修繕の心~いのちの記憶~

今年は様々な古い道具を修繕し甦らせ活かしていくご縁が多かったように思います。どれも年季が入ったもので、ほとんど壊れていたものをちょっとずつ直してもう一度大切に一緒に生きていく仲間にしていきます。

物には思い出が宿っています。私のところに来たときは、その思い出と一緒にやってきます。その思い出を拭き清め洗い清めてもう一度、一緒に再出発します。どこまで一緒に居れるかわかりませんが、新しい思い出を一緒に創り上げていくのです。

蔵や倉庫に眠っていたものは、再びご縁があったものと一緒に結ばれます。お互いに呼吸仕合、互いに活かしあって日々を積み重ねていきます。これが共に生きるということです。

物は壊れることもありますし、また壊されることもあります。今年は壊される現場も見ましたし、骨董で捨てられていく現場も見ました。物には心がないと思っている人もいますが、実際には物には心があります。それは古いものを修繕し活かしてみるとすぐにわかってくるものです。

もう一度、役に立てる仕合せ、そして活かされる喜びは心が通じ合ったときに響いてくるものです。だからこそ勿体ないという心が結ばれるのです。今、時代は大量生産大量消費の社会ですから直せる人や修繕ができる人が次第にいなくなってきています。

まだまだ活かせるものを、寿命が来る前に廃棄してしまうというのはいのちの世界から観ればとても寂しくつらいことです。古いものに価値を見出し、その古いものを新しくするというのは修繕の心です。

思い出が宿っているものをどのように大切に扱っていくか、その思い出を美しいままにどのように包みこんでいくか、そしてその思い出が籠ったものをどのようにいつまでも大切にしていくか、その一つ一つの繋がり方には「いのちの記憶」が無限に結び合って広がっていくのを実感します。

まだまだ私の古民家甦活は始まったばかりですが、有り難いご縁で本当に大切なことを学び直しました。修繕の心を引き続き磨き、古からの伝統や伝承を身に着けて後世に生き方を伝道していきたいと思います。

 

 

家が悦ぶ

今年は4月から古民家甦生の御縁を通してたくさんの出会いがありました。失われていく日本の文化を守ろうとする方々、またその文化を復興させようとする方々、地域を活性化しようとする方々、懐かしい未来を遺そうとする方々、暮らしを豊かに味わって生きようとする方々、本当に多くの出会いがありました。

その一つ一つの御縁を通して、私の中でも大きな変化があった一年であったと思います。私自身は御蔭様で日本の先祖たちが行ってきた実践を後追いして学び直しができています。あらゆるところを磨き清め、洗い清めながら家を直していきますが、一緒に家人たちともその暮らしを通して美しい思い出もたくさんできました。

家を大切にするというのは、一緒にお互いに本来の心を大切に磨き合うことのように思います。私たちはその土地に住み、神徳恩恵をいただきいのちを活かしあって共生していく生き物の一つです。お互いの御蔭様に感謝してもしも自分があなただったらと思いやり、真心のままに生きてきたのが日本の精神です。その日本の精神を家があることで磨き合えるのです。そしてこの家の空間の中には、その大切な記憶が暮らしの中に残存していつまでも子孫を見守り続けていくのです。家はその記憶によって甦生し続け悦びます。

この家が悦ぶというのは、ここでの暮らしが美しく仲睦まじく仕合せであった記憶が積み重なっていくということです。これは人の一生と同じく、家が自分のカラダだとしたらそこでの暮らしは魂の悦びなのです。いつも清浄無垢にして素直に謙虚に感謝で生きていけば家もまた澄んでいきます。家に住むとは、家に澄むのです。こういう家をどのように築き上げて子孫へ譲っていくか、それが悠久の時を味わい生きていく妙味であろうと思います。

家の甦生は、日本人の甦生であり、人類の甦生です。

時代が大きく変わり、異常なことが正常だと語られる昨今。正常であったことはほとんどすべて異常に取って代わられ何が本質だったのかすら片鱗が遺っていないほどにこの世の中は元の姿が分からなくなってきています。

古い民の家を甦り活かすのは、愛する子どもたちがこの先もずっと自然と共存共栄し八百万の神々と仕合せに暮らしていくためです。引き続き、本来の姿を求めて復古創新していきたいと思います。

死から観た世界~一期一会~

昨日はさいたま市中央区にある全国の伝統や風習をアレンジした歳時の室礼によるもてなしで有名な国登録有形文化財の屋敷にて会席料理店「二木屋」を営む小林玖仁男様にお話をお伺いすることができました。

以前から小林様の著書「あの世に逝く力」を拝読していたこともあり、そのお話を中心に今回は私たちに向けてご講演をしてくださいました。小林様は間質性肺炎という不治の病を持ち、その中で死生観を見つめられました。そのお話はこの先もずっと生きているだろうという楽観的な視点ではなく、必死という死の側から観た視点でお話をしてくださいます。

私もかつて4回ほど死ぬような機会があり、一期一会で生きることの大切さ、日々を生き切ることの貴重さなどを感じたこともあり、共感することばかりでした。

小林様のお話で最も印象に残ったのは「今日が最期として生きると楽しくなる」というお話でした。「いつまでも先のことがあると思っている人はまた明日があると思っている。しかし死ぬということが分かれば今日が最期だと思えてくる。するとこの瞬間瞬間を楽しみたいと思ってくる。死が近づくにつれて毎日が楽しくなってくる。」というお話でした。

本当は毎日は同じ日など発生することもなく、自分の思い通りに一日が過ぎていくわけではありません。この二度とない一日をどのように生きていくか、それは言い換えるのなら明日死ぬかもしれないと思ったらどれだけこの今を大切に生き切るか、それが転換されていくのです。

主体性や自発性というものは、将来のことを不安視したり過去のことに後悔していたらどんどん減退していくものです。よく今此処にという言葉もありますが、それは死が身近にあって死を受け容れているからこそ顕れる現実であろうと私は思います。

私の座右の一期一会も、二度とない人生、無二の邂逅だからこそ何よりも尊くいただいたご縁を大切に過ごしたいと思うから毎日を必死に一生懸命に生きていくのです。もちろん、人間だから疲れるとかいやだなとか、なるべく避けたいなというものもあるのでしょう。しかしもしも死が迫って来ているとしたらそんなことを気にしなくなるものです。

自分の選択肢の中で如何に日々を楽しむかはこの死生観、必死という感覚をつかむことにあるように思います。人はご縁や運命や定めを受け容れるとき、どうしようもない現実に感情が揺さぶられます。しかしそれをきっと善いことになると信じて福にできるのはこの今の生き方や生きざまがブレていないからのように思います。

与えられた自分の生を生き切るということは、本当に難しいことだと感じますがだからこそ人生は深い学問の醍醐味に出会えるようにも思います。その後、クルーたちと一緒に会席をいただきましたがこの一期一会の意味を改めて実感した一日になりました。

「おもてなし」の心についても、小林様と二木屋の丸ごとの生き方を通して学び直していきたいと思います。ありがとうございました。

おもてなしの心

「おもてなし」を学び直していると、改めて発見することがあります。私がおもてなしを考えるとき、千利休の弟子との問答が印象に残っています。日々に鉄瓶でお湯を沸かしてお茶をのんでいるからかその意味と価値が心に染み入ってきます。

その千利休に有名な言葉に利休七則があります。これは弟子が「茶の湯の極意を教えて欲しい」と願ったのに対し、その七則の内容が当たり前のことすぎたため「そんなことは誰でも知っていますよ」と言い返すと「この心に適う茶ができるのであれば、私は喜んであなたの弟子になりましょう」と返答したという逸話が残っています。その極意は下記のようなものです。

一、茶は服のよきように点て
二、炭は湯の沸くように置き
三、花は野にあるように
四、夏は涼しく冬は暖かに
五、刻限は早めに
六、降らずとも傘の用意
七、相客に心せよ

そもそも茶の湯の極意を質問しておいて誰でも知っていると返答することはどうかと思いますが、千利休が如何にそれを深め続けたかということにおもてなしの心を感じます。私たちが会社で行っている聴福人であっても、極意も同じようにこの思いやりの心を実践するだけですがそれがなかなかできないから苦労しているとも言えます。いつも心を使って心のままに素直に尊敬して感謝することが当たり前にやれるようになるまでには本気で場数を踏み丁寧に精進していくしかありません。

この茶の湯の極意は、一つ一つが心が澄み渡るときに行われる境地でもあります。2つ目の炭が湯の沸くように置きというのは、ちゃんと心を込めて炭を熾さなければそれは熾きません。炭は時間で弱くも強くもなり、どれくらいの時間、どれくらいの量でやるかでまたまったくそのお湯の沸き具合も変わってきます。柔らかく優しくお湯が沸くには何度も何度も炭と火と対話をして自然と調和していくしかありません。

仕事も同じで心もとない仕事というのは、心を用いないで頭でだけやろうとすることです。道というのは、深めることではじめて心が磨かれて育ってきます。心を磨かないでいるというのは学問ではなく、ただの知識を得ただけです。大切なのは常に深め続けていくことでそういう学問だけが心になり心を通じ合わせて人々の心を変えていくように思います。

千利休はこう言います。

「その道に入らんと思う心こそ 我身ながらの師匠なりけれ」

意訳ですがどんなことでも今此処を極めていこうとする志を盡していく心で自分で自発的に深めて実践し続けようとする心そのものが本当の師匠ですと。

引き続き、子どもたちに譲っていくためのおもてなしを深めていきたいと思います。

 

たった一つ

私の郷里、筑豊で育った人物に高倉健がいます。 高倉健のお父さんは炭鉱王・伊藤伝右衛門がつくった筑豊地場の炭鉱会社大正鉱業の労務課長でした。その当時の炭鉱の荒くれものたちとの調整役だったそうで、あの任侠の雰囲気はそのお父さん譲りだったのでしょう。

現在、古民家甦生でお世話になっている大工の棟梁も高倉健のことを大変尊敬しています。筑豊の川筋育ちの人たちは、その「筋を通す」生き方を貫く高倉健を風土の体現者として慕っている人が多いように思います。筋を通すとは、私の言葉では理念を優先するということです。その場その場の善し悪しを自分中心に仕分けるのではなく、理念や初心、志や生き方を優先して自分らしく自然体で居続けるということです。これは頑固ではできず、柔軟性が必要になります。私の尊敬するメンターもみんな同じように理念は守るけれどそれ以外のことはほとんど柔軟に対応する方々です。

これぞという大切なものを守るために全てを注力する、それだけは曲げないということが筋を通すということです。自分がどんなにみじめあろうが情けなくあろうが、大事な本質だけは譲らないという人間の美しさがあります。

高倉健がかっこいいのは、単に演技だけではなくその生き方から薫ってくるその生きざまかもしれません。高倉健から志を奪うことは誰にもできないという感じがします。この志を貫く生き方が美しいと感じるのは、維新の志士に限らず大義に生きた歴史上の人々はみんな同じです。

その高倉健の遺した言葉には、その筑豊の川筋気質の根幹があるように思います。

『何をやったかではなく、何のためにそれをやったかである。今それが大切に思えてきている。』

何をやったかではなく何のためにやっているか、それが大事である。まさに筋を通す本質が語られた言葉のように思います。その他にも、

「一番大事な自分より、大事に思える人がいる。不思議ですね、人間って。」

「人が心に想うことは、誰も止めることはできない」

「人間が人間のことを想う、これ以上に美しいものはない。」

人間の精神を観て生き方を見つめた方だったことも分かります。また自分に厳しく己に克つ実践もされていたことが言葉から伝わります。

「何色でもできますっていうカメレオンは、真の役者にはなれないんだよね。」

「僕の中に法律があるとしたらおふくろだよね。「恥ずかしいことしなさんなよ、あんた」って、いつもそればっかりですよね。」

「スタッフや共演の方たちが寒い思いをしているのに、自分だけ、のんびりと火にあたっているわけにはいかない。」

「人に裏切られたことなどない。自分が誤解していただけだ。」

自分は器用ではないという高倉健さんが、その不器用であるということの本質を語るのはそれだけ真摯に自分の信念や初心に生きようとしたからです。不器用さというのは、自分を持っているということであり、自分が何のために生きるのかということを最期まで遣り切ろうと覚悟があったからだと私は思います。

私は言葉はその人の生きざまと必ずセットではじめて輝くことを高倉健さんの後ろ姿から学びました。このブログの最後はこの言葉で締めくくりたいと思います。

『人生で大事なものはたったひとつ。心です。』

心を守る生き方を子どもたちに譲っていければとても仕合せなことだと思います。真の豊かさは心の中にこそあります。心を醸成していけるように日々に真摯に正対し理念を優先して生き切っていきたいと思います。

 

安心する環境

先日、自然農の畑で高菜の移植作業を行いました。今年は種蒔きから虫の問題、猪の問題、天候の問題など色々と大変でした。無事に育ってくれるかどうかを悩みましたが今ではその大変な困難を乗り越えて生き残った高菜はとても力強く生命力に溢れているように感じました。

うまくいかないのではないか、失敗したのではないか、育たたないのではないかと思うと焦る気持ちが生まれ心配ばかりが増えてきては、あれもこれもといった無理にでも育てようとすることを考えるものです。結果ばかりを心配するのは焦りが出て待てなくなっているということです。待てるというのは結果を度外視して信じるということですから、現象に左右されずに丸ごと信じて真心でやりきっていくのが善悪成否を抜けていけるように思います。

例えば高菜でいえば、手作業で一つ一つの草を除きつつ声掛けをして畑で高菜が安心して育つように場を整えていきます。また高菜に心を寄せて定期的に畑を見にいき、高菜が今、どうしているかを確認して見守ります。

大事なのは、高菜が安心できる環境に醸成されているかといったところをよく見直していきます。

農産物をつくる農家や百姓は、作物が育つ環境になっているからこそ作物が育ちます。今では人間都合で肥料や農薬、遺伝子組み換など環境よりもそのものを変えようとしますが、ますます自然から遠ざかっていきます。

信じるというのは自然と一緒にあるからこそその御蔭様を感じる生き方をすることでもあります。人間都合であまり結果ばかりみて変えようとばかりに躍起になっていると、ますます自然から遠ざかる方ばかりを選択してしまいます。

長い目で観て、私たちは自然の恩恵に上に成り立っているものですがその恩恵を感じて感謝のままに素直に謙虚でいることが安心する環境を醸成するように思います。

失敗するとか結果がどうかもありますが、信じる気持ちのままに深めて学び直していくことで結果を超えた御蔭様の姿が感じられたりもします。そう考えてみると信じることこそが尊いのであって、良いか悪いかはあまり関係がないのが自然だということです。

引き続き子どもたちを信じる自分を磨くためにも自然農を通して、自然の持つ絶妙な見守りを学びたいと思います。

 

本物と本物風

先日から障子の張り替えを行っていますが、枚数を重ねるごとに腕も上がってきています。昔からの方法で張り替えると、如何に丁寧で丹精を込めて細かい作業をやっていたかがわかります。以前、着物や織物などを拝見したことがありましたが日本人の繊細で緻密な感性はお家芸ではないかとも感じました。これは暮らしの中で培われた技術だったのかもしれません。

最近、簡単便利に使えるようにプラスチックの障子?が出てきて売れているといいます。破れずに頑丈、物持ちもよく張り替えがない手間暇がかからないことが人気のようです。しかしよく思うのですが、プラスチックでかつての製法をまったく無視した障子風のものの名前まで障子にしていいものなのかと感じます。先日の畳もそうですが、い草を一切使っていない畳風のものを畳と呼んでもいいのか。絨毯も布団も、大量生産で安価でできる化学的なものを用いているのに伝統と呼んだりしています。

選ぶ側もよく見極めなければその差が分からず、また見た目だけ同じであればかつての本物と同じもののように見せようとする。これは日々の仕事でも同じく、理念風のものをやっているコンサルティング会社が果たして理念と呼んでいいのか。経営や方法論ばかりを優先するところが理念経営と呼んでいいのか、今の時代は真贋が見極められず偽物が本物のように語られる時代ですからよくよく先祖古来から代々普遍的に遺っている生き方や道具から本物を学び直す必要があると思います。

話を戻せば障子は、コウゾやミツマタ、それにガンピが使われています。これは和紙の材料ですがそれに対して洋紙は木材やパルプが使われます。現在は、紛らわしいことに木材やパルプのものでもすべて和紙と呼んでいますから何が和紙で何が洋紙かもわかりません。

本来の和紙は、材料が日本古来のもので製法も日本古来のものを言うと思います。この和紙には多孔性というフィルター効果があり自然な形で換気と清浄化が行われます。吸湿作用も高く室内に湿気がこもるのを防ぎ、湿度の高い日本の住環境には和紙はとても重宝します。

先ほどのプラスチックにはそのような効果がほとんどなく、元来の和紙のもつ効果はありません。現代の機密性の高い住居でればクーラーや暖房器具などで湿度を取り払いますからプラスチックでも問題がないのでしょう。かえって昔の畳や障子は、機密性の高い中では風も通らずカビの温床になったりもします。住環境が自然から離れれば離れるほどに昔の日本古来の伝統道具が合わなくなるという流れです。こうやって文化は人間都合にすればするほど風土から離れ消失していきます。

どちらにしても先ほどの洋の和偽装も微妙な話ですが、本来のものとまったく異なっているものを同じものと見なすという無茶苦茶な考え方も問題のように思います。そういえば最近ニュースでプラスチック米が出ていてそれを輸出するとかしないとか問題になっていました。プラスチックであって米でないのに、プラスチック米として食べるというのはおかしなことです。砂糖ではない石油系の甘味料も砂糖として誰も疑問を感じずに食べるような時代、当然かつての伝統の材料もまた同じように別物に入れ替わってもたいして問題にしないのでしょう。

古民家甦生の中で感じるのは、この辺の曖昧な伝統をはっきりさせていくことかもしれません。本物でないからそのものが価値を輝かせなくなり、本質でないからみんな手放して離れていくのです。今の時代は本物を敢えて見直し、その本物に原点回帰していく必要を感じます。

本物と本物風では、その本質がまったく異なることを学び直す必要があります。これだけ周りが本物風になってしまうと本物の方が陰をひそめていますが改めて本物の価値に回帰してこそ本物風は駆逐されていきます。

本物風は短期的な目線でつくられますから、長期的な目線で本物の価値を伝道していくことが何よりも時代です。そういう意味で体験できるような機会を用いることや、実際にそのものの価値が分かるようにしていくのは今の時代には必要不可欠な力なのかもしれません。後世の人たちのためにもっと私たちは考え直す必要があるように思います。

引き続き、本物を追及して子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

 

和合と伝統

先日から障子の張り替えを行っていますが、昔ながらの手漉きの和紙の障子は風合いもよくしっかりしています。和紙を辞書で調べてみると「ミツマタ・コウゾ・ガンピなどの靭皮 (じんぴ) 繊維を原料として、手漉 (す) きで作る日本古来の紙。強靭で変質しにくく、墨書きに適する。 美濃紙・鳥の子紙・奉書紙など。俗には、和紙に似せてパルプ・マニラ麻などを機械で漉いた洋紙も含めていうことがある。日本紙。わがみ。 」goo辞書と書かれています。

和紙と呼ばれるのは明治以降に量産のため機械化されてからでそれまでは紙はすべて和紙のことを指しました。この和紙は厳密にいえば原料の違いなどもあるのですが、製法が元来の昔からの方法で造られたものを言うように私は思います。

これは和紙に限らず、和蝋燭も同じく昔ながらの手仕事た手間暇をかけて素材そのもののいのちを活かすようにつくられました。この和とつくものは、他にも和包丁など西洋からの似て非なる技術が入ってきてから敢えて「和」と着けるようになったのでしょう。

この洋と比べた時の和は何をもって和というか、それは伝統を守った方法であるから「和」というのではないかと私は思います。

伝統的なものは、すべて「和」であるとしたら日本古来からの精神のことは「和魂」というのでしょう。熟語に「和魂洋才」という言葉があります。これは日本古来の精神を大切にしつつ、西洋からの優れた 学問・知識・技術などを摂取・活用し、両者を調和・発展させていくという意味の言葉です。

この和魂洋才は、伝統的なものを大事にしながら何を守り何を磨くかを見極めこの「今」を新しくしていくということです。つまりは伝統的な精神、日本人のままに今の時代を生き切るということです。これは決して古びれたものを守ればいいというのではなく、本来の生き方を貫きながら今の時代ならどう創意工夫して和合させていくかということです。

だからこそ様々なことを和合していくためにも、先祖たちはどのような暮らしをしてきたか、その生き方や道具の余韻から学び直しながら今を刷新していくのが私たち子孫の使命なのです。

自分の文化が根っこに基礎として確立されているからこそ多様な文化を取り入れる素養が身に着きます。歴史を体現するものこそ、今の時代に真に存在していることになります。

引き続き子どもたちのためにも、様々な日本古来の伝統の道具から生き方を学び直していきたいと思います。

広げると広がる~継続は力なり~

何か物事をはじめて取り組むとき、それが人々に情報として広がっていくことがあります。今のような情報社会の中で、如何に情報を広げるかはそれぞれの企画の会社が取り組む課題でもあります。しかし情報には、広がるというのと広げるという考え方があります。広がるのは自然発生的に広がるのであって、広げるのは意図的に広げるということです。

この「広がる」と「広げる」というのは、情報リテラシーを学ぶ上でとても大切な認識となります。

私たちの商品の一つにミッションページというものがあります。これは理念実践の発信を行うことですが、何か広報で広げようとするのではなく自ずから広がるまでそれぞれ全員で日々に積み重ねた実践を発信していきます。

人は情報が多い中でも本質的に「何のためにやっているのか」を確認しているものです。情報過多になればなるほどに、本質や目的はわからないまま判断できなくなりますがもっとも親切なのはその本質のままに本物であるのなら情報は迷うことはありません。今は本質よりも大きく見せたり、本物のように誇張したりと、実際の現実とは異なったもので注意関心を引き付けようとするから広げることが増えています。TVCMや雑誌の広告などもそうですが、如何に広げるかに躍起になっています。

広がるというのは、自然発生的なものです。

これは植物を育てるのと育つこととの違いに似ています。育てるのは人為作為的であるのに対し、育つのは自然自発的です。同じく広げるのは人為作為的であり、広がるのは自然自発的です。

この広がるというのは、道が広がるということにも似ています。無理に広げても広がらないものもこの世にはあります。それが生き方や働き方などもそうです。しかし実践する人たちが豊かに仕合せに楽しく取り組んでいる姿があれば、自然に自分もそうありたいと同じ道に入ってくる人たちが増えてきます。

そうやって同じ道を歩む人たちが増えてくれば、自ずから道は踏み固められその道を歩む人が増えれば道が広がってきます。今では道路工事などで無理に道路を広げていますが、かつては道は自ずから人が歩くことで広がっていったのです。

どうしても人は焦ると無理に広げようとしたり、広がらないことに悲嘆したりしますが、広がるのを待つ心があれば理念を実践を真摯に取り組んでいくことができるように思います。

イエローハットの創業者、鍵山秀三郎さんが一人から掃除をはじめて今では日本だけではなく世界にその掃除道が広がっています。これなどはまさに広げることとは異なり、広がるということの意味を証明しています。その鍵山さんの座右の銘に「十年偉大なり、二十年襲るべし、三十年歴史なる」があります。広がるのを信じるのなら、継続を怠るなということです。まさに諺「継続は力なり」の本質です。

継続を怠けようとする時こそ、無理に広げようとするのが人間です。そうではなく、自分の実践を継続することで広がるのを待つという心境を大切に焦りが出るときこそ真摯に心を込めた日々の実践に回帰することのように思います。

引き続き、初心を忘れずに広がるのを楽しんで待つ心境で日々に豊かに取り組んでいきたいと思います。

暮らしの体験

今週はずっと仲間と一緒に聴福庵で過ごしましたが、家も心も温まる素敵な暮らしをたくさん実践することができました。餅つきにはじまり、家の修繕、掃除、また明障子の張り替え、畳づくり、そのどれも貴重な暮らしの体験をすることができました。

実際に暮らしを体験していると、暮らしの合間に仕事をしている感覚がよくわかってきます。都会では暮らしそのものがなくなり仕事漬けになっていますが、本来は暮らしがあって仕事があるのです。それもまた今ではわからないくらい都会は便利で全てが揃っていてお金さえあればほとんどのことができるような環境になっています。

便利さというのは、かえって暮らしを遠ざけていきます。例えば、漆器や陶器など昔から大切にしてきたものを使えば食後すぐに洗って拭いて乾かすという行為がいります。しかし紙コップや使い捨てのものを使えばゴミにしてしまえばその労力は必要ありません。簡単便利の方を優先するのは楽ですが、その時大切な暮らしが失われていきます。

暮らしの中には、すべて感謝する機会があります。感謝する心や恩返ししたいという気持ち、御蔭様を感じる精神はこの日々の暮らしの実践の中に存在します。私たちは暮らしを通して感謝を学び、暮らしを通して生き方を直してきました。自分の我慾に打ち克ち、いつも平常心で本質からブレナイ生き方ができたのも暮らしがあったからです。

人間は人間の都合を優先すればするほどに暮らしと感謝する機会が失われます。そして同時に心の豊かさというものも消失していくのです。物が溢れ成功したけれど豊かさがなくなってきたという人は沢山増えてきた今の時代。なぜそうなったのかを突き詰めてみるとそこに「暮らし」が関係しているのは自明の理です。

私たちは物質的なものを有り余るほど増やしそれが自由に搾取できれば豊かさであると刷り込まれていますが、その豊かさは本来の豊かさの本質とは意味が異なっています。物が豊富にあれば豊かなのではなく、暮らしがあるから豊かなのです。暮らしが優先されていく中に、そこに暮らしを彩る道具も物も人もあればそれは感謝に包まれる幸福な日々が訪れる、その豊かさが本物の豊かさなのです。

国が富むというのは、自国を成功させようと必死になることも短期的には必要ですし確かに結果も大事です。しかし長期的に観れば同時に人間はただ生きながらえる生物ではなく、そのプロセスの思い出や体験こそが人生の生きがいと喜びになりますからそれを大事に積み重ねていくことで唯一無二の自分の人生を謳歌できますし国もまたその人材たちによって真に豊かに発展していきます。

私たちのやっている古民家甦生は暮らしの甦生です。

引き続き子どもたちのためにも、自分たちが実践して先祖の暮らしから気づいたことを伝承していきたいと思います。