな見そ」で、接していく姿勢こそが自然の学問ということでしょう。引き続き、挑戦を愉しみ与えていただいている失敗に感謝して歩んでいきたいと思います。

 

自然感覚を磨く

古民家の掃除をする中で、現代建築のものとかつての古いものの手入れの仕方に大きな違いがあることに色々と気づきます。今まで使ったことのない掃除の技術ですが、実際は私の方が馴染んでいないだけでかつての日本人たちは掃除の技術も今とは異なっていることに気づきます。

例えば、古いものを扱う時、力の加減というものがあります。プラスチックやステンレスのように均一ではなく、昔のものは強いか弱いかは直接触れて扱ってみないとわかりません。それが一体何でできたものか、土でできたものか、鐵か銅か、もしくは木でできているものか、その作り手のプロセスを感じ取らなければならないのです。それは現代の画一された物とは異なりとても個性があり弱くそして強く造られています。この弱くて強いものという感覚は、触ってみてはじめてわかるものでありそれは現代の大量生産されている物とは完全に異なります。

また凹凸というものがあります。現代のフローリングには凹凸がありません。しかしかつての古い家には、壁から床、ありとあらゆるところに凹凸があります。それは掃除してみればわかるもので、平らなものとは異なり凹凸に触れることで掃除の感覚もまた変わってくるのです。

後は水の使い方というものがあります。掃除機やクイックルワイパーなどではできないところは拭き掃除ですが、ぞうきんをよくよく絞っておかなければかえって逆効果なところもあり、掃除する場所によっては様々な工夫が要ります。同じ木のものでも時には乾拭きしたり、時にははたいたり、時には陰干しなど、そのものによっては全く接し方が異なるのです。

こういう一つ一つの中に、暮らしの中の技術があります。それが「もったいない」生活とつながり、古い自然のものに触れるとき私たちの本能は磨かれていくのです。平らなものや新しいもの、均一の強度のものにばかり触れていると日々の感覚も失われていきます。今は感覚を使わなくても済むものばかり、多少の知識があればだれでも便利に安易に使えるものばかりが溢れています。しかしそれではますます自然に触れる機会が少なくなります。

自然に触れるというのは、たとえば私たちの会社ではお昼ご飯の際に電気を落として自然光で過ごしてみることや、室内に季節を室礼して四季のめぐりを味わうこと、そういう暮らし方、生き方を通して自然感覚を日々に磨き上げ、本来の自然の一部として謙虚に生きていることを忘れていないように自戒しているのです。

実践は大げさでもなく特殊でもない、日々の暮らしの中にある一つ一つの丁寧な所作と関わり方によって実践は積み上がっていきます。本来の日本人の生き方とは何か、引き続き深め子どもに伝承していきたいと思います。

循環型の暮らしとは何か~自然一体~

古民家の修理をしながら様々なものが修理可能につくられていることに気づきます。今の時代はすぐに何でも捨てて買換えですが、昔は貴重な材料と貴重な資源だからこそそのものをどこまでももったいなく大切に活かしていました。そこには確かな「暮らし」がありました。

そもそも日本人の暮らし方とは何か、古民家や先人たちの教えに耳を傾けているとそれは循環型の生活であることが自明します。自然が循環するように、自分たちもまた循環していこうと暮らし方を創意工夫して、革新し続けているとも言えます。

循環するからこそ温故知新が必要であり、循環するからこそイノベーションが求められるのです。そして循環すれば自ずから多様性、ダイバーシティもまた発揮されていきます。この循環とは暮らしの本質であり、その循環を取り容れることが自然を生活の中に取り込むことなのです。

現在、自然農や自然養鶏をはじめお米や様々な生き物たちと一緒に育っていますがこれもまた暮らしそのものです。自然のものと一緒一体に共に生きてゆくとき、私たちは循環型の暮らしになっていることに気づきます。

循環型の暮らしは、野生の本能を呼び覚ましいのちの本質が甦っていきます。よく世間では循環をエコのようにいいますが、私からすれば循環こそが野生です。野生のものをどう取り容れるかが循環に順応することであり、それができてはじめて人は暮らしを実現していくのです。

つまり循環型の暮らしとは自然一体、地球の全体の中の大切な役割を持つ一員として主体的に生きていくことです。

ここでの暮らしを考えた時に、如何に日本人の精神性を優先する生き方をしながら時代の最先端を取り容れ工夫していくかを思います。可能性が広がっていきますが本来の子ども第一義の理念に沿って子どもに譲れるものを遺していきたいと思います。