癒し

昨日、親しい取引先の皆様と一緒に見守るファシリテーターの実践研修を行った。
久し振りにお会いする方も居て、とても豊かで楽しい時間を過ごすことができた。

もちろん研修なのだから勉強するのだけれど、本当の学問とは笑いあい気付きあり、そして皆で肯定的に思いやり出逢えたことの歓びや感動の和、その豊かで充実した機会を楽しむことではないかとも私は思う。

何か一生懸命に椅子に座ってじっと聴くのもいいのだけれど、そこに自然なものをあまり感じることができない。人はみんなで物事を考え、みんなで取り組む、みんなが一緒に達成することこそが癒しであり、そうやってみんなの中で自分が包まれていることこそ自分という存在を丸ごとを受け容れることが自身でできるのだと私は思う。

昨日も、一円対話を通じてみんなで幸せと感謝などを語り合うことになった。

やりたいことをさせてもらえるのは、天の御蔭であり、周囲の人たちとの出会いの中で見守られできるということ、相手がいなければできないことでもあるし、その人たちがいるから自分がそれをやろうと思うこともできる。

そう考えると、いつも他人ばかりをどうにかしようと自分都合で相手を動かそうとするのではなく、今その状態丸ごとを信じることで如何に隠された深い意味を感じ取るかや、そこに価値があると思えるかが自分の人生を自分自身が決めて納得して生きているということになる。

人生は、天に一切全托するとそこに自分がすべてのものから活かされているということを知るに至り、それを感じるままに丸ごと包み込まれてみると有難いなとそのあるがままにいることの素晴らしさを感じることができるのだと思う。

たとえば、今の自分は好きなことをやらせてもらっていないと思うようだけれど、好きなことを遣るために苦労しているのであり、好きなことに向かって執着し努力していることになる。つまりはこれは、やれるやれないということよりもそういうことが出来ていること自体が好きなことでありそこに無限の安堵観と至上の喜びがある。

善い悪いを超えた、そのままがもっとも素晴らしい、あるがままであることが有難い、今このときがあることが感謝、自分自身が生きていることが幸せだと感じることがより良い人生と共に人間を幸せにしていける見守るファシリテターであると私は思います。

自分自身がそういう生き方をすること、そのモデルを示すことこそ真の子ども第一主義であると思います。

子どもたちは大人たちの生き方から自分たちの生き方を学びます。

大人がもしもそういう人生の喜びや感謝を感じつつ、自然体でいるのならば子どもは安心して見守られた社会の中で育つのだと私は信じます。

今は、競争社会や一斉画一社会の中で、排他的で弱肉強食、間違った個人主義により個々に責任を無理やりに持たせ孤立している人たちがたくさんいます。

だからといって自分がそうなるのではなく、もっと思いやりをもって環境に左右されずにすべての物事を生まれたての子どものように受容する心をもって世の中を易えていければと念じます。

子どもたちには、一人ひとりが色々な個性あふれるその生涯をみんなが発揮し、みんなが歓びあうという癒しを味わい尽くし、かけがえのない一度きりの人生を輝かせられるように私たちはパートナーと一緒に使命を尽くし見守る社会を譲っていければと思います。

これからも志を高くし、ともにこの道を歩んでいけると良いですね。

昨日は本当に豊かな時間が過ごせました。
皆様、遠路有難うございました。

今はこれ

昨日は、中京大学で世界会議が開催されそこに出席し開催者の講演を拝聴してきた。私は、メビウス理論の吉川先生のご招待でその哲学の実践事例の一環として参加をさせていただくことになった。

講演では、今のようなまるで乱気流の時代にどのようにブレークスルーするのかなどについて語られていた。私は、自分が決めていればどの時代もそこには安んじるところがあり、外的環境で左右されることはないという師を持ってから不動心のようなものを学んでいるけれど、やはりリーダーはどの時代もそういう外的環境の中で本来あるべきを維持し譲り守れる人が選ばれるのだと思う。

よくバランスを保つや、柔軟性を持つ、両輪が廻るなど、色々とリーダーとしての資質に必要なものに優先順位を決められるがある。部下はそれを信じて着いてくるし、人はそれを信じて追ってくる。だからこそ、人を導く側なのだから常に天下の王道に照らしてどうなのかを考え抜けているかどうかはとても大切なことだと思う。

私も何かの仕事や相談を受けていると色々と矛盾することを言わないといけないことがたくさんある。その中で、皆がそれぞれに自ら何かこの言葉に深い意味があると受け取ってくれれば、そこからその意味を紡ぎあっちこっちという反応型の二択ではなく、こういうことかと思えるような内省型の一体の答えを導きだしていくことができる。

しかしつい何かのことを行う時に人が陥りがちなのはそれを正しいか正しくないか、もしくは自分都合で判断し間違っていないと勝手に決め付け、どちらかに偏ってしまい柔軟的な発想や行動などがまったく判断できなくなってしまうことだ。それに対して、そうではないと言い続ければそのうちに反応することばかりで必死になり本来考え抜くというような本質を捉える重要性に気づけなくなり追われていくような日々を送ってしまうことになる。

この柔軟性とは、自分が本当に全体のために遣りたいし遣らせていただけることに深い感謝とともにその根本的なものを自ら考え抜いて決意できており、常に「今はこれ」ということを道をともに進む仲間たちとともに判断できるようなことを言う。それを同志ともいう。

それを決めずに、他人にあわせて自分で決めなければ今もこれ、常にこれ、いつまでもこれと言う風になってしまい、本来は理念など中心軸にあるものにあわせて自分で決めないといけないのにそれが観えなくなっているからこそ何を決めることもできなくなり、目の前に相手に頑固に自分の持っている先入観や価値観のみに囚われ、本来の大きな目的のために本来の自分を活かして感謝の輪を喜んでいただくことができなくなっていく。

頑固であるとは、自分の価値観のみを優先し、この「今はこれ」を考え抜いていないことであり、柔軟であるとは「今はこれ」と常に優先順位を自分で決めていられることになる。

最終的には自分で優先順位を決めなければ事物のタイミングや周囲との一体感も持てるはずもなく、それを客観的に一人で判断できるようになるには人間学や時務学をバランスよく学び天人合一するような王道の実践を丸ごと信じているからできるというものでもある。

それはリーダーが行うのだから、フォロアーは理念を主軸にどれだけ全体にとって良いか、つまりは「三方よし」であるかを考え抜いてからリーダーに相談し自ら決めるという行為を主体的に決め続けていくことが大事になる。

それが優先順位が理解できることであり、もし「今はこれ」を自分にさせていただけるとすれば当然それは自分の力ではなく多くの人たち、またはすべての御縁への深い感謝の心がそういうものを引き出していくし、またそこに思いやりを尽くせているからこそ自分と言うエゴを超越し自分の足るを知り世界や全ての周囲に自らを活かしていけるのだとも思う。

最終的には、自分が正しいこと行うこと、つまりは仁義礼智心忠孝悌など人としての正しいと言われる人の道を誰にも見られていようがいなかろうが天が自分を見ているとし実践を怠らないで自然にそれができることになることが安心して自分の天命を立てることになるのだと思う。

だからこそ、見ていないと自分が思っている時間の過ごし方やその心の在り方などを修養し、天が信じていると思い、天と同じように自分もいたいと至誠至純の心をもって思いやりをもって人を愛していくことだと思う。

まだまだ私自身、分かってはいても師のような実践ができるはずもなく、しかしそれ自体が深い意味が在りここに学べるという有難い機会に感謝し、今日もまた一期一会の邂逅があることに何よりも感動と喜びを感じたいと思います。

子どもたちには、そういう大人の実践が感化され生まれてきた意味やその生きるという素晴らしさを私自身の道で表現していければと思います。あるものを観れば感謝のことばかり、出会いや別れその美しき豊かな生に有難い天の恩恵を感じます。

感謝再拝

暗黙の了解という無責任

昨日、岩手県からとある法人で抱えている職場の環境や人生のことについてなどを相談をしに来社された。

通常は、こういう相談は自分の本来やるべき使命を優先して調整したりしないのだけれど今回の課題が理念についてなどやマネジメント、その他、変化、改革についてなどであったこととその熱意に感動しお会いすることにした。

そこでの、問題は本質的には自分の在り方が重要で環境に左右されずに本当に自分がやりたいことを決めることであり、その決めたことを実践することにより提案し感化していくしか周囲も含め変える方法はないのだけれど、それまでに出来上がった集団的無責任の職場環境が保守的であり大変なことになっているのもあった。

もともとなぜ集団的無責任になるかというと、そこに暗黙の了解というものがある。誰も何もしないことが守ることであり、皆が何もしなければ誰かがやってくれると盲目に信じることにこそ守れると勘違いしているということ。

無責任であるとは、自分が持ってしまうことで失敗するのではないか、自分がやってしまうことが周りの迷惑になるのではないか、自分が自分のせいにしてしまったら最終的には守れないのではないかという思考回路であるのだと思う。

何かのことを誰か任せにするというのは、自分の人生を自分で決めないことでもあるだけではなく、協力しあって自分から主体的にやろうとはしないという決定を自分がしているということになる。

最終的には強烈なリーダーに頼もうという他人本位の考え方であり、自分たち一人一人が守なければと思わず、カリスマ的なリーダーの登場ばかりを望む依頼信や依存心のことである。

平均的にはこういう職場は公の仕事をしている人やサラリーマンに多いのだけれど、部署も変わるし、町長も変わる、みんな移動するのだから最期まで責任を持てないのだから先述したリーダーに周囲に仕向けられないように自分という私をどれだけ入れずに要求をするかに躍起になるのが仕事になっている人がいる。

そういう組織は向上心で責任を持つことをとても怖がる傾向がある。もしもリーダーになったら自分の無責任と同じくしていた周囲の集団的無責任のすべての負担を背負わされると思うからかもしれない。

しかし本来、何かやりたいことに皆で力をあわせて協力するとは、自分がどうしたいか自分が自分の意志でその目的や理念に「責任を持って参画する」ことであり、自分がその一部を担い背負うことではじまっていくのだと思う。

それぞれがそういう責任を自覚し正しく担うことが、皆の負担を取り除くことであり、自分が決めて自分が行うことでやり遂げるという意志自体が集団に対して提案していることであると思う。

これが単なるクレームや、何もしないということや、日和見や受身になるとそれ自体は提案でもなく単なる言い訳か周囲への自分勝手な要求となる。

自分で決めないということは何もしないよりも悪いということ。

流されるというのは、誰かにひっついていくということであり、自分の足で着いていくとはいかないからだ。人は自分の足で立たないといけない、自分の心で取り組まないといけないのだ。

最終的には、その方も自分で決めてやり切ると決めて郷里に戻られた。

自分が誰にも左右されずに、自分で決めるから人は柔軟性を持つことができる。素直になって正直になるにも、周囲のせいにすることもできず、自らの天命を信じて自分のやりたいことに必死に誠を貫けばそこに道が開けると思います。善いチームもそこから生まれてくると私も信じています。

そしてそういう集団的無責任の人たちは自信のなさや自己肯定感の低さからくるものであったり、数々のトラウマや不一致、刷り込みやしがらみの中で立場立場で自分を押し殺して無理をして辛い思いをしているものです。

しかし、大事なのは自分はどうあるべきかということであり、素直に純粋に大切にしたいことを自分が決めて実践していけば必ず周囲は変わっていくと思うし、その刹那、自分も変わっていると思います。

離れていますが、志を高く持ち、大義に行動することに勇気を頂きました。
お互いに立志天命を信じて、日々を大切に過ごしていくことだと思います。

今後の発展と初志貫徹を祈念しています。

信じることは守ること

何かの価値や守りたい大事なものがあるから人は信じることをする。
そしてそれを自分が守るからこそ信じることができる。

今の時代は、仕事でもそうだけれど一般に雇用者と雇用主という関係で成り立っているところも多いけれど本来人と人の関係はそういうサラリーマンと言われるようなコストなどでは量れるものではない。

人と人とが働くと言うことはお互いに幸福になるためにあるもの。そしてお客様とは、私たちの存在価値そのものでありそのお客様からの信頼や信用の根幹であるその価値や評価を自分が下げないことがその組織の信じているものを自分がその一員として責任を持ち守っているということでもある。

しかし今、周囲を見回すとそういうことを誰か任せにし無責任になり、さらには自分自身の人生をも自分で決めないことによって誰かに守ってもらおうとする依存した人がとても増えているようにも思う。もしくは、自分が守るのではなく、自分を守ることが優先されているという自己都合で働いているような場合もある。

例えば、一般的にこれは誰も通る道だけれどその親元を離れ自分が立派に社会の一員となり両親に心配をかけないようになるためにも守ってもらおうとするのではなく自分で立とうと思うことが自立ということでもある。

しかし、いつまでも誰かに依存して甘えていようとする気持ちがあり自分で決めずに流されようとすることは自分で信じることをしないという行為ではないかとも思う。

社会に出ると、自分で就職活動をし自分が本当にやりたいこと、自分の求めていることをやれるところを自分が探しだしそこに自分が就職する。

自分が決めて納得した就職活動をした人は、自分が決めたのだから会社のせいにはせず、誰かのせいにはせず、自分が決めたことを自分が守り、そこから会社で大切にしていることや共感したことを誰よりも自分から徹底して守ることができる。

自分が決めずに納得していないのに会社に居る人は、自分が決めないのだからいつも何かあるのを会社のせいや誰かのせい、待遇のせいやましてはお客様のせいにまでして、自分が決めないことをいいことに、会社で大切にしていることも破り、自分勝手に独善的な判断をし誰かにやらされたことだけはやるという指示待ち人間になってしまう。

そしてこれが組織のチームワークそのものの問題にまで発展する。

例えば、何かしらの方針を打ち出し大切なものをやるために経営者が決断してもそこをともに見ようともせず、自分がどう見られているかや分かってもらえるか、認めてもらえるかだけに躍起になり、最後にはお客様までも一緒にみていこうとしなくなり、そのお客様からも自分がどう見えているかばかりを気にして仕事をしてしまっている人もいる。

よくよく考えると、お客様にご迷惑をかけないことが価値を守っていることでありさらに価値を伝えるならば自分が会社にもご迷惑をかけない存在になっていなければならない。

そしてそれは、すべてに「約束を絶対に守る」ところからはじまる。

人は、何を信じるかというのは守るかどうかを信じるのであると私は思う。

相手にあわせて守ったかどうかなどは神様ではないからすべてを観ることはできない、しかしその人自身が自分で決めたことを守ったかどうか、皆で決めたことを守ったかどうかは見ることも知ることもできる。

つまりは、そういう皆で決めたことを守ることが信じること、信頼しあう関係を創ることなのだと思う。

これを勘違いし、自分から破る人は最初から守る気がない人であり、自分から弱いとか甘いとか言うけれどそれは自分のことだけしか考えないから自分が守られることばかりを周囲に求め、自分が守ろうとする意志がないことを自分で証明していることになる。

こういう依存体質があれば、そのツケは周囲に周り迷惑をかけてしまう。

いつもいつも迷惑を他人にかけて生きてきた人は、そういう信頼を自分が壊して孤立していくことに気付いてはいない、だからこそなぜ自分がいつもこんな目にと被害妄想をかきたて愚痴や責任転嫁の人生になってしまうのではないか。

本当は、自分が自分を守るのではなく自分から決めて自分が守るという信じられるような実践を徹底することが周囲に迷惑をかけないでいられることだと気づくべきではないかと思う。

人は決して一人では生きてはいけない、だからこそ何か大変なときにはできないことは誰かに頼まなければ助け合わなければ生きられない。

だからこそ自分が迷惑をかけていると思う姿勢や、謙虚に何でもさせていただきますという実践がその信頼関係を築いていく基盤であるべきだと思う。

そしてそういう組織のリーダーは守るものがもしもリーダーが自分を守りたいとあれば、それは大いなる過ちであり、人を調和する役割として価値を理念を守るために一人ひとりのみんなの力を引き出していき借りていかないと大切なものを守ることはできない。

今は、園の経営改善などに関わるけれどそこに関わる人たち一人ひとりの自分が決めて自分が守るという信じる力が何よりも理念を立てるのに必要になる。

見守る保育を広げる以上、信じるということの本質を理解し、実践し、それを感化していくためにも自分たちがモデルを示していきたい。

信じる者がなぜ救われるのかの真実を悟り、自立するということの本当の意義を感じ尽くして社業に努めていきたい。

感謝

環境と自立

環境というものがある。

いくら良い素晴らしい環境というものを用意しても、自分で主体性を発揮せず依存しそこに甘んじる人がいる。どういう人がそういう人かというと、何かの出来事を常に周りの環境にせいにしている人のことだ。

「インビクタス〜負けざる者たち〜」という映画がある、この意味は「征服されない」というラテン語からきている。これはイギリスのウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩であり、マンデラ大統領自身の愛している言霊でもある。

マンデラ大統領は、27年間も監獄につながれその後、南アフリカ共和国の大統領になりノーベル平和賞など数々の功績が認められ、人種差別という人間の深い業に真摯に向き合い民衆を正しく指導した王道政治を行ったリーダーだ。

自分がどんな環境にあったにせよ最後まで自分の人生を自分が決めているという環境に負けることのない「自立」という点で私も日々実践し構築している見守る環境というものの定義が生き方そのものを通して説明できる。

その愛読の詩、インビクタスの最期の2行にもっとも環境に対して主でいることの重要性が説かれる。

「・・・ 私が我が運命の支配者 私が我が魂の指揮官なのだ 」

人は、誰しも安易に周囲の環境をみて自分がどうするかを決めていこうとする。人、モノ、空間などでもまずそれが厳しい環境であればその環境にあわせて自分を厳しくし、もしも環境が甘ければそれに甘んじて甘えようとする。

本人の自立しているかの資質とは、環境の中に置いてみるとすぐに分かる。

人間学を積み、人間ができてくれば自ずから心を立てることができて何にも左右されることもなく、自分で決めることができる、そして守ることができるのだと思う。

ある人は、自分で決めた日記を書くということを誰にもいわれずとも必ず書き続けることができ、またある人は自分で決めた掃除などの生活を誰にも言われずとも正しく厳守しやり続けることができる。

しかしある人は、自分で決めたのにいつまでも忙しいからとやろうとはせず、またある人は自分で決めても環境にせいにし言い訳をして実行はせずに常にできない理由ばかりをのべてまったく続けることができない。

これが環境というものに自分がどうあるのかが出てくる、出てくるのは本来の自分自身の主体性というものだと思う。

たとえば、見守るという環境が在る。

これは相手が自立し共生して社会を通して自分の人生を豊かにするためにその平和で幸福な一人ひとりを大切にした環境を国やもしくはリーダーが用意するとする。

その中でもっとも大切なことは、「自分との約束を自分で守れるか、自分のことを自分で律せるか、つまりは環境がどうであれ常に自分で正しい判断と行動ができる善き人間であれるか」ということではないかと私は思う。

例えば、教育でも個人教育や個性教育とは道徳教育と密接に繋がっている。

なぜなら自分で自分を律することができるかなどはすべて自分で決める力を持つ一人ひとりが社会に自分の意志で参画し、正しい倫理観によって調和できるから平和な世界ができてくるのだと思う。個性とはつまり道徳のこと、人間ができるということだと私は思っている。

それをするために、世界の教育では幼少期から「自分で正しい判断を持ち決める、それを自分で守る」ということを絶対評価にし、その絶学ともいう学びから正しい判断基準が持てるような人に育てていくことを重んじている。

しかし今の大人はどうだろうか、誰かに管理されて厳しくされなければ自分を持てないや、環境が甘いので次第に自分都合に流されて自分で自分を甘んじていることをいいことにいつも言い訳ばかりをするようになってしまっている。

小さな組織であれそういう人たちばかりであれば、これでは国家も同じくで、国民一人一人が自分で正しい判断で律していかなければある人は我儘ばかりになり、ある人は自分のことばかりしか大事にせず、またある人は言い訳ばかりで責任を転嫁していたら、確実に国家は滅びるのではないかとも思う、それに正直者が馬鹿をみるような社会がとてもお互いを信頼し合う幸福なものとも思えない。

大学にある、まず国家を修めるにはまずその身を修め、一家を修めとあるけれど、まさにその最初の自分が修まらないのに決して世の中を善くしていくことなどはできはしない。自分との約束が守れなければ信頼と調和の平和はきやしない。

弊社には理念ブックがある

理念ブックは、自分たちが守ると決めた道徳的倫理であり、それこそが私たちが自分でクルーでいるという約束でありその自覚こそがともに信頼しあうという証でもある。

それを厳守する、またはお互いの小さな約束は自分が徹底して守り抜くからこそ誰かのせいや環境に甘んじない自分が主体とした自立する信頼関係ができあがるのだと思う。

常に、環境というものを通して、「自分が甘んじない人=自分との約束を自分で守れる人」そしてその判断が正しくできている人こそが自分で自分の人生を主導して支配していける自立した人ではないかと思う。

仕事も同じく、報告や連絡、相談などもそうだし、責任や役割、貢献や共生などもそれをトップダウンなどではなく自分が誰にも言われずとも自分でできることが環境を与えられて甘んじない人なのだと思う。

もちろん、自分で自分を正しく評価できるようになるには自分で考えて選択し全てに納得し決めていく力が育っている必要がある。

その力は、先程の詩にあるように人生の主導権を自分が責任を持ち魂の支配者は自分だと揺るぎない自覚で日々を正しくすることだと思う。

子どもでいえば、嘘はつかない、他人のものは盗まない、約束は破らない、言い訳はしない、他人を騙さない、他人を蔑にしないなど、人として当たり前であることを自分が守れる人であることからそういう正しい判断はできるもの。

子どもたちに見守る保育を展開していくとしても、大いなる寛容の心と揺るぎない信念という柔和で芯のある模範を示し、その環境との関係性や相互作用によってその人格形成のお手伝いをしていくのも私たちの仕事の一つ。

私自身、どんな厳しく甘える環境が周囲にあるとてそこには惑わず迷わず常に自分が納得し決めることを尊重し厳守し、それから学び、そこに潔癖なまでの魂の実践をもって歩んでいきたい。

草奔崛起を志し、大和の精神を伝承していきたい。

チェンジングリーダー

リーダーは、どの時代もいつも変わり続けていくことが求められる。
停滞して変化をやめたらもうそれはリーダーではないとも言える。

どんな状況下でも、良くないと思えば時としてすぐに決断し迷わず動き、時には不動の信念を持って決断して迷わず動かないということもある。

つまりは、いつも澄んだままで物事を見つめ、素直なままであるがままにしていること、そういう全体を俯瞰しつつも原理原則に沿って迷わない決断ができることが必要になる。

しかし、そう思ってはいても皆がいう意見やとかく常識というものに囚われ考えを凝り固まったものになってしまうことも現実だと思う、なぜならその時、その刹那、人は深く孤立するのではないかとも思う。

リーダーは、孤立や孤独を恐れずに自らの魂を鼓舞し、自らの運命を丸ごと受け容れ自分がまるで器や道具にもなったように神に身を任せ真っ直ぐに立ち向かう勇気がいるのではないか、そう思った。

良かれと思う大筋の筋書きではなんともならないことが多く、この辺だと見込みを立てても平均ないで収まるようなこともできない、常に出来事は明確に繊細に決断を迫ってくるものだし、その時の結果の責任はすべて受け容れる状態でなければいけないときに相談できる人は自分自身の魂や命の向かうところとなる。

不撓不屈の精神や、寛容の精神、調和の精神、模範の精神、徳の精神、人々を鼓舞し導く精神、思いやりの精神など、キリがないけれど、人間が神様に求めるような威徳を備えた神のような人を人々はリーダーに推したがるもの。

そしてそれを観るからこそ、そこにリーダーの凄みを感じて尊敬し崇拝していくのだとも思う。

もともと人間は誰しも同じく人から生まれてくる人の子でもある。

それが、自らの運命と対峙し命の一期一会と向き合うとき強靭な信念と意志が生まれそこから光輝く徳風が磨かれていくのだと思う。

その中で、天に選ばれた人が必然的に世の中で活躍し新しい流れを世界へ創造していくのだとも思う。

チェンジングリーダーとは、リーダーがチェンジするとも言えるが正確にはチェンジングするときにこそ顕れるからリーダーなのだとも思う。

日頃は、ゆったりとしていたとしても時として有事があるとすぐに閃光のように顕れあっと言うまでに流れを変えることができる。

だとしたら、リーダーとはいつもその時が来てもいいように常に準備を怠らない人であるとも言える。

その天が何かを指示する際に、すぐにあるがままに天の運行と命をあわせて動けることがもっともチェンジングリーダーとしての資質ではないだろうか。

人に影響を与えたりする仕事や、人を伝道するような仕事はすべからく変化が求められる。

他に影響されない孤独さや孤立さに打ち勝ち、自らが自らの人生の主導権を持ち、自らが決めた人生を自ら生き抜くという主体性こそがその人の人生を決める。

だからこそ、どんな周囲の環境が壁になったとしてもその人生そのものを最期まで諦めず受容し尽くし、その上で信じる力こそが変化というものには欠かせないのではないか。

常に時代は変わる。

変わるからこそ、人は時代に求められる。
求められたときにこそ、人はその命を輝かせることができる。

謙虚に、自分を使ってくださいや、自分に何かさせていただけることはないかと思いつつ孤独を恐れず大望を抱き歩みゆく日々の実践に載せて夢は実現可能のものになっていくのだとも思う。

小さな日々、小さな生活にも変わらないといけないと思う危機感が溢れている。まずは、人を変えようとする前に、自分がまず率先垂範して変われるような実践を大事にしていこうと思う。

まずは自分が変わること。

すべてを許し、過ちを受け容れ正し、子ども達のモデルとなっていきたい。

一流の定義

色々な古典を読み取り、思想を感受感応するうちにある一つの共通点を観ることができる。

そこには、太古から脈々と悠久に引き継がれているている時間が在り生命の営みが新旧今と存在しているように思う。

そしてそこに偉人というものや、もしくは自分の天命を全うしたものの生き方や思想を鑑がみることもできる。

そう思うと、人がこの世で納得し幸福であるとは調和というものをどれだけ内包できる器を持てるに至ったかというのはとても重要なことだと思う。

儒教でも、仁義礼智心をはじめ人としての在り方、道徳が問われる。そして神道では真心、仏教でも同じく様々な戒律により道徳が示される、他のどんな宗教であれ四苦八苦を受け容れるために本筋にあわせて生きる方法を顕わしている。

そして、神道などにあるように天や自然というものを神とし畏れ奉り感じてそれにあわせていく生活としての調和、儒教では仁や恕とし、仏教では曼荼羅などでも伝えられている。

そう考えていくと、天人合一された人間がこの世で天命を果たすことが宇宙創成の意志だとするとその空や無、結い目であるがままというのは自然と道徳が渾然一体となったものではないかとも私は思う。

つまり、人が人であり一流というこは、まさに自然と道徳を併せ持つ人こそだということにならないだろうか。

今の時代は、何か有名であればや人気があれば、もしくは偏っていたり派手だったり、世間では成功者と呼ばれる富豪だったりと、何が一流なのかがわからなくなってきているように思う。

年齢を重ね、仁義に欠けたり、礼儀がなかったり、自己中心的に他を排斥しようとばかりになっていたり、嫉妬や乱暴などの大人に一流などとは思うことは誰しもがない。

やはり、自然であるということは自然界の戒律をよく厳守しあるがままで自分の生命を存分に生かしつつも、人間的な思いやりと理知理性に添った道徳の風紀溢れる人がたくさんの人たちから親しまれるのだと思う。

自然と同じだけでいいのであれば、自分の好き勝手にやって自分の内面の声だけに従えばそれでいいのかもしれない、しかしこの世は人間界で自分を立てていくのだから社会が在る。

社会があるということは、そこに学問を通して習い真似び、それを繰り返す中で自ら社会で周囲に恩徳共生を享受できるような実践をし修身する必要が在る。

学問とは、自らの身を人間社会で修めるために存在し、またその学問を使い大いなる畏れと敬いを持って生きていくことが大切だからこそ生まれたのではないかとも私は思う。

こういう時代、人間社会は乱れ、自然との調和は蔑にされ、二流や三流でいることが楽して生きたり、便利で利得を貪ったりする中で、大変な思いをしている人たちや子どもたちがたくさんでてきるのを感じる。

自分は此処でこの時代に個の命を使って本当に何を為すべきか。

どんな小さな波紋であれ、それが未来と繋がり子ども達の切り開く希望となるならば身を捨て心を磨き、知行合一天人合一こそを本命とし、何よりも一流を目指して学問を深めていきたい。

まだまだできることがたくさんあることに感謝し、次の時代に備えていきたい。

天の大徳、人の孝徳

人倫の道に中江藤樹の孝徳がある。

もともとこの孝徳とは、親孝行の心を持って天地のからの恩に報いていくという報恩感謝の心の発願でありその人として親を敬愛する実践が人としての完全なる自然のものだと説いたのだと思う。

親によく仕え、親の言うことは必ず聞くということが子としての孝心でありその無償の愛を正しく受け取るということでもある。親の正邪善悪を子どもが理解することもなく、そういうものは死後もしくは同じ境地ではじめて溶解するものであり自分の尺度で思いこんでしまえばそれは過ちとなる。

どんな理由があったにせよ、両親への孝行こそがもっとも大切でありその心が愛敬を産み育て、一円満な家庭を築くことになり、子子孫孫の繁栄と平和と継承を創造し思いやりある人としての道になる。

中江藤樹の「翁問答」にこうある。(岩波書房)

【元来孝は太虚をもつて全体として、万劫をへてもおはりなく始なし。孝のなき時なく、孝のなきものなし。全孝図には、太虚を孝の体段となして、てんちばんぶつをそのうちの萌芽となせり。かくのごとく広大無辺なる至徳なれば、万事万物のうちに孝の道理そなはらざるはなし。

就中人は天地の徳、万物の霊なるゆえに、人の心と身に孝の実体みなそなはりたるにより、身をたて道をおこなうをもつて功夫の要領とす。

身をはなれて孝なく、孝をはなれて身なきゆへに、身をたてみちをおこなふが孝行の綱領なり。おやによくつかふるも、則、身をたて道をおこなう一事なり。

身をたつると云は、我身はぐわんらい父母にうけたるものなれば、わが身を父母の身と思ひさだめて、かりそめにも不義無道をおこなはず、ふぼの身を我身と思ひさだめて、いかにも大切に愛敬して、物我のへだてなき、大通一貫の身をたつる也。

さて元来をよくおしきはめてみれば、わが身は父母にうけ、父母の身は天地にうけ、てんちは太虚にうけるものなれば、本来わが身は太虚神明の分身変化なるゆへに、太虚神明の本体をあきらかにしてうしなはざるを、身をたつると云也。

太虚神明のほんたいをあきらめ、たてたる身をもつて人倫にまじはり万事に応ずるを、道をおこなふといふ。かくのごとく身をたて道をおこなふを、孝行の綱領とす。

親には愛敬の誠をつくし、君には忠をつくし、兄には悌をおこなひ、弟には恵をほどこし、朋友には信にとどまり、妻には義をほどこし、夫には順をまもり、かりそめにもいつわりをいはず、すこしの事も不義を働かず、視聴言動みな道にあたるを、孝行の条目とする也。

しかるゆえに、一たび手をあげて、一たびあしをはこぶにも、孝行の道理あり。

人間千々よろづのまよひ、みな私よりおこれり。
わたくしは、我身をわが物と思ふよりおこれり。

孝はその私をやぶりすつる主人公なるゆへに、孝徳の本然をさとり得ざるときは、博学多才なりとも真実の儒者にあらず。まして愚不肖は禽獣にちかき人なるべし。】

とある。

もともと天地は太虚であるとは、もともと何も見返りを求めない無償の愛がありそのものの実態は存在そのもの、いや存在しないほどに広大無辺、無限の恩が備わっているとしている。

そういうものの恩恵により自分というものがこの世に存在することができるということそれこそがもっとも有難いことではないか、その存在と同じくするものこそ親孝行の道であるとしたのだと思う。

親というものは、天と同じく、太虚つまりは無にして空であるほどに偉大なものだというその感受する心こそ「孝」であるとし、それだけ無私に仕えてはじめてその徳が磨かれるという大いなる道であるとしたのだと思う。

その孝行をする心を忘れ、自我に囚われ迷い、自分の体は自分のものだと自分勝手に親との繋がりを断絶することこそ親不孝であり、本来ならばいつも子は親を心配し、親のことを懇ろに大事にし、親を敬い奉ることをしてはじめてそのエゴは取り払われ、本来の正しい道徳に適った生き方ができるというもの。

そこから、君には忠を尽くして仕え、年長者は立て、年下には恵み、朋には信頼を、そして夫婦には筋道を重んじ、一切の虚言や偽りなどを軽々しく言わず、正しくいつも律儀に仕事をし、その見ること聞くこと、話すこと、行うことすべてが道になっている。これこそが本来の孝徳の道であるという。

自分のモノサシで天が分かるはずもなく、自分の尺度で孝が分かるはずもない。

一部の不信すらもないほどに、天を敬い愛する心と同じくして親を敬い愛することができてはじめてその孝徳の意味を知ることができるのだと思う。

親に対して孝ということの無限の徳は、無私であることを実現し、そういう状態であるときこそ中庸であることができるというもの。

自分と言うものをはき違い、自分のことばかりを大事にし、そういう父母の恩を感じなくなった所から御縁への感謝や、無償の愛へ対する徳の実践への怠慢がはじまり驕りが生まれる。

常に日々の生活に父母の感謝の心を持って、正しい道を歩みたいと思う。

本来あるべき姿は孝徳であり、孝徳こそが今の時代のあるべきように繋がることを信じて、子ども第一主義の大義を貫いていきたいと思う。

父母即恩

物事の見方に相対観というものがある。

物事を大小や厚薄、善悪や重軽で観る見方でありそういうどちらかに偏る考え方でこれを刷り込みともいう。

それに対して絶対観というものがある。

これは物事をそのままあるがままに観る見方であり、そういう偏らずに自然にそのままで感じることができる。

常に、何かに囚われる人は偏った見方をし、それをそのままあるがままでいることができない。

例えば、報恩報徳という思想がある。

相対観でしか物事を観れない人は、どれくらい自分が恩を受けたかなどを用い感謝の量を決めたり、だから感謝するのだなどと、先祖からの恩恵や父母からの恩恵にまでそういう刷り込まれた考え方を持っていたりする。

本当に親孝行できる人とは、そういう相対観で相手を推し量る人ではなく心から自然に父母や先祖の存在そのものにあるがままに感謝できているということだと私は思う。

そもそも太陽や水や風、その他の生命も、自分に益があるから有難いや自分に害があるから厄介だとか、そういうものを自分が決めているという時点で大きな囚われの中にいることになる。

良いか悪いか、有るか無いかなどもそうだけれど、自分勝手にそういう偏った物の中でしか考えられない人は、相手からの好意や無償の愛に対してまで、感謝や恩を感じたりすることを本当の意味で感じることができない。

そしてその気持ちがそういう相手を深く傷つけていき、恩に報いることができず永遠に変わることができない。

例えば、父母であれば子どもに対しては外見上はどうであれば存在自体が無償の愛であるのにその子ども自体が刷り込まれて外見上ばかりに囚われそれを有償の愛で推し量ればその両親からすればとても辛い言葉を子どもから聴くことであり、その態度の子どもにそんなつもりではないと話せば話すほど泥沼に入り、竟には親子が不仲になってしまうことがある。これを親不孝ともいう。

もちろん、未熟である親にも教育上の何か問題があり愛着形成がうまくいかなかった理由があるにしても子ども自体が親孝行というものの本質を履き違えていればそれは関係を正しくすることが難しいものだと私は思う。

私は、西晋一郎という方が「父母の恩の有無厚薄を問わない。 父母即恩である。 」というこの「父母即恩」という言葉を聴いた。

これは、昔からの言葉で両親の恩恵は何ともくらべものにならないほど偉大なものだということでありそのものを観るに邪念邪心を一切持たないということ。そのままの存在として自分の命を創ってくださったほどの唯一無二な存在として命から尽くすこと。

そして、論語の忠と孝は同じ意味として自分の使える君子や今でも天皇など自分たちを心底愛し、労り慈しむ存在として恩に報い礼義を尽くすことでその愛を循環させることができるという実践を行ってきた。

それにこの国は、特に島国であるがゆえに、太古の伝統、つまりは神道にあるような引き継がれていくかんながらの伝統精神を重んじ、御恩と御縁を何よりも尊重してきたからこそ天の運行に寄り添い、日々精進し、共に助け合い、共に生かし合う和の国でいられたのだと思う。

二宮尊徳にも、「父母もその父母もわが身なり我を愛せよ我を敬せよ」という言葉がある。

自分が存在できているこの身体もその父母またその先祖の肉片を分けていただき、その真心にあった無償の愛を引き継いで今がある。それはそれは偉大すぎて畏敬だからこそその恩に報いるために自分を愛し、自分を敬い、大切にすることこそ親孝行であるということだと思う。

私の身のまわりでもその親子関係に苦しんでいる人をよくみかける。
しかし、親はそもそも親でありそれは即ち自然と同じで絶対なもの。

そこに対して評価を求めたり一方的に自分を優先し要求する前に、まずは自分を省み謙虚に遜ることだと思う。

仕事でもそうだけれど、親に対する孝行の心なくして人に正しく仕えることはできないし、御客様に対しても謙虚に感謝することができないはずだ。

何よりも、生き方を変えるということは父母即恩という真心と行動により親孝行をすることだと私は思う。

先祖代々、脈々と続いてきたその先にあるのは祖始の愛。

私もあなたたちと同じであるがゆえに、そういうものを大切にしていくモデルでいたいと思う。子どもたちには、自分がまずそういう手本になり、親孝行をさせていただくことに感謝の日々を送っていきたい。

私も師との約束やその存在があることに心から感謝し、自らそことの結い目は敬愛する自分があるように感じれることに何よりも恩恵を感じ心から報徳で仕えていこうと思います。

信用

商売をしていると、その社業継続の生命を左右するのに「信用」というものが在る。

当然、世の中に貢献するために自分自身の信じる道を貫き信念を持って仕事をしていけばそこに色々な誤解や中傷も受けることが在る。世間の毀誉褒貶は自分の在り方を示す機会でもあり、逃げるのではなく誠意をもって正しいことを実践していけばそのうちに悔悟してくださり本当に子どものことを何よりを思ったのだと分かってくれる日がくることを信じてもいる。

しかし、商売では皆が同じことをニーズにしているわけではなく、それぞれの方々に意見があり要望が在る中で皆が好むことだけをすることはできない。時として、ある人からは称賛されある人からは非難される。しかし、それであるから個々の意見を尊重し皆がそれぞれに正しい選択することができお互いによりより社会を全体で築き上げていくためによりより切磋琢磨して高めあっていくこともできる。

もしも良い好敵手に出逢えれば企業も豊かに大きくなるし、そうではない稚拙な醜い争いに巻き込まれると周囲も妬みや嫉妬などの強欲に取り憑かせてしまうことにもなる。

だからこそ時代がどうであっても変化が急であっても、何よりも理念を重んじ大義を立て自らが正しい商売、つまりは王道にあるような誠心誠意とまごころで御客様に勤めさせていただく感謝と御蔭さまの心で仕事をすることが大事なことだと思う。

しかしそんな中、自分のものでなかったり借りものやかりそめの真理を利用し、信念や思想が崇高だからとそれにカマケテ本来の現実のお仕事を怠る人たちもいる。

現実の仕事は、社会人として会社の信用をお借りしてお給料をいただくことができるものであり、それは自分一人で出来上がったことではない、お客様との関わりの過去の積み上げた功績や積善、その徳など、真摯に取り組んできた年月で皆で積み上げてきたものでもあり、その気持ちを多くの支えてくださる方々のご縁と機縁の深く広い繋がりによってのみの今がある。

それを忘れて過信し、自分都合の余裕のなさや忙しさを言い訳に自分勝手に作業ばかりをやる方に没頭すればあっという間にそういう会社の信用を潰してしまうことがある。

積み上げるのは長い年月、とても繊細にやっていても、だれかの怠慢で一瞬で失うものがその信用と言うもの。

だからこそ信用を守るために正しく仕事をさせていただくという自覚がまず信用をお借りする仕事の姿勢であるのに、それを傲慢であったり驕りが在る人たちは自分がやっていると勘違いしている人が多い。

会社でのそういう人は、給料はもらって当然と言い張るし、休みはあって当然、これだけやっているのだからやこれだけやっているのになど、基本的には謙虚さがない、つまりは自分の存在ばかりを大きくみせたがり責任転嫁と言い訳ばかりをし大事なものや守るべきものをお座なりにして周りに迷惑を懸けて自分の地位を確立しようと躍起になっている。

世間では出来ない人と言われ、周囲がいつもその人によって自分のやりたいことをやれなくさせられるという自分勝手な人のことを言う。

もしもそういう人は政治家であれば政治生命を失い、商売人であればいつかは倒産し、聖職者はその地位を失うというように、何でも謙虚に信用第一で物事に取り組まない人は竟には自分の信用を失うだけではなくその先にある会社の信用や社会の中での仲間の信用、すべてを傷つけることにもなる。

信用を守り抜くというのは、周囲の御蔭さまと感じて責任を持って仕事を行うことを言う。

だからこそ、どんな仕事にも結果に対しての自覚と責任を持ち、何ごとも御蔭さまや自分にさせていただくというような感謝の心で働くことがなければその人に信用がつくこともないし、それが周囲に及ぼすこともない。

基本として、何でも自分の思い通りになると勘違いし、自分がやっているや自分の御蔭だろというような人たちが増えている昨今、本当に自分が何によってあることができるかということを考え、常に日々有難いと感じる心を育てていくことに気をつけないといけないと思う。

例えば、最近は施設を廻って相談していても保育でも、教育でも気になる子と言われる軽度発達障害の子どもたちを疎み重荷に感じる先生が多いけれど、その子どもたちの御蔭で自分たちが先生でいることができるし、大切な気付きをいただけることを忘れてはいけないし、その子どもたちに仕えさせてもらうことで自分が学べることなどを忘れてはいけない。

その子どもたちがいるから自分が先生でいられることを忘れてはいけない。

たとえ業務が忙しいからとカマケテ大事なのものを置き去りにして何の信頼関係で何の自己実現なのかと思う。

自分があるのは、そうやってお勤めすることができる相手がいるからだと思えば有難いなぁと心底謙虚になるはずだし、だからこそ何よりもこの信用を守って働かせていただこうという気持ちにもなるものだ。

自分一人で生きているなどと傲慢になる人間が、他を孤独にし他を深く傷つけていくことを思うと、凛としてそういう人たちが出ないように厳しく指導し、より子どもたちには謙虚と謙遜、感謝の気持ちで働く実践をしてモデルを示していきたいと思う。

傲慢や驕りを捨てるのは、周りを大切に生きていくという自覚を持つこと。
常に、信用第一のまま信念を貫けるような自分を磨いていきたい。

この今も、存在させていただけることに喜びを感じて今日も働けることに感謝していきていきたい。