暗黙の了解という無責任

昨日、岩手県からとある法人で抱えている職場の環境や人生のことについてなどを相談をしに来社された。

通常は、こういう相談は自分の本来やるべき使命を優先して調整したりしないのだけれど今回の課題が理念についてなどやマネジメント、その他、変化、改革についてなどであったこととその熱意に感動しお会いすることにした。

そこでの、問題は本質的には自分の在り方が重要で環境に左右されずに本当に自分がやりたいことを決めることであり、その決めたことを実践することにより提案し感化していくしか周囲も含め変える方法はないのだけれど、それまでに出来上がった集団的無責任の職場環境が保守的であり大変なことになっているのもあった。

もともとなぜ集団的無責任になるかというと、そこに暗黙の了解というものがある。誰も何もしないことが守ることであり、皆が何もしなければ誰かがやってくれると盲目に信じることにこそ守れると勘違いしているということ。

無責任であるとは、自分が持ってしまうことで失敗するのではないか、自分がやってしまうことが周りの迷惑になるのではないか、自分が自分のせいにしてしまったら最終的には守れないのではないかという思考回路であるのだと思う。

何かのことを誰か任せにするというのは、自分の人生を自分で決めないことでもあるだけではなく、協力しあって自分から主体的にやろうとはしないという決定を自分がしているということになる。

最終的には強烈なリーダーに頼もうという他人本位の考え方であり、自分たち一人一人が守なければと思わず、カリスマ的なリーダーの登場ばかりを望む依頼信や依存心のことである。

平均的にはこういう職場は公の仕事をしている人やサラリーマンに多いのだけれど、部署も変わるし、町長も変わる、みんな移動するのだから最期まで責任を持てないのだから先述したリーダーに周囲に仕向けられないように自分という私をどれだけ入れずに要求をするかに躍起になるのが仕事になっている人がいる。

そういう組織は向上心で責任を持つことをとても怖がる傾向がある。もしもリーダーになったら自分の無責任と同じくしていた周囲の集団的無責任のすべての負担を背負わされると思うからかもしれない。

しかし本来、何かやりたいことに皆で力をあわせて協力するとは、自分がどうしたいか自分が自分の意志でその目的や理念に「責任を持って参画する」ことであり、自分がその一部を担い背負うことではじまっていくのだと思う。

それぞれがそういう責任を自覚し正しく担うことが、皆の負担を取り除くことであり、自分が決めて自分が行うことでやり遂げるという意志自体が集団に対して提案していることであると思う。

これが単なるクレームや、何もしないということや、日和見や受身になるとそれ自体は提案でもなく単なる言い訳か周囲への自分勝手な要求となる。

自分で決めないということは何もしないよりも悪いということ。

流されるというのは、誰かにひっついていくということであり、自分の足で着いていくとはいかないからだ。人は自分の足で立たないといけない、自分の心で取り組まないといけないのだ。

最終的には、その方も自分で決めてやり切ると決めて郷里に戻られた。

自分が誰にも左右されずに、自分で決めるから人は柔軟性を持つことができる。素直になって正直になるにも、周囲のせいにすることもできず、自らの天命を信じて自分のやりたいことに必死に誠を貫けばそこに道が開けると思います。善いチームもそこから生まれてくると私も信じています。

そしてそういう集団的無責任の人たちは自信のなさや自己肯定感の低さからくるものであったり、数々のトラウマや不一致、刷り込みやしがらみの中で立場立場で自分を押し殺して無理をして辛い思いをしているものです。

しかし、大事なのは自分はどうあるべきかということであり、素直に純粋に大切にしたいことを自分が決めて実践していけば必ず周囲は変わっていくと思うし、その刹那、自分も変わっていると思います。

離れていますが、志を高く持ち、大義に行動することに勇気を頂きました。
お互いに立志天命を信じて、日々を大切に過ごしていくことだと思います。

今後の発展と初志貫徹を祈念しています。