変化と情報技術の意味

昨日、ある学校で変化とICT情報技術の話をする機会がありました。現在、文科省がICT教育を推進し授業や様々な場所でITを効果的に活用するように促しています。そのことから、シリコンバレーにあるIT先端企業を視察する機会も増えているようです。

ICTという言葉は情報技術を活用するという意味で、ITの異称でもあります。情報を活用するということの意味がどういうことか、それがまず本質的に理解できなければいくら道具があっても活かすことはできません。その目的をどのように定めているか、使う人がいてはじめて道具がありますからその使い手の教育が優先されるというのは自明の理であろうと思います。

以前、熊本の人吉にある鍛冶師との話で自然農の中で新しい鍬や鋤をつくりたいといったら大変喜んでくれました。なぜならいくら技術がある職人がいても、それを暮らしや生活の中でこう活かしたいという智慧がなければものづくりをすることが出来ないからです。造り手の歓びは、使い手との造り合いです。御互いにものづくりで生まれる一期一会の物語があってこそものづくりの面白さや醍醐味があり、ただ作って便利に使えばいいのではなくその「物が告げる面白さ」の中に御互いが学び合う倖せがあるのです。

ITといってもその道具の方ばかりに目を向けるばかりで、何のためにそれを活かすのかが分からないでは道具の持ち腐れになってしまうのではないかと私は思います。また時代が変わっても、変わらないものと変わるものがちゃんと理解されていなければ自分は変わらないままで今の道具が使えるわけがありません。もちろん道具に合わせて自分が変わってもいいし、自分が変わって道具を活かしてもいい、しかし大切なのはやはりそこでも何のために行うのかといった理念があってはじめて「活かし活かされる」という互生関係が成り立つのです。つまり目的共有なくして、道具の活用はないのです。私たちのミマモリングソフトはそういう観点で造られているのです。

昨日、興味深かった話の中で日本の学校関係者がシリコンバレーの教師への質問で「こんな急にICT化して大丈夫ですか?」というものがあったようです。その質問の真意は、なぜ変化できるのですかと聞いたのです。それに対してその教師はこう言ったそうです。

「では日本では今でもあなたの周りは何も変わっていないのですか?日本はいつまでも以前のままなのですか?周りが変わっていくのだから変わることは当たり前のことでしょう、自分が変わらなくていいわけないじゃないですか」と話してその質問に機嫌を悪くしていたそうです。何のためにここまで視察に来たのかといった気分もあったのでしょう。

自分の周りの環境や状況が変わっているのに、いつまでも変わろうとしない人がいます。そうやって昔の自分に固執していつまでも変わらないように努力するよりは、もう一度周りの環境を見渡してその環境の中にサラリと入っていくこと。それが周りの変化に対して柔軟に順応していることだと思います。

そしてただ闇雲に流行に流されればいいのではなく、大切なのは「何のために」やっているのかを忘れずそのために変わる必要があるのなら躊躇いなくプライドなど捨てて変わっていくことのように思います。それが大義を優先することであり、本質の維持でもあります。

プライドが高いのは成長意欲がある証拠ですから、敢えてプライドをおかしな使い方をするのではなく「変化」のために使っていけばいいように思います。それはプライドを捨てるという意味ではなく、「本来の目的や志を守ろう」と決めることだと思います。

大事なものが崩されないために自分たちは変化する必要があるのです。忘れてはならないのは何のために教育があるのか、そしてその教育の本質を維持するために何をするのか、ICT教育の本質もそこにあると私は思います。

私たちは子ども第一義の理念を大切に、子どもの憧れる生き方を優先し変化を味わい愉しんでいきたいと思います。