長い目と永い心

先人たちのつくった道具や建物を深めていますが、学び直すことばかりで興味が尽きません。一つの道具にしてもどれだけ長く使うことを想定してつくったのかが伝わってきますし、建物においては何世代先まで住めるように建てているのかを見ていると驚くばかりです。

先人たちが「ものづくり」をする際に何を最も大切にしてきたか、直接手で触れてみるとそれをどの道具や建物からも「悠久」に耐えうる設計になっていることを感じ入ります。

今は、すぐに短絡的に物事を決めてそれを良しとします。目先の課題や、直近の問題のみに焦点を当ててそれされ乗り越えれば良しとします。しかもそれを今を生き切るなどという言葉にして実際は単に時間に追われるままに刹那的に生きていることを誤魔化すための言い訳にもなっています。

しかし先人たちの今を生き切るというのは、長い目で物事を観て永遠という尺度で物事を決めるという信念と覚悟があったように思います。長い目で考えるというのは、焦りとの葛藤があります。焦るのは、目先を見ているからであり焦らないのは悠久の歴史を観ているからです。自分の中にどうしても結果を出さなければと考えたり、どうしても自分の人生の残り時間という尺度を入れてしまえば焦りが湧いてでてきます。

一たび焦れば先人たちの真心に触れることもできず、結果的に応急処置た対処療法ばかりを続けて根本治癒や根源治療はできません。自然の技術はほとんどが根本から直すものばかりです、それに対して人間の技術が対処していくものですからその両輪のバランスをどう維持するかが復古創新していくときに何度も葛藤するものです。

そしてこれは会社での理念の実践と同じく、理念を優先しながら同時に仕事の成果も積み重ねていくことに似ています。理念か経営かではなく、理念=経営にしていくこと、つまりは生き方と働き方を一致させて一円融合して継続運営していくことです。

いにしえの道具や建物についても同じで、これも生半可な覚悟と知識では継続運営が難しいように感じています。一つの御縁から、今、新たな実践がはじまりましたが与えてくださったこと選んだくださったことに感謝して間違わないように取り組んでいきたいと思います。

有り難いことに実践のモデルの人もいます、与えていただいたもの全てに感謝する鞍馬山の真心も知りました。御山の教えもいただいていることを肝に命じて、一つひとつの判断を決していい加減なことをせずに真摯に長い目で永い心で取り組んでいきたいと思います。

温故と恩顧は同じ響きですから、その理を忘れないように自戒していきたいと思います。