法螺の道

昨日は、英彦山守静坊にて法螺道仙人の仙人苦楽部を開催しました。30名以上の法螺貝仲間が参加して、みんなで法螺道を学び合いました。法螺の道の面白さや楽しさは言葉では説明できず、生き方や実践から氣づくものです。私もまだまだその入り口のほんの少し先にいるくらいですが、法螺貝のお導きや奥深さに感動と感謝、そして感銘を受けることばかりの発見の日々です。

法螺貝の魅力は、とても語りつくすことができません。そして法螺貝を通して出てくる音の世界、そして波動の場は神秘な領域です。いのちが調うだけでなく、場が調い、宇宙を感じます。

目に見える世界と目に観えない世界、耳に聞こえる世界と耳に聴こえない世界があり、その境界をも取り払うことできるのが法螺貝の道の一つです。別の言い方では常識を超越するのです。

私が尊敬している大仙龍(大先達)と一緒に法螺の道を語っている最中も法螺貝の楽しさと喜びと豊かさで早く法螺貝を吹きたくてうずうずしワクワクします。人生の中で自分の唯一無二の音や一期一会の法螺貝に出会えた奇蹟を仲間たちと一緒に味わいたい、その純粋な思いや、平和への願いが法螺道を弘めていく理由です。

法螺貝と関係が深い仏教では聖者のことをかつて羅漢と呼びました。聖者とは高い精神性を持ち、実践を通して人々を導いていく存在です。日本でも五百羅漢というものが有名ですが、これは仏陀に最初に付き従った五百人の聖者のことです。今年の初めに、スリランカで最初の仏典結集の場所を見てきましたが、その場所こそ五百羅漢がはじめて集まった場所でした。

時代が変わっても、高い精神性を持ち実践をし、宇宙の真理に覚醒して本来の人間性とは何かということに目覚め伝道する人たちは常に出てくるものです。それが調和の本質であり自然なことです。

英彦山から法螺道を歩む羅漢たちが五百人集まれば、九州から日本、そして世界を変えていけるようにも感じます。私も法螺貝の鳴動が、真の人間性を回復させあらゆるものと調和する存在になっていけるように引き続きお山で徳を磨き精進していきます。

私たちが目指す温故知新する新たに甦生する講の姿は、徳積循環です。それぞれがあるがままの自分らしい唯一無二の音で透明な波動を輝かせます。自らの喜びがみんなの喜びになる徳積がめぐる世界。

これから徳を積む法螺吹き羅漢が五百人、真心を解き放ち愉快痛快に新たな夢に向かって挑戦していきたいと思います。

全体快適

全体最適と部分最適という言葉があります。全体と部分というのは分かりやすい使い分けの一つです。例えば、病気であれば部分最適は病気だけを見る時に診断できます。専門分野に分かれればその怪我や病気のみに集中して分析します。全体最適だと、根源的なものを未然に防ぐためのもの病気の原因などを分析します。両方から観るということもあるのでしょうが、これらは物事の観方の方法で手段です。

実際の世の中は、常にこの全体最適と部分最適で分析されます。そもそも分析という手段は、何を分析するかですが実際には全体の分析というものは大きすぎてできませんし、部分最適は小さすぎてできません。できないからと直観で分析すると、根拠がないやエビデンスがないと証明できません。

むかしは、達人や熟練者、長老やその道の先達という人に観てもらうことが多かったように思います。長い歳月に磨き上げられた経験からの智慧は、全体も部分も見透します。そのうえで、直観的に感得して見定めることができるものです。

いくら便利な時代で、AIがあらゆる知識の全体最適や部分最適を分析したとしてもそれが達人や熟練者には敵いません。もちろん、将棋の世界やモノづくりの世界ではAIが人間を凌駕しているともいわれます。しかし日本刀のような古刀をつくることはできていませんし、自然農などの智慧をもつこともできません。自然は常に全体も部分も快適にしています。それは徳が循環するからです。

この徳の循環は居心地がよく、快適にしていきます。快適というのはみんなの喜びが自分の喜びであり、自分の喜びがそのまま全体や部分の喜びにもなるということです。あるがまま、ありのまま素直であればそれで自由自在に快適になるという状態です。

人間だけでこの世に生きているわけではありません、いくら全体最適だとはいってもそれはどこまでいっても部分最適でしかないものです。だからこそ全体快適を目指すことが大切だと私は感じます。

唯一無二、一期一会、今此処であることは全体の一部になっているということでもあります。子どもたちや子孫のためにも、引き続き徳の伝承をして全体快適を実践していきたいと思います。

交流の歴史

昨日は、韓国から約9名の方々が来日されBAにてブロックチェーンの情報交流会がありました。こちらからは福岡県、飯塚市、またFBAのメンバーで対応し私たちの取り組みや考え方などをお伝えしました。

そもそも隣国、韓国との交流は長い歴史があります。特に福岡は韓国に近いことと、中国からの文化も朝鮮半島経由で入ってきたので大和政権のときよりもずっと前からの交流の歴史があるはずです。

むかしは国家という概念がそこまではっきりしていなかったでしょうから、お互いに往来しては協力しあっていたように思います。通訳の言葉を聞いていても、時折日本語そのままの言葉が出てきます。言葉の中にもお互いに交流の中で誕生していた共通言語があることもわかります。

なんとなくですが、KPOPや日本のアニメ、コスプレ、サブカルチャーも似たところがあります。顔も雰囲気も似ていますからきっと何度も繰り返し積み重ねてお互いに結ばれてきたことがあるように思います。

歴史的なところで領土問題や他にも様々なことを抱えてはいますが、それはすべて最近の歴史です。そして歴史は止めるものではなく、本来は今も改善してよりよく発展させていく中にこそ生きた歴史があるものです。

文化的な交流をしていくことは、かつての歴史を今にも甦生していることであり今の時代もこの先の時代もお互いにとって大切なことのように思います。

お互いに尊敬しあえるような関係をいつまでも持ち続けられるように、自分たちの文化や先人たちの智慧や伝統を守っていきたいと思います。

新しい郷土料理

現在、故郷の郷土料理を甦生していますが色々と新しい発見ばかりです。そもそも郷土料理は、どのように誕生したのかを自分で手掛けていると色々と感じることがあります。その土地の人が、どの場所で産まれ育ち、その土地にしかないものをどうやって美味しく食べてきたか。

郷土料理はただ地域のものを食べたのではなく、それをどのように美味しく食べたかということにも由ります。発酵食品なども保存するためのものだけではなく、美味しかったから発酵食品になったともいえます。美味しくて長く食べられるというのは仕合せと直結しています。

以前、コロナに感染したときに味覚がなくなったことがあります。何を食べてもゴムのような味わいであまりにも辛くて暮らしの景色が白黒になりました。それくらい味がないというのはつらいことで、私たちは味覚があるからこそ美味しいと感じ、美味しいと感じるからこそ喜びを味わえるのです。

その土地の味わい方というものが郷土料理には出てきます。私は故郷を愛し、自分でこの土地で育ててきた伝統在来種の高菜を深く尊敬しています。高菜は漬物という認識やご飯の脇役などという人もいますが、私にとっては主役そのものです。

この主役がどのようになったら美味しくなるのかを追及していたら、新しい郷土料理が誕生しました。ある人は、ここは何も目新しいものがないとか目玉がないとか、温泉がないとか観光に向かないとかいう人もいます。その土地に住んでいながらもったいない暮らしをしているなと感じるばかりです。

いるところ、自分の場所や土地が最幸だと信じている生き方をしている人は毎日がキラキラを美しいものにばかりに出会い感動の日々を過ごします。そうではない人は、自分の土地や故郷を蔑んで文句や不平不満ばかり言います。こうなってくると、もはや生き方の話であり故郷は土地は関係がないことに気づくものです。

不思議なことですが、今居る場所が素晴らしいと信じる人や、今居る場所こそ最幸の場所、この土地で誕生したものはすべて美しい徳を持っていると感じる人たちは観える景色が変わり、そして食べ物の味も変えていくのです。

つまり郷土料理とは、その郷土で育まれた人の生き方の結晶ということでしょう。

他の郷土料理とは比べるものではありませんが、故郷の誇りと郷土料理への尊敬を思いこれから新しい郷土料理を子孫たちへと伝承していきたいと思います。

古民家甦生の本質

ある人から古民家甦生をもっと商売でやったらいいとアドバイスされたことがあります。現在、どの古民家も評判がよく甦生してきましたがそもそもこれはただ建物を直しているのではありません。私が甦生しているのは、目的でありそのものの初心や理念です。建物は一緒に甦生しているだけのものです。

通常の商売で行う場合は、建築基準法をはじめ様々な法律やルールがあります。現代の日本建築は、どちらかといえば新築を建てるためのもので古民家などはリフォームしていますが実際にはあれも新築しているだけです。空き家がこれだけ増えてもなお、修繕よりも新しい場所に新築を建てます。古民家においても、新しい材料で新しいものにします。古民家風の建物がこの数年で増えては、私にも似たようなことをしてはどうかと勧められたりします。

そもそも古民家風のものは、古民家ではありません。こんなことを書いてしまうと、いろいろと批判的な方から何か言われそうなものですが実際には和風と和は異なります。例えば、よく話す話に和紙は楮やミツマタなどの原材料で手漉きで行います。和紙風はパルプや木材で機械で見た目だけ似せていきます。そこに伝統や伝承などはありませんし、意味も理由も異なります。本質が異なるのに和紙という言葉でひとくくりすることはできません。

私の古民家甦生もまた本質が異なるのに、他の古民家再生と同じにはできません。なので私は敢えて再生ではなく、甦生という言い方をします。

そもそも甦生というのは、そのものの素材や材料を日本文化で伝承調理して新たに寿命を延ばしていくことです。つまり今までの生をさらに別のものにして寿命を延ばすのです。つまり、生まれ変わる、新たにするということです。これは理念や初心をきちんろ磨き直して新しくすることに似ています。

つまり建物を新築にするという意味ではなく、そもそもの理念や初心を新たにしていくということ。そこに建物もその理念や初心に合わせて変わっていくということです。それが私の場づくりの本懐です。

なので、商売のように金銭だけでできる仕事ではなく思いや人伝えでしか受けることはできない一期一会の唯一無二の取り組みになります。

なんだか大げさに聴こえるかもしれませんが、本質的なことをやろうとすれば現代では色々な価値観やルールによってできないことがほとんどです。しかし不思議ですが、ちゃんとできるように何者か神様から導いてくださって今があります。

引き続き、丁寧に甦生してこの世でのお役目を果たしていきたいと思います。

素直に保つ

素直な心というものがあります。これは澄んだ心とも言えます。人は自己の感情を善く内省してお掃除のようにお手入れをしていると次第に心が綺麗になっていきます。この心の綺麗さとは素直になっていくということです。

本来、人は安心して穏やかであるとき優しくなり素直になります。それが不安や忙しさ、余裕のなさや他者との競争や自己保身などが入ってくると途端に心が汚れていくものです。汚れるという表現よりも心が隠れていくと言った方がいいかもしれません。

自分の感情に向き合っていると、感情に呑まれにくくなっていきます。例えば、感情の原因を見つめているとその感情が何処からやってきたのかに気づくものです。体調からのものか、怪我からのものか、あるいは疲れからなどもあります。他には、心の傷のようなものか、思い込みからか、苦手意識からか、競争社会の影響からかなどもあります。どちらにしても、不安や迷い、恐怖や孤独などが感情を左右して暴走させていくものです。

しかしその感情の汚れや心の隠れは、最初は小さなところからはじまります。人の注意や忠告を聴こうとしなかったり、愚痴や文句を言い出したり、誰かのせいにしたり、嫉妬や口が悪くなったりと感情の扉を開きます。そのうち、心が隠れてしまい感情だけになっていると初心を忘れて我を忘れて不本意な自分が出てくるものです。

もちろん感情が悪というわけではなく、感情の御蔭さまで私たちはこの世で素晴らしい体験を味わうことができます。ただ、中庸というかバランスをとることで調和し自分の人生を真に謳歌していけるように思います。

つまり素直さというものの実践をすることで人生の喜びや仕合せ、豊かさが増えていくということでしょう。

素直さというのは、他人の言うことに従順になることではないことはすぐにわかります。どちらかというと、心を澄まして感情を調えていくという実践です。そのために、感情が波立って心が隠れないように日々に言葉や行動、態度を気を付けることです。

自分の態度に責任を持つこと、自分の機嫌は自分で取るという態度から心の態度を変えたりもします。他には、周囲を喜ばせるような丁寧で配慮ある心遣い、あるいは思いやりややさしさ、尊敬が薫るような行動なども素直さの実践です。

素直さの実践を続ける人は、心を澄ませ続ける人です。

心を澄ませていくことで、真実がよく明瞭に観え、全体最適の調和もバランスもとりやすくなります。心を曇らせない、心を濁らせない、心を綺麗に保つ、その実践とまた環境、場がその人を真に覚醒させ透明で美しいいのちを輝かせていくのでしょう。

日々の喧騒や穢れは増えてもいきますが、掃除やお手入れをして素直に保ちたいと思います。私にとっての素直に保つ場所が、保育園でもあります。子どもたちと保育園のお手本になるように生き方と働き方の中でいつも直の実践を継続していきたいと思います。

伝道

暮らしフルネスとは何か、徳積とは何かということを再び整理しています。暮らしフルネスは、もともと暮らしとマインドフルネスの造語で、足るを知る暮らしと訳していますがこれは徳を積むための手段の一つでもあります。そして徳を積むのもまた手段の一つです。

何の手段かといえば、調和のためのものです。

調和は自然との調和ということです。人間は人間のみを優先し、自然から離れてしまうと不調和を繰り返します。現在の自然環境の破壊や汚染はすべてこの自然との不調和から発生しているものです。

自然との調和とは、人間が自然の一部としてお互いを尊重しあって成熟していることで実現します。先人たちはその成熟の成果として暮らしの中で様々な智慧を伝承してきました。自然の一部としての自覚をもって自然との調和を大切に持続可能な生活を信仰のレベルで行ってきました。つまり自然と一体になった暮らし、いのちが輝くような生き方を通して道を結んできたともいえます。

そして人間社会で発生する様々な争いや不調和を乗り越えてきました。人間は自然から乖離して差別することで悲惨な人災を増やしていきます。自然災害とは異なり、人災は悲惨で諦めもつきません。復讐の連鎖は人の間で繰り返していき、真の平和はなかなか訪れません。

徳積というのは、いのちが輝くためにいのちを磨いていくことです。例えば、生活即信仰や道場のようにいのりのように暮らし、自然の一部としてのいのちを生きて本来の人間性を高めていくことです。

そのために私たちは先人たちの遺してくれた自然との調和の智慧を自分たちも実践し、子孫へと伝承していくことです。それが手段としての暮らしフルネスと徳積ということになり理想は徳積循環を実現することです。

徳積循環とは、自然あるがままのことでもあります。自然はあるがままにして調和します。調和しないものは存在しません。みんなが調和するように暮らしています。私たちは活かされていることで生きていくことができます。活かされているという事実を直視するとき、自然との調和は必然であることは自明します。

文明というのは、自然から遠ざかることではなかったはずです。どのような存在とも、お互いを尊重し合おうという実践のはずでした。尊重しあうことをやめた先の文明は破滅しかありません。思いやりや配慮、助け合いや譲り合いは人間性の根源です。

場の道場に来て、場を感じてもらうのは、場を通してこれらのことを体感して何かが変化する切っ掛けになればいいと思っているからです。調和というのは、言葉でも文字でも教えることはできません。

だからこそ「場」が必要なのです。

そして同時に仲間も必要です。そこに道があるからです。仲間集めをする理由は、同じ目的に向かって精進しようとする人たちが道を拓いていくからです。小さな一歩でも、しつこく歩けばそのうち参道のように調っていくものです。

コツコツと歩み、未来の子どもたちに伝道していきたいと思います。

風呂敷の徳

風呂敷というものがあります。この風呂の敷物と書いた風呂敷は、元々は蒸し風呂で使われていたものだったといいます。現在、蒸し風呂をつくっていますが色々と風呂敷のことを深めていると面白いことがわかってきます。

確かに風呂に入るとき、濡れた着替えや足元の水回りに風呂敷があると湯上り後の着替えの時などに助かります。布は濡れてもすぐに乾きますし、麻などは衛生的にも耐久的にもよくできています。

風呂敷は風呂から始まったというのは理に適っているようにも思います。高いところにかけられるし、軽いし、着替えを入れて、濡れたものも包む。外から観えませんし、そのまま洗って洗濯して帰ってから干せばすぐに乾きます。

私たちの生活の中で、暮らしの布というのはとても重宝してきたように思います。現代では、包装するものはビニールや紙の使い捨てになっています。ゴミがすごいので使い捨てないようにと気を付けるとあっという間に自宅に紙袋とビニール袋が山積みになります。

むかしは大量生産、大量消費などありませんでしたからそもそも現代のような発想はありません。一生ものの布もあったでしょうし、大切に使って何世代も修繕しながら使う風呂敷もあったでしょう。

包むというのは、もともと思いやりや邪気を祓う、大切なものを守るという意味があるといいます。

穢れを洗い清める湯あみに風呂敷が用いられたというのは府に落ちるものです。

英彦山の徳積風呂と法螺貝に風呂敷を新たにつくりますが、どのようにこれからの子孫へ伝承していけるのかとても楽しみです。

花の美しさ

先日の大雨で庭の畑の野菜たちも元氣になりました。周辺にはテッポウユリも咲いて実りの様子が美しく感じます。私たちの身近にある花も同じように一緒に生き続けた仲間です。ゆりは古事記や日本書紀にも出てきます。真っ白で高貴な雰囲気はむかしから日本人に深く愛されてきたように思います。

そう考えてみると、人類は花というものをあらゆるものの象徴としてイメージし大切にしてきました。その花の生い立ちや生きざま、あるいはそのいで立ち姿などから信仰の対象にしてきました。

日本では菊の花などがあります。菊は仏花としてお葬式やお盆などでよく見かけます。葬式などは大量の菊を使います。パスポートにも使われるほど日本の象徴になっています。

しかしよく考えてみると、百合は夏の花で菊は秋の花です。現在では年中栽培できるようになりどこでもいつでも見かけますが、本来は季節によって象徴する花も変わります。同じ花だけで一年間保つことは本来は異常なことで、最終的には見た目だけ変わらない造花やドライフラワーなどになっています。それでも経年劣化しますから変わらない花などはありません。

花の美しさは、儚さの中にあるものです。

そして人生もまた同じく、儚さの中にその真価があります。この世は変わらないものはなく、時間は誰もが平等に過ぎていきます。季節は変わり、旬もそのうち終わります。しかし毎年、同じように季節が訪れ旬もまた到来します。この当たり前の自然の循環を教えてくれるのも花です。

花は私たちに色々なことを教えてくれます。

多様として唯一無二、それぞれの個性で一つしかない姿を精一杯生きています。花が身近にあることは何よりも有難いことです。花から学び直していきたいと思います。

自分らしいかんながらの道

久しぶりに自然農の川口由一先生の田んぼにご供養の法螺貝を吹いてきました。14年前の震災のころにご縁をいただき、生き方を導いていただきました。現在は、私が和薬や漢方、薬草づくりなどをはじめていて生前にもっと聴いておけばよかったと反省することばかりです。

ただ、自然農と和漢方などは親和性があり生き方から学んだことがとても参考になっています。今思えば、川口先生はメソッドではなく生き方でいつも接してくださっていたように思います。もちろん、メソッドも教えていただきましたがそれはほんの一部でした。自然をよく観察すること、調和すること、足るを知ること、道の歩き方、つまり「かんながらの道」の実践道場でした。

結局、同じ道線上に存在する人たちはいつも近いところを歩んでいます。ご縁のある方々もまた、似た道を歩む方々です。時には、道から外れていく人もいますが戻ってくるとまた再会します。

道は面白く、くねくねと螺旋に巡り、また似たようなところをくるくると廻っています。まるで太陽の周りを一緒に巡る地球を含めた星々の道の跡のようです。

田んぼや畑は先生がいなくなっても、後を継いで志した仲間たちが静かに見守っていました。生命力あふれる田畑では、いのちの廻りがきちんと行われてきました。今までの歴史の上に新たな歴史が実り咲いていく。川口先生の仰っていた通りに、自然の生き方が今でも続いています。

人間はそれぞれに今世の役目や役割があります。

以前がこうだったとか、前世がああだったとか、思い出や記憶があって自分を邪魔することもあるでしょう。しかし今回は、前回とはまた違う人生が待っているものです。同じ人でもないし、同じ環境でもない。情熱や思いや懐かしさがあるかもしれませんが、それはかつてのもの。

いのちは常に変化のなかで新しくなっていくように、わたしたちの道もまた一期一会に新しくなります。

似たような魂は似たようなことをしますが、同じはなく、唯一無二のその時々の道があるのみです。

引き続き、自己を研鑽し自分にしかない自分らしいかんながらの道を歩んでいきます。いつもありがとうございます。