共生の居心地

古民家の修理と清掃を引き続き行っている中で気づくことがたくさんあります。そもそもこの町家というものは、職住一体型になった施設で昔は店屋と書いて「まちや」とも呼ばれていました。入口に店舗があり、その奥で住まうのです。

今では店と住まいが別々のところで行うことが増えていますが一昔前まではどの家でも職住一体で行われていたように思います。私たちは生き方と働き方の一致とありますが、本来はそもそも仕事と暮らしは別物ではなく一体であったと思います。そのことから、これはプライベートだからやこれはビジネスだからやそんな言葉は出なかったのです。

そしてこの町家に住んでみると分かりますが、ここはプライベートがないことに気づきます。外の音は人の小声でもほとんど入ってくる、そして中の音も外に漏れています。夜中など少しでも大きな声を出せば、近所に響きます。さらに窓はすべて紅殻格子などで隙間がありますから夜中にはほとんど中が見渡せるのです。

このほとんどプライベートがない中で不便だと今の人たちは町家を捨てて各部屋が個室のようになり外から遮断された密封建築に住んでいます。現在では防音設備から窓も外からは見えない仕組みになっていたり、光も電気で明々としています。そこに誰か住んでいるのかわからないほどにプライベートは確保されています。

本来、そうやって個人ばかりが確保され好き勝手できるような暮らしはなく周りの人たちのことを思いやり自分を少し抑制するという謙虚な生き方があったように思います。自分さえよければいいという世の中は、言い換えるのなら周りの人たちのことよりも自分のことだけを考えるという我儘な世の中です。しかし私たちの先祖は、どこにも共生をする仕組みを取り容れ自然を壊さず関係を壊さず、御互いに歩みよって寄り添い生きてきました。それは言い換えるのならば、思いやりを優先してきたということです。

今の時代は自分だけが快適であればいいという個人主義が蔓延していますが、この町家には御互いの距離に居心地がいい配慮があります。それは心を開いている居心地のよさでもあります。ほとんどプライベートのない中でも、自分を正しくコントロールすることができる。相手を変えようとするのではなく、自分の方を変えて調整をとるバランスのある暮らし、そういうものを実現していたように私は思います。

これは自然農の実践でも気づくことですが、周りの生き物と一緒に生きていくのだから、自分さえよければいいと考えずに周りの生き物と一緒に暮らしていこうという発想の姿勢と同じです。これは自己抑制で欲をコントロールするという考え方でもありますが、その本質は先に周りのことを思いやるという精神があるということです。日本人が町家を建て、これだけ隣同士で接近して暮らしたのはそれぞれにそういう精神を持ち合わせていこうといった寄合の意識があったからのように思います。

今では近所などがなくなり、東京ではマンションに住んでみると何年もいるのに会ったこともない話したこともない知らない人ばかりです。それぞれにプライベートを尊重するあまり挨拶すらもなく、何をしてどのような人たちが住んでいるのかは管理人すらも把握することができません。

御互いの居場所があるというのは、思いやりの場があるということです。居場所がなくなった世界というのは共生と共感のない孤独で辛い場所だけが残るのかもしれません。そういうところにいくのは目先の個人の損得で考えるからであり、思いやりや徳を重んじるのなら居場所を広げていくことが価値があるのはすぐにわかります。本当の居心地のよさとは「思いやりを優先し自分は少し不便でもいい暮らし」のことかもしれません。そしてそれこそが「共生の居心地」なのです。

引き続き、子ども達のためにも先人の暮らし、古民家の教えから学び直し聴福人の実践を深めていきたいと思います。