人間らしさと人間性

スリランカから帰国して少しずつ道中の振り返りをしています。頭で理解するよりも体験から気づいた量が多いとそれを消化吸収していくのに時間がかかります。身体で得た感覚は、思想だけでなく価値観も変化させていきます。自分の変化が気づきそのものですから、何が変化したのかを振り返ると何に気づいたのかがはっきりするのです。

そもそも今回の旅は、ルーツを辿る旅でした。原初の仏陀をはじめ、神話からの人類の伝承を確認するためのものでした。その理由は、原点回帰をするためであったことと、温故知新してあらゆる複雑なものをシンプルにして甦生させていくためです。

徳積の起源であったり、暮らしの根源であったり、普遍的な大道の再確認であったり、そして新たな遊行の一歩を踏み出すことであったりと理由は様々でしたがそのどれもが存在している懐かしい旅でした。

原初の存在とは何か、それは人間らしさです。別の言い方だと人間性ともいいます。もっと言えば、人間とは何かということです。

今の人類は、人間らしさを失っているように思います。人間性というものもまた意識することはありません。しかし、今こそ私たちは徳に回帰し人間性を回復させる大切な時節を迎える必要があるのではないかと私は思います。

ワニアレットの長老をはじめ、スリランカでは人間性の美しい風景をたくさん見ることができました。そこには確かな人間らしい暮らしがあり、そして人間らしい生き方がありました。

お金やビジネス、富の独占や情報化、便利化など人間性を失うリスクに直面してももはやそんなことをどうでもいいかのように日常に多忙に流されていきます。私は決して文明の発明は悪だとは思っていません。しかしそのことにより人間らしさや人間性を喪失することは、真の豊かさや仕合せを手放す結果につながっているようにも感じるのです。

人間はこの地球に生きることを許され、自然と共に寄り添いながら一緒に天寿を全うする仕合せをいただいている存在です。この奇跡はなにものにも代えがたく、人間であることが最幸の歓びです。

人間が人間らしくあるとは一体どういうことか。それは人間が人間性を失わずに生きているということです。人間が人間性を失えば、それは生きた屍であり、希望をうしなった人形のようなものになります。人間らしさや人間性は、私たちがこの世に「生きている」という証明であり実感です。

生きている実感は、日々の暮らしや徳を積む中に存在します。だからこそ、私たちは文明とのバランスを真摯に保ち、人間らしさや人間性を失わないような生き方をこの時代でも実践していくことが平和や共生や自然との循環を保つ最大で最高の唯一の方法になるのでしょう。

私たちが今生きているように子どもたちも未来を生きます。その子どもたちがいつまでもこの世の幸福を謳歌できるように、今の私たちがどのような生き方を実践していくのかは方向性を決める最も大切な真理です。

人間らしさ、人間性をどう磨いていくか、それは私たちが決めます。

これから引き続き暮らしフルネスを通して真心の丁寧な暮らしを積み重ね、徳が循環するような布施と托鉢の遊行をさらに巡礼していきます。

一期一会の仏縁と地縁に感謝して、私の天寿を全うしていきたいと思います。

真の暮らし

スリランカの先住民たちとのご縁から原初の人類の暮らしを見つめています。もともとスリランカは、暮らしの中に紀元前からの智慧が今も生きている国です。アーユルヴェーダなどにもそれを発見できます。特に先住民、ワニヤレットの人たちは自然に寄り添い、自然と生きてきました。そこに流れている時間は悠久で静か、祈祷や行事を大切にしています。

昨日は、野生の像がいるような原生林を歩きました。また食事や骨折の治療をしているところも体験しました。ここ数十年で劇的に生活が尊重されなくなってきた現代でも、大切なことを守り穏やかに暮らしていました。

この場所にいて実感したのは、先住民たちがもしも地球からすべて滅んだときこそ現代の人類が滅ぶときだろうということです。そこに氣づくためにも、私たちはこの原初の先住民の方々から真摯に學び、人間らしさとは何か、真の暮らしとは何かということを見直す必要を感じます。

世界中で起きている先住民族は、ずっと先祖から続いてきた当たり前の自由、当たり前の生活が現代文明に奪われできなくなっています。それは土地を失ったり、木を切られたり、外からの移住者を入れたり、知識や便利な道具を整備することで奪われていきます。

文明人が与えたことは、実はそれは奪っていることになっているということに氣づく必要があります。これは自然を尊重することに似ています。何もしないというのは、ただ見放しているのではなく見守っているという考え方です。

私たち現代文明人たちの価値観は、便利さを優先します。便利は幸福、不便は不幸だと刷り込まれます。そうすると、不便な暮らしをしている人をかわいそうだと思い便利な道具をどんどん渡します。しかし、その便利な道具にはそれ相応の危険性をはらんでいます。これは戦争の武器も同じことです。簡単に人を殺せる道具が、倫理観を失わせ戦うということの仁義礼智信なども奪いただの大量虐殺兵器になりました。

私が暮らしフルネスを提唱するのは、これらの理由からです。

便利さが新しいと思うのは大変危険なことです。だからといい不便だけが正解で善でもありません。だからこそむかしの人たちは、便不便のバランスをきちんと取りました。人類は、ここにきて一つ次元を超えていけるかどうかが試されます。そのためには現代の価値観をよく見詰め直し、本来の人間らしさとは何かからよく見直し実践しすることかもしれません。自然と寄り添う中にこそ、真の人間性は発揮されるからです。

最後にワニヤレット長老からの言葉で締めくくります。

「現代は何らかの社會に所属して競争を続けている物質化された世界になっている。人間性の本質を見失っている。自然はいつも人々に寄り添ってくださっている。自然の驚異や猛威は人間らしさを失うことへの警告でもある。もしこの先も自然に寄り添わず、お金ばかりで競争を続けて人間らしさを見失うなら必ずいつかは死に絶えることになる。それに氣づいて、それをやめることです」

現地語とシンハラ語、英語と通訳を介した関係で多少の意訳や私の認識も入っているかもしれませんがこの数日間で現地に滞在し場で味わい沁みこんだ言葉でした。

陰極まって陽になる、そろそろ一陽来復です。

これからまた新たな挑戦をしていきたいと思います。

2025年のテーマ

今朝も素晴らしい太陽の光が差し込み、2025年の新しい年を迎えました。昨年より正月は冬至に行っており、この1月1日の元旦は二度正月を楽しむ機会にしています。夜中の年越し蕎麦も年々、滋味深くなり、家族と参拝する初詣も子どもの成長を感謝する大切な機会になります。

昨年は、いのちの対話をテーマにしていましたが大切な人たちが天に還られますます私も残りの人生の使命を強く覚悟することができました。この世にいなくなるのは寂しいですが、生前の雰囲気や声はいつもイキイキと心に響いています。いのちと対話するのに昨年は自分自身の体と対話することをとても大切に過ごした一年になりました。内臓もこれだけいのちを支えているのに普段はあまり配慮せずに反省もありました。いつも偉大な働きをしてくださっているその内臓と対話するような暮らしをはじめています。また自分の普段の意識にも目を向け、波動を調える美しい暮らしを心がけました。また無機物の発する音や風や水や火という精霊のような存在のゆらぎからもその深い徳と偉大な叡智を学びました。

その上で今年のテーマは、「謙」を一文字として設定しています。この謙は謙虚の謙からの言葉です。言うは兼ねると書きます。今から29年前、当時のメンターから謙虚であれとたくさんご指導をいただきました。もうこの歳になりまたなぜ改めて謙なのかと考えてみると、そもそもこれは一生涯の生き方に関係する言葉だからだとわかります。

私は謙虚を想像するとすぐに素直という言葉が出てきます。これは常に一対です。つまり素直を実践するとそれが謙虚になります。至誠も正直も同様に、私たちは言行一致、真心のままに行動するということが一番の徳積みです。あれこれと考えを巡らせては自分の置き所を間違っていくのが人間でもあります。私は35歳になったときから来たご縁を選ばずにすべて受け容れると決心して、それからは栃の実が川に流されるようにすべてお任せにするようにして生きてきました。

しかしご縁は不思議で自分の思ってもみないことの連続に心を痛めたり、あるいは判断を迷い苦悶することも多々あります。同時に、自分の想像を超えるような偉大なご縁であったり、一期一会の大感動に魂が震えることもたくさんあります。

まだまだ未熟で私が知らないことばかりの膨大な宇宙や世界がこの世にはあります。悟ることやわかることは大した意味はなく、それよりも自他一体になることや全体快適であること、あるいは神人合一するような体験や修行のプロセスの中に永遠普遍の喜びや豊かさは生きています。畢竟、自分の人生にちょうどいいことしか自分にはやってこないということでしょう。そうやって手放した数だけ自分自身との一人の対話が成り立ちました。

今年はまさかのスリランカのワニアヤ・アエット長老とのご縁からスタートです。ナーガ族とヤタ族、マヒヤンガナのもりの民。人類が原初に何処からきてそしてこれから何処にいこうとするのか。子どもたちの平安や真の幸福のために最善を盡していきたいと思います。

本年もよろしくお願いします。

人類の大先達

スリランカのヴェッダ族のことを深めていると、驚くことが次々と出てきます。このヴェッダ族は人類の起源にまで遡るほどの歴史を持っている奇跡の民族です。ヴェッダ族に触れることは、人類の起源に触れることにもなります。人類のルーツが何か、これは私は保育の仕事に取り組んできたからこそずっと追い求めていたテーマの一つでした。今回の訪問では、これからの未来の子孫たちの行く末のためにも人類の深淵に出会ってきたいと思います。

もともとこのヴェッダ族は、古代、中石器時代に生きた最古の人類であるバランゴダ人 (ホモ・サピエンス・バランゴデンシス)の直系だといわれます。これはスリランカの大多数のシンハラ人とは異なります。洞窟の遺跡から発見されたバランゴダマンは少なくても紀元前 38,000 年前には定住していたともいわれます。別の科学者によれば、50万年紀元前からこのスリランカの地にいたともいわています。

人類の原初の暮らしを今でも持続し保ち続ける奇跡の民族、このヴェッダ族は地球と共生してきた人類の原型です。今でも狩猟採集民としてスリランカの森や自然環境と密接に結びついた暮らしを続けています。

もともとこのヴェッダという言葉の語源は、ウェッダー(Vedda)です。弓矢を持った狩人を意味するサンスクリット語の「ヴィヤダ」に由来します。実際のヴェッダ族は自らを「ワンニヤレット(Wanniyalaeto)」(森の民)と自称します。

日本の古神道の杜と同様に自然崇拝で、あらゆる自然の叡智と共に場を守り暮らします。自然や森の精霊を尊び、いのちの循環する宇宙の真理と共に生きます。私たちが文字や映像などで見聞きした何よりも神聖な空間と結界を守り続けて今でも真実を生きています。

私たち現代の人類は、あらゆる欲望の成れの果てに今の人類のみの世の中を好き放題に席巻してきました。もはや教えというものも何が正しくて間違っているのかも、あらゆる宗教派閥紛争や権利権力の集中や歪んだ知識の上書きの連続でもはや原型すらとどめていません。時折、自然災害に遭遇し目覚めるかと思えばまた同じことの繰り返し、人類は歴史から学びません。

しかし現代のようにいよいよ人類の成熟期で文明の末期症状が出ているからこそ、私たちは原点回帰し今一度、真実に目覚める必要があるのではないかと私は感じます。その真実は、誰かの専門家や権威の知識ではなく、大多数が信じる何かではなく、説得力のある本質的な正論でも教えでも記録でもなく、「真実を生きてきた人たちの背中」から學び直すことだと思います。

人類は、過去に何度も滅びそうな目にあってもいざという時のために種を遺してきたから今も持続しているともいえます。種は改良してどうしようもないほどに改悪されても、もしも最初の種が残ってあればそこからちゃんと生まれ変わり甦生することができるのです。

その種とは単なるDNA的なものではなく、意識や精神、生き方や暮らし方などを保つ人々の生活様式などが統合された今も遺り生きる人々の叡智のことです。

私は暮らしを変え場を創ることで、人類は変わると信じている一人の人間でもありますが暮らしの根源を持つ人たちはまさに私にとって人類の大先達です。

大先達から人類とは何かを真摯に學び直し、子どもたちのために真実の道を結んでいきたいと思います。

お手入れの功徳

日本には古来から穢れという概念があります。これは別の書き方で氣枯れともいいます。元氣が枯れていくということで元氣がなくなるということでしょう。元氣というものは、どういうときに失われていくのか。それを一つ一つ見つめていると、わかりやすいものに病気というものがあります。病は気からという言葉もありますが、気が枯れることで病気になっているとも言えます。

そもそもこの病気の定義は、身体の病気、心の病気、精神の病気、あるいは環境の病気、場の病気、あらゆるところに病気はあります。その一つ一つを取り除いていくことが、穢れを祓うことであり、清めていくということになります。

この清めるというものは、どのようなものか。それは私たちは日常の中ですぐに感覚として理解できるものがあります。これは掃除です。掃除は、あらゆるものを祓い清めてくれます。先ほどの身体も心も、精神も場も清められます。私たち日本人が、清々しさを大切にするのは古来より気枯れを予防するような生き方をしてきたからです。

気枯れは、例えば不安、心配、恐怖、また苦痛や執着、猜疑心や嫉妬などあらゆる悩みからも発生します。また水が澱み、風通しがわるいときも発生します。他には、ゴミのように使わなくなったものが増え、消費や浪費が多いところにも発生します。不平不満をもって文句を言えばすぐに発生するものです。

人間は生きていれば、知らず知らずのうちにこれらの感情に呑み込まれていきます。特に現代のようなお金を優先にして比較されたり差別されるような格差環境では気枯れは容易に発生します。

だからこそ主体的にそれを乗り越えていくような祓い清めが必要になります。つまり気枯れではなく、「元氣」になるように生き方や心の持ち方を換えていく実践が必要になります。

心の世界は、心の世界で禍を転じて福にするために感謝や徳を積むという実践があります。精神の世界では、全てをお任せで安心の境地に入る実践があったり、身体の健康ではちゃんと真に元氣があるものを食べるような医食同源の実践があります。

しかしこれらを全部ひっくるめてやっぱり最も効果があるものは何かと突き詰めれば「掃除の実践」であるのは間違いありません。掃除は私はお手入れともいいますが、お手入れをして穢れを祓い清めるのです。

日々の小さな実践でもっとも効果があるのはこのお手入れの功徳です。丁寧な暮らしを通して、子どもたちと一緒にお手入れの功徳を積んでいきたいと思います。

井戸の豊かさ

昨日は、井戸の無事を祈願した神龍八大龍王神社に御礼参りに伺ってきました。今回の井戸は、最初から困難続きで不可能とも思え何度も諦めそうになることの連続でした。何度も絶体絶命で神様頼みをするなかで、何とか最期まで掘り抜くことができお水も申し分ないほどに湧き出るところまでになりました。

振り返ると、元々その場所は酒蔵で大量のお水が出ていたこと。そしてかつては家が繁栄していたのを井戸仕舞いをして衰退してしまったこと。室内に井戸があったといってもどこに埋まっているのかまったくわからなかったこと。また霊視できるある方から偉大な龍神がいて命の危険があること、傲慢さに気を付けるようにとご連絡をいただいたこと。何度も井戸を甦生するかどうかをギリギリまで議論し、最終的には何のためにやるのかと何度も吟味して決心し井戸掘りを費用度外視、歳月度外視で覚悟して取り組むことになったこと、他にも色々とありました。

気が付けば一年二か月という歳月を経て、約17メートルほど掘り下げた見事な井戸になりました。そしてこれをすべて手掘りで完成させました。今の時代、機械ボーリングで簡単便利に井戸は掘りますがむかしはみんなで井戸はいのちある存在として神事のように手掘りで掘り下げていきました。途中に岩盤があればそれを何とかしなければなりませんし、もしも作業中に井戸の周囲の土が崩壊すれば窒息死してしまいます。あらゆるリスクを想定して慎重に進めていましたが、保険にも加入しいざとなったらと私自身も後かたずけの覚悟を決めていました。井戸掘り職人の方は、天涯孤独の身であり心配ないと言われましたが常に心は井戸に置きいのちの安全を祈願し続けました。

井戸職人からは時には、落雷で停電して井戸内のワイヤーが宙ぶらりになったこと、また急激に水量が増して危険だったこと、ポンプが泥水を吸い上げられなくなったこと、その他にも井戸掘り道具が壊れたり梯子が使えなくなったりとありとあらゆることが発生し困難を極めたことなどを聴き、昨日は祝杯を酌み交わし、ずっと泣き笑いしながら苦労を分かち合い、労い合いました。

畢竟すべてが終わってみると、最期までみんなで諦めなかったこと、だからこそ今、この瞬間があると感動してそこには不思議な多くの御蔭様があったことに深く感謝しました。

自然を相手に何かをするというのは、常に謙虚な気持ちで真摯に取り組んでいくことの連続です。思い通りにはならず、思った以上のご縁に巡り会い続けます。振り返ると、とても豊かなことであり一生涯の人生においてこのような仕合せはありません。

ある独りは、いいものを提供したいと願い、またある独りは、頼まれた以上は無欲に信頼に応えるといい、またある独りは丸ごと全てを最期まで信じ切るといい、その三人が独立自尊して力を合わせたからこそこの井戸は完成しました。まさにお水の神様、辰年に相応しい目出度い最幸の一年になりました。

さあ、ここからがいよいよ本番で家の甦生に入ります。

この井戸とお水に見守られながら建築や修繕に取り組めることは有難く、この上ない喜びもあります。そのお水が活かされるように、隅々まで心を運びながら来夏ころの老舗開業に向けて真心を貫ていきたいと思います。

心から井戸の豊かさとすべてのご縁に感謝しています。

愛と美しさ~魂の実践者~

昨日は、ご縁あって魂の実践者、サティシュクマールさんにお会いしてお話をすることができました。88歳とは思えない、快活で明朗、そして寛容で柔和な姿にも感銘を受けました。どの言葉も強い波動があり、声から伝わってくる熱意や情熱に圧倒されました。

お話もとてもシンプルでこの世の現実をよく直視しておられ澱みなく真理や真実を語っておられました。またその状況をよく分析し、自分はどう生きるかということもはっきりと伝道しておられます。実践から出てくるその言葉も、深く玩味して一つ一つを丁寧に歩んできた道から得られた知恵に満ちています。

私をご指導してくださったメンターの方々と全く同じように、安心することやお任せすること、今に集中すること、一歩ずつ丹誠を籠めて歩んでいくことなど生き方を優先するうえで大切なアドバイスをしていただきました。

環境活動家とも言われますが、環境活動はその主軸が人間になっています。しかし実際には自然から學ぶ環境活動家こそが本来の地球と一体なっている人間の使命だとも言われます。

私たちの身体の全ては、他の生き物たちと同じ素材と元素でできています。私たちも地球の一部です。そして大地を歩くとき、私たちは足から地球と結ばれています。地球から離れません。地球のものがなければ生きていけないのです。それは地球の循環といういのちの中で私たちも存在しているからともいえます。

そして何かをすることが役に立つのではなく、私たちがそのままであることが真に役に立つことといわれます。一つのりんごの木があり、そのりんごはただそこにあるだけで葉を落とし、根をはり、実をつけ、活き活きと枯れても養分になり周囲の生き物たちや自然に恩恵をあたえ一切の無駄もなくゴミなども出しません。自然は完全無比です。それを私は徳と呼びます。

サティシュさんがいう、ゆっくり味わい、小さく身近なものを大切にし、簡素でシンプル、迷いがない暮らしを生きることは自然そのものの徳の在り方だと私は感じます。私たちは親祖から今に至るまで自然の徳が循環するのを観てその偉大な叡智に救われてきました。

私も今、暮らしフルネスという実践をしていますが、お話の全てに共感するところしかなくさらにこれからも自然に深く真摯に精通していきたいと強い覚悟を持ち直す一期一会になりました。

日本の先人たちが、見つめてきたものを私も見つめる中でさらにそれをこの時代に甦生させて子孫たちへの道を切り拓き伝承していくことにいのちを没頭していきたいと思います。

仲間や同志、ご縁に深く感謝しています。私も、愛と美しさをいつまでも忘れないで最期の日までかんながらの道を一歩ずつ歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

 

懴悔懴悔六根清浄

私たちは一日に一度、あるいは何度も自分の行いや日常の一言一句や振る舞いを内省することで自分の心を見つめることができます。これは有名な論語の「曾子曰わく、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」にあるように何度も何度も自分の真心を確認するのです。

そうやって自分本来の生き方を守っていくなかで、本来の自分はどう思ったかと二つの自分と一つに対話をして調和していくことが安心立命の精進になっているということでしょう。

お山での修行の一つには、お山を歩きながら懺悔懺悔六根清浄(さんげさんげろっこんしょうじょう)というものがあります。この懴悔の語源は元々はサンスクリット語(梵語)の「クシャーマ」(耐え忍んで許すこと)からきているといいます。元々は懺摩という言葉が悔やむ意味で、それがそのまま「懺悔」となりました。

悔やむという字はの意味は、自分の行いや過ちに対して心を痛めることをいいます。そしてこの「悔」の字は心臓の象形である「りっしんべん」に髪飾りをつけて結髪する女性の象形である「毎」を組み合わせ、「心が暗くなる」や「くやむ」を意味する会意兼形声文字として成り立った漢字だといいます。

仏教では、僧侶が日々に懴悔し仏様にゆるしを請い、自分の犯した罪を仏の前に告白し悔い改めるときに使われる言葉ともいいます。

もともと懺悔は現代は「ザンゲ」になっていますが、江戸時代中期以降までは「サンゲ」と呼ばれていました。

山伏たちが山歩きをしながら「懺悔懺悔六根清浄」と唱えるのは、自分の日々の行いを振り返り色々な日常で発生してきた罪穢れの数々を見つめ直していると心が痛みます。それをお山の清浄な場において悔い改めて耐え忍んで許していこうという声掛けによって心を清々しく浄化して新たな生に生きていこうとする覚悟の歩みのように私は感じます。

私も、一日の中でつい感情に呑まれそうになり、気分で行動や言動が揺さぶられてしまうことがありそんな時は振り返ると自分の立ち振る舞いを思い出し心が痛み反省します。感情の御蔭で私たちは色々なことを深く味わい今生の精彩を感じることができますが同時に心は静かに生き方を見つめ続けています。その両輪を丁寧に味わい盡していくなかにこそ、本来の自分というものを和合していくことができるようにも思います。

これから二日間、大切な仲間たちと一緒に日子山を歩きます。秋の清浄なお山の元氣をいただきながら、真心と感情を和合する仕合せを味わい盡していきたいと思います。

ありがとうございます。

 

ブロックチェーンアウェイクニング

飯塚にはブロックチェーンアウェイクニング(BA)場があります。ここにはブロックチェーン技術を見守りお祀りする妙見神社もあり、マインドフルネスをはじめ心身が調う環境が用意されています。

もともとこの場所は、私の先祖代々の土地ですが遠くには龍王山を望み近くには八龍権現池があり、高台にあるため風の通りがよく広大な空が眺められるようなところです。

このブロックチェーンアウェイクニングというのは、ブロックチェーンの目覚めという意味です。これは単なる技術だけを磨く場所ではなく、その在り方や生き方、その本筋を見極めようとする意味があってその名前にしています。

世間でよく評されているブロックチェーンは、一般的には分散型か中央集権型かと比較される技術ですが私はそのどちらかではなく、中庸でありいのちが輝くような全体快適なものであると感じています。白か黒かではなく宇宙のような発想ですが、そもそも目に観えないものをどう技術で可視化していくかが科学技術の発展ですから目に観えないものを語っても何ら問題はないはずです。

そしてこの目には観えないものを観えるようにするのに「場」が必要なのです。場とは、技術の粋を究めた場所であり思想を顕現させた技術です。

私はいつもご縁やタイミングに導かれることが多く、この場所は盟友で同志の故高橋剛さんの遺志を継いで創設したところです。彼は、心のあるブロックチェーンエンジニアで教育者でした。彼は、プログラムを打ち込む指先から自分の心がシステムに入るとよく言い真心で取り組むことを後輩たちに語り続けていました。また、技術者である前に教育者でありこの技術の在り方や真摯に取り組む姿勢を重んじました。今でも、彼の遺志は後輩に受け継がれています。

私はブロックチェーンエンジニアではありませんが、教育者という面もあります。彼の遺志を継いで、その思想や生き方、そして技術者たちにどうあることが日本や世界に真心を実践していくのかをこの場(BA)で磨いています。

一見すると経済活動とは無縁のような徳を積む活動ばかりを勤しんでいるように見られますが、実際には経世済民のど真ん中を愚直に深めて磨いています。ブロックチェーンを使った徳積帳というものを開発して、この場から教育を発信しています。

新しいものは、別に目新しいから新しいのではありません。温故知新、懐かしいものを尊重して、その大切な中心をしっかりと捉えてこの時代にどうそれを伝承していくのかということの中にこそあります。

つまり懐かしいものが新しいものに転換されていくのです。

私の取り組む場(BA)には、それがあります。時間をかけることや、次世代のことを考えること、また宇宙や地球の全体を鑑みてどう全体快適にしていくか。まだまだ道は途中ですが、場を丁寧に磨き上げていきたいと思います。

心のふるさと

家庭教育というものがあります。そもそもこの家庭教育はいつからはじまったかといえば、人類が始まった時からとも言えます。その時から代々、その家の家風や文化が産まれていきました。それは色々な体験や経験を通して、大切なことを親から子へと伝承していくのです。

つまりは家庭教育の本質は、伝承教育ということでしょう。

その伝承は暮らしの中で行われてきました。これを徳育ともいいます。私たちは徳を暮らしから学び、その徳が伝承していくことで代々の家は守られ持続してきました。私たちが生きていく上で、これは生き残れると思えるもの、自然界の中で許された生きるための仕組みを智慧として取り込んできたのです。

これは人間だけに限ったものではありません。鶏がもつ秩序であったり、虫たちがもつ本能であったりと、見た目は違ってみえてもそれぞれに家庭教育がありその一つの顕現した姿としての今の生きざまがあるのです。

人類は、その家庭教育をそれぞれの小さな単位の家からその周囲の家にまで広げていきました。親子で伝承してきたものを、その地域で伝承していくようになりました。善いものの智慧は、善いものとしてみんなで分かち合ったのです。助け合いの仕組みもまた地域の伝承の一つです。地域ぐるみでみんなで伝承してきたからこそ、その地域が豊かに発展し、存続してきたともいえます。

それが現代は破壊されてきています。地域の共同体も歪んだ個人主義により失われ、家庭教育も核家族化などによって環境が劣化していきました。今だけ金だけ自分だけという空気を吸い、家庭教育は学校任せです。こうなってくると、人類は今まで生き残ってきた力を失っていくことになります。

つまり生きる力の喪失です。生きる力が失われることは、私たちは心のふるさとを失うことでもあります。心のふるさとは、この代々の伝承のことでありそこをいつまでも持っているから故郷の心も守られます。

次世代のことを思うと、今の環境を変革すべきだと危機感を感じます。そしてそれは何処からかといえば、家庭教育の甦生からというのは間違いありません。家庭教育を国家などに任せず、それぞれが暮らしを丁寧に紡ぎ、地域の方々と一緒にかつての先人たちや両親、祖父母からいただいたものをみんなで分け合い守り続ける活動をしていくことだと私は思います。

私が故郷で行っているすべての事業もまた、その心のふるさとを甦生することに関係しています。保育という仕事に関わってきたからこそ、到達した境地です。

子どもたちのためにも、保育の先生方を支えるためにも信念をもって家庭教育を遣りきっていきたいと思います。