伝承の正体~生き方~

伝承というものは、一人ではできないものです。伝える人と承る人であってはじめて成り立つものです。伝えたいという真心を、引き受けることができる真心があって承ることができます。承った人は、それをまた別の誰かに伝える使命を持ちます。不思議ですが、伝言ゲームのようにそれを無限に伝え終わるまで続けていくのです。

伝言ゲームをしたことがある人ならわかると思いますが、最初に伝えていたものが人数と時間が経つと変わっていきます。誰かが間違えて伝えると別の意味と言葉になって最初のものが跡形もなくなくなってしまうのです。それだけちゃんと正確に伝えることは難しいのです。

伝える側がそれを理解して、如何に間違えなく伝えられるかと知恵を絞ります。それが型になったり、人数制限したり、道具や法具、文章、またたくさんの方法論をつくり工夫しました。

しかし時代を経ていくと、環境が変わります。むかしそれを伝えていたころの環境が今になければ、伝える方法論も消失します。言葉も価値観と共に変化し、時には少子化で子どももいません。そうなってくるとまた伝える側に新たな工夫が必要になります。

つまり伝承は、伝える側の工夫と承る側の工夫が永遠に必要なことなのです。創意工夫をもってそれができるだけ長く正確に伝わるように変化し続けていくのです。それを私は、創新とも呼びます。

そして長い歳月で伝承がゆがんだり、環境が変わったり、誰かによって違うものに置き換えられりしたものを原初や根源にまで甦生する人たちが現れます。これを私は起新と呼びます。

創新、起新というのは、伝承の真心を持っている人がその時代に天から選ばれて登場します。そしてその伝承者はみんな純度の高い魂、研ぎ澄まされた純真さを持っているように思います。

伝承の不思議とは、この神がかり的な奇跡の一期一会の邂逅によって何度も消えかけたものが甦生していくことです。私は、いのちの甦生を人生の砥石にして歩んでいますが身近ないのちからもその甦生の仕組みや叡智をいつも学んでいます。

伝承者たちがいる御蔭で、私たちは先人からの尊い生き方を守ることができます。

生き方は道であり、道は人生を導く羅針盤です。生き方こそが伝承の正体ということでしょう。

引き続き、伝承者たちのお役に立てるようにいのちの伝承に取り組んでいきたいと思います。

求道の甦生

鞍馬寺の晋山式に参列するご縁をいただきました。振り返るともう20年以上、鞍馬寺と深いご縁をいただいています。はじめはくらま山保育園との出会いでしたが、その後もずっと前貫主に心あたたまるご指導をいただき自己修養を磨いていくことができました。そのご縁もまた、今回新たに鞍馬寺に住持する信楽貫主の御蔭です。

長い歳月を振り返ると、道に見守られ今があることに氣づくものです。

志は仲間を集め、道は同志を与えます。求道そのものの中に人と縁ありということでしょうか。新貫主と晋山式の凛とした立ち振る舞いと澄み切った声で読経する姿、そして一緒一体になって参列者も発声して調和する倍音の場に新たな道を踏み出す歓喜を味わいました。

その後は祝賀会と続きましたが笑顔でいのち輝く生き方の実践を見せていただいているようで誇りと安心と真心を感じました。一期一会の刻、きっと天から前貫主様のはからいもあったのではないかと思い心から感謝しました。

夕方からは晋山式のお祝い記念にと私から日子山仙螺の法螺貝を十一貝ほどくらま山保育園へ贈呈しました。園長をはじめ、もうお付き合いの長い先生方や新たな先生と法螺貝の練習と指導をしました。みなさん善い音が出て、さすがは「一人ひとりのいのちが耀く」という理念の実践を大切にする保育園だと感動しました。

私は生き方としてもですが、何かと比較したり誰かと比較することが苦手です。最初からあるがままの自分らしく唯一無二こそいのちの正体であると信じています。なので法螺貝の音もまた同様に、唯一無二の個性をもつ法螺貝とその人の「真音」がもっとも素晴らしい音だと信じています。

鞍馬山は、私の人生の恩人であり尊敬する先生そのものです。その先生のお山の麓で子どもたちが法螺貝を立て、お山も子どもも元氣にしてくれるのは深い喜びと仕合せを感じます。

自分のいる場が調い、子どもたちの心が和す波動が新たな時代をつくっていくでしょう。

いのちは常に耀き続け循環して変化しています。

新たな時代に入った鞍馬山、求道の甦生、弥栄おめでとうございます!天狗大僧正、護法魔王尊、悠久の尊天法螺道の益々の発展も心から楽しみにしています。

三拝九拝

竹との関係

昨日は、古民家和楽の竹垣をみんなで一緒につくりました。澄んだ秋の空と竹垣の美しさが映えていてその家と調和する姿に感動しました。

現在は、人工竹垣というものも増えています。プラスチックなどによって見た目が竹のようにつくられた別物です。よく本物の竹を使うか、人工竹を使うかで迷う人も増えているといいます。

この竹と人工竹の違いは、まずは自然の経年変化がないことです。自然の竹は、緑色から次第に乾燥して色が黄色になります。そして時間をかけて朽ちていきます。そのため、柿渋をはじめ年に何回かお手入れをしながらもたせます。人工竹の方は、経年変化がなくそのままですがこれも時間が経てば突然壊れます。塗装も、柿渋などではなく油性の科学塗料を用います。

シンプルですが、自然のものや本物は自然の智慧で対応していく。人工的なものや自然ではないものは、科学的な技術で対応していくということです。しかし、ここではっきりと異なるのは「調和」のことです。

自然と調和するものはやはり本物であることは間違いありません。どうしても人工的なものは自然には合いません。私はよく古民家甦生をしますが、不自然なものは壊れるのが早くなります。山中などの家では、人工的なものはすぐに劣化していきます。あるいは自然の植物や微生物がすぐに排除しようと分解していくので腐食も朽ちるのも早くなります。

一般的には人工的なものの方が長持ちをしているように感じますが、本当の長い歳月を観るとすぐに人工的なものは壊れていきます。

また竹垣などは身近な竹を使いますから修理もしやすく、お手入れも楽です。それに毎年、増えていきますから資源の心配もありません。いのちが循環する素材として、永続的に利用できます。子孫の時にこの材料がないという心配もありません。よくお手入れした竹藪や竹も美しく、風が通るようになると神聖な気配を周囲に放ちます。

自然な竹垣が世の中から失われ、竹藪が放置され竹が悪者になるのはとても残念なことです。人類を長く支えてきた大切なパートナーとしての竹は、いつまでも子孫へその関係を結んでいく必要があると私は思います。

そのためにはまずは暮らしを甦生することが先決です。

引き続き、暮らしフルネスといのちの循環の和樂を味わっていきたいと思います。

大天狗の道

深山幽谷に棲むとされる存在に天狗があります。私は小さい頃から英彦山の豊前坊に導かれいつも身近に天狗がいました。この天狗の起源は中国では「流れ星」とされました。具体的には、隕石が大気圏に突入し地表近くで爆発して大きな音を立てることからそれが犬の咆哮に似た音が聞こえて天狗と呼ばれるようになりました。

つまり最初は、隕石が落ちたところに天狗が顕現したとなったのでしょう。標高の高い霊山にはよく隕石が降ったともいわれます。古代の人たちは、お山に天狗がいると思ったのは流れ星と共にお山に降臨した存在と感じたかもしれません。

私の人生の中で最も深いご縁ができた鞍馬山も金星の隕石が降臨したといわれているお山です。ここには、天狗大僧正という日本八天狗の棟梁がいるとされています。そしてその存在を「護法魔王尊」と呼びます。この護法とは仏法を守護するという意味です。魔王は、西洋では神の対照的な存在を悪魔としました。しかし東洋では、試練と成長を与える破壊と甦生の象徴としました。そして日本では、私の解釈ですが大自然そのものの徳の顕現としての鬼としての魔王としたように思います。

そもそも鬼というのは、恐ろしいものや力強いものの存在のことを指します。この鬼は桃太郎の鬼退治のように悪さをするよくない存在に描かれますが、実際には善いことをする鬼の物語もたくさん地方には遺っています。以前、三浦梅園の遺徳を學ぶときに訪れた国東半島では「邪悪なものを追い払い幸福をもたらす仏の化身」であると大切にされていました。

つまり護法魔王尊とは、仏の化身ということです。魔仏一如は神仏混淆の証だったように私は思います。

そしてこの天狗とは、まさにその仏の化身としてお山に棲む大自然の霊力と調和した存在ということでしょう。歴史の中で、存在も変化し研ぎ澄まされていくものです。

今の時代の天狗と護法魔王尊はどのような存在を言うのでしょうか。

明日、その鞍馬寺の晋山式に参列し御祝いにくらま山保育園の子どもたちに私が手掛けた日子山仙螺の法螺貝を十一貝ほど贈呈します。このご縁がこの先にどのように結実していくのか、大天狗の道のお導きに感謝するばかりです。

引き続き、鞍馬山とのご縁に感謝しながら大天狗の教えのままに歩んでいきたいと思います。

 

暮らしフルネスの実践

時代というものがあります。私たちはいのちが循環するように、すべてのものはいのちの変化と共に成長を続けていきます。これは植物に限らず、すべての虫たちもまたいのちの流れに合わせて変化を已みません。

いくら特定の既得権益を手にし、膨大な権力を持ったとしても時代の流れには逆らうことができないのと同じにいのちの循環には逆らうことはできません。これはこの世の真理です。

つまり時代そのものが真理ということでしょう。

例えば、加齢などもわかりやすい事例でいつまでも10代の身体を維持することはできません。50年も経てば、変化に合わなくなっていきます。人はお金を使うことや権力を持つことで永遠を得ようとする人がいます。歴代の皇帝や富豪などもそれを言います。

しかし時代に取り残されていき、無理を通しても必ず時代がその人を置き去りにしていくのです。なので、いのちは役割交代やバトンタッチ、という方法でつなげていきました。これは置き去りにならない仕組みです。そうやっていのちの循環や変化を受け容れ、不自然にならないようにいのちを守ってきたのです。

いくら仮想空間や思い込みで変わらない世界をつくっても、それは現実ではありません。それにそこにはいのちはありません。あくまで脳みそで切り取られた空想上のことです。実際には、私たちの意識というものもいのちの循環の中にあります。意識も変化し続けていき、人類もまた成長を已みません。だからこそ、受け容れていくことや手放すことが求められていきます。

いのちはつながっているものだし、途切れることがない全体として一つのものだからです。ついつい忘れがちですが、先人たちは智慧をもっていのちが循環する暮らしを通して変化してきました。

暮らしフルネスの私の実践は、まさにこのいのちの循環を已まない実践のことです。

子孫たちが安心して暮らしていけるように伝承を磨いていきたいと思います。

徳の旅

人生はそれぞれに道を歩んでいきますが、誰と出会うかどの場に出会うかで方向性が変わっていくものがあります。それまで進んでいた方向の向きが変わるのです。それは旅の途中で、道すがらに先に歩いた人や、歩き方が素晴らしい人、あるいは旅そのものの定義が違う人、意気投合したり同志に出会うことでも変わります。

後で振り返ってみたら、あの時の出会いでということが多々あります。また或いは、どうしてこうなったのかと最初とだいぶ変わってしまったこともあります。どちらにしても、転機になるのです。

この転機は、自分の思い込みの外にあるものです。実際には、心の素直さや正直さ、ご縁を信じる信仰心や純粋な生き方が大きな影響を与えます。

自分に嘘をつかない人は、転機も正直です。これが転機だと気づいたら、あっさりと方向性を変えてしまいます。しかしその人は本来の初心、あるいは元々潜在的に決心していた方向へと進んでいきます。

旅の醍醐味は、山を目指して海にいき、空を目指して地中に潜るくらいダイナミックに変化を問いません。可笑しな話ですが、地中を潜っていたら突き抜けて空に着いたり、山を登っていたらそこが悠久の歳月で海になっていたりするものです。

だからこそ、その時々に出会う奇跡に感受性が反応していることが大切なのでしょう。

出会いというのは、出会いの意味があとから着いてくるものです。そこには素材そのもの、いのちそのものの徳があります。

徳があるから旅が変わるのです。

徳積循環の場では、そういうことが多々起こります。ユニークな組み合わせが、さならる転機を醸成します。このように徳が百花繚乱に遊ぶ場所は、ここしかありません。有難い徳に見守られながら、旅を味わっていきたいと思います。

大切なこと

人生は、いつどのタイミングで亡くなるのかはわからないものです。大切な人が増えていくと、それだけ別れがつらくなります。その大切さは思い出となっていつまでも大切にされていきます。

この大切という字は、不思議な字です。語源を調べると、平安時代に遡ります。今昔物語集では「大い切る」は、切る(きる)ではなく、切る(せまる)という読み方になっています。平安末期には、「捨て置けない」という意味になります。そして室町くらいの頃になると「かけがえないのもの」となります。江戸時代には、「愛する」と訳されるようになります。今の時代も、守りたいもの、失いたくないもの、敬愛するものと訳されます。

人生は守られている存在が増えていき、自分が守りたいと思う存在も増えていきます。失ったとき、守られていたことに氣づくものです。では何を守られていたのか。それは存在そのものや心が守られていたことに氣づきます。

親切という言葉もあります。これは親を切るではなく、親しみ丁寧に接するという意味です。この切るという字は、守るという意味ではないかと私は思います。この守るという言葉も、切ると同じように歴史の中で変化している言葉です。

言葉というのは成長していくということでしょう。

それは人が用いることが増えていくからです。その言葉をどのような時に用いたか、それによってその言葉に新たな人格が加わるのです。

人が使っている言葉には、人格が宿ります。誰が使うか、どのように使うかで意味も変わります。だからこそ、先ほどの大切という言葉や親切という言葉は特に重要な言葉になっていきます。

私は徳という字もよく使います。この徳も歴史と共に成長していきます。言葉というのは、その時代の人格が依り代になっているものです。

いのちというものを思う時、言葉の大切さを改めて実感します。親切や大切など、暮らしの中で使う言霊を見守っていきたいと思います。

 

調和の道

いよいよ浮羽の古民家甦生も大詰めに入ってきました。伝統職人さんたちと一緒に、長い歳月を共にし色々と和合しながらやってきましたが完成が近づくとみんなとても仲良しになります。一つのことを目的を定めてみんなで力を合わせて家を甦生する。私の唯一の楽しみはこの一点です。

みんなで力を合わせるというのは、なぜこんなに喜びがあるのか。目的を共有する仲間の存在、そしてみんながそれぞれに自己を磨いて精進していく仕合せ。これは本能的に人間が感じる喜びの一つではないかと思います。

1人ではできないことも、周囲の助けがあって実現していく。これは普遍的なことです。産まれてから私たちは死ぬまで本当にたくさんの人たちの御蔭様を得ていきます。自分が立派に成長するのには、偉大な見守りがあってのことです。

そしてその陰にはいつも力を合わせるということが必要です。協力ともいいます。協力していくことで力は発揮されます。

結局、家を甦生するときに最も必要な棟梁やリーダーの仕事はみんなの力を合わせて発揮できるような場を創ることではないかと私は思います。もう甦生も8軒目になりますがそこで得た私の体験と気づきは心を一つにすることの大切さです。

心が一つになるとき、いのちが耀きます。心は二つ以上のものが和合するときに最も調和して力が出るのです。これは波動も同じです。最も強い至高の波動は、感情の高ぶりではなく心の静けさでもなく、調和することです。

調和するとき、私は甦生が為ったと確信します。

引き続き、調和の道を求めてさらなる一歩を踏みしめていきたいと思います。

 

用と美

来週、綱分八幡宮で伐採した竹を使って竹垣を古民家和楽でつくります。元々、この竹垣は一緒に古民家甦生をした隣家の方の思い入れがあってのことです。地域の景観を磨き美しくしようとしたことの実践の一つとして4年前に取り組んだ思い出があります。

その方はもうお亡くなりになりましたが生粋の職人気質でとても仕事が頑固で丁寧で、それは竹垣の見た目にもはっきりと出ていました。一緒に取り組んだといっても、小さなところまで徹底してこだわりがありなかなかお手伝いというほどもできませんでしたが完成した竹垣を見ると美しく、見ているとうっとりしました。それが台風や県道の拡張工事の関係で一部、失われていたのでその志をみんなで甦生しようというのが今回の取り組みです。

もともとこの竹という素材は、むかしから日本人の暮らしに馴染んできたものです。用と美がある素晴らしい存在です。これを民藝では「用の美」ともいいます。この用の美は具体的には物が機能的でありながら、使い手の心に響く美しさを持つべきであるという考え方のことです。

日本人は、暮らしの道具の中に自然のいのちを活かすような芸術をたくさん残してきました。日常の素材のいのちをよく見極め、その徳を活かしたのでしょう。私が取り組む甦生もまた、同様の視座で取り組んでいます。これは日本人の生き方が暮らしを通して顕現したとも言えます。まさに日本人はいのちの民です。いのちは生き方のことです。

竹垣にも生き方が出てきます。なのでただ竹が綺麗だからと、海外から取り寄せたり、遠方から持ってきたりはしません。あと、やり方や方法などにもあまり固執はしません。どちらかといえば、いのちを大切に使い切る、またいのちの身近で循環できる場所のものを使う、いのちのめぐりを優先するという具合で今回も暮らしフルネスに取り組みます。

竹は同じ地域、眼が届き手が届く範囲で行われることでその素材のいのちが役立ち、みんなで分かち合い共有することもできます。今の時代は、面倒だからや非効率だから、あるいは不便だからとすぐにお金で解決しようとします。しかし循環はお金でなんとかなるのではなく、日々の丁寧な暮らしの「お手入れ」の中で行うことです。調和というのは、本来は身土不二、その土地人合一の実践で行われるものだからです。

ということで、急ですが暮らしフルネスでの竹垣づくりを行いますのでご一緒したい方はご自由にご参加ください。

日時は、2025年10月28日(火)の9時から12時まで、場所は福岡県飯塚市綱分163になります。軍手があれば、あとはこちらでご準備するので大丈夫です。

子どもたちや子孫への伝承と徳積を楽しんでいけたらいいですね。

美しい場

昨日は、地域の企業の方やボランティアの方々と一緒に鳥羽池の清掃や伐採を行いました。午前中だけでしたが、人数が60名以上いたので力を合わせて取り組みました。

ただ全部が綺麗に終わるところまではいかず、時間がかかることがわかります。もうこの鳥羽池に関わって4年目になりますが地元の中学生たちの御蔭さまで粗大ごみは減りました。しかし小さなごみはどんどんまた増えていきます。

釣りが人気な場所で、ブラックバスが有名ですが釣りの人ではないと信じていてもどうしてもそこで捨てているのではないかと思ってしまいます。本来は、人が来れば来るほどにゴミがなくなり綺麗になればいいのですがどうしてもゴミを拾う方ばかりをしていると捨てる方を見てしまいます。

環境設定をして、みんなで池を大切に見守るようにしていかないとこの関係は変わりません。

そもそもお手入れというのは、関わるみんなでするものです。放置すれば荒れていくので、放置せずに見守ります。これは業者がやることでもなく、市役所がやることでもなく、そこに関わる人たちがみんなで大切に取り組んでいくことです。

誰かがやってくれるだろうではなく、自分も何かできないかとみんなで思うところにお手入れの秘訣があります。やり方が分からなければ、やり方を教えるなど、工夫が必要です。

本来、教育というのは場の中で行うものです。自分たちが場をどのように感じて、その場をどのように創造していくか。一人一人の関わり方が場を調えていきます。身近な場が調っていけば、そのうち日本が調います。そして日本が調えば世界もまた調います。

世界を調えるために日々の小さな場を調える。

実践は果てしないようですが確実です。引き続き、場を調えて子孫たちへ美しい場を譲り渡していきたいと思います。