癒し

昨日、親しい取引先の皆様と一緒に見守るファシリテーターの実践研修を行った。
久し振りにお会いする方も居て、とても豊かで楽しい時間を過ごすことができた。

もちろん研修なのだから勉強するのだけれど、本当の学問とは笑いあい気付きあり、そして皆で肯定的に思いやり出逢えたことの歓びや感動の和、その豊かで充実した機会を楽しむことではないかとも私は思う。

何か一生懸命に椅子に座ってじっと聴くのもいいのだけれど、そこに自然なものをあまり感じることができない。人はみんなで物事を考え、みんなで取り組む、みんなが一緒に達成することこそが癒しであり、そうやってみんなの中で自分が包まれていることこそ自分という存在を丸ごとを受け容れることが自身でできるのだと私は思う。

昨日も、一円対話を通じてみんなで幸せと感謝などを語り合うことになった。

やりたいことをさせてもらえるのは、天の御蔭であり、周囲の人たちとの出会いの中で見守られできるということ、相手がいなければできないことでもあるし、その人たちがいるから自分がそれをやろうと思うこともできる。

そう考えると、いつも他人ばかりをどうにかしようと自分都合で相手を動かそうとするのではなく、今その状態丸ごとを信じることで如何に隠された深い意味を感じ取るかや、そこに価値があると思えるかが自分の人生を自分自身が決めて納得して生きているということになる。

人生は、天に一切全托するとそこに自分がすべてのものから活かされているということを知るに至り、それを感じるままに丸ごと包み込まれてみると有難いなとそのあるがままにいることの素晴らしさを感じることができるのだと思う。

たとえば、今の自分は好きなことをやらせてもらっていないと思うようだけれど、好きなことを遣るために苦労しているのであり、好きなことに向かって執着し努力していることになる。つまりはこれは、やれるやれないということよりもそういうことが出来ていること自体が好きなことでありそこに無限の安堵観と至上の喜びがある。

善い悪いを超えた、そのままがもっとも素晴らしい、あるがままであることが有難い、今このときがあることが感謝、自分自身が生きていることが幸せだと感じることがより良い人生と共に人間を幸せにしていける見守るファシリテターであると私は思います。

自分自身がそういう生き方をすること、そのモデルを示すことこそ真の子ども第一主義であると思います。

子どもたちは大人たちの生き方から自分たちの生き方を学びます。

大人がもしもそういう人生の喜びや感謝を感じつつ、自然体でいるのならば子どもは安心して見守られた社会の中で育つのだと私は信じます。

今は、競争社会や一斉画一社会の中で、排他的で弱肉強食、間違った個人主義により個々に責任を無理やりに持たせ孤立している人たちがたくさんいます。

だからといって自分がそうなるのではなく、もっと思いやりをもって環境に左右されずにすべての物事を生まれたての子どものように受容する心をもって世の中を易えていければと念じます。

子どもたちには、一人ひとりが色々な個性あふれるその生涯をみんなが発揮し、みんなが歓びあうという癒しを味わい尽くし、かけがえのない一度きりの人生を輝かせられるように私たちはパートナーと一緒に使命を尽くし見守る社会を譲っていければと思います。

これからも志を高くし、ともにこの道を歩んでいけると良いですね。

昨日は本当に豊かな時間が過ごせました。
皆様、遠路有難うございました。